【4話】高良さんに逆らえません!~過保護な俺様社長は甘すぎて危険。~
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――三十歳までこのままじゃまずいと思うよ。
由衣子と会った翌々日、週が明けていつも通り出社した明莉の耳には、その言葉がまだこびりついていた。ついつい、心にわだかまっているものを押し出すかのように息を吐く。ずっと見ないようにしていた現実を目の前に突きつけられたような気分だった。
全く反論ができなかった。由衣子の言う通りだと思ったからだ。仕事中までこの気持ちを引きずるのはまずいと思ったが、由衣子と別れてからも、ぐるぐるとずっと同じことを考えている。
分かっている。分かっているのだ。
未来のない恋をいつまでも引きずっている場合ではないということは。
明莉は現在二十八歳。あと少しで二十九歳。しかし、この年まで、まだ男の人とお付き合いというものをしたことがない。
つまり、明莉は処女だった。
由衣子が言っていたこのままじゃまずいというのは、このことを指している。三十まで処女はさすがにまずいということだ。
高校は女子校であったため、そもそも男性と縁がなかった。大学は共学ではあったがそれまで周りに男性がいない環境で過ごしていたため、いきなり周囲に男の人が存在し始め、どう接していいのか分かりかねてついつい構えてしまうところがあって、距離を取りがちだった。
それでもさすがにしばらくすれば慣れたが、及び腰というかつい一歩引いてしまうところはそのままで、そんな態度だから向こうからも敬遠されたのか、そこまで踏み込める相手もいないまま、時が過ぎてしまった。
そして、就職。ACTは男性社員の方が多い。同年代の男性ももちろんいる。社内恋愛は禁止されていないし、社員同士で付き合っている人たちもいると、ちらほら噂も聞く。
この年になればさすがに男性への接し方が分からない、なんて思うこともなくなった。周りを見て色々学んで、合コンに行ってみたり、デートみたいなことも少しは経験した。残念ながら付き合うところまで発展した男性はいなかったが作ろうと思えば彼氏ぐらい、できたかもしれない。
――だけど。
明莉はちらりと自分の斜め横方向へ視線を向けた。
ACTに社長室はない。そこには高良のデスクがあった。明莉は高良の秘書のような立場だから近い位置に席が配置されているのだ。だからその気になればすぐにその顔を視界に入れることができる。
肘をつき少々行儀の悪い体勢で高良はデスクトップパソコンの画面を見ていた。何かを考えている時によくしている少しだけ険しさを帯びた顔。元の顔立ちが整っているからかどんな表情をしていても大体は格好良く見える気がする。
はっきりした二重瞼の涼し気な目元。目尻が切れ込んでいるため、どことなく冷たさが感じられる時もあるが、笑うとその表情は存外優しくなる。すっとした鼻梁に程よい厚みの形の良い唇。耳周りをすっきりと短くカットされている髪は、今は前髪だけ少し伸びてきて、自然な感じで横に流されている。
誰が見たってイケメンだと思う。だけど明莉は別にその見た目だけを好きになった訳じゃないし、社長という肩書に惹かれた訳でもないと思っている。
けれど、自分じゃ高良と釣り合わないことは分かっている。
恋なんて知らない内に落ちていて、気付いた時にはもう手遅れだ。こんなに諦められなくなる前に、もっとどうにかできたんじゃないかとも思うのだが、実際は明莉には、ほとんど為す術なんてなかったようにも思う。
高良の下について四年。気付かない間に明莉は高良を好きになってしまっていた。そしてそのまま今に至るまで、ずっと片思いをしている。
最初に自覚したのはいつだったのか。もうはっきりとは覚えていない。高良のことはもちろん格好良いとは思っていたが、そのルックスに胸がときめくなんてことはあまりなかったように思う。それは、高良の専属アシスタントとしての仕事をこなすのにいっぱいいっぱいだったからだった。初めは、仕事以外のことに意識を向けられる余裕がそもそもなかった。
仕事に慣れてきてからもそれは同じだった。職場は仕事をする場なのだから、そもそも恋愛モードなんかにならない。高良だってもちろん、明莉に上司と部下、社長と従業員以上の態度なんて取ったりはしてこない。アシスタントなんて雑用係のようなところもあって、いつもいいように使われて、だから明莉にとっては、むしろやっかいな上司のはずだった。
それなのに。
その時、不意に高良の視線が明莉の方に向いた。
ばちんと目が合って明莉ははっと我に返る。肘をついている姿勢はそのままで高良は明莉をじっと見た。
「なに?」
短く聞かれたが、明莉はすぐには何も答えられなかった。
(……やっちゃった。うそ私、そんなに見てた?)
どうやらあまりに凝視しすぎて視線に気付かれてしまったらしい。何も思い浮かばず、どうしよう、何て答えようと思考を慌てて回転させ始める。
明莉のデスクの周囲は、人事や総務など、いわゆる管理部門の社員たちが机を並べているが、幸いと言っていいのか、珍しく丁度みな席を外していた。そのことに感謝しつつ、明莉は平静を装いつつもさりげなく高良から視線を外した。
「いえ……何も、ありませんが」
「いや、見てただろ、俺のこと。何か言いたそうな顔して」
「すみません。別に高良さんに用があった訳では……たまたま……かと」
気まずい思いを抱えながらも歯切れ悪く答える。すると高良が黙ったので明莉はどぎまぎしながら仕方なく視線を戻した。
高良は何やら明莉を見透かすような顔をしていた。そして、抑揚のない声で独り言のように呟いた。
「……ふーん、暇なんだ」
そこで顎をぐいっとしゃくった。
「わかった。じゃあさ、ちょっとコーヒー買ってきて。下のコンビニで。いつものやつ」
「え? いや暇な訳ではないです」
明莉はその言葉に驚いたように目を瞠った。何やら誤解されてしまったらしい。確かにちょっと物思いに耽ってしまっていたが、決して暇な訳ではない。やらなくてはいけないことはたくさんある。明莉は慌てて断った。
「どう見ても手止まってたけど。そういう言い訳いいから。はいこれお金」
こと明莉に対しては、一度言い出したら大体は撤回しない高良は取り付く島もなく、財布を取り出してデスクの横に千円札をばんと置く。それを見て明莉は困ったように眉を下げた。が、すぐにしぶしぶ立ち上がった。