【試し読み】完璧一途な彼の溺愛にとかされまして
あらすじ
千穂は、元カレに騙されてしまったことが原因で恋に臆病。ある日、千穂が店長を務めるアパレルショップに新任のMDがやってくる。美形なわりに気取らず、人懐っこくしかも有能と一見完璧な宮葉は、何故か最初から千穂に好意的。甘い言葉と視線に警戒心を抱いた千穂は、公私をきっちり分けて彼と接しようとするが、宮葉の方が一枚上手で気づけばプライベートでも連絡先を交換することに。『千穂さんも、僕を好きになって下さい』――無邪気にぶつけられる彼の熱い気持ちに、頑なだった千穂の心は次第にとかされはじめる。そんな宮葉の猛アタックには、実は理由があって……。
登場人物
元カレの裏切りにより恋に臆病になる。出会って間もない宮葉に好意を向けられ戸惑う。
千穂が店長を務めるお店の新任MD。整った顔立ちに人懐っこい性格で、千穂に猛アタックする。
試し読み
第一章 出会い
柊千穂は店のバックヤードに運び込まれた箱の山を前に、瞳を輝かせた。
服や小物がぎっしり詰められている箱の数は、ざっと数えて五十を超えている。
すでにショップに並べてある商品の補充分なら、手の空いているスタッフに検品と店出しを頼むのだが、今日入ってきたのは春物の新作だ。目前の箱の中には、千穂自ら展示会でピックアップした新商品が入っている。自然と緩む頬を引き締め、千穂はシャツの袖を肘まで捲った。
送り状に記載されている店舗名と箱の数が合っているか確認した後、千穂は薄手の白手袋を嵌めた。ビニールに入った商品を素手で検品しようものなら、あっという間に手が荒れる。見た目が悪くなるだけでなく、出来たささくれが繊細な生地を傷めたりもする。アパレルショップで働く店員が指先までしっかりケアしているのは、商品を守る為でもあるのだ。
まずは一番近くにあった箱を開け、納品伝票と中身の商品を照らし合わせる。バックヤードに持ち込んだ業務用のハンガーラックは、みるみるうちにビニールに包まれた商品で埋まっていった。
中には展示会の時とは微妙に色味や丈の長さが変わっている服もある。それらをチェックしながら、千穂はボディに着せるコーディネイトや店内のディスプレイをイメージする。
千穂が店長を務めるセレクトショップ『Choupinet』は、大通りに面した路面店だ。道行く人の足を止め、店内へと誘導する鍵は、ショーウィンドウのディスプレイにある。
来春のキーカラーで統一するのもいいし、雑貨と組み合わせてターゲット層が好みそうなライフスタイルを提案するのもいい。どのディスプレイが、千穂が仕入れた商品を一番輝かせるだろう。あれこれ考えながら、静まり返った薄暗いバックヤードの中で一人、黙々と作業をこなすこの時間を、千穂はとても大切にしていた。
店内に流れる洒落たBGMも、さざめく客達の声も、バックヤードまでは届かない。明るい光に満ちた活気ある空間は千穂が目指すものでもあるが、たまにはこうして一人になりたくもなる。
「──店長、ちょっといいですか?」
八つ目の箱に取り掛かったところで、スタッフの一人がスイングドアから顔を覗かせた。
「いいよ、どうしたの?」
千穂は手を止め、屈めていた身を起こした。ずっと同じ姿勢を取っていたせいで、腰がすっかり強張っている。鈍い痛みに顔を顰めた千穂は、次の瞬間あ、と唇を開いた。
スタッフの後ろから現れた青年を見て、数日前に届いたメールの内容を思い出したのだ。
「お仕事中、すみません。この度、こちらの担当になったMDの宮葉です」
細身のスーツを隙なく着こなした長身の青年が、爽やかに微笑んで軽く会釈する。
「はじめまして!」
千穂は慌てて背筋を伸ばし、ぺこりと頭を下げた。
「店長の柊です。こちらこそすみません。事前にメールで教えて頂いていたのに、検品を始めてしまって……」
正確には、『今週中に一度ご挨拶に伺います』という日付を指定していないメールだったのだが、初対面から角を立てるわけにもいかない。
「いえ、日時を指定してお約束したわけではありませんから。どうぞ続けて下さい」
宮葉と名乗った青年は、気にした風もなくはきはきと答える。
千穂はホッと胸を撫で下ろした。どうやら今回のMDとは上手くやれそうだ。
先日まで千穂の店を担当していたMDは、有能ではあるものの少々せっかちなところがあった。こちらを待たせるのは良くても自分が待たされるのは大嫌いで、今日のような状況を生もうものなら露骨に嫌な顔をされた。
本社のMDが多忙なことは、千穂も知っている。先のシーズンの動向を読んで商材を決めたり、他社の売れ筋商品を研究したり、各店舗の売り上げを分析したりと、彼らの仕事内容は多岐に亘る。自店舗の売り上げ確保に懸命になっている千穂とは、おそらく見ている景色が違うのだろう。ある程度は相手に合わせなくてはいけないと思っていても、いい気分はしなかったというのが本音だ。
「よければ好きに見て回って下さい。ここ最近の売れ筋商品は、都度スタッフに尋ねて頂ければ分かると思います」
本社にあがる売上報告だけでは、実店舗での細かな動きまでは掴めない。だから彼らはこうしてわざわざ足を運び、自分の目で確認するのだ。
ところが宮葉は、千穂の勧めに軽く首を振った。
「そちらも柊さんから直接お伺いしたいので、後で結構です。よかったら、僕も手伝いますよ」
「え?」
目をぱちくりとさせた千穂に、宮葉は邪気のない笑みを浮かべた。
「入ってきたのは、来シーズンの新作ですよね? 柊さんのセレクト、僕も見てみたいです」
「……仕入れた商品のデータはそちらに上がってると思いますが」
「品番やカラー、数量は調べれば分かりますが、商品画像が添付されてるわけじゃありません。仮に添付されていたとしても、都度開いて確認するより直接見た方が早い」
「確かに……」
「じゃあ、いいですか?」
宮葉は分かりやすく瞳を輝かせ、千穂を見つめた。
アーモンド形の瞳に、スッと通った鼻梁。甘く整った顔立ちを更に引き立てるサラサラの黒髪と滑らかな肌。
誰もが『イケメン』と太鼓判を押すに違いない容姿をしているのに、宮葉には美形にありがちな気取ったところがない。むしろ、人懐っこい。ちぎれんばかりに尻尾を振ってくる柴犬を連想してしまい、千穂は危うく噴きそうになった。
本人の申し出とはいえ多忙なMDに検品作業を手伝わせていいものか。千穂は数秒迷ったが、結局は頷いた。
宮葉の来訪を知らせにきたスタッフは、とうに店内に戻っている。初対面の、しかも上司ポジションの男と二人きりで検品するのは気詰まりだが、これも仕事だと割り切って宮葉に割り振る業務を探す。
「えーと、では半分に分けましょうか」
残った箱を見遣り、提案した千穂に、宮葉はくす、と小さく笑った。
「柊さん、駄目ですよ」
「え?」
「ホントは全部自分でチェックしたいんですよね?」
全てを見透かしたような言い方に、虚を突かれる。
肯定も否定も出来ない千穂をよそに、宮葉は提げていたビジネスバッグを床に置き、脱いだ上着を掛けた。
「僕はサポートに回ります。空いた箱の解体とストックスペースへの運搬を担当しますね」
そう言って、スタスタと検品の終わった箱へと近づく。
「余ってる手袋、ありますか?」
「あ、はい」
千穂はエプロンの前ポケットに入れているスペアの白手袋を引っ張り出し、宮葉に渡した。
「各色各サイズ一枚ずつ店出し、後はストックでいいですか?」
「あ、はい」
さっきから千穂はそれしか言っていない。あまりにも宮葉が卒なく、かつスピーディに段取りを組んでいるからだ。
「では、始めましょう」
「よろしくお願いします」
これでは立場が逆ではないか、と一瞬思ったが、こちらが世話を焼かなくて済むのは正直助かる。
千穂は気合を入れ直し、チェック途中の伝票を取り上げた。
顔を合わせたばかりの宮葉の存在が気になったのも、僅かの間だった。気づけば千穂は、検品とディスプレイのイメージ作りに没頭していた。宮葉はそれくらい、空気に徹してくれたのだ。
掛けるスペースがないほどぎっしり詰まっていたハンガーラックは、いつの間にか空のものと取り換えられているし、空き箱はきちんと畳まれ、ビニール紐で纏められている。古参のスタッフと作業をしているような安定感に、千穂は感服した。
MDといえば、先の流行を読む分析力と売り上げを支える提案力が売り物の頭脳職。そのMDである彼が、一見地味だが実際要領良くこなすのは難しい雑務まで完璧にやってのけるとは思わなかったのだ。
「こちらのシリーズは、畳みですか?」
「畳みで。袋からは出さないで下さい」
「了解。店出し分だけ別箱に避けて、残りはストックルームに色別で積みます。場所は空いてますか?」
「はい。入荷分のスペースは空けてありますので、すぐに分かると思います」
必要最低限のやり取りを交わし、後は各々の作業に集中する。
十五時過ぎまでかかるだろうと見積もっていた検品作業は、千穂の予想よりだいぶ早く終わった。
大量の荷物に圧迫されていたバックヤードは、宮葉のお陰ですっきり片付いている。
普段は各ブランドの担当に割り振っている仕分けとストック管理も終わったので、今日は誰も残業せずに済むだろう。
「本当に助かりました。よかったら、お昼ご一緒しませんか?」
千穂は心からの感謝を伝えたくて、宮葉を誘ってみた。
これまでのMDとも、ランチに行ったことはある。だがそれは、あくまで相手から誘われた場合だけで、千穂から誘ったことは一度もない。
他店舗の店長がどうしているかは知らないが、千穂は過去の出来事のせいで男性不信気味になっている。たとえそれが業務の一環であっても、自ら声を掛けることは避けていた。
だが宮葉なら、大丈夫だろう。これほどのイケメンが、女性に不自由しているとは考えにくい。千穂が身構えずとも、彼の方からお断りな筈だ。
素早く結論を出した千穂の提案に、宮葉は快く頷いた。
「いいですね。そういえば、行きたいお店があるんですよ。行き先、僕が選んでもいいですか?」
宮葉は明るく答えながら手袋を外し、上着を羽織った。そんな何気ない仕草も絵になる。
「もちろんです」
(なんというか、全部が目の保養になる人だな)
こっそり感心しながら、千穂もエプロンを外して身支度を整えた。
幸い、今日は平日だった。店は午前中からほどほどの客足をキープしている。
これなら、時間を気にして慌てて帰ってこなくても大丈夫そうだ。千穂はチーフスタッフに打ち合わせで外出する旨を告げてから店を出た。
分厚いガラス扉を開けた瞬間、冷たい空気が頬を刺す。千穂はマフラーをしっかりまき直し、遅れて出てきた宮葉を振り返った。目が合うなり、彼は人懐っこい笑みを浮かべる。
「ちょっとここで待っててください。車回してきます」
てっきりこのまま歩いて食事先に向かうと思っていた千穂は、宮葉の言葉に瞳を瞬かせた。
「え? この辺じゃないんですか?」
『Choupinet』の近くには、雑誌で紹介されるような洒落たカフェやレストランが沢山ある。
わざわざ車で移動しなくても、と千穂は思ったのだが、宮葉は「時間の余裕、ありますよね?」と確認してきた。
「それは、はい。夕方までに戻れば大丈夫です」
「よかった。じゃ、行ってきます」
宮葉は爽やかな笑顔を残し、足早に去っていく。均整の取れた後ろ姿をしばし眺めた後、千穂は軽く息を吐いた。今までのMDとは勝手が違い過ぎてどうにも調子を狂わされるが、それはきっと宮葉が若いからだろう。
千穂は今年で二十八歳になった。宮葉はどうみても、千穂より若い。店長になってから今日まで、担当のMDは全員年上だったが、ついに自分も年下の上司と仕事をする歳になったらしい。
誇らしさと寂寥の入り混じった複雑な気持ちを噛み締めながら、千穂は葉の落ち切った街路樹を眺めた。現状には満足している筈なのに、一抹の寂しさが拭えないのは何故だろう。仕事は充実しているし、気の置けない友人達だっている。他に一体何が必要だというのか。ふと脳裏を過ぎった理由からは目を背け、小さく嘆息する。白い息はまるで靄のように見えた。
やがて現れた一台の車を、千穂は凝視した。
目前に音もなく止まったのは、車にはあまり興味のない千穂でも知っているイタリアの高級車だ。それだけならそれほど驚くことでもないが、運転席から降りてきたのが宮葉となれば話は違ってくる。
「寒い中、待たせてすみません」
「いえ、大丈夫です。これ、もしかして宮葉さんの車ですか? 社用車、じゃないですよね?」
数千万はするスポーティなフォーシータークーペを営業用に購入するほど、本社の羽振りがいいとは思えない。
「じゃないです。どうぞ乗って下さい」
宮葉は助手席の扉を開き、千穂が乗り込むのを待っている。
後ろでいいです、という台詞は言えなかった。後部座席用のドアが見当たらなかったからだ。確かに後ろにも席はあるのに、二つしかドアがない。
一人、もしくは二人でドライブを楽しむ、趣味の為の車なのかもしれない。
千穂が助手席に収まるのを見届けた後、宮葉は弾んだ足取りで運転席に戻ってきた。
ビジネスランチに向かうのではなく、まるでデートに出かけるような雰囲気になっているのは、千穂の気のせいだろうか。
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