【試し読み】恨みます!?憑りつかれた伯爵令嬢の恋の行方
あらすじ
伯爵令嬢のフィオリーナは、魔法を使って空間を歪め、隠れ住んでいたジャンに恋をするが、ジャンは身分の違いからフィオリーナを受け入れようとしない。ただ二人、傍にいて同じ時間を過ごすだけ。それでもフィオリーナは秘めた想いに苦しみながらも通い続ける。そんなある日、女遊びがひどいと有名な国王が視察にやってきてフィオリーナを見初めてしまう。国王命令には背けないと従うものの、嫉妬深い王妃の放った刺客に殺されかける。そこに現れたのは幽霊のベアトリーチェだ。命を救ってくれたのはいいが、彼女は男すべてに恨みを持っていて、フィオリーナの体を使って男達を誑かすと宣言。その最初の相手をジャンにすると言い出し――
登場人物
薬草を摘むために入った森で迷子になったところをジャンに助けられ、恋に落ちる。
森に隠れ住んでいた魔法使い。身分の違いを理由にしてフィオリーナを遠ざけるが…
試し読み
プロローグ
自分が迷っていることに気がついたのは、木々の間から差し込む太陽の光がオレンジ色に変わり始めた頃だった。
フィオリーナは周囲を見渡してため息をつく。
つい先ほどまでは、見知った景色の中を歩いていたと思ったのだけれど……
どの道を間違えたのか、背の高い野生の草花に囲まれた場所は、フィオリーナが足を踏み入れたことのないところのようだ。
（おばあ様と来ていたから、大丈夫だと思ったのに）
祖母と何度も来ていた薬草が自生する場所。慣れた道だと油断したのがいけなかったのかもしれない。
薬草の入った竹籠を、左手から右手に持ち替えて来た道を戻ろうと踵を返した。
おそらく、どこかで分かれ道があったのだろう。その分岐点まで戻れば、きっといつも通っている道に戻れる。
フィオリーナはそう考えて、自分の足跡を辿ろうとしたのだが……
（足跡がない……）
自分が歩いてきた痕跡が見つからない──フィオリーナはしゃがみ込んでじっと目を凝らした。
いくら草が生い茂っていても、今しがた通ったばかりの道が綺麗さっぱり元通りになるのはおかしい。
だが、いくら地面に顔を近づけても、フィオリーナが正しい道に戻るための手がかりは見つかりそうになかった。
（どうしよう）
薬草を摘むためにこの森に入ることは日常だったから、まさか今さら迷うなどとは思ってもみなかった。
フィオリーナは焦る気持ちを落ち着かせようと、立ち上がって深呼吸をする。
（まっすぐ歩いてきたはずだから……まっすぐ戻ろう）
見慣れた景色の場所まで戻れることができれば、帰り道はわかる。
フィオリーナは「大丈夫」と小さく呟き、一歩を踏み出した。
周りを注意深く観察しながら進んでいく。いつも歩いている場所とは雰囲気が違うような気がして、少し怖い。
不安な気持ちのせいか、木々が大きく見える。光を遮るように生い茂った葉、そのせいで陰って見える花の色、野生の動物すら息を潜めているような不気味さ……
フィオリーナは本当にまっすぐ進めているのか。正しい道に戻れるのか。
長い時間歩いたような気がするのに、一向に見知った場所に出られない。
このままでは帰れないのでは──そんな思いが頭をよぎり、フィオリーナはついに足を止めた。
むやみに歩き回れば、体力を消耗するだけだ。フィオリーナが帰ってこないとなれば、父や兄が捜しにきてくれるはず……ここで待つほうがいい。
だが、すでに日が沈みかけている森の中、一人でいるのは怖い。クマやイノシシに襲われたら、フィオリーナには為す術がないのだ。
だからと言って、これから暗くなる一方の森の中を歩き回るのも危険……
どの選択が一番安全なのかと考える冷静さと、早く帰りたいという焦燥が混ざり合ってフィオリーナを混乱させる。
落ち着かなければと思う気持ちに反し、冷や汗が背を伝った──そのとき。
ガサッと近くの草が音を立てて、フィオリーナは声にならない悲鳴を上げた。竹籠を胸に抱えて音のしたほうへ視線を向けると、ぬっと大きな影が現れる。
「──っ！」
フィオリーナは思わず目を瞑った。身体の震えが止まらない。
クマか、イノシシか。どうか自分に危害を加えずに立ち去ってほしい。必死に心の中で祈るが、その気配は遠ざかりそうになかった。
もうダメだ──そう思ったのだが、一向に相手が動く様子がない。
フィオリーナはおそるおそる目を開けてみた。
「なぜ、こんなところにいる？」
いつのまにか目の前に移動していた影が人間の言葉を喋る。
背の高い黒い影は、フィオリーナを見下ろしていて、彼女は息を呑んだ。
「あ……え？ あの……」
驚いて言葉が出てこない。
目の前にいるのはクマやイノシシではなく、人間の男性だ。黒いローブを着ているため、影に見えたらしい。
背が高いからか、威圧感もあって少し怖い。
「どこから入ってきた？」
「え？ どこ……って？ 入る？」
森の中で迷っているのは、状況からしてわかるだろうに……男の言う意味がよくわからず、フィオリーナは視線を泳がせた。
「あの、森にはベルモンド領から……薬草を摘んで帰るところだったのが、いつもとは違う道に迷い込んでしまったみたいで……」
事情を説明すると、彼は右手で首元からペンダントを取り出す。
ペンダントの紐についている金色の石は、夕日に反射して光って綺麗だったが、黒ずくめの彼の装いにはなんとなく不釣り合いだ。
しばらくして、男はペンダントを服の中にしまい、フィオリーナの手を取った。
「あっ、あの……」
「保護魔法に穴が開いている。悪かった。送っていく」
「へ？ 魔法？ 送るって……」
戸惑うフィオリーナの手を引いて、迷いなく歩く男。
彼の言い方だと、この森には彼が結界を張っているということらしいが……
「あの、貴方は魔法使いなの？」
「そう呼ばれるほどの力はない」
「でも、この森に保護魔法を使っているって……」
フィオリーナがそう言うと、男の手が離れる。
「ここが、お前が迷い込んだところだ」
ハッとして周りを確認すれば、彼の言う通り、フィオリーナの知っている道に戻ってきていた。
「すごい」
「自分の魔法を辿っただけだ。ここからなら、一人で帰れるか？」
「ええ。ありがとう。あの、貴方の名前は？ あっ、私はフィオリーナ。ベルモンド伯爵家の娘よ。助けてもらったお礼をしたいから、どこに住んでいるのかも教えてくださる？」
「礼などいらな……いりません。それよりも、伯爵家のお嬢様にご無礼を……申し訳ありません」
フィオリーナの名を聞いて、男は深々と頭を下げる。
「そんなにかしこまらないで。伯爵といっても、名ばかりの田舎貴族だわ。それで、貴方の名前は？」
「……ジャン、です」
彼は少し迷ったようだったが、静かに名乗った。領主の娘に名を聞かれて答えないわけにはいかないと思ったのだろう。
「ジャン？ うちの領地に住んでいる魔法使いは多くないし、知らないはずはないのだけど……もしかして、南トリナ要塞の魔法軍の方？」
「いえ……俺の魔法は、使い物になりませんから」
ジャンが顔を背ける。
「そんなことはないでしょう？ 迷っていた私を助けてくれたんだから」
「そもそも貴女が迷われたのは、俺の魔法が未熟だったせいです。自分の魔法に穴が開いたことに気づかずにいたから……」
「ジャン」
フィオリーナはジャンの両腕を掴み、彼を見上げた。俯くジャンと目を合わせるようにすると、彼はビクッとする。
覗き込んだ黒い瞳が怯えるように揺れている気がした。
「たとえ、貴方の魔法が原因で私が迷ったのだとしても、貴方がそれに気づいて助けに来てくれたことに変わりはないわ」
きっと、ジャンは自分の魔法の中にフィオリーナの存在を感じて様子を見に来たのだろう。
これまでの短いやりとりから、なんとなくジャンが自分と関わりを持ちたくないと思っていることは察することができる。あまり目を合わせないのもそうだし、必要以上の会話をしようとしないから。
今も、フィオリーナを早く帰そうとしている上、もう会いたくないと言わんばかりに礼を拒んでいる。
「放っておくこともできたはずよ。それでも助けに来てくれた貴方に、私はお礼がしたいの」
「ですが……」
「私からしたら、魔法を使える貴方はすごいわ。自分が未熟だと認めるのも簡単ではないでしょう？ 貴方は自分の能力に驕ることなく努力できる人なのね。それに、優しい心も持っている」
フィオリーナが笑いかけると、ジャンは唇を引き結び、言葉を呑み込んだようだった。
「ジャン……また貴方に会いたいの」
重ねて口をついて出た言葉──礼をしたいという気持ちはあったけれど、それとは別に彼に会いたいと思う。
一人でいることを望むような言動とは裏腹に、彼の瞳の奥には寂しさが映っているようで、放っておけなかった。
ジャンは考え込むように目を閉じたが、やがて瞼を上げるのと同時に金色のペンダントを外した。
それをフィオリーナの首にかける。
「これを持っていれば……俺の住む小屋に辿り着けます」
「小屋……？ ジャン、貴方……この森に住んでいるの？」
「はい」
ジャンは頷いて、一歩後ろへ下がった。
「私は……落ちこぼれの魔法使いです。家を追い出され、ここで暮らしています。本来なら、フィオリーナ様のような方と会えるような身分ではありません」
「貴方は私の命の恩人。それだけで、十分私と会う理由になる」
フィオリーナがはっきりと主張すると、ジャンはまた口を噤む。
彼女はペンダントの石を彼に掲げて見せる。すでに日が落ちて暗くなった森の中で浮かび上がる金色の輝きは、温かく感じられた。
「今日はありがとう。また来るわ」
フィオリーナはジャンに笑いかけてから、彼に背を向けた。
歩き慣れた道を少し早足で下りていく。途中で後ろを振り返ると、ジャンはまだ道の真ん中に立っていた。
フィオリーナが手を大きく振るのを、彼はどう思っただろう。表情は見えなくなっていてわからなかったけれど、ずっと見送ってくれるジャンの優しさが嬉しい。
森にひっそりと暮らす魔法使いが、少しだけ心を開いてくれた気がして──
第一章
「フィオリーナ」
早朝、フィオリーナが玄関で薬草を採りに行くための準備をしていると、階上から声が降ってきた。
フィオリーナはゆっくりと振り向いて、困った表情の父に笑顔を向けた。
「お父様、おはようございます」
「また薬草を摘みに行くつもりなのか？ お前はもう手伝わなくていいと言っただろう」
ゆっくりと階段を下りながら、ため息交じりに父が言う。
それに曖昧に頷きながら、フィオリーナは竹籠とローブを扉の脇に置いた。そして、ダイニングへ向かう父の隣について歩く。
「でも、ベルモンド領の人手不足は深刻ではありませんか。皆、領地の薬草畑を管理するだけで手一杯です。私にできることならば、お手伝いするのは当然のことです」
ダイニングに入り、それぞれの席に着くと、父はフィオリーナと同じ水色の瞳を心配そうに揺らし、肩を落とした。
「……お前の気持ちはありがたいが、一人で森に行くのは感心しないと何度も言っているだろう。一度、帰りが遅くなったこともあった」
「あのときは初めて一人で森に入ったから、太陽の位置にまで気を配れなかっただけですよ。あれ以来、帰りの時間もきちんと守れているでしょう？」
フィオリーナはドキリとしつつ、努めて冷静に言い返す。
半年前──祖母が亡くなってから初めて一人で森に入った日、フィオリーナは道に迷った。
だが、正直に「迷った」だなんて言ったら、二度と森へは行かせてもらえなくなる。
「それに、最近は南トリナ要塞からの注文が増えて、薬草が足りていないと聞いています」
「お前はまた……」
父は片手を額に当てて唸った。
ベルモンド領はここトリナ王国の南に位置する小さな領地だ。領民も少ない田舎なのだが、隣に国境を守るための要塞があり、そこで必要な薬や武器の供給を任されている。
温厚な性格の父は領民たちに慕われており、経営自体はそれなりにうまくいっている。それでも経済的に苦しい民は多く、出稼ぎに行ってしまうため、慢性的な人手不足が悩みだ。
それを解消するため、領主家族が直々に領地の仕事を手伝うことは昔からよくあった。
フィオリーナも、幼い頃から祖母について手伝っていたため、仕事を覚えている。だから、彼女が亡くなってからも、自分の役目は変わらないと思っていたのだが……父の考えは違うようだった。
彼は、フィオリーナが領民と同じように仕事をしようとするのをよく思っていない。領民たちとの交流の中で、娘が庶民と結婚したいと言い出すことを心配しているらしい。
誰にでも優しい自慢の娘であると思うのと同時に、娘の将来を憂えている。
「私だって、お父様のお役に立ちたいのです。おばあ様のような年の功はありませんが、手伝いを通して知識は身につけたつもりです」
ベルモンド家の娘としての役目は領地を豊かにすること──フィオリーナもそれは理解している。
本来ならば、良家の子息と結婚でもするべきなのだろうが、権力や金などほぼ持たない田舎貴族にそんな都合のいい縁談は舞い込んでこない。
何より、フィオリーナは政略結婚など望んでいない。
どうせ、貰い手のない田舎娘だ。結婚しないからと言って変な噂が立つとも思わないし、無理やり嫁ぐのも気が進まない。
「私はこのまま……皆を支えていきたいのです」
フィオリーナがそう言ったとき、ダイニングの扉が開いた。
「お前はまた父上を困らせているのか」
入ってきたのは、フィオリーナの兄ヘンドリックだ。ゆくゆくは彼がベルモンド家を継ぐことになるが、今は騎士として南トリナ要塞に勤めている。
どうしてわざわざ難関である騎士になったのかと聞いたら、一度社会に出れば、他の貴族たちとの繋がりを作れるからだと言っていた。良好な関係を築いておけば、ヘンドリックが当主になったときの助けになるからと、父も賛成した。
そしておそらく、彼らの言う貴族の繋がりと良好な関係というのは、主にフィオリーナの結婚相手のことだと思われる。
ヘンドリックは父と同じように渋い表情のまま席についた。
「お前は伯爵家の娘なんだ。ふらふらしていて、変な男に引っかかるなんてことがあっては困る。アルバート侯爵家の嫡男が市井の娘と駆け落ちをしたのは記憶に新しいが……相当な顰蹙を買ったんだ。お前も知っているだろう？」
「それは、アルバート侯爵家のような名門ならば、名に傷がつくこともあるかもしれないけれど……私が誰と結婚するかなんて、気にする人はいないと思います」
フィオリーナが口をすぼめながらもごもごと言うと、兄は怪訝そうに眉根を寄せた。
※この続きは製品版でお楽しみください。
