【試し読み】偽装の恋人~年下ドクターに甘く癒されて~

作家:未華空央
イラスト:梓月ちとせ
レーベル:夢中文庫セレナイト
発売日:2020/6/19
販売価格:400円
あらすじ

婚約者に振られた夜、バーでひとり眠ってしまった紬。翌朝、目を覚ますとそこはホテルの一室だった。誰かと一夜を共にしてしまったことに気付いた紬は慌てて部屋を出ようとするが、そこに現れたのは10年以上会うことのなかった年下の幼なじみ、玲。昨夜の出来事を玲に目撃されていたと知り、逃げるようにその場を去った紬だったが、二人は職場の病院で再会。そして――紬は振られて傷ついた心を癒すため、玲は舞い込む見合い話を断るために、二人は恋人のフリをすることになり……「俺が、別れた男のこと、忘れさせてあげるよ」――玲からの甘い言葉に、突然のキス。偽物の恋人としての行動だと知っていても、紬の胸は高鳴ってしまい……?

登場人物
五十嵐紬(いがらしつむぎ)
婚約が破談になりバーで酔い潰れているところを、年下の幼なじみ・玲に介抱される。
門脇玲(かどわきれい)
紬よりふたつ年下の幼なじみで、現在は医師。傷心中の紬に恋人のフリを頼む。
試し読み

一、婚約破棄と衝撃の朝

「え……?」
 耳を疑うというのは、今の自分のような状態を言うのだろうか。
 他人事のようにそんなことを考えながら、私──五十嵐いがらしつむぎは彼の横顔を凝視した。
 彼──幸太郎こうたろうは、こちらに顔を向けることもなく、カウンターの向こうに美しくディスプレイされたリキュール瓶をじっと見つめている。
「え、幸太郎……どういうこと? なんかの冗談だよね?」
 落ち着こう。そう自分に言い聞かせると、自然と変な笑いが込み上げてきてしまう。
「もう、急に変なこと言わないでよ。そういう冗談は──」
「冗談なんかじゃない」
 笑って流してしまおうとした私の声は、冷えた声に遮られる。
 さぁっと背筋が寒くなるのを感じた。
「婚約は……なかったことにしてほしい」
 周囲の音が全て消え、幸太郎のその言葉だけが頭の中を占領する。
 訴えるような眼差しでじっとその横顔を見つめているのに、幸太郎は私のほうを見ようともしない。
「なかったことに、って……」
 衝撃的すぎて、何をどう言葉として発すればいいのかすらわからなくなる。
 何か言わなくてはいけない。ちゃんと聞かなくてはならない。
 そんな焦燥感に襲われるばかりで、頭の中で何一つ整理がつかない。
「だって、ご両親に挨拶に行く約束もしてるし。うちの親にだって近いうちに会うって──」
「とにかく、無理なんだ。今までのことは白紙に、戻してくれ」
 白紙に、戻す……?
 呆然としているうち、幸太郎はスツールを立ち上がる。
 掛けていたスーツのジャケットを手に取ると、あまりにも簡単に「元気で」とその場から立ち去っていった。
 彼の飲んでいたグラスの一点を見つめたまま、瞬きすら忘れてピクリとも動けなくなってしまう。
 これって私……振られたの……?
 別れようから始まり、婚約はなかったことにしてほしいとはっきり言われた。
 そして、全て白紙に、とも……。とどめに『元気で』と彼は立ち去っていった。
「うそ……」
 ひとりきりになってぽつりと出てきた呟きと同時、いつの間にか溜まっていた涙がぽろりと一粒流れ落ちる。
 カウンターテーブルに置いた手の甲を次々と濡らしていき、否定するように目元を拭った。
【大事な話がある。今晩、時間取れる?】
 仕事後に見たスマートフォンに入っていた、約束を取り付けるメッセージ。
 なんの疑いもなく、今後のふたりのことを話すための呼び出しだと思っていた。
 もちろん、こんな話じゃない。
 ふたりの幸せな未来の話だとばかり……。
 幸太郎とは、付き合ってもうすぐ二年。
 私が三十歳になる誕生日に交際がスタートした。
 きっかけは、前の職場の友人に誘われて参加した飲み会の席。
 出会いを目的とした合コンは昔から苦手なため断っていたけれど、ただの飲み会だからと言われて参加を求められた。
 でも、後になって振り返れば、あの飲み会は合コンとなんら変わりのない席だった。
 そこで知り合ったのが、二歳年下で広告代理店で働いているという幸太郎だった。
『こういう席、あんまり得意じゃなくて……』
 居心地の悪さを感じていた私に、幸太郎は親近感を覚える愚痴を漏らしてくれた。
『私も、です……』
 そう言った私に、幸太郎は『じゃあ、同じですね』と和む笑みで微笑みかけてくれたことは、今でもよく覚えている。
 意気投合した私たちは、その日のうちに連絡先を交換した。
 それから一週間もしないうち、幸太郎からメッセージが入ってきた。
【よかったら、食事にでも行きませんか?】
 メッセージを見た瞬間、素直に嬉しい気持ちが一番だった。
 ドキドキもしたし、そんな誘いがくることに舞い上がってしまった。
 それから何度か食事に出かけ、私が三十歳の誕生日を迎えた日──。
『結婚を前提に、お付き合いしてもらえませんか』
 幸太郎は誕生日プレゼントまで用意して私に交際を申し込んでくれた。
 そんな風に始まったふたりの関係は、大きな波風もなく順調だった。
 二年近く交際しながら、二か月ほど前から結婚の話が具体的に進み始め、そろそろお互いの両親に挨拶をしようという段階にまできていたところだった。
 このまま、きっと幸せな結婚というゴールインを迎えられる……そう、思っていたのに、それなのに……。
「……っ、うぅっ、っ……」
 ぽろぽろと出てきてしまう涙は手で拭うだけでは追い付かなくなってしまい、慌てて脇に置いたバッグからタオルハンカチを引っ張り出す。
 カウンターテーブルの上に顔を伏せ、私はしばらく出続ける涙を押さえていた。
 泣いたせいで頭はぼんやりとし、気付けば枯れるように涙も止まった頃、まだほとんど口にしていなかったカクテルを一気に喉に流し込んだ。
 どうして、こんなことになっちゃったんだろ……。
 一方的に終わりにしようと告げられて、理由も何も聞くことができなかった。
 せめて理由ぐらい話してほしかった。
 そう思い始めると、バッグの中からスマートフォンを取り出す。
 幸太郎の番号を画面に出し、躊躇なくタップした。
 しかし、数回呼び出しコールが鳴るとそのまま留守番電話の無機質なアナウンスが聞こえてくる。
「すみません、同じのを」
 まだ席を立つ気力が出ず、ちょうど近くにやって来たバーテンダーの男性に追加のオーダーをした。
 なんだかんだ二年も付き合ったのに、終わりはずいぶんと呆気ない。
 こうやって突然別れが訪れてしまうことは、普通のことなの……?
 男性とお付き合いするという経験がそれまでなかった私には、その比較の対象になることがない。
 だから、終わり方だってよくわからない……。
 頼んだカクテルが静かに置かれ、すぐに手に取る。
 まるでジョッキのビールでも呷るように一気に喉に流し込んだ。
 甘さでむせそうになるのを押し込めると、代わりにまた目に涙が浮かぶ。
 カウンターに両腕をついて突っ伏し、空になったグラスに映り込む照明のキラキラした光を見ていた。

 足先がひやりとした感覚に、徐々に意識が戻ってくる。
 瞑っていた目を薄っすらと開けると、目前に白いシーツらしきものが映り込んだ。
「ん……」
 白い天井、そこに埋め込まれたオレンジ色のダウン照明。
 見慣れない天井に徐々に意識が取り戻されていく。
 え……ここって……。
 飛び起きるようにして体を起こした私の目に飛び込んできたのは、自分の住まいではなく、全く見覚えのない場所だった。
 広いベッド、落ち着いたインテリアのシンプルな部屋……その場所が、ホテルの一室だということは寝起きの頭でもすぐに判断がついた。
 ちょっと待ってよ……ひとりになってバーで飲んでて、それで、それで……?
 今さっきまで、バーのカウンターで突っ伏していたはず。
 それなのに、ここは一体……?
 はっきりしてきた意識の中、キョロキョロと周囲を見回す。
 ベッドのそばに置かれているソファの背もたれに自分のものではない衣服が掛けられていて、目が釘付けになった。
 それは、ダークグレーのスーツのジャケット。その横には、シャツとレジメンタルストライプのネクタイが引っ掛けられている。
 うそ、ちょっと待って。私、誰かと一緒にこの部屋に?
 寝起きとは思えない機敏な動きでベッドを飛び出すと、眼下の自分の姿は昨日の服装のまま。
 ベージュカラーのボウタイ襟のブラウスに、ホワイトのテーパードパンツを身に着けていた。
 明らかに間違いを犯してしまった格好とかではなかったことにホッと安堵したのもつかの間、何やらシャワーのような水の流れる音が聞こえてくる。
 動きを止め、耳を澄ませてみるとやっぱりシャワーを使っている音で、途端にどうしようかと狼狽し始めてしまった。
「うそでしょ、ちょっと待ってよ」
 慌てると、どう動いたらいいのかわからなくなる。
 部屋の真ん中に立ち、一周ぐるりと見回して私物を探す。
 まず、ベッドサイドの台に置かれていた腕時計を手にし、次にソファの上のバッグを掴み取る。
 ブラウスの上に羽織っていたトレンチコートが見当たらず、うろうろと部屋中を歩き回り、見つけたクローゼットのドアに指を掛けた時だった。
 カチャっと後方からドアの開く音が聞こえ、ぴたりと動きが止められた。
「あれ、やっとお目覚め?」
 かけられた声にびくりと肩が震える。
 できることならば、このまま顔を合わせずに立ち去りたかった。
 気付かれないうちに、そっといなくなってしまいたかったのに……。
 そんなことを思っても時すでに遅し。
 鼓動が高鳴り出す中、意を決して背後を振り返る。
 一体、自分はどこの誰とこんなところに来てしまったのか……。
 それを目の当たりにするのは恐ろしいと思いながら、目にした相手の顔に一瞬時が止まったような感覚に陥った。
「えっ……」
 洗いざらしの髪をかき上げる長身の男性。
 微笑を浮かべる端正な顔には見覚えがある。
「久しぶり、つむちゃん」
 そう言われて、眠っていた記憶が蘇るようだった。
「っ……あ、あ……」
「何、そんな幽霊でも見たような顔して」
 驚き固まる私の横を素通りしていった彼は、肩に掛けていた白いタオルをソファに放り、代わりに置いてあるシャツを手に取る。
 あっという間にボタンを掛けネクタイを首に回すと、再び振り返り私の顔を見つめた。
れい、くん……なの?」
 半信半疑。
 その名を口にしたのはいつぶりのことだろうと思い返す。
 でも、なぜ!? なんで玲くんがこんなところに?
 というか、どうして玲くんと一緒にいるの!?
「良かった。ちゃんと俺のこと、覚えててくれたんだ?」
「そ、それは……」
 門脇かどわき玲──私はずっと、彼を玲くんと呼んできた。
 でもそれも、もう十年以上も前のこと。
 会わなくなって、かなりの年月が過ぎ去っていた。
 玲くんと私は、俗に言う幼なじみという関係だと思う。
 お互いの実家が斜め前と近所で、母親同士の仲がよかったのだ。
 そのため、お互い幼い頃から母たちの約束に一緒に連れ出され、私にとって玲くんは一番の遊び相手だった。
 私よりふたつ年下の玲くんも、まるで実の姉かのように懐いてくれていて、その関係は小学生になっても変わらなかった。
 しかし、私が先に中学へと進級し、登校する学校が変わってしまうと、玲くんと一緒にいることは徐々に少なくなっていった。
 私が中学三年になる年に玲くんが同じ中学に入学してきたけれど、お互いに年頃ということと、私は受験の年ということもあり、昔のように一緒に過ごすことはめっきりなくなった。
 それからはどんどん疎遠になり、私は高校へ進学。その二年後に玲くんも高校生になったけれど、お互いに学校は違うところだった。
 その後、私は短大生に。そのまま就職をし、実家を出て独り暮らしを始めた。
 ちょうどその頃、玲くんも大学進学と共に実家を出ていき、私たちは完全にそれっきりに。
 長期休みに実家に帰ると、母親がたまに玲くんの話を思い出したかのように始め、医学部に進学したことだけ耳に入っていた。
「もう十年以上も経つから、俺のことなんてすっかり忘れてると思ってた」
「そ、そんなこと言ったら、玲くんのほうこそ。私のことなんて、よく覚えて……」
 そう言い返すと、玲くんはフッと口元を緩める。
 不敵な笑みを見せられ、不覚にもどきんと心臓が音を立てた。
「忘れるわけないでしょ。つむちゃんは俺の憧れの、綺麗なお姉さんだったんだから」
「へっ……?」
「面影は残して、更に綺麗になったね」
 さらりと出てきた言葉の数々に鼓動の高鳴りが増していく。
 玲くんはネクタイをきっちりと締めると、立ち尽くす私の目の前へと距離を詰めた。
「何言って……」
 近づく玲くんを目に、しまわれていた記憶が蘇ってくる。
 玲くんの言う通り、最後に姿を見たのはもう十年以上も前のこと。
 だけど今再会をして、その期間が嘘のように感じられる。
 幼い頃は小さく、女の子のように可愛らしかった玲くん。
 それが成長と共に抜け、背も見上げるほどに伸び、端整な顔立ちの男の子へと変貌を遂げていった。
 中学生の時は、ふたつ上の私の学年の女子も玲くんを『かっこいい』と話題に出すのを耳にしたし、高校生になった頃には彼の家に女の子が押しかけてきているのを何度か目撃したこともある。
 年齢と共に疎遠になっていった私たちの関係。
 そんな中で残る最後の玲くんの記憶は、確か彼が高校三年の頃。
 今、目の前にいる玲くんは、その頃の面影を残したまま、すっかり大人の男性になっている。加えて、こっちが緊張を強いられるような魅力を発しているのだ。
 ……と、いうか!
「そっ、それより! これはどういうこと!?」
「ん? これって?」
「だから、どうして玲くんと私が、こんなとこに……」
 再会の衝撃ですっかり自分の置かれている状況を無視していたけれど、思い出したように玲くんを問い詰める。
 だって昨日は、幸太郎に呼び出されたバーで別れ話になって、それで最後はひとりで飲んでて……それで、それで……。
 カウンターに突っ伏して見ていた、キラキラしたグラスの輝き。
 でも、そこから先の記憶が抜け落ちたように見つからない。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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