【試し読み】敵国王子との政略結婚は一途な初恋に染められる
あらすじ
ロアミール王国の王女・クリスチナは、モラヴィス公国との争いのなか身を潜めるためクラーラと名を変え、髪を染め身分を隠して場所を転々とし、ある村で暮らすようになる。そこで出会った端整で精悍な少年・ダミアンと心を通わせ──初恋だった。しかし互いに将来を誓った直後、突然終戦の報せが入り村をすぐに出なければならなくなる。ダミアンへの想いをおさえ、敵国の王子との政略結婚──王女として和平のため自らを捧げる決意をする。そして3年後、婚姻の日。目の前に現れたのは思いがけない人物! 喜びに包まれるクリスチナ。その晩、夫婦として肌を重ねるのだが、なぜか王子は素っ気なくすれ違いばかりで……!?
登場人物
戦火を逃れるために身を隠した村でダミアンと恋に落ちる。離れ離れになった後も想い続けるが…
敵国の王子としてクリスチナに再会。結婚し、夫婦生活がはじまっても素っ気ない態度をとる。
試し読み
1
クリスチナは不幸ではなかった。
十のころに戦火が起きた。
そのためクリスチナは名を変え、場所を転々とする生活に突然放りこまれることとなった。
すべてを隠し、あるいは捨て、忘れるよういわれ、それらを飲みこむしかなかったのだ。
めまぐるしい変化のなか、クリスチナはクラーラと名を変えた。
慣れ親しんだ場所を去ることは寂しく、愛する肉親と離れたことも悲しかった。
あちらこちらを渡り歩く日々にはつらくなることも多く、しかしはじめて目にする新しい発見──楽しい刺激があることも事実だった。
なにより、ひとりにされなかったことが大きい。
赤ん坊のころからクラーラを知る、ばあやのゾラが一緒にいてくれた。
ゾラを本当の祖母だと思って振る舞え、という要求はたやすかった。幼いころからずっと一緒だったし、クラーラは物知りなゾラのことが好きだったからだ。
最初のころ、ゾラはしきりにクラーラを憐れんでいた。
「おかわいそうに……こんな暮らしをされるなんて」
夜の暗闇のなか聞こえてくる涙声のゾラに、クラーラはおなじ一枚の毛布にくるまりながら答えた。
「ゾラは……こういうの、いや?」
クラーラたちとおなじく、ロアミール王国を出てきた難民は多かった。
ある日ロアミール王国は、周囲を囲む国のひとつであるモラヴィス公国に突然攻め入られたのである。
クラーラもまた、これまでの暮らしを捨てざるを得なかった。
夜空の下でクラーラが身を丸めていたそのころは、ロアミールとモラヴィス両国に隣接する大国サロが介入をはじめたころでもあった。
サロはロアミールについた。
大国の後ろ盾を得たとはいえ、戦火はたやすく消えるものではなかった。
戦争の被害は大きく、時間とともに難民は増えていった。
クラーラたちが最終的に身を寄せた難民団は、十人ほどの集団だ。
自分たちも飢えているというのに、おとなたちは子供たちがこれ以上飢えないよう、食料を優先してまわしてくれた。
それでもクラーラをはじめとする子供たちはいつもひもじく、おとなたちはみんなひどい顔色をしていた。
あちこちの難民団を点々として国を横断したが、最終的に身を寄せたその難民団にいる間が、もっともいさかいが少なかった──振り返ったとき、放浪の日々のなかそのころがクラーラは一番気楽に過ごせていた。
「わたしは……ずっとずっと昔に戻ったみたいです。みなさまにお仕えするまでは、こういう暮らしをしていたんです。父の代で家が落ちぶれてしまったので」
毛布の下でゾラが囁く。風のない夜だった。夜盗でさえ襲ってこないほど、難民たちは貧しく飢えていた。
「……母さまたちも、いやなのかな」
クラーラの肉親はバラバラになっている。父と長兄だけが城に残り、モラヴィス公国と戦っているのだと。
父たちと残ることは、最初からクラーラの選択肢になかった。
母でさえ父たちと離れた。
まだ十歳になったばかりのクラーラでは、父たちの役に立てる可能性はなかった。
「それは……お母さまたちにお会いしたときに、お訊きしましょうか」
うなずき、毛布とゾラの腕に守られてクラーラは目を閉じた。
クラーラは難民たちのなか、幸運だといえた──無事国境にある村にたどり着けたのだ。
そこはクラーラが発ったロアミール王国と、助力となった大国サロの国境の村だった。
ちいさな農村で、それまでクラーラはジャーキ村という名さえ知らないでいた。
ジャーキ村は難民を受け入れてくれた。
そのための準備をサロが整えており、おとなたちが説明するにはそういった場所がジャーキ村以外にもあるという。
ジャーキ村での暮らしがはじまってからも、クラーラはクラーラとして過ごした。
ゾラを祖母とした粗末な家での暮らしに、クラーラはすぐ慣れた。
以前のような暮らしはのぞめず、クラーラもそうしたいと思っていなかった。
ロアミール王国王女、クリスチナ・ラザルタークであることはひた隠しに隠した。
食べるものも着るものも変わり、なによりも大きな変化は──ジャーキ村にはダミアンが暮らしているということだった。
ダミアンのことがずっと好きだ。
ジャーキ村にやってきて彼と出会ってから、クラーラは彼のことを思い続けていた。
二歳年上だという彼の薄い金色の髪は湖面を照らす朝日のようで、緑がかった瞳は輝く宝石を連想させた。クラーラがそれまでに目にしたことのある、ラザルターク家の──王家の秘宝のなによりも美しかった。
優しくて勇敢で、話していると楽しくて、クラーラはジャーキ村で暮らすなかダミアンのことがどんどん好きになっていた。
大好きだった。
なによりも彼のひたいのかたちが好きで、微笑んだときの口角の上がり方が好きで、石投げでの的当てが上手で──好きでないところを探すほうが難しい。
ダミアンがいるから、ジャーキ村の暮らしはクラーラにとってなにひとつ苦痛ではなかったのだった。
クラーラとしてみずからの足で動くようになってから、はやくも五年が過ぎようとしている。
まだ鶏も鳴かないような時間に、クラーラはそっとベッドから身を起こした。
暗いなか手探りで着替えていると、となりのベッドでゾラが動く音がする。
「……クラーラ?」
「おばあちゃん、ちょっと出てくるから寝てて」
「まだ暗いわ、こんなはやくにどこに……」
「鶏小屋の当番なの、いってくる」
「日がのぼってからでも私が」
ベッドで身じろぐゾラに毛布をかけ直す。
「寝てて、いってくるから!」
ベッドのなかで呻くゾラに背を向け、クラーラは家を飛び出していった。
夏が終わり、秋に移っていこうとしているのがわかる。
外気は冷たく、おもてに飛び出した瞬間に厚い上着がないことを悔やむほどだ。足を動かすうちに身体が温まるものの、ジャーキ村近隣は寒さの厳しい一帯である。いまの薄い上着ではしのぐのは大変だ。クラーラのものを調達するより先に、ものを欲しがらないゾラになにか防寒具を手に入れたかった。
黒い輪郭で鶏小屋が視界に現れ、クラーラの歩みははやくなる。
鶏小屋の管理人は、村の家々が交代で務める。
難民が流れこんだ五年前に、鶏を一箇所にまとめた。村の財産である鶏小屋の掃除を、それからは管理人の指示のもと、子供たちが交代でおこなうようになっている。
今日はべつの子が当番の日だったが、クラーラとダミアンが交代した──年頃の少年少女たちは結託し、当番の順序を入れ替えている。掃除の時間を一緒に過ごしたい相手と過ごせるようにしているのだ。
わずかに手に入った紙片に、ダミアンが手紙を書いてくれた。掃除にクラーラを誘ってくれたのだ。クラーラももちろん了承し、楽しみだという手紙を渡していた。
「おはよう、クララ」
ふたり一組で朝におこなう掃除は、もっと遅い時間からはじめてもよかった。鶏が鳴いて朝を知らせ、そこでベッドから出る。それからでかまわないのだが、クラーラたちはもっとはやくから落ち合う約束をしていた。
「おはよう、ダミアン」
囁き合うような挨拶を交わす。クラーラは少年──ダミアンの言葉をひとつも聞き漏らしたくなかった。
ジャーキ村にやってきたころ、日を置かずおなじ難民として現れたダミアンはほとんど口をきかない少年だった。
話すようになるのに三月ほどかかり、彼は声変わりをしたばかりの自分の声が好きじゃない、と理由を語っていた──さらにその声が生きわかれの父に似ていて、と漏らすようになるのには、さらに半年の時間を要した。
駆け寄ったクラーラは、ダミアンの近くで足を止めた。
「クララ、掃除の前にちょっといこうよ」
どこに、と尋ねず、クラーラはダミアンのとなりで足を動かす。
彼は鶏小屋を離れ、緩やかな上り坂になっている道を進んでいった。
その先は見通しのいい高台になっている。ただ落ちれば一溜まりもない高さで、はじめてそこから眼下をのぞきこんだときに足がすくんだ経験から、クラーラは近づかなくなった場所だった。
ダミアンと肩を並べ、クラーラは山々に視線を投げかける。
連なる山の稜線が、朝の光を受けうっすらと白く色づいていた。
もっと中天へと太陽がのぼれば、あたりの眺めは格別なものだろう。天気がよく、渡る風も清々しければ、高さへの恐怖もやがて薄れるかもしれない。
肩に流れる自分の黒い髪を見下ろし、クラーラは目線を山へと戻した。
難民として国内を流れて暮らすなか、クラーラが好きになれなかったことがある──自分の金の髪を黒く染めなければならなかったことだ。
追っ手を意識したゾラに勧められ、黒く染めた。
城を出たころには、一度髪をばっさりと落としている。腰まであったあの髪はどこにいったのだろう。クラーラはその行方を知らない。ジャーキ村で暮らすなか、長かったあの髪を売ったらどのくらいの値がついたか、それを考えることがあった。
傷みもなく艶やかだった髪だ。
黒く染め続けたクラーラのいまの髪は傷んでいる。
眉やまつげを染めるのは難しく、クラーラはいまも眉を剃りまつげは抜いていた。
難民団に入るときも、ジャーキ村にたどり着いたときも、眉もまつげもないクラーラの顔に不思議そうな目を向けるものはたくさんいた。
──女の子に見えないほうが、都合のいいこともありそうだから。私だけだと、孫を守りきれるか不安で。
そう説明するゾラの疲労がにじんだ声に、誰もが納得してうなずいていた。
難民として国を移動する生活のなか、鏡をのぞくことはほとんどなかった。
ジャーキ村にきてやっと、映りのあまりよくない鏡をのぞくことができ、クラーラは自分の見た目に驚いた。それは知らない誰かのようだった。以前とは印象からして違い、髪を染めてからの自分のほうが、なんだか賢そうに映っていた。
──私の髪、もしダミアンとおなじ金色だったらどうだったかな。
染めた髪で彼の前に立つのが、嘘をついているように思えて尋ねたことがあった。
彼の答えは明瞭だった。
──金色も似合うと思うけど、いまのクララも……僕は素敵だと思うよ。
黒く染めることは好きではなかったが、ダミアンが素敵だといってくれるなら、と気持ちを和らげることができた。
緩やかにだが朝日がのぼっていくと、ぐっとあたりが暖かくなる。
ふたりきりの時間は、言葉がなくともクラーラを満ち足りた気分にしてくれる。
彼も自分を好いてくれていると、そんな自信がクラーラにはあった。
その証拠に、彼はとなりに立ったクラーラに肩を寄り添わせてきている。
ときどき手の甲や指先がふれ合っていて、肌に伝わる彼の体温に胸のなかがくすぐったくなっていた。
ふれてくる彼の手首には、羊毛をほそく編んだブレスレットがはめられている。クラーラが贈ったものだ。そこに自分が編んだブレスレットを認めるたびに、胸の奥に甘いものが広がっていく。
きっと、もう少ししたら──彼と手をつなぐのではないか。
村に暮らすおとなの恋人がそうしていたように、抱きしめ合ったり、ひたいとひたいを寄せて微笑んだり──くちづけたり。
クラーラはその日が待ち遠しくてしかたなかった。
指を絡め、ひたいや頬を寄り添わせ──その先、どうなるのだろう。
それがなんであれ、ダミアンとならなにも怖くない。
「ほら、クララ」
穏やかな声に導かれ、クラーラは目線を遠くにやった。
温かい光に稜線はその深い緑を輝かせていた。朝日がのぼっていくのはゆったりとした速度であり、見守るふたりの指はずっとふれ合ったままだった。
「きれい」
「……だろ?」
「ここがきれいな場所だって、全然知らなかった」
「……ジャーキに着くまで、もっと高地にいたんだ。ここに下ってくるまでに、朝日をよく見てて……」
暗さのにじんだ声に、クラーラは彼へ絡めた指に力をこめた。
もう話さなくていい──国を逃げ惑う暮らしにみんな身を浸していた。
朝日を見ていたなら、その日々のなかダミアンが野宿を続けたことがあったのだと察することができる。
彼は伏せがちな母とふたりで暮らしている。大変なことも多かっただろう。何度か挨拶をしたなかでも、彼の母が元々は陽気なひとなのだろうとわかる。
「あのときにお世話になったひとたちに、お礼もいえてないままだな」
──そんな話をしなくていい。
ダミアンが楽しくない話なら、彼は話さなくていいのだ。
「ねえ、私の名前だけど……クララじゃなくてクラーラよ」
話題を変えたくて、クラーラは口を開く。
「いつになったら、ちゃんと私の名前を呼んでくれるの?」
もうクラーラはクリスチナに戻る日はこないのだと、そう腹をくくっていた。
このままジャーキに留まるか、べつの場所に移って暮らす。王都に近づくことは考えていなかったし、戦火にまつわる情報はジャーキ村までなにも届いていなかった。
これから新たな暮らしをつくっていかなければならない。みんな家や家族を失っている。つらい過去を振り返るだけでなく、すべてを一からつくり上げるのに一生懸命だ。
自分はどんなものをつくり上げるのか。
先のことを考えると、いつも息苦しくなる。漠然とした不安ばかりで、なにも明確なものがないのだから。
「ほかのひとがクラーラって呼んでるから……僕だけは違う呼び方がしたくて」
意味をはかりかねて、クラーラは彼の目を見つめた。
「ほかの……やつには」
あたりは明るい。
朝になり、村のなかでも起き出すひとがいるだろう。掃除に戻らなくてはならない時間だ。好きな相手と寄り添って立ち、胸を温める時間は終わりになる。
「クララとあんまり気易くしてほしくないし……クララには僕の──伴侶になってほしいって思ってる」
信じられない言葉だった。
クラーラは我が耳を疑い、となりに立つダミアンを振り仰いだ。
明るい日差しを受けた彼は、いつもとおなじ整った顔をしている。しかしいつもより瞳を潤ませ、頬を紅潮させていた。これほど魅力的な顔を、クラーラはほかに知らない。
「ダミアン」
「クララに、伝えておかなくちゃって思ってたんだ」
彼の指がクラーラの指に絡みついてくる。強い力で手を引かれ、ダミアンの胸に抱き留められた。
クラーラは息ができなくなっていた。
漠然としていると考えていた未来のなか、クラーラは確かなものにふれていた。
──未来に、ダミアンがいてくれる。
目を上げると、彼の顔が近づいてきた。
はじめてのことでも、そうなのだとわかった。
ダミアンはくちづけようとしている。
クラーラは目を閉じていた。ほんとうはくちびるを重ねるときに、彼が目を閉じるのかどうかを見たかった。彼のまぶたやまつげや瞳の虹彩を間近にしたい。
それでもクラーラはとっさに目を閉じ、ダミアンにくちびるを捧げていた。
ふれ合った彼のくちびるはやわらかく、クラーラは羽根で体中を撫でられたような感覚に襲われていく。
抱きすくめられるなか、クラーラは喜びの波が胸を洗うのを感じた。
くちびるがふれ合っているだけなのに、クラーラの瞳は涙が溢れそうになっている。
彼の腰に手をまわすと、くちびるが離れていく。気に障っただろうか、気にかかったクラーラの鼻先で、ダミアンは満開の花のような艶やかな笑みを浮かべた。
その表情を目に焼きつけたいと思ったのに、クラーラの身体は勝手に動いて彼の首に腕をまわしていた。
自分から抱きつくなんてはしたないことなのに、クラーラはまわした腕の力を強くしていた。
おとなの恋人たちが、人目を避け逢瀬を重ねるわけがよくわかった。
もっともっとダミアンとそうしていたい。たくさんのくちづけを交わしたい。
「クララは」
上擦ったダミアンの声に我に返り、クラーラは腕を解いた。
「ダミアン、私……」
はしゃいでしまったクラーラをとがめるような色は、ダミアンの美しい瞳のどこにもなかった。
「クララに抱きしめられるだけで、なんていうか……すごくしあわせな気分になるんだ」
熱っぽい吐息に、クラーラの耳だけでなく胸の奥までくすぐられるようだった。
「……私も、すごくしあわせ」
かろうじて、そう答えるのがやっとだった。
しあわせな上に──心地よいのだ。
もっと彼との抱擁を味わっていたかったが、朝日がのぼり鶏たちの鳴き声があたりに響き渡って、そうもいっていられなくなった。
ダミアンの腕が離れていく。
どうやったらその腕を引き留められるか考えたが、そのための時間はあまりにも短かった。
名案は浮かばず、クラーラの指は空をつかんでいた。ダミアンの目がそれに気がついていて、顔が熱くなっていく。はしたないと思われてしまうのが怖い。
抱きしめていた身体を解放したばかりのダミアンの手のひらが、今度はクラーラの手指をすっぽりと包みこんでくる。
温かい手のひらの感触に、クラーラはうっとりしそうになっていた。
「私はどうしたらいいのかな」
口からそんな言葉がこぼれ落ちていた。
ダミアンの指をにぎり返し、クラーラは自分がまだ眠っているのかもしれない、と考えていた。夜明け前の暗い部屋にいて、毛布のなかで身を縮めているところかもしれない。これは全部夢なのかも──ダミアンに抱きしめられ、くちづけを贈られ、将来を輝かしく感じるなんて。
朝の日差しを受け見つめてくるダミアンは、目を細めた。にぎったままのクラーラの手を自分の口元まで引き上げ、指にくちびるを寄せてくる。
「クララと僕がこれからどうしていくかは、一緒に考えていけばいいよ。たくさん……話すことがあるんだ」
クラーラはうなずいた。
いつかダミアンに、クラーラの出自のことを話す日がくるのだろうか。王都に残った父や兄のことを、城を出て別れた母のことを。
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