【試し読み】押しかけ花嫁に捧げられた伯爵の深愛
あらすじ
従順な妻になります。私と結婚をしてくださいませんか──突然の逆プロポーズ。家では虐げられ、辛い未来しかない現状を変えるため子爵令嬢アデラインは祖母が遺してくれた道筋、グレゴリー伯爵ジルベルトとの結婚に縋るしかなかった。そんなアデラインをジルベルトは温かく迎え入れ、彼女の意思を尊重し思いやりを注ぐ日々。「私がどれだけ我慢をしたか、教えたい」 優しく激しい初夜を迎え、アデラインも彼に強く惹かれていくのだが、ジルベルトに面倒をかけてしまっているという負い目が拭いきれず素直に想いを伝えられなくて──過保護な伯爵がみせる独占欲に心がほどかれていくラブストーリー。
登場人物
義母と妹に虐げられる日々を送っていたが、祖母が遺した伯爵との結婚に一縷の望みをかけ家を出る。
若草色の瞳を持つ美男子。大恩人であるアデラインの祖母の願いを聞きアデラインを妻とする。
試し読み
大好きな祖母からは、ふんわりと花の香水の香りが漂ってくる。流行をさりげなく取り入れた品の良い青いモスリンのドレスは、凛とした佇まいとよく合っていた。
「よいこと? アディ」
ソファに座っている小さなアデラインと視線を合わせるように、祖母のウェンディは跪く。
アデラインは膝の上で拳を固く握って祖母の怒りに備えた。きっと気づかない内に何か粗相をしたのだ。そのせいで両親からもよく怒鳴られる。
絶望から自然と涙が頬を伝ったが、ウェンディは涙を拭ってくれた。
「心無い言葉を受け入れてはだめ」
叱責されると強張った心に、優しさしかない声色が染みこんだ。アデラインは美しい菫色の目で祖母を見つめる。
「あなたは選択ができるの。幸せを選びなさい。あなたを幸せにしてくれる人、思いやってくれる人、美しい言葉を使う人を大切にしなさい。決して自分なんて、と思わないで。あなたは誇り高き私の夫、ノーマン公爵の孫よ。私の娘は運が悪かったけれど、あなたには関係ないわ」
母はもうこの世にいない。アデラインを産んですぐこの世を去った。
喪も明けない内に愛人を正妻に迎えた子爵である父は、些細なことで低く響く大声で怒鳴ってくる。そんな時、義母と異母妹は怯えるアデラインをクスクスと笑うのだ。
彼女達には、いつも陰険な意地悪をされている。
「私以外にも、思いやってくれる人はいるはずよ。探してみて」
アデラインは目を伏せて考えた。母親の小間使いでもあったリサはとても良くしてくれる。
「……リサ。でも、だめよ。お父様は私に優しくした人を鞭で打つから……」
リサがアデラインに尽くせば、両親は彼女を目の敵にした。
アデラインの言葉にウェンディは沈痛な面持ちになり、彼女の小さな手をぎゅっと握った。
「そう、そんなことが……」
それからすぐだ。
母の兄である伯父のノーマン公爵夫妻、クリスとエリザベス、その息子である従兄のレオがよくタウンハウスに滞在するようになり、アデラインを招待してくれるようになった。
伯父家族はアデラインを可愛がり、ウェンディと一緒に淑女教育も施してくれた。
素直に学ぶアデラインは美しいマナーや所作、淑女としての芯を身に付け始める。
実の両親はそのことをとても嫌がり、陰湿な嫌がらせを繰り返した。それでも、両親が公爵家に送り出した理由を知ったのは十歳頃。
ウェンディが社交界で絶大な影響力を持っていたのだ。彼女の一言で、子爵家と交流を持つ数少ない貴族も彼らの元を去ってしまうほどに。
両親はそれを恐れ逆らわなかったが、嫌がらせをアデラインには続け、自ら辞退させようとした。
『お前の母は、あばずれなんだよ。その血を引いた娘は……考えなくてもわかるだろう?』
『どんなに上品ぶっても、男に色目を使って誘う下品な女。だから、死んだんだ。神様はよく見ているね』
義母がこっそりと耳元で呟く言葉は、ねっとりと心に纏わりついたが、アデラインは耐えた。
祖母の教えを胸に、気高くあることを心に決める。
時が経ち、アデラインはデビューしていないのにも関わらず、社交界で噂されるほどに美しく成長をした。
「お前の結婚相手は、グレゴリー伯爵だ」
ウィーバー子爵である父、デイヴィット・ヘイスティングは、苦虫を噛みつぶしたような表情で、吐き捨てるように言った。
父の眉間の深い皺、憎悪に満ちた目はもう見慣れていて、心は動かないけれど不安は押し寄せる。
愛する祖母、ウェンディが決めたことだろうと予想はついた。先日、彼女の屋敷に遊びに行くと珍しく社交界の美男子の話をされたからだ。これが理由だったのだとわかったが、手放しでは喜べない。
グレゴリー伯爵、ジルベルト・ソーンは、遡れば王家とも血の繋がりがある由緒正しき家柄だが、亡くなった先代の借金で没するところであった。それを、跡を継いだ彼が見事に完済し再興させたと聞く。
社交界にはあまり顔を出さないが、その容姿に対しての評価はとても高い。金髪の髪は軽くウェーブが掛かっていて、若草色の目を緩めて微笑むと女性は蕩けてしまう。ボクシングが趣味の立派な体躯で、健康面の心配は一切ないらしい。
整った容姿、爵位、財産。三つも揃っている。そんな相手には不自由のなさそうな人物が、なぜ自分と結婚を決めようと思っているのか。
結婚後も自由を謳歌できる、都合のいい妻が欲しいというところだろうか。それなら自分は最適だ。
王家とも血の繋がりのあるノーマン公爵家と縁戚で、子爵家の娘。持参金は望めないが、公爵家を通じて社交界や実業界とのパイプは太くできる。見返りとしては十分だろう。
アデラインは内心で、諦めの溜息を吐いた。
貴族の結婚は、跡取りさえ作れば自由だ。夫婦ともに愛人を作っても文句は言われない。両親の結婚の『真相』を知った時から、もっと実情はひどいのかもしれないと思っている。
ただ、このまま未婚なら実家でハウスメイドとしてこき使われるだろう。父親の賭博の借金は増えることはあっても、減ることは無いのだから。
──同じ地獄ならどちらを取る?
アデラインの心の声が残酷な二択を迫ってきた。
デイヴィットは腕を組んで、黙って立っているアデラインに対して、苛立たし気に足で床を踏み鳴らす。
「ふん。どう考えても、伯爵に見合うのは我が娘のペギーだ。お前はペギーと一緒に伯爵に会い、ペギーを選ばせるようにするんだ。それがお前の役目であり、仕事だ」
アデラインは無意識に冷たい目でデイヴィットを見てしまった。
ウェンディは王家に連なる血筋を持つ自分の孫を伯爵に勧め、グレゴリー伯爵はそれに伴う条件を受け入れたとわかっているはず。
ペギーは、持参金も血筋もない。彼女を迎えるなら、伯爵はもっと条件の良い娘を妻に選ぶだろう。
貴族とはそういうものだ。誰よりもそれらしく生きている父が、わからないはずがない。
デイヴィットはウェンディが怖いだけなのだ。
自分から断れないからアデラインに身を引かせたいだけで、ペギーに順番が回ってくるなんて実は思っていない。可愛がっている娘でさえ、実際は道具としか思っていないのだとしたら寒気がする。
この茶番を早く終わらせたくて、アデラインは口を開いた。
「……お父様がお断りすれば良いことだと思います」
そもそも、父親が首を縦に振らなければ娘は結婚できない。
それに結婚させれば子爵家にも恩恵があるのもわかっているはずだ。ウェンディが調えた話に、素直に頷くのは悔しいといったところだろうか。
アデラインの態度を反抗的としたデイヴィットは、待っていたとばかりに音が聞こえてきそうなほどに歯ぎしりをした。
「歯向かうのか」
「私に決定権はありません」
こめかみに血管を浮かせた彼は、父親という権利を振りかざすために、大仰に両手を広げる。
「お前の反抗的な目、態度! あの女にそっくりだ」
まただ、と思う。きっかけを探してはアデラインを傷つける展開へと話を持っていく。
言葉で抉られた心臓が血を流すなら、とっくの昔に息絶えているはずだ。これから聞かされるであろうことにアデラインは心の中で耳を塞ぐ。
「お前の母親は婚前に身体を開くようなふしだらな女だった」
違う、と心が叫んだ。社交界は事実を知っていて、デイヴィットは未だに爪弾きにされている。
アデラインが公爵家の客人に陰で『可哀想な娘』と言われ、同情されている理由を知ったのはいつだっただろうか。
「その癖に気位は高かった。傷物を妻に迎えてやったのに、何の恩も返さないノーマン公爵家は義理も人情もない。その癖、お前に干渉をしてくる」
当時借金まみれでも容姿だけは良かったデイヴィットは、社交界一美しく持参金が多かった母に求婚をした。だが、母もノーマン公爵も当然拒否をする。諦めなかったデイヴィットは、仲間と画策し母の飲み物に薬を入れ、パーティ会場の一室で無理やり傷を付けたのだ。
スキャンダルを回避するために結婚した母は、アデラインを産むと亡くなった。
それだけでなく、デイヴィットは愛人だった義母のエヴリンとすぐに結婚し、半年後にはペギーが生まれたのだ。
この一件でウィーバー子爵家は社交界から事実上、追放されている。彼らを迎えるのは下流貴族の一部だけだ。そのせいで妹のペギーは社交界デビューをしても、社交界要人からの招待状は届かない。
アデラインは金銭的負担が理由で、社交界にデビューさせてもらえていないが、ノーマン公爵家で開かれるごく内輪のハウスパーティでは親族として紹介されている。そのお陰で社交界の面々に顔見知りはとても多い。
両親も義母妹も、それがとても気に入らない。
アデラインがノーマン公爵家の血筋だといっても、母のスキャンダルは皆知っている。
おまけに借金だらけの子爵家の娘だ。アデライン自身、結婚ができるとは思っていなかった。
実の母の弟であるノーマン公爵は、夫妻でアデラインを養女にしようと働きかけてくれているが、デイヴィットは断り続けている。そして、金がかかるとアデラインに文句ばかり言うのだ。
ウェンディは心配でたまらず、結婚相手を調えたのだろう。話は相手の伯爵にとっても都合が良かった、それだけのことだ。
デイヴィットは唾を飛ばし、指差しながらアデラインに怒鳴る。
「お前も母親と一緒だろう! 寝たんだろう! あの家で!」
「失礼いたします」
デイヴィットの言葉を遮るためにお辞儀をして、アデラインは彼の部屋を出ようとしたが許されなかった。
「お前はよく厩に入り浸っては、厩番と過ごしてるそうじゃないか。公爵未亡人の屋敷に行くのも、どこかの貴族の男との逢引のためなんだろう!」
気持ちの力で耳を塞げればいいのに、といつも思う。耳は勝手に言葉を拾って心まで届け、閉じかけた傷はまた開く。
無視をして部屋を出てドアを閉めれば、外まで聞こえる声で罵倒を続けていた。頭痛と眩暈を覚えながら、アデラインは階段の手すりに手をかけた。
自分の部屋まで辿り着けば、後はベッドに倒れ込めばいいだけ。階段を上ろうとしたところで、その希望は潰える。
「聞こえたわ。グレゴリー伯爵との結婚話を頂いたのね」
振り返れば、義理母譲りの気性を表すような赤髪、アイスブルーの目のペギーが立っていた。
「そう聞いたわ」
「ずるいわ」
両親の愛を一身に受けながらも、彼らと一緒に自分を虐げてきた妹の言葉に心の疲弊が加速する。
「公爵未亡人はあなたばかり、あの美しい家に招待をする」
「そうね」
幼少時は一緒に訪問をしていた。八歳に差し掛かる前に、ペギーがデイヴィットの性格とエヴリンの気性や容姿をそのまま引き継いでいることがわかり、彼女は招待されなくなった。
「あなたは私を誘ってはくれない」
「祖母も公爵も、私だけを招待してくれているから」
招待をされていないのに訪問をするのは無礼だということをわかっていながら、ペギーはアデラインに無理を言う。
ペギーは自分のマナーを、まず改めないといけないということが理解できない。自分の話しかせず、祖母の家令やメイドに当たり前のように命令し、大事なお客様にも失礼な態度を取る人間を誰も招待するわけがない。
公爵であるクリスは最初からペギーを招待しようともしなかった。
「公爵未亡人は社交界の重鎮よ。彼女が私を輪に入れてくれさえすれば、私は然るべき男性から求婚を受けることができる。あなたはそれを手伝う義務を放棄し続け、挙句に自分は伯爵と結婚するつもりなのね。……私に譲るべきだと思わないの」
ペギーは微笑んでいても、いつも目は怒っている。
厩番と隠れて何かをしているのは彼女で、アデラインの小間使いのリサが見張りをしろと連れて行かれていた。それでも、生娘として伯爵家に嫁ごうとしているのなら、アデラインにはとても理解ができない。
「……父が……子爵が決めることよ」
「違うわ。ノーマン公爵未亡人が決めることよ」
ペギーの毅然とした口調に、アデラインは瞬きをした後、口元を強張らせた。
彼女は社交界デビューをしているせいで、この家が置かれている立場を正確に理解している。ノーマン公爵家に睨まれ、社交界から無視されていることが、どれだけ自分の未来に影響があるのかをわかっているのだ。
父のデイヴィットは、紳士クラブにも出入りできず、賭博で作った借金が膨れ上がっていた。領地を返還しながらやってきたせいで、子爵家は収入も乏しく八方塞がりの状態。母のエヴリンは平民で愛人であっただけでなく、性格が苛烈であることから、貴族に受け入れられていない。
貴族でも階層ではなく、その人の品性を好む人だっている。アデラインからすれば、家族全員のマナーが、問題をややこしくしているとしか思えないのだ。
「あなたは私を助けるべきなのよ」
「……そうかもしれないわね」
ペギーの黒い目が嫉妬にゆらりと燃えていて、アデラインは目を逸らした。
アデラインは、広大な領地と古い家柄、王家と近い血筋、ノーマン公爵家に実質一員として扱われていた。祖母の影響も大きく、公式ではないにしろ社交界に迎え入れられている。
ノーマン公爵家の領地経営は代々質実剛健、交易に出資するも目利きが良く博打のようなことは決してしない。不義理、不道徳、不誠実、これらを厳しく律し、必ず公益という視点を持つという教育をされるため、周りからの信用も厚い。
幼い頃から祖母宅に訪問すると、その教育を受けた。アデラインは身に付けることを選んだが、ペギーは嫌がった。
ノーマン公爵家の人間は性善説で生きていない。駄目だと悟った瞬間に、切り捨てる冷酷さも持ち合わせている。
祖母のウェンディはペギーに機会を与えたが止めた。それがなぜかを彼女が気づく日はこないだろう。
アデラインが話を終わらせて自室に戻ろうとすると、正面玄関が激しく叩かれた。
執事が不機嫌そうに対応に出るのを見届け階段を上り始めたが、慌てふためいた祖母宅の使用人の姿が視界の隅に映り足を止めた。
「……が、さきほど、亡くなり……、アデラインお嬢様……に……」
裏口へ回れという執事を遮り、早口でまくしたてる男の声がところどころ、アデラインの耳に届いた。
耳鳴りがし始めて、現実感が自分から遠ざかっていく。アデラインの虚ろな目が焦点を合わせたのはペギーの顔だった。
歓びに満ちた楽しそうな笑顔は、アデラインが傷ついた時に見せる。極上の笑顔を前に、聞こえたことは本当だとわかった。
「あら、お姉さま……。心中、お察し申し上げますわ」
鼻歌を歌うような口調はいつも心を切り裂くが、今回の傷は当分癒えそうにない。
『ウェンディ・コア様、ノーマン公爵未亡人が、さきほど、亡くなりました。アデラインお嬢様には急ぎ公爵邸に来ていただき、列席をお願いされたい』
「おばあさまは長生きしたから、そんなに悲しまないで」
従兄のレオが同じソファに座って、蒼白なアデラインの手を強く握ってくれる。
最近はめっきり公爵邸で顔を合わさなくなったが、幼い頃はよく一緒に遊んだ。幼馴染でもあるレオの言葉にアデラインは小さく頷いた。
葬儀も無事に終わり、ウェンディの弁護士に一族が集められていた。アデラインは帰ろうとしたのだが、公爵である伯父に止められ留まっている。
アデラインは膝の上で両手を握り合わせた。心の支えだった人が、もうこの世にいないことを信じることができない。
祖母の前では心の底から笑えたし、厳しい人だったが人生で大事なものを学ばせてもらった。
もうあの笑顔を見ることができないと思うだけで、身体が土の中に沈んでいくような気持ちになる。
そんなアデラインの心を見透かしたように、レオが優しく話しかけてきた。
「おばあさまは天国からアディを見守り続けるはずだよ。公爵家だって、アディを守るつもりでいる」
伯父のクリスは姉である母親を敬愛していたらしく、そっくりに育ったアデラインを実の娘のように愛してくれる。レオも本当の妹のように接し、伯母のエリザベスも、女の子が欲しかったとばかりに可愛がってくれた。
「信じて欲しい」
レオはアデラインの結い上げた艶やかな黒髪に触れて、そのまま指の背で白いうなじを辿らせた。驚いて顔を上げると、従兄の悪戯っぽい目とぶつかる。
「ほら、顔を上げて。綺麗な菫色の目が台無しだ」
「だからって」
手を握ってくれるだけならともかく、首筋に触れられると平然とはしていられない。
レオの振る舞いが暗く沈んだ自分を励ますためだとしてもやりすぎだ。アデラインは彼を上目遣いにやんわりと睨む。
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