【試し読み】背徳愛~親友の好きな人~

あらすじ

奈子はバイト先で知り合った紗季と意気投合し、無二の親友となる。紗季は悠真という幼なじみを紹介してくれるが、彼に十年来の片思い中なのだと言う。奈子に悠真への想いをつづる紗季。奈子は紗季の片思いが実ることを全力で応援し、祈っていた。就職して激務の奈子はいつしか紗季達と疎遠になってしまうが、四年後、転職した会社で悠真と再会する。そこで悠真からずっと好きだったと告白される。だが悠真は紗季の想い人だ。紗季への裏切りになる。とてもじゃないが受け入れることはできない。そう思うのに、悠真に求められ、自分の気持ちに気づく。本当は自分だって悠真に惹かれていたことを。奈子は疎遠になった紗季に連絡を取ろうとするが――

登場人物
藍沢奈子(あいざわなこ)
親友の想い人・悠真と転職先の会社で再会。ずっと好きだったと告白されるが…
茅野悠真(かやのゆうま)
奈子の親友である紗季の幼馴染。奈子と再会後、今までの想いを告白する。
試し読み

第一章 親友の幼馴染み

 大学近くにあるオープンしたばかりの和食居酒屋は、七時までの入店で全品半額というキャンペーンを行っているため、店内は非常に混雑していた。
 店内で働くスタッフが先ほどから中ジョッキを片手に行ったり来たりしていて、カウンター越しに見える厨房では料理人が忙しそうにその腕を振るっている。
 夏真っ盛りのこの時期、奈子がアルバイトをしている居酒屋でも、ビールの注文が引っ切りなしに入る。店内を歩き回る若い女の子はオープニングスタッフなのだろう。まだビールをテーブルに運ぶのに慣れていないのか、片手に二つずつジョッキを持つ手が、重さでぷるぷると震えていた。
(最初は辛いよね……腕)
 ジョッキ一つでは大した重さではないが、それが三つも四つにもなるとけっこうな重さなのだ。テーブルと厨房を何往復もしているうちに、かなり腕の筋肉が鍛えられ疲弊する。
 立ちっぱなしのため、奈子もアルバイトを始めた当初は毎日腕と足が筋肉痛になったものだ。アルバイトを始めて二年も経つと、ジョッキを片手に三つずつ持っても余裕だが。そして自分が客として来ているにもかかわらず、ガラガラと引き戸を開けられる音がするたびに、スタッフと一緒になって「いらっしゃいませー!」と声を張り上げそうになるのは完全に職業病だ。
 奈子は忙しそうなスタッフに同情的な視線を向け、覚えたばかりのカシスオレンジをちびちびと飲みながら、向かい側に座る友人の話に耳を傾けた。
「奈子、聞いて!」
「うん?」
 二十歳になって酒を飲めるようにはなったものの、体質的には強くないらしい。頬がすぐ赤くなるし、一杯飲むだけで頭がくらくらしてくる。だが気の置けない友人との食事だ。酒を飲まなくても楽しい。これを飲み終わったらウーロン茶にしようと、奈子はテーブルにグラスを置いた。
「私ね、言ってやったの!」
 奈子の正面に座る友人の戸川とがわ紗季さきが目を爛々と輝かせて、拳を握った。紗季はいつも気持ちがいいくらい元気だ。
「なに、ついに悠真くんに告白したの?」
 奈子は口元を綻ばせて聞いた。そうではないとわかっていて、つい同じことばかり聞いてしまうのは、友人の片思いが長過ぎるからだ。
 紗季は、近所に住む幼馴染みに片思いをしている。中学の頃からだと聞いたから、九年もだ。
 誰が見ても美人で、同級生やアルバイト先の客から告白されることも多い。それも一目惚れしましたと多々言われるくらい目を引く外見をしている。
 目鼻立ちが整っていて華やかだから、一見すると恋愛に慣れていそうな印象を持つが、実は今まで恋人がいたことは一度もないらしい。
 おそらく恋人が欲しいと行動すれば、彼女と付きあいたい男性がこぞって名乗りを上げるだろうが、彼女が望んでいるのは九年前からたった一人だけだ。紗季は、誰に告白されてもぶれずに初恋を貫いている。
 奈子はそんな紗季とは見た目も性格も正反対だ。
 染めていない真っ黒の髪に、アーモンド型の目は小動物──リスを思わせる。向かいに座る親友談ではあるが、唇が小さく薄いから食べる時の顔が余計にリスっぽいらしい。
 肩につくかつかないかという長さの髪は、一年に一度程度、美容院に行くタイミングでかなり短く切ってもらっている。伸びたらカットに行くなんて贅沢はできないからだ。
 太れない体質なのか、ごぼうみたいにひょろっとしていて、紗季は『儚げな美少女』なんて茶化して言うが嬉しくはない。つまり幸薄そうに見えるということだろうと、自分では思っている。
「告白なんてするわけないでしょ!」
「じゃあなにを言ったの?」
「実はね。うちのお母さんがさ、あなたたちが結婚してくれればいいのにとか言うから、これはチャンスだと思って『三十過ぎてもお互い独身だったら結婚するのもいいかもねぇ』って言ったの。もちろんさりげなーくね。そうしたら、悠真から『まぁな』って返ってきたんだよ! そんなの、期待しちゃうでしょっ!」
 恋をしている紗季は毎日が本当に楽しそうで、悠真からこう言われた、ああ言われたと一喜一憂している。
 奈子に恋愛経験はないし、知識もなければ好きな人もいない。ただ紗季を見ていると、いつかは自分もこういう恋をしてみたいと思えるのだ。
「悠真くんは、恋人とあんま長続きしないって言ってたっけ?」
 何度も悠真の写真は見た。たしかに彼はモテそうな顔立ちをしている。
 奈子にはイケメンと非イケメンの差はよくわからないが、小学校でいえばサッカー少年、中学校でいえばバスケ少年のグループにいそうな、集団の中で探すのに苦労しない雰囲気だった。
 見せてもらった写真は、中学の入学式や卒業式のものだったから、今はもっと幼さが抜けて精悍な顔立ちになっているだろう。
 どういう青年になっているのかと想像を膨らませるのはけっこう楽しい。悠真と会ったことはないのに、紗季から話を聞いているからか、奈子は勝手に知りあいのような気になっていた。
 ただ、紗季もわかっているだろうが、奈子では恋愛相談には乗れない。ちなみに告白をされたことはないし、自分から誰かに想いを伝えたこともなかった。
(恋愛どころじゃ、なかったし……)
 今も大変なのは変わらないが、以前よりかは自由だ。
(私も、好きな人欲しいなぁ)
 恋愛をしている紗季は本当にキラキラと輝いている。
 紗季から片思いの相手について聞いているのは楽しく、いつかは自分もと思うばかりだ。
「そうそう、あいつわりと来る者拒まずなんだよねぇ。恋愛に本気にならないみたい。ま、でもいつか私に本気にさせてやるけどね!」
「ふふ、応援してる。頑張れ」
 奈子がそう言うと、紗季は向かい側でピースサインをした。
 紗季ならばいつかは悠真を落としそうだ。
(告白してみたらいいのになぁ)
 親友である紗季がどれだけ美人で性格的にも素晴らしい女性かを知っているだけに、うまくいかないはずがない! と奈子は豪語したい気分でいる。
 告白をしないのかと度々聞いてしまうのは、こと自分の恋愛になると自信をなくす紗季に、発破をかけているつもりだった。
「よし、今日はあいつを呼ぼう!」
 生ビールをハイペースで飲み干した紗季が、だんっと勢いよくジョッキをテーブルに置いて叫んだ。頬が赤いのは酔っているからかもしれない。彼女の手にはスマートフォンが握られている。
 なにごとかと周囲の客がこちらを見てくる。奈子は周囲に軽く頭を下げて、声を潜めて問いかけた。
「呼ぶって誰を?」
 奈子と紗季に共通の知人はいない。思い浮かぶのは一人だけ。
 まさか、と目を見開くと、紗季は唇を引き結びなにかを決意したような顔で、スマートフォンを割れんばかりに握っていた。
「紗季?」
「悠真に決まってるじゃない!」
「やっぱり悠真くんっ!? それなら私お邪魔だろうから帰るよ」
 奈子が精算しようと財布を取りだしかけたところに、紗季の手が伸びてきた。
 自信なさげに肩を落とし必死の形相で腕を掴まれる。
「待って待って! 私が悠真と二人で飲んだことあるわけないでしょ!」
「えぇ?」
 ではどうやって呼ぶのだろうという疑問は伝わったようだ。
「あいつを呼ぶための考えがあるの。でも、奈子がいなかったらあいつ来ないもん! ね、お願い!」
「なんて言って呼ぶの?」
 たしかに二人で飲みに行けるくらいなら、紗季はとっくに告白しているはずだ。幼馴染みであっても親同士の仲がいいだけで、ここ数年は悠真の部屋に入ってさえいないという。
 実家を行き来して夕飯を共にすることはあっても、二人きりにはなれないと聞いた。食事を終えると早々に自室へと戻ってしまう悠真を引き留められず、仕方なく悠真の母親からいろいろと話を聞いているらしい。いろいろ──つまり、彼女の有無などだ。
 頻繁に顔を合わせているのに甘い雰囲気になるチャンスすらないから、紗季はこうまで初恋を拗らせているのだ。
「たぶん、私が悠真を直接誘っても来ないと思うんだよね。誘ったこともないし」
 紗季は、顎に手を当てて天井を見上げていた。どうやらなにか考えがあるらしい。
「そうなんだ」
「十年以上の付きあいの幼馴染みなんてそんなもんよ。だから、なかなか恋愛っぽくならなくて困ってるんだよ。あいつとどんな顔してチューしていいかわかんないもん。超したいけどね!」
「チューって……」
 紗季がそこまで考えているなんて思わなかった。経験がない分、その手の話にも慣れていない奈子は、羞恥に頬が熱くなる。
 奈子にはわからないが、誰かを好きになるとキスをしたりそれ以上のことをしたり、といった妄想をするものなのだろうか。恋人になる前から、紗季の心の準備だけが万端なところにびっくりしてしまう。
「したいよ! したいに決まってるじゃん。めちゃくちゃ妄想するよ!」
「妄想……」
 想像ができずオウム返しに言葉を紡ぐしかない。
「奈子だって恋愛すればわかるって。触りたいし、触ってほしいし……一日中あいつのことばっかりだよ。見返りがゼロだから辛くもあるけどさ……それでも、好きなんだよ」
「紗季……」
 珍しく自嘲的な笑みを浮かべた紗季が、深くため息をついた。
 恋愛は楽しいばかりではないらしい。それでも、愁いを帯びた紗季の表情はとても綺麗だった。
「しんみりしちゃった! ごめんごめん。でね! 外から見て、悠真が私をどんな風に見てたか教えてほしいの。ちょっとはチャンスがあるかとか、奈子から見てどうとか。感じたことをそのまま教えて?」
 紗季はお願いと手を合わせた。美少女の上目遣いは破壊力がすごい。大役だし自分に務まるかはわからないが、たしかに客観的な目で見れば悠真の気持ちがわかるかもしれない。
 紗季はわかりやすい。私、恋をしています、とばっちり顔に出ている。悠真だって、同じかもしれない。紗季は近過ぎて気がつかなくとも、客観的に二人を見てみればわかることもあるかもしれない。
 もし奈子が男なら、紗季みたいに溌剌としていて可愛い女の子から告白されて、断るという選択はない。絶対にない。というか、紗季の欠点は少し声が大きいところくらいだ。気に食わないなんて言わせない。
 紗季のために頑張ると心の中で意気込むものの、実際のところ奈子にはそれだけの行動力はない。応援したい気持ちはあるのに、恋愛経験も意気地もない自分も恨めしい。
「私で役に立てるかわからないけど、それくらいなら」
「あ、でも絶対に好きにならないでね!!」
 なんてことを言うのだ。思わず飲んでいたカシスオレンジをふきだしそうになってしまった。
「ケホッ……な、なるはずないよ。私、恋愛したことないし。紗季がどれくらい悠真くんのこと好きか知ってるもの。友達を裏切るようなことするわけないでしょ?」
 あり得ない。たしかにイケメンだとは思う。だが、親友の大事な人を好きになるはずがない。
「奈子を疑ってるわけじゃないの、ごめん。それに、悠真と付きあってるわけじゃないもん。取らないで、なんて言えないんだよね」
 赤らんだ目をテーブルの上に向けた紗季は、沈んだ表情でグラスについた水滴を拭う。
「好きになんて絶対にならないから、安心して」
 そんなあり得ない不安を抱くのもまた、恋なのだろうか。
 幼馴染みという曖昧な関係に決着をつけるのが、不安を解消する一番の近道だと思うが、きっとそれは紗季だってわかっているはずだ。
 なんでも言いあえる関係であっても、近いからこそ言えないのかもしれない。
「でもさ、その逆もあり得るよね。悠真が奈子のこと好きになっちゃったら……奈子可愛いし守ってあげたくなるタイプだもん。私あんま女らしさないけど、奈子って清楚~って感じがするし……」
「そんなの今まで言われたことないよ。紗季は、私が憧れるくらいの美人なんだから自信持って。もうっ、片思い歴長いからって拗らせ過ぎだよ」
 奈子と比べるべくもなく紗季は美人なのだ。
 美人だからって好きな人とうまくいくとは限らないだろうが、幼い頃からこんなに素敵な紗季が近くにいて好きにならないなんてことがあるだろうか。
 紗季は奈子にとって自慢の友人だ。
 彼女がどれだけ奈子の心を癒やして、救ってくれたか、おそらく紗季本人も気づいてはいないだろう。奈子は大学一年の頃、初めて会った日から、何度も彼女の明るさや優しさに助けられている。
 会ったことはないけれど、幼馴染みである悠真なら知っているだろう。
「私、可愛い? 美人?」
 紗季はテーブルの上に肘をついて、上目遣いで見上げてくる。目鼻立ちが整っている美少女が首を傾げるとなんと可愛いことか。周りに花が舞っているような気さえしてくる。
「うん、めっちゃ可愛い。超美人」
「あはははっ、もう奈子ってば。でも、ありがと。元気出た」
 紗季は笑い過ぎて涙が浮かんだ目を擦っている。
 そして手にしたスマートフォンに視線を移し、やや緊張した様子で息を一つ吐いた。
「じゃあ、悠真のこと本当に呼んでいい? 来るかわかんないけど」

※この続きは製品版でお楽しみください。

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