【試し読み】摂政姫と烙印の騎士~剣術指南の蜜甘対価~
あらすじ
「あんたを俺のものにしたいんだよ、王女様」現国王の幼い弟に代わり摂政を務める王女アザレー。母の形見を探しに訪れた森で、盗賊に襲われたところを黒髪蒼目の美男子ヴァルターに助けられる。素性を明かさない彼に、亡き初恋の王子と同じ色彩を見つけて警戒心が薄れ、守備隊長に勝てたら王城で雇う約束を交わす。――「対価として気位の高い王女様をいただくとしよう」圧倒的な実力を見せつけたヴァルターを約束通り雇うことになるが、提示された国家予算なみの雇用報酬の代わりは〝アザレー〟で!? 夜ごとヴァルターの熱い口づけを受け入れ、身体に悦びを教え込まれていく。そんな彼の背中に、曰くつきの烙印を見つけて……?
登場人物
弟に代わり摂政を務める王女。盗賊に襲われたところを初恋の王子に似た男・ヴァルターに助けられる。
武勇にすぐれた黒髪蒼目の美男子。金銭に代わる雇用報酬として〝アザレー〟を要求する。
試し読み
初恋の人だった。
一目で心を奪われた。
彼は隣国の王子で、八つ年上の兄と同い年の幼なじみ。わたしが彼に出会ったのは六歳のその日が初めてだった。いつもは兄のほうが彼の国へ遊びに行っていたから。兄の十五歳の誕生日を祝うため、彼は初めてわたしたちの城を訪れた。
立派な体格の黒葦毛の馬を見事に乗りこなして、彼は馬場の柵の前でぴたりと止まった。
艶やかな漆黒の髪をわずかに乱し、健康そうな肌色を上気させてにっこりと笑う。わたしは召使に持ってこさせた台の上に立っていたので、鞍に座る彼と目線はほとんど変わらない。
「やぁ、初めまして。きみがアザレー姫だね?」
晴れ渡る青空のような瞳がわたしを見ていた。吸い込まれそうな蒼い瞳──。
次の瞬間、わたしは叫んでいた。
「あなたのお嫁さんにして!」
綺麗な蒼い瞳がまんまるに見開かれる。
彼と並んで馬を止めた兄が弾けるように爆笑し始めたのも、懸命に彼を見つめるわたしの耳には届かなかった。
願いどおり、わたしは彼の許嫁になった。
だけど、彼の元へ嫁ぐことはなく──。
婚約からたったの二年後。彼の国で政変が起こり、両親ともども殺されてしまったから。
王位を奪ったのは国王の異母兄。彼の伯父だった。
政変から五年後。帝国軍が侵攻して彼の母国を呑み込んだ。
今はもう、その国は、ない。
第一章
アザレーは必死に逃げていた。
馬を急かし、森の中を全速力で駆け抜ける。密集した木立が視界を遮り、すでに方向もわからない。
顔にかかる桃金色の髪を乱暴に払いのける。
(ああっ、もう! どうしてこんなことに……!)
下ばかり見ていて、ならず者どもに気付くのが遅れた。
(仕方ないわ、落とし物を探していたんだもの)
そのせいで、気付いたときには流れ者の盗賊どもに取り囲まれてしまっていた。ふと、やけに赤いものが視界に映り込み、なんだろうと顔を上げると、にんじんみたいな赤毛の髭もじゃ男が切り株に座って干し肉にナイフを入れていた。その手前に、ずらずらと人相の悪い荒くれ男がたむろして、刃物の手入れをしたり、革袋からワインをがぶ飲みしている。
ぎらりと男どもの目が光る。獲物を見つけた密猟者みたいな目付きだ。
慌てて馬の向きを変え、思いっきり腹を蹴った。しかしすでにアザレーは道を外れ、森の奥深くに入り込んでいた。どこで落としたのかわからなかったので、前日の狩りで通った場所を、記憶を頼りにたどっていたのだ。
(昨日はこんな奴らが入り込んでいる痕跡なんかなかったのにっ……)
街道沿いを徘徊する追剥どもは、国境なんぞお構いなしにどこへでも入り込み、荒し回る。
兵力不足で警備がずさんになっていることには、以前からうすうす気付いていたのに。対策を怠っていたつけを、こうして我が身で払わされることになってしまった。まったく悔やんでも悔やみきれない。
背後から、馬蹄の轟きが追いかけてくる。威嚇し、おもしろがる怒鳴り声。耳をふさぎたくなるような言葉を投げつけられる。手綱から手を離すわけにもいかず、代わりにぎりぎりと奥歯を噛みしめた。
目の前に、湿った窪地が現われた。小川が涸れた跡だ。瞬時に距離を目測し、行ける! と無我夢中でアザレーは馬を駆り立てた。
「ハイッ」
掛け声とともに、美しい弧を描いて愛馬が跳躍する。
背後でならず者どもがわめき散らす声が聞こえた。あそこを飛び越える技量はないらしい。
アザレーはほくそえんだ。奴らがまごまごしている隙に距離を稼げる。たとえ窪地を渡って追いかけてきても、この木立で姿が見えなくなっていれば諦めるはず。
急いで城へ戻り、守備隊を呼んでこよう。あんな奴らに城下の森に居座られてはかなわない。さっさと追い出さなくては。
跳んだときに梢のあいだからちらりと城が覗き、自分の居場所が掴めた。このまま進めば城へ続く道に出られる。ホッとしたアザレーが、背後を確かめようと振り向いた瞬間、上半身を打撃が襲った。
「────ッ!?」
一瞬息が止まり、深緑の瞳をいっぱいに見開く。何がなんだかわからないまま、アザレーは馬から放り出されていた。
勢いで何度か回転し、ようやく止まってもしばらくは指一本動かせなかった。目の詰まった厚手のウールのマントがぐるぐると身体に巻きついて身動きできない。
張り出した木の枝にぶつかったのだ、と気付いたときにはすでに馬は消えていた。勢いのままに走っていったのだろう。
(に、逃げなきゃ……)
ぐずぐずしていてはならず者どもに追いつかれる。どうにかマントの絡まりを解き、立ち上がろうとしたが、ひどい眩暈でへたり込んでしまった。眩暈に加えて、キーンと耳鳴りまでする。
不快な耳鳴りのなか、さらにいやな物音が聞こえた。複数の蹄が勢いよく地面を蹴る音だ。口汚く罵る声もする。
(ま、まずい……)
アザレーは焦って立ち上がった。だが、眩暈がひどくて進むべき方向が定まらない。
「いたぞ!」
喜々とした胴間声が響く。うろたえたアザレーは木の根に躓き、ばったりと倒れ込んでしまった。起き上がろうともがくも、眩暈はいっそうひどくなるばかり。視界がゆがみ、ぐるぐる回っている。
諦めるものかと必死に地面を這いずるアザレーに、下馬した盗賊たちがニヤニヤしながら近づいてくる。彼らが発する下劣極まりない囃し声は、さいわいにも渾身の力を振り絞るアザレーの耳には入らなかった。
代わりに、何か緊迫したやりとりがぼんやりと聞こえ、頭上で金属音が何度か響いたかと思うと、急に辺りが静かになった。
「──おい、大丈夫か?」
肩を掴まれ、揺すられる。まだ耳鳴りはしていたが、聞こえてきた声には本物の気遣いが感じられた。
這いつくばったまま目を上げると、膝をついて覗き込んでいる男の顔が見えた。盗賊ではない──らしい。少なくとも、さっき出くわした盗賊のなかにはいなかった。
こざっぱりとした身なりの若い男で、整った顔立ちをしていることが、まだ揺れている視界でもじゅうぶんにわかる。
「立てるか?」
「む、り……」
「脳震盪だな。馬から落ちたのか?」
漸う頷くと、男は肩を貸してアザレーを起こし、手近な木の根元に寄り掛からせた。
「しばらくじっとしてろ。盗賊どもは追い払ったから心配するな」
「わ、たしの……馬……は……?」
「近くにはいないようだ」
溜息をつき、ぐったりと幹にもたれかかる。男が革袋に入った水を飲ませてくれて、しばらく休んでいるとやっと眩暈が収まってきた。アザレーは頭をさすりながら、自分を助けてくれた男を見上げた。
年頃は二十代の半ばから後半だろうか。うなじを覆うくらいの長さの黒髪で、思慮深く鋭利な瞳は蒼い。背が高く、一見細身だが、シャツの上からでも胸板の厚さが見て取れる。鍛えているのが如実にわかる、しなやかで俊敏そうな体つきだ。
乗馬用の革長靴に革手袋、背中に長剣を背負い、腰には飛び道具にもなりそうな短剣が左右に一本ずつ。
傍らには、賢そうな目をした漆黒の馬が、影のようにおとなしく佇んでいる。鞍の後ろにくくり付けられた振り分け鞄からすると旅人らしい。
「あ……ありがとう……。助かったわ……」
腕組みをした男は、端正な唇に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「見たところ良家のご令嬢のようだが、供も付けずに一人歩きするなんて不用心じゃないか?」
「この森は安全だもの……。さっきの奴らは流れ者よ。ここを根城にしてるわけじゃない」
「あんなごろつきどもが好き勝手に入り込んでる段階で『安全』とは言えないな。天然の要害にあるのをいいことに、アーダルベルトは国境警備の手を抜いてるんじゃないか?」
「悪かったわね」
ムッとして睨むと、男はまじまじとアザレーを見つめた。
「……ひょっとして、王家の関係者か?」
「わたしはこの国の王女よ」
言い返して、ひやりとした。正体もわからない相手に身分を明かすなんて、それこそ不用心だ。でも、盗賊を追い払ってくれたし、身なりもきちんとしているし、美男子だし……。
いや、美男子は関係ない。
「で、あなたは誰?」
照れ隠しのようにつっけんどんに尋ねる。男はなぜかますます訝しげな顔になってアザレーを眺めた。
「アーダルベルトの王女は、ひとりしかいないはずだ」
「わたしがそのひとりよ!」
「なら、摂政王女のアザレー姫というのはあんたのことか」
男は感心したようにじろじろとアザレーを見た。
「ふーん……。なるほどねぇ」
「何がなるほどよ。そんなに意外?」
「ああ、意外だ。……いや、そうでもないかな」
どっちなのよ!? とアザレーが睨みつけると、忍び笑っていた男は咳払いをして取り繕った。
「失礼した。まさか王家の姫君が供も連れずにうろついているとは思いも寄らず」
「よく来る場所だし、ちょっと探し物をするだけだから……」
微笑まれてどぎまぎしてしまい、アザレーは口ごもった。
「探し物?」
「イヤリング。昨日、狩りのときに落としてしまったの」
「もしかして、これか?」
差し出された革手袋の上には、ルビーをはめ込んだ黄金の耳飾りが載っていた。
「ど、どこにあったの!?」
「道端に落ちてた。何かキラッとするのが見えてな。いい細工だし、路銀の足しになるかと──」
「母の形見なのよ」
慌ててアザレーはイヤリングを引ったくって赤くなった。
「……お礼はするわ」
「そりゃどうも。しかし、そんな大事なものを狩りのときにするのはどうかと思うぞ」
「験担ぎよ。これを着けてると、いつもいい獲物が獲れるの」
「へぇ。昨日の成果は?」
「大きな鹿を仕留めたわ」
男はにやりとした。
「本当に効果あるらしいな。そんな大事なものを見つけてやったからには、謝礼も弾んでもらわないと」
吹っ掛けられるのかと警戒するアザレーに、男は意外なことを言い出した。
「俺を雇ってもらえないか?」
「雇う?」
面食らって男を見返す。
「剣の腕には自信がある。どこかの領主にでも雇ってもらえないかと、あちこち旅してるんだが、なかなか条件が折り合わなくてな。その点、あんたは一国の王女様だ、そこらの小領主に仕えるよりずっといい」
どうやら『条件』というのは単なる選り好みのようだが……。
「……あなた騎士なの?」
とてもそうは見えない。案の定、男はしれっと答えた。
「正式に叙任はされていない」
「どなたかの紹介状をお持ち?」
「ない」
きっぱり答える男を、アザレーは呆れて見返した。
「悪いけど、紹介状すら持たない人を雇うわけにはいかないわ。いくらわたしが不用心でもね」
「礼はするって言ったじゃないか」
「ちゃんとするわよ。これに見合う路銀を差し上げます。一緒に城へ来て」
「路銀はいい。その代わり、あんたに仕える騎士のなかで一番強い奴と勝負させてくれ。で、俺が勝ったら雇ってもらう」
アザレーはまじまじと男を見返した。
「……負けたら?」
「おとなしく立ち去るよ。謝礼もいらない。もっとも負けるつもりはないが」
「ずいぶんな自信家ね」
男はニヤリと不遜な笑みを浮かべた。ふてぶてしいのにどこか憎めない、不思議な魅力をおびた笑顔だ。
「自信はある。あんたにとっても悪い話じゃないと思うぞ? どうやらアーダルベルトは防衛力に不安がありそうだ。ごろつきが勝手に入り込み、摂政を務める王女が護衛もなしにフラフラ出歩いてるんだからな」
「わ、わたしがひとりで出歩いてるのは関係ないでしょ」
「関係あるさ。あんたが自分の立場もわきまえない能天気な王女様でも、あるいは、ただでさえ人手不足なのだから私用の護衛なんて頼みにくい……と感じているのだとしてもね」
ぎくっとするアザレーに、男は不敵な笑みを向けた。
「俺のような手練の剣士を雇い入れるのは、無駄にも損にもならないぞ?」
自分を手練と言い切る男は、本当に実力者なのか、それとも単なる自信過剰の世間知らずか?
確かめるのは簡単だ。そう、確かめてみてもいい。時間の無駄になるかもしれないけど、負けたら謝礼はいらないというのだから損にはならないはず。
「……いいわ。あなたが勝ったら雇います」
「よろしくな」
「勝ったら、よ!」
睨みつけても男はふてぶてしい笑みを返すだけだ。
アザレーは溜息をついて額をこすった。
「……ともかく城まで送ってくれる? とても歩いて帰れそうになくて」
鞍に二人乗りして歩き出し、ふと思い出してアザレーは尋ねた。
「そういえば、名前をまだ聞いてなかったわ」
「俺か? ヴァルターだ」
「ヴァルター……何?」
「ただのヴァルターさ」
「どこから来たの?」
「西街道」
出身地を尋ねたことくらいわかったはずだ。つまり、答えるつもりはないということ。
アザレーは肩をすくめた。
(まぁ、いいわ。雇うことになったら、そのとき訊きましょ)
負けたらサヨナラなんだし……と思いつつ、彼が勝つことをどこかで期待している自分に気付いてアザレーはひそかに顔を赤らめたのだった。
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