【試し読み】蜜愛御曹司が旦那さま~溺れるほどの愛をあげる~【SS付】
あらすじ
本当はもっとちゃんと触れてほしい……絶対に実らない恋なのに。どうしようもない想いが溢れそう──両親を相次いで亡くした花は16歳のころから三峰グループの御曹司・翔馬の妻となった。しかしそれは彼女を狙う卑劣な輩から守るためであり、一緒には暮らすけれど寝室は別、夫婦として触れられることもない、いわゆる偽装結婚。6年経った今でもそれは守られ、変わらず彼は優しかった。きっといつか翔馬は誰かと本当の結婚をする…彼の邪魔にならないようにしなければと悩み続けるなか、なぜ翔馬が自分を妻にしたのか、その理由を聞いてしまった花──切なくジレったいふたり。花の秘めた想いは翔馬に届くのか?【SS付】
登場人物
両親を亡くし16歳で翔馬の妻になる。本当の想いを伝えられずに偽装結婚生活を送る。
三峰グループの御曹司。誠実で優しく、花を守るために結婚。少々過保護すぎる一面も。
試し読み
御曹司さまは過保護な旦那さま
とろ火にしたガスコンロにかけられたお味噌汁の鍋から、温かな湯気が立ち上がっている。
グリルの中では昨日おとりよせ便で届いたばかりのカレイの干物が程よく焼き上がり、どこか懐かしい香ばしい香りがキッチンを満たしていた。
九谷焼の角皿に手早く料理を盛り付け、マホガニーのダイニングテーブルにふたり分の朝食をセットする。藍染のランチョンマットの上に一汁三菜が並べられると、私の口からふっと息が漏れた。
カレイは焼き加減が命、といつも楽しそうに台所に立っていた今は亡き母の言葉がふと脳裏を過ぎる。日本海にある小さな漁師町出身の母は、贅沢のできない家計をやりくりして、いつもささやかながら父の好む料理で食卓を彩っていた。
絵を描くこと以外まるで何もできず、いつもただひた向きに筆を握っていた父が、穏やかな笑顔をみせてくれたあの優しいひととき。
今の私にとっては、もう全て失われてしまったかけがえのない時間だ。
「これでよし、と。……美味しく焼けたかな」
感傷的な気分を打ち消し、私は上質な綿のテーブルクロスの皺を伸ばす。
これが今私が暮らす家の、いつもの朝の風景だ。
壁にかけられたアンティークの柱時計は午前六時を示している。もうそろそろ、彼が起きてくる時間だ。
そう想いを巡らせたタイミングで、ダイニングの扉が開けられた。
今日も彼は、とても時間に正確だ。
「おはよう。……食欲をそそられる匂いだね。今日の朝ごはんは何かな」
「おはようございます。あの、昨日届いた干物を焼いてみたんですけど……」
「ふぅん。……カレイか。大好物だ。毎朝食卓を見るのがこんなに楽しみだなんて、僕は本当に幸せだな」
テーブルにつくと、彼は優雅な仕草で「いただきます」と手を合わせて食事を始める。そして向かい合わせに座る私に時々「おいしいね」とアイコンタクトを伝えながら、とても美味しそうにお皿に載せられたものを平らげていく。
彼、三峰翔馬さんは今年三十三歳。日本有数の財閥系企業、三峰グループの御曹司で将来的にグループを束ねる立場にある彼は、現在は系列のシンクタンクで代表を務めている。
私は仕事をしている翔馬さんを見たことはないけれど、時折ここへ資料などを届けにくる秘書の佐伯さんとの隙のないやり取りから、彼が時として冷徹なほどの冷静さで仕事に臨んでいることは見て取れる。
でも、ここで私と過ごしている翔馬さんはまるで娘を甘やかす父親のよう。きっと私のことをまだ小さな子供のように思っているのだろう。それが嬉しくもあり、また最近の悩みの種でもある。
私、三峰花は現在二十二歳。少し前までは大学生だったけれど、この春無事に大学を卒業したばかり。だから今は、いわゆる〝専業主婦〟という立場だ。
そして形式上、父を亡くした十六歳のころから私は三峰グループの御曹司、翔馬さんの妻ということになっている。
……そのことについては、色々な事情があるのだけれど。
それでも、翔馬さんとの生活は穏やかで、まるで陽だまりの中にいるような毎日だ。
翔馬さんは仕事で帰りが遅くなることもあるけれど、それ以外の日は家で夕食を摂ることが多い。いつも何でも「美味しい」と食べてくれるから、お料理する身としては本当に嬉しい。
小学校高学年の頃に母が病で帰らぬ人となり、父とふたりの生活になった。
それ以来、家のことなど何もできない父に代わって私が食事の支度をしていたから、料理は得意な方だ。
それに六年前父が亡くなるまで家事全般をこなしていたから、今こうして彼の身の周りの世話をすることも苦にならない。母を失った子供の頃は大変だったけれど、その苦労が今に活かされていると思うと、何となく感慨深い。
やがて食事を終え食後のコーヒーを飲み干した翔馬さんが、ちらりと腕時計に視線を落として立ち上がった。
そして台所で食器を片づけている私に歩み寄ると、優しく微笑みながらそっと身を屈めて身体を寄せる。ずいぶんと上背があるので、決して小柄ではない私でも彼を見上げる格好になってしまう。
視界全体を彼で塞がれて、常識的なパーソナルスペースを超えた密着した状態に、もう毎朝のことなのに自然に鼓動が速くなる。
うろたえながら距離をとろうとする私に、色素の薄い優しげな瞳が少し咎めるよう細められた。
「今日もうまくできなかったんだ。花、ネクタイを結ぶのを手伝って」
どこか甘さを含んだ言葉が彼の口からこぼれ、喉仏が覗く男らしい首筋がぐっと寄せられる。
知的な額には色素の薄い癖のある髪がかかり、実際の年齢より彼をずっと若く見せている。
すっと通った鼻筋と、口角が上がった薄い唇。端正でいて男性的な逞しさを感じさせる彼の顔立ちは、女性なら誰もが惑わされてしまうほど魅力的だ。
それに、ほのかに香ってくるシトラス系の香りと糊のきいた白いシャツが、今朝は一段と彼の放つ色香を際立たせている。
男の人の色気なんて分からないはずの私ですら自然と頬が熱くなるのだから、きっと相当すごい威力なんだと思う。
「ん……早くやってくれないと、会社に遅れてしまうよ」
緊張と動揺で何の反応もできずに固まる私を、彼が急かすように覗き込んだ。綺麗な二重が悪戯っぽく細められているから、きっとからかわれているのだと分かってはいるけれど、それでもなお鎮まらない心臓が恨めしい。
こうして翔馬さんのネクタイを結ぶのは、毎朝の儀式のようなものだ。
そしてこの儀式が始まったのには、ちょっとした理由がある。
ここへ来たばかりの頃、まだ十六歳だった私は大人の男の人とふたりで暮らすことにとても戸惑っていた。
それまで学校でも男の子と話すことなどほとんどなかった私には、あまりにも大きな環境の変化に、心がとてもついていけなかったのだと思う。
それに翔馬さんとは、かりそめとはいえ夫婦と言う関係だ。
当然最初の一か月ほどは翔馬さんと満足に会話することもできず、部屋の片隅で震えて過ごしていたことを覚えている。
翔馬さんもそんな私を持て余していたのかもしれない。ある朝、出社時間が迫っているのに何度やってもネクタイをうまく結べず、いつも穏やかな彼には珍しく苛だたしさを露わにしたことがあった。
そんな彼を見かねて、私は反射的に翔馬さんのネクタイに手を触れた。
今思えばよくそんな大胆なことができたなと思うけれど、絵を描くこと以外に不器用だった父のネクタイをいつも結んであげていたから、子供ながらに翔馬さんを放っておけない気分になったのだと思う。
最初はとても驚いていた翔馬さんも、手際よくネクタイを結ぶ十六歳の私を拒むことなく、静かに受け入れてくれた。
「ありがとう。助かったよ」
綺麗に結べたネクタイをそっとなでながら私を見つめた彼の瞳がとても優しくて、思わず涙が溢れた。
それまで押し込めていた色々な感情が、一気に溢れだしてしまったからだ。
「私、本当にここにいていいの?」
そう呟いた私の頭に大きな手を乗せ、翔馬さんが言った。
「僕が、きみにここにいて欲しいんだよ」
翔馬さんのネクタイを結ぶのは「ここにいてもいいんだ」と私に思わせてくれる儀式のひとつ。翔馬さんの優しさだ。
そう頭では分かっているのに、もう十六歳ではない私の呼吸は緊張で速くなる。
「花、早く」
囁くような甘い声。なおも逸らされない彼の視線から逃れるように、私はおずおずと薄いブルーのピンストライプのネクタイに手を伸ばす。
「翔馬さん、あの、もうちょっとかがんで下さらないと手が届きません」
彼の身長は百八十五センチはくだらない。私だって決して低い方ではないけれど、綺麗にネクタイを結ぶためには、もう少し近づかなくてはならない。
「……こう?」
翔馬さんの身体が更に私に近づいた。目の前に彼の首筋がせまり、肌からほのかな体温が伝わる。
忙しなく胸を打つ鼓動を自分ではどうしても止められない。指が震えないよう気持ちを奮い立たせ、何とか綺麗にネクタイを結び終えると、私は小さなため息をつきながら艶やかなシルクにそっと指を走らせた。
「……できました」
「花は本当にネクタイを結ぶのが上手なんだな。さすがは長年、お父さんのネクタイを結んでいただけのことはあるね」
そう呟いたあと、翔馬さんはふと何かに想いを巡らせるように目を伏せると、長い指で私の頬をそっと撫でた。
「ありがとう……さすがは僕の奥さんだね」
そう言って向けられる微笑みの甘さに、私は思わず目を逸らす。最近彼が時々みせる熱を孕んだ視線に、正直戸惑いが隠せない。
そう。まるで──私のことを本物の愛しい妻のように扱うから、心臓の鼓動がどきりと跳ねて、落ち着かない気分になってしまう。
「今日は少し遅くなるから、夕飯はいい。きみは今日は料理教室の日だったかな? 気を付けて行くんだよ。午後から雨が降るようだから、タクシーを使いなさい。いつもの運転手さんに来てもらって、レッスンが終わるまで待っていてもらうといい。それから、夜は僕のことは待たなくていいから先に寝てて。……花、聞いてる?」
出社の準備を終え、玄関で靴を履いた翔馬さんが心配そうに振り返った。ぼんやりしてしまっていたことに気づき、私は慌てて取り繕うように答える。
「ごめんなさい! お夕食は外でとられるんですね。分かりました」
「どうしたの? もしかして体調でも悪いのかな。それなら医者に……」
「違うんです。夕べ本を読んでいたら寝るのが遅くなって。だからちょっとぼんやりしちゃって……ごめんなさい」
心配げな翔馬さんの目を見てにっこり微笑むと、ようやく彼の表情に安堵の色が浮かぶ。
「それならこの後少し眠るといい。僕が出かけた後は戸締りをしっかりして。料理教室の後はショッピングもいいけど、あまり夜は遅くならないようにね。何か困ったことがあったら僕か、佐伯に連絡をしなさい」
「はい」
「いい子だ。……花、おいで」
翔馬さんの大きな手に肩を掴まれ、抗う暇もなく身体を引き寄せられる。
彼が私の頬に落とすままごとのようなキスもまた、毎朝の儀式のひとつだ。
それは見せかけの夫婦になった当初、毎日玄関先まで翔馬さんを迎えに来ていた秘書の佐伯さんに、私たちの秘密がばれないようにする形式的なものだったのだけれど、今ではそれも習慣のようになっている。
翔馬さんの冷たい唇が、いつものように優しく頬に触れた。
チュッと音をさせて頬をかすめる形ばかりのキスも、本当のことをいうと最近では心に鈍い痛みを与えるばかりだ。
翔馬さんは何も悪くないのに。ずっと甘えっぱなしなのは私なのに。
でも、本当はもっとちゃんと触れて欲しい。頬だけじゃなくて、もっと特別な場所に……。
脳裏に浮かぶ不埒な思いを、私は慌てて振り払う。
父が亡くなって窮地に追い込まれた自分をなんの見返りもなく助けてくれた翔馬さんへの感謝と、どれほど打ち消そうとしてもどんどん膨らんでしまう身のほど知らずな想いとの狭間で、最近の私は身動きが取れないでいる。
「じゃ、行ってくる」
私の葛藤を知るはずもなく、翔馬さんが淡泊に私から身体を離した。
「お仕事頑張って下さい」
一抹の寂しさを打ち消すよう手を振ると、見惚れるほど鮮やかな笑顔を残し、彼は出て行った。
※この続きは製品版でお楽しみください。