【試し読み】聖なる魔女と悪魔の騎士1

あらすじ

「おまえが欲しい、『魔女の目』よ」――見習い修道女のユーフェリナは、魔に魅入られた人の瞳にひそむ〝黒い炎〟を視る力を持つ。ある日、その力に目をつけた『魔剣士』ウィルガイストに悪魔の所有印をつけられ、神殿のお尋ね者になってしまった! しかもユーフェリナの力は悪魔たちにとって極上のエサらしく、ウィルガイストのせいで神殿と悪魔から一気に命を狙われる身になってしまい、やむを得ず魔剣士と契約を結ぶことになるが……!? 「あんな淫魔、あたしが絶対滅ぼしてやる――ッ!」不良修道女×エロ悪魔のダークラブファンタジー!第1巻! ※本作品は、過去に出版されていた同タイトルの作品を加筆・修正したものです。

登場人物
ユーフェリナ
見習い修道女。魔に魅入られた人の瞳にひそむ黒い炎を視る力『魔女の目』を持つ。
ウィルガイスト
魔剣士。『魔女の目』の力に引き寄せられる悪魔からユーフェリナを守る。
試し読み

第1章 イヴァスラード大神殿

「ユーフェリナ・イェル!」
 鋭い叱咤しったの声に、ユーフェリナは肩をすくめた。
 雨上がりの見事な青空の朝、この数日間にわたってアクロシア市中を蹂躙じゅうりんした嵐がようやく去り、人々はほっと安堵のため息をついたものだ。
 だが、白亜の太陽イヴァスラード大神殿に残されたものは、澄んだ空気と、建物を黒く塗り潰した大量の泥濘。
 朝の礼拝から朝食までの短い空き時間、見習いの修道女たちに宛てがわれた仕事が、大神殿の正面玄関から礼拝堂周辺の清掃作業だ。
 それを聞いてうんざりし、こそこそと逃げ出そうとしたところをみつかり、助祭に叱責を受ける少女がユーフェリナである。
 太陽の光にきらめく、淡い金色の髪が特徴の、かわいらしい顔立ちをした娘だ。翡翠の色をした瞳はぱっちりと大きく、まつげは影が頬に落ちるほどに長い。
 地味な修道服を着ていてさえも、どこかまぶしく光を放っているように見えた。おまけに小柄で細腕で、知らない者が彼女を見かけたら、少女の中に大いに保護欲を刺激されたことだろう。
 しかし、そんな恵まれた容姿を裏切るような、不満顔。その仏頂面は、もはや彼女の最大の特徴といってもいいほどだ。それに加えて、態度物腰はいたって横柄で、協調性は欠片も窺えない。毎日の礼拝ですら、隙あらば逃げ出そうと狙っているのだ。
 それゆえ、幼い頃からこの神殿で過ごし、先日、十八歳になったというのに、未だに見習いの身分である。
「本当にあなたときたら、いったい何年この神殿にいるのです。本来なら率先して後輩の指導にあたるべき立場でしょう!」
 口うるさい助祭の説教など、ユーフェリナの耳には、右から左である。彼女は聞くそぶりも見せずに、そっぽを向いたままあくびを噛み殺す。
「ユーフェリナ!」
 年かさの助祭の叫び声に、他の見習いたちが驚き、中には怯える娘もいた。彼女たちのほとんどが品行方正で育ちのいいお嬢さまばかりだ。
 ここアクロシアの太陽イヴァスラード大神殿は、行儀見習いや、イヴァスラード神への信仰を深める等の名目で、貴族や裕福な商家の娘が寄宿学校のように上がることが多い。
 本来、ユーフェリナのような集団生活に不適合な娘が見習いに上げられたところで、すぐさま親許に帰されるなり処断されるはずだが、彼女はそうはならなかった。
 彼女には、帰るべき親許がない。
 生まれたばかりのユーフェリナが棄てられていたのが、イヴァスラード大神殿の礼拝堂の前だったのだ。
 ときどき、神殿に子を棄てていく親がいる。もちろん数は多くはないが、皆無というわけでもない。そんな子供たちは大神殿で養育されるのだ。
 十歳にもなれば見習いになり、十五、六になる頃には、正式に修道士や修道女になる。あるいは神殿を出て独立することも。
 イヴァスラード神殿では、女性も司祭や司教になることが可能だ。神殿に居残った者の中には、本格的に修行をして叙聖じょせいを受け、司祭になる者もいる。
 ユーフェリナのように成人する十八歳まで見習いでいること自体、前例がない。
「マルティア助祭、ユーフェリナにはわたくしから言っておきますから、どうぞ皆さまのご指導を」
 険悪な雰囲気のユーフェリナとマルティア助祭の間に割って入ったのは、たいそう若く美しい助祭だった。
「わかりました。ではおねがいします、アルカナル助祭」
 マルティア助祭が肩をすくめて立ち去ると、アルカナル助祭とユーフェリナのふたりきりになる。助祭は誰もが見惚れる美貌にやわらかな笑みを浮かべ、ユーフェリナの鋭さを包むようにやさしく言った。
「ユーフェリナ、何か悩みごとでもあるのですか?」
 だが、ユーフェリナはそれには答えず、ちらりとアルカナルの青い瞳を見て、すぐに目を逸らす。
「あたしに構わないでくれませんか」
 感情のこもらない冷たい声で見習い修道女は突き放すが、アルカナルはすこし首を傾げて、ユーフェリナの両手をそっとつかんだ。
「あなたの苦悩をすこしでも和らげることができるのなら、そうしましょう。ですがユーフェリナ、ときには心の中を人に話してみるのも悪くないものですよ。ここで話しづらいのであれば、場所を変えても構いません。あなたがこの神殿でつらそうにしているのを私も長い間見てきましたから、心配なのです。特にここ最近はひどく塞ぎ込んでいるようです」
 たとえ説教が陳腐だろうと、彼女の声はそれを補って余りあるほどに穏やかで、耳に心地のいい音だった。実際、神殿の内外に拘らず、アルカナルに悩みごとを打ち明け、救いを求める人々は多い。彼女の人柄もあるだろうが、何といってもそのやわらかな美声が人々を魅了するのだ。
 今日の叙聖式で、アルカナルが助祭から司祭へ叙聖されるのでは、という噂がまことしやかに流れるほど、彼女を慕う人々は多い。
 だが、ユーフェリナは頑固にもそっぽを向き、差し伸べられた手を力任せに振り払った。ぴしゃりと乾いた音が響いたため、近くにいた幾人かが振り向いたほどだ。
「おやさしい助祭さま。あたしのことなんかいいから、早く向こうへ行きなさいよ。近くにいられるとイライラするわ」
 吐き捨てるようにユーフェリナは言い、アルカナルの肩を押した。
「イライラするのはどっちだと思ってるの、ユーフェリナ! あんたがここにいると、みんなが不愉快になるのよ。『聖掃せいそう』に加わる気がないのなら、とっとと消えてしまいなさい。願わくは、あんたの部屋だけ結界が弱まって、魔があんたを呑み込んでくれますように!」
 そう叫んだのはアルカナル助祭ではなく、騒ぎの近くにいた、見習い修道女のひとりだった。最近、イヴァスラード大神殿に上がってきたばかりだが、持ち前の気の強さで、とうに見習い修道女の集団に溶け込んで、彼女たちの中で君臨している。ユーフェリナとは正反対の娘だ。
「マリナ、おやめなさい。この世に存在する生きとし生けるものに対し、魔に呑み込まれるよう願う発言はなりません」
 それまでのやさしい声音ではなく、アルカナルは厳しい口調で見習い修道女をたしなめると、騒ぎで集まってきた人々を散会させた。
「さあ、早くお掃除を終わらせましょう。新月は三日後です。神殿の聖掃を徹底しておかないと、結界が弱まって『魔』につけこまれますからね。それに今日は年に一度の聖なる日、大主教さまご自身が、皆さまの前で聖句を唱えてくださるのですから」

   *

 ロークリンド王国やその近隣諸国では、数多の神々が自由に信奉され、大小に拘らず多くの神殿が存在したが、ここ主神イヴァスラード大神殿の規模に及ぶものはない。
 結婚や葬儀などの儀式を司り、学問を人々に広め、イヴァスラードの教えを説く。大主教以下、神殿に仕える祭司はすべて非婚を原則として生活をしている。
 王都アクロシアの中央に広大な敷地をもつイヴァスラード大神殿は、あまねく神殿の総本山であり、人々が日常的な礼拝を行う礼拝堂をはじめ、王国の儀式──戴冠式や結婚式を執り行うための大聖堂、子供たちの学び舎、祭司たちの生活する居住区など、ありとあらゆるものを内包している巨大な建物だ。
 荘厳な礼拝堂は、芸術家たちがこぞって命を吹き込んだ神像や天井画、色硝子を嵌め込んだ美しい窓などが多く存在し、芸術とは切っても切れない縁がある。神殿の存在自体がロークリンド王国の至宝と呼べるのだ。
 だが、イヴァスラードは美しいばかりの神殿ではなかった。
 ──イヴァスラードには、絶対悪と見做みなす存在がふたつある。
 ひとつは、はるか神話の時代に『魔界』と呼ばれる世界からやってきた、悪魔や魔物といった、闇に属する異形の者たちだ。
 連中は世界に多く蔓延はびこり、人々の安穏な生活を脅かす。家畜だけではなく、人間も襲い、ときには村や町を丸ごと灰燼かいじんに帰せしめることもあった。
 そして、もうひとつ。
 新月の夜を『聖なる日』と名づけ、太陽を嫌い、欲望や快楽に身を任せて善良な人々を襲う、『魔性アディルアデル』と呼ばれる、元人間ども。
 魔性アディルアデルに心身ともに堕ちた者は、人であっても『魔』と見做された。
 彼らはまず、人としての己の存在を見失う。強すぎる欲望を抱いたがゆえに、満たされない渇きを持て余し、その衝動から自らを魔物と変化させていくのだ。
 アディルアデルの姿形に決まりはない。人の姿を保つ者もいれば、完全な異形へと変貌を遂げる者もいる。彼らは決まって太陽の光を嫌うようになり、闇の中を蠢く。
 こうして、誰にも気づかれないまま魔性にかれた者は、来たるべき新月の晩に突然牙を剥くのだ。
 そして、このアディルアデルの中に、『魔剣士』と呼ばれる男が存在する。
 彼は自らをウィルガイスト──すなわち悪魔と名乗り、大剣を担いで戦と戦を渡り歩き、敵も味方もなく殺戮を繰り返した。
 ウィルガイストは、『力』を求めるあまり、アディルアデルに変貌したと言われている。
 だが、新月の晩どころか太陽の下も平然と動き回り、完全に人の姿を保ち、その容姿は美貌と呼べるほどだという──まさに悪魔的な存在だった。
 人々は彼を憎悪したが、その反面、『契約』を交わし傘下に収めさえすれば、この上ない戦力となる。それを知って、財ある者や権力を持つ者たちは、こぞってウィルガイストを飼い慣らそうとした。契約を履行さえすれば、彼はどんな汚い仕事も平然と、完璧にやってのける。
 それがたとえ戦場での鏖殺おうさつだろうと──暗殺だろうと。
 ウィルガイストを含め、絶対悪である『魔』の根絶を目指すのが、『イヴァスラード聖騎士団』だ。
 聖騎士団に課せられた最大の使命は、魔を滅ぼし、心身を魔物と化してしまった元人間を葬り去ること。
 どのような神の奇跡をもってしても、アディルアデルに堕ちた人間を救う術はないのだから。

   *

 ユーフェリナが起こした朝のささやかな騒動をよそに、広大な大聖堂では、一年に一度の叙聖式が執り行われていた。
 この一年で功労のあった者、その働きを認められた聖職者が、大主教によって次の階級に任じられる儀式である。
 下層の修道女たちの間でもっとも注目されているのは、アルカナル助祭の司祭への叙聖だ。もちろん、聖騎士や他の助祭の中にも相応しい人物はいるだろうが、修道女や見習いたちが一番近しくしているのが、このアルカナルである。しかも、外から祈りにやってくる者たちにも、アルカナルは評判がいいのだ。
 ところが。
「司祭さまに叙聖されたのは、アルカナル助祭ではなく、リアム聖騎士ですって──!」
 夕刻になり、噂好きの修道女たちの間にその情報が広まると、神殿中でちょっとした騒ぎとなった。
 とはいえ、当のアルカナルは素直にリアム聖騎士を祝福し、残念がるそぶりもない。むしろ、アルカナルの叙聖が見送られたことに憤慨する人々をいさめるのに忙しいくらいだ。
 その様子を見たユーフェリナは、重たいため息をついて修道女たちの居室へ戻った。
 窓の外を眺めれば、夜へと移り変わる空に細い月が弱々しく浮かんでいる。
「三日後は新月か……」
 誰にともなくつぶやくと、ユーフェリナは淡い翡翠の瞳を憂いにかげらせた。
 彼女にとって、新月の前後はもっとも憂鬱な時期だった。見たくないものを目撃することが多いからだ。とくに、人が大勢集まる儀式の場や、不特定多数の人間がやってくる礼拝堂には近づきたくもない。
 とはいえ、末端の見習い修道女が神殿の奥深くに籠っていられるはずもなく、たいていは礼拝堂や神殿の庭園で、日常奉仕という名の『聖掃』に精を出さねばならない。
 いわく、欲とけがれにこそ魔は憑くのだという。
 欲とはすなわち、人間が誰でも持っている欲望の類で、それらを理性によってうまく消化できないはみだし者が魔に魅入られ、『アディルアデル』などという魔物になる。
 そして、穢れとはわかりやすく言えば、不潔とか混沌とした状態を指す。神殿では不潔を戒め、浄化することにより、魔に対する結界を強めると言われている。
 そして、この広大な敷地を誇る神殿の掃除は『聖掃』と呼ばれ、末端信者のもっとも重要な仕事だった。一日のほとんどを掃除しているようなものだ。
 神殿を一歩出れば、イヴァスラードの教えが広められているこのロークリンド王国、王都アクロシアの目に見える場所などは、それこそ聖掃によって徹底的に清潔が保たれていて、周辺諸国からは「ラヴァン大陸でもっとも美しい」などと称される都市になっている。
 だが一歩、路地裏に踏み込めば、清潔などとは無縁の、うらぶれた通りが姿を現す。そして、その通りを中心に、新月の夜になるとアディルアデルに堕ちた出来損ないの魔物がよく現れる。
 むろん、アディルアデルは裏町にしか現れないのかといえば、決してそんなことはない。
 自分で自分の欲望の大きさに気づかぬ人々が、慣習的にイヴァスラード神殿を訪れては、中身のない祈りを捧げていくのだが、ユーフェリナの翡翠の瞳には、アディルアデルに呑み込まれかけている人が『える』のだ。
 今度の新月には、きっとよくないことが起こる。ユーフェリナにとっては、胸騒ぎなどという次元でもない、それは避けようもない現実だった。

 その憂慮を裏づける事件が起きたのは、叙聖式の翌日、新月二日前の夜だった。
 新月の晩はとくにアディルアデルの動きが活発になりやすく、聖騎士たちも新月を挟んだ三日間は総動員で寝ずの警戒にあたっている。もちろん、それ以外の日でも魔性の出現は皆無ではないが、新月の晩ほどの緊迫感がないのも事実だ。
 ──そのはずなのだが、今夜はユーフェリナをそわそわさせる空気が絶えず流れていて、ベッドにもぐりこんだのはいいものの、ちっとも眠気が下りてこなかった。
 寝返りを打ち、ふと窓の外に目を向けたときだ。誰かと目が合った気がして、ユーフェリナは飛び起きた。
「誰……?」
 すでに窓の向こうには誰もいなかったが、錯覚とは思えないほど、はっきりと「彼」の目を見たのだ。「彼」は砂金石アベンチュリンのようなやわらかな緑色の瞳に、意地悪そうな笑みを浮かべてユーフェリナを見ていた。
 だが、そこをあわただしく人々が駆け回っている様子が見えたので、ユーフェリナは今のささやかな出来事をすぐに忘れてしまった。
 修道女の寝泊まりする建物は神殿の外れだが、大聖堂に向かう廊下を、多くの聖騎士たちが急ぎ足で行きっている。
 廊下のランプの明かりが揺らめき、ユーフェリナの部屋でゆらゆらと影が動いた。
「ユ、ユーフェリナさん、なんでしょう。あんなに聖騎士の方たちがあわてたご様子で……何事かあったのでしょうか」
 いつもと違う空気を敏感に察して、同室の見習い修道女がおろおろしながらユーフェリナに問いかける。
 そうでなくとも修道女は朝が早いし、こんな真夜中に騒がれることこそいい迷惑、静かに眠らせてほしいものだとユーフェリナは考えた。
 しかしつい最近、見習いとしてやってきたばかりの娘は、緊迫した空気に不安を煽られたのだろう。「どうしましょう、どうしましょう」とうろたえながら叫ぶものだから、ユーフェリナは唇を結んだ。
「どうせ聖騎士団がすぐに片づけるわ。新月まで二日あるし、アディルアデルが神殿の中まで入り込んでくるわけじゃない。とっとと寝てしまいなさい」
 ユーフェリナとしては、何も問題はないと不安を拭ってやったつもりなのだが、彼女は口を噤み、しばらくの沈黙の後でしくしくと泣き出した。
 それでたちまちユーフェリナは、せっかくの愛らしい顔を歪めて、ため息をつく羽目になる。
 だがユーフェリナの不機嫌を聞きつけたのか、重たそうな足音が廊下からドスドスと近づいてくると、マルティア助祭が部屋に飛び込んできた。
「ユーフェリナ! 今度は何をしでかしたのです!」
「べつに何も。イヴァスラードの修道女は、夜中に聖騎士が駆け回ろうとも、たとえ目の前にアディルアデルが現れてさえも、黙して騒ぎ立てず、静かに神に祈るべし──これを新入りに教えていただけです」
 まるきりの嘘ではないが、教えていたという言葉も適当ではない。泣き崩れる新入りと、ふてぶてしいユーフェリナを見比べたマルティア助祭は、深々とため息をついた。
 だがそのとき、あわただしく廊下を行き交う聖騎士の口から飛び出したのが──。
「聖騎士が殺された!」
 その声に恐慌に陥ったのは、もちろん新入りの見習い修道女である。マルティア助祭もさすがに顔色を失っていたが、恐怖に泣く彼女をなだめすかすために、ユーフェリナへの説教はお預けになった。
「今夜はレリアを別室に連れていきますから、あなたも早くおやすみなさい」
 ユーフェリナとふたりきりにしておいたら、新入りがますます恐怖に竦み上がるであろうことは、誰の目にも明らかだった。
 なにしろユーフェリナには「なぐさめる」とか「宥める」といった能力がそなわっていない。
 やがて扉が閉じられてひとりきりになったが、相変わらず向かいの建物はあわただしいままで、とても落ちついて眠れる状況ではなかった。
 ここ最近ずっと感じていた胸騒ぎが、さっきからひどくユーフェリナの心臓を急かしている。
(なんだろう、この感じ……まだ新月じゃないけど、もう? 今夜死んだのは、リアム聖騎士かな……)
 そうなったとしても、自分には何もできない。ただわかるだけ、知っているだけ、見ているだけ。
 だから、何も気がつかないふりをしてぎゅっと目を閉じる。そうやって、これまで過ごしてきたのだ。これから先も、きっと。
 だが今夜はなぜか、いてもたってもいられない気がして、ユーフェリナは無意識のうちに寝台を抜け出し、底冷えのする廊下に出ていた。
 どこへ向かうつもりでもない。ただ、何かに導かれるように、ユーフェリナの足は自然と礼拝堂に向けられていた。
 騒々しく聖騎士が走り回るのは神殿の奥、大聖堂のほうだ。彼女が向かっている礼拝堂は、一般に開放された、いわば神殿の玄関口にあたる。
 夜間は外部からの立ち入りを禁じるために、施錠されて無人のはずだ。
 礼拝堂に続く廊下を、カツカツとユーフェリナの靴音が冷たく響く。いくら夜間とはいえ、こんなにも人の気配がないものだろうか。それほどに大聖堂での騒ぎに人がとられているのか。
 いくつか角を曲がり、数少ないランプの明かりをたどって礼拝堂までやってきたとき、ユーフェリナは足を止めた。礼拝堂の扉の向こうからなにやら、人の気配──声がする。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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