【試し読み】自堕落オトメに偽恋レッスン
あらすじ
七歳年上の直音は、奏にとって初恋の相手。自分に自信がない奏の恋愛はそれっきりだったが、入学した大学で准教授の直音と再会することに! 目を見張るほどかっこよくなり、女生徒にモテる直音に対し、奏は乙女系小説を執筆してサイトにアップするのが趣味の引きこもり系女子。再会に胸を高鳴らせるもののとても釣り合いそうにない。そんなある日、大学で仲良くなった同級生に小説のことを他の人にバラされ!? ますます陰にこもる奏は心配する直音につい胸の内を吐露してしまう。「私も可愛くなりたい!」そんな奏に直音は恋をする練習をしようと持ち掛ける。優しくリードしてくれる直音に、押し込めていた恋心が再び疼き出してしまい――?
登場人物
乙女系小説を執筆するのが趣味の引きこもり系女子。入学した大学で初恋相手の直音と再会する。
奏の入学した大学の分子生物学准教授。爽やか系イケメンで女子生徒にモテる。
試し読み
「天羽奏さん、入学おめでとう」
桜舞い散る立花第二学園大学のキャンパスで、ポンと肩に手を置かれ、驚いてふり返った。
そこに立っていたのは、見ず知らずの──けれど、とてもかっこいい男性で、二度驚く。
栗色のミディアムウルフヘアに、涼しげな黒い切れ長の瞳。スッと通った鼻すじに、薄めの口唇。右目の下にある小さな泣きぼくろがセクシーだ。
背も高い。一六〇センチのわたしより頭ひとつ分くらい大きいから、一八〇センチくらいだろうか。爽やかなサックスのシャツに薄茶のジャケットを羽織り、長い脚にぴたりと寄り添う白いボトムを身に着けている。彼は浅黒い手を伸ばして、にっこりとほほ笑んだ。
「はは、改まった呼び方だと変な感じだね。俺、今、分子生物学の准教授をやっているんだ。きみが薬学部に入学してくれて嬉しいよ。俺の講義も取ってくれよな」
「あなた、誰ですか? どうしてわたしの名前、知ってるんですか?」
わたしの発したひと言に、彼は目を見開いた。
「俺のこと覚えてない? 昔、一緒に──」
「だから知らないって言ってるじゃないですか。本当に准教授なんですか? だったらずいぶんチャラいんですね。わたしなんかより、もっと可愛い子をナンパすればいいでしょ。それじゃ」
これでもかというくらい一気にまくし立ててやる。かっこいいからってすべての女が思い通りになるなんて思わないでよね。
握手待ちと思われる、こちらに向けて差し出されたままの大きな手を無視し、わたしはくるりと背を向けた。
ふり返らずに正門へ向かって歩き始めると、「奏!」と鋭い声で呼び止められた。
ぐいと力強く右腕を引かれ、転びそうになる。
「きゃっ!」
なんなのよ、これだけきつく言ったのにまだ諦めないの?
しかもいきなり呼び捨てだなんて、失礼な人!
掴まれている腕を振りほどこうとしたが、男の力にはかなわない。払おうとしても払おうとしてもその手は放れず、むかむかと腹が立った。
「やめてくださいっ」
苛立ちをたっぷりこめて睨みつけると、そいつは大声で言い募った。
「待て! 俺だ、神威直音だ!」
「かむい……?」
なにごとかと周りの学生たちがこちらをチラチラと盗み見ている。
「かむい、なおと……」
あまりに懐かしく、甘酸っぱい響きに胸がきゅんとした。
子どもの頃、隣に住んでいた〈おにいちゃん〉。わたしの初恋の人。
七つ年上で、かっこよくて、優しくて、それから……。
わたしの、ファーストキスの相手だ。
キスといっても、唇と唇が触れるか触れないか程度の軽いものだった。
彼からしてみれば、親愛の情を示すスキンシップに過ぎなかったのかもしれない。けれど、わたしにとっては強烈な思い出だ。
「……」
つい、目の前に立つ人の口唇を凝視してしまう。
上側が少しだけ薄い、きれいな形。
この口唇がわたしの唇に触れたんだ。
意識した途端、どくん、どくん、と心臓が乱れ打ち、頬が熱く火照った。
かっこよくなりすぎだよ。こんなに素敵になってたんじゃ、ぱっと見てすぐにわかるわけないってば──。
「直音……おにいちゃん……」
「うん。久しぶり、奏。すごく可愛くなったな」
〈可愛くなった〉のひと言が、ちくちくと胸を刺した。
大学生にもなって化粧っけひとつなく、髪も染めず、女の子らしさのないショートボブを貫いているのは、ただ単に乾かすのが楽だから。
今日は入学式なので仕方なく黒のスーツを着ているけれど、普段の格好はコンプレックスだらけの体型をごまかすため、メンズのパーカーにハーフパンツだ。持ち物だってモノトーンが基本で、使いやすさを最優先して購入する。
そんな自分には〈女子力〉などというモノは存在しない。
愛想も悪い。右上の八重歯を見られるのが嫌いだから、人前で笑うこともほとんどない。
友達作りも苦手だし、もちろん彼氏なんて、これまで一度もできたことがない。
しょんぼりとうつむいたわたしを見て、怖がっていると誤解したのだろうか。彼は慌てて大きな手のひらをポンポンと頭にのせてきた。
「大きな声出して悪かった。そうだ、入学式が終わって疲れただろう? よかったら、喫茶店にでも行こう。苺のクレープ、好きだったよな。甘いものを食べてる時の奏、本当に可愛くて、見てる方まで幸せになれるっていうかさ──」
一所懸命な彼にそっとかぶりを振る。そして、苦労して口を笑みの形にした。
「昔の話でしょ。あはは……やだな、直音おにいちゃん。今のわたしが可愛いわけないじゃん」
心臓が握り潰される。
バカみたいだ。自分で自分の言葉に傷つくなんて、笑える。
「奏?」
「……っ」
まだ何か言いたそうな彼をふり切って、全力疾走でその場を後にした。
◆
息せき切ってマンションへたどり着き、スーツ一式を脱ぎ捨てる。真新しいクローゼットを開けると、全身鏡に下着姿の自分が映って、わたしは深いため息をついた。
むちむちした二の腕。さっき掴まれた時、太いなと思われたかな。
かろうじてお腹は出ていないけれど、くびれが乏しい子どもっぽいウエストライン。
そのくせ、必要以上に大きなバストがブラジャーのカップからこぼれ落ちそうになっているのが見苦しい。できるだけ胸を小さく見せたくて、きつい下着で押さえつけているのだ。
「ああ、もう、やだやだ」
一応、標準体重内にはおさまっているのだけれど、この胸のせいでどうしても太って見える。
「ぶさいく」
鏡の中の自分を睨みつける。
丸顔で鼻が低くて、目ばかり大きい童顔が睨んでいる。迫力の〈は〉の字もなかった。
しわがつかないように、スーツを慎重にハンガーにかけて、クローゼットを閉じた。
「んしょ、っと」
愛用のパーカーと黒いハーフパンツに着替える。
「これはもういいや」
二度と出番がなさそうなベージュのストッキングを丸めてゴミ箱へ放りこむと、少しだけ気分がスッキリした。
「あー、楽ちん。自堕落モード、サイコー」
冷蔵庫から今週出た新商品の炭酸飲料を取り出して、半分くらい一気に飲んだ。
レモンミントと炭酸の爽快な刺激が気持ちいい。
これ、好きな味。限定商品と書いてあるから、次にコンビニに寄った時、何本かリピート買いしよう。
閉め切ったままのカーテンを開けて空気の入れ替えをしていると、携帯が震えて着信を知らせた。叔母の名前が表示され、すぐに通話をフリックした。
「はい、奏です」
『奏ちゃん、お疲れさま。そろそろ入学式が終わったかなと思って』
「はい。ちょうど帰ってきたところです」
叔母の柔らかい声に答えながら、ちびちびと炭酸飲料を流しこむ。
『そう。もう少し時間をみて電話すればよかったわね。ねえ奏ちゃん、私たち、本当に行かなくてよかったの? お父さん、奏ちゃんの晴れ舞台に背広を新調するって言ってたのよ』
「保護者同伴の新入生はほとんどいなかったし、入学式も立ちっぱなしでしたよ。叔父さんの腰、また悪くなっちゃったら困るから──」
『こら。また〈叔父さん〉なんて言って』
ほんの少しだけ哀しそうな、けれど諦念の混じった声に、急いで謝る。
「……ごめんなさい、お母さん」
『今度、奏ちゃんの好きな切り干し大根の煮つけと、お米を送るからね。一人暮らしだからって、コンビニばかりじゃダメよ。大事な娘がひとりで寂しくないか、ちゃんと食べているか、私もお父さんも心配で心配で……』
「大丈夫。ちゃんとやってるから。心配しないで……お母さん」
『それじゃあまたね、身体に気をつけるのよ。入学おめでとう。また電話するからね──』
叔母の言葉に、はい、はい、と、丁寧に返事をして、あちらが通話を終えたのを確認してから電話を切った。緊張していたためか、携帯に手汗がべったりついている。
わたしは六歳の誕生日に交通事故で両親を亡くし、後見人の叔父夫婦に引き取られた。
善良で温かな叔父夫婦は、わたしを心から可愛がり、本当の娘か、それ以上に慈しんでくれた。二十歳の誕生日には、実の父母が遺したお金をすべてわたしへ戻してくれるという。
ありがたいと思っている。
叔父も叔母も大好きだ。
だが、心の隅でいつもいつも、優しい叔父夫婦に、何となく申し訳ない思いを抱き続けていた。
これほど優しくしてもらっていいのか。本当に自分はここにいていいのか。迷惑なのではないか──と。
大学進学を機に一人暮らしを始めた時、最初に抱いた気持ちは寂しさでも孤独感でもなく、開放感だった。
「さてと」
気持ちを切り替えて、読書でもしよう。
アイボリーの本棚に手を伸ばした時、乙女小説のヒーローのイラストが目に入り、再会したばかりの〈あの人〉を連想してしまう。
「直音おにいちゃん、すっごいかっこよかったな」
まさに、甘い恋愛小説に出てくる王子さまのようだった。
本棚から離れて座椅子に腰かける。
テーブルの上にあるノートパソコンを引き寄せて、電源を入れた。
ワイヤレスマウスをクリックし、文章を書くためのソフトを立ち上げる。
カタカタ、カタカタ……と、直音おにいちゃんの見た目や声のトーン、仕草などを、覚えている限り忠実に入力していった。「へへ」とだらしなく頬が緩む。
「やば、文章にしてもかっこいい……。このまんま、小説のキャラクターになりそうだし」
大学受験のためにしばらくやめていた、乙女小説の創作。
こうして文字を打ちこんでいるとつくづく実感する。やっぱりわたしは、お話を書くことが大好きだ。
カタカタと夢中になってキーボードを叩き続けた。どうせならヒロインの設定も作ってしまえと妄想を広げてゆくけれど、こちらはさっぱりまとまらない。
ふわふわで綿菓子みたいな可愛い女の子──違う。
明るく爽やかなスポーツ少女──これも違う。
「あー、どんな女の子がいいんだろ。わっかんないなぁ……」
そんな時は直感的に、指に任せて書き出してみるに限る。
「よし」
再びキーボードに向き合い、気の赴くまま打鍵してゆく。
ヒロインは──目立たない女の子。
他人と関わるのが苦手で口下手。
ヒーローのことが好きだけれど、素直に好意を示せない意地っ張り。
好きなことは読書、趣味はコンビニの新商品巡り。地味な外見にコンプレックスを持っていて、人気のあるヒーローと自分がつり合うはずがないと諦めている──。
「って、これ、そのまんま自分だし」
苦笑いしながらヒロイン像を削除しようとしたが、ふと思いとどまって手を止めた。
「別に……いっか。いいよね、お話の中くらい夢を見ても……」
残りの炭酸飲料をぐっと飲み干し、大まかなあらすじを組み立ててゆく。
腹をくくってしまうと、悩んでいたのがうそのように頭の中から情景やキャラクターたちのセリフが降りてきて、キーを打つ速度が上がっていった。
※この続きは製品版でお楽しみください。