【試し読み】イケメン社長の偽婚約者になります

作家:東万里央
イラスト:稲垣のん
レーベル:夢中文庫セレナイト
発売日:2021/3/5
販売価格:400円
あらすじ

「その本を僕も探していたんです」 古書店で詩織は会社経営者の貴一に突然声をかけられた。惚れ惚れするほど素敵な彼は、詩織が手に取った小説『律の風』を入院中の祖母の代わりに探していたのだ。快く本を譲ったのを縁に貴一と祖母のお見舞いを重ね、どこかで彼と出逢っていたような懐かしさとともに詩織は胸の甘いときめきを育てていた。「――僕の婚約者になってもらえませんか」 容態の芳しくない祖母を安心させたいという貴一の願い。片思い中の詩織にとって婚約者という役割は魅力的で協力することに。そうして親密な関係を演じ続けるなかふたりの距離は急速に近づき、恋から遠ざかっていた詩織のなかに勇気が芽生えて……

登場人物
内藤詩織(ないとうしおり)
読書好きで、週末に古書店巡りをするのが趣味。馴染みの古書店で貴一に突然声をかけられる。
三田村貴一(みたむらきいち)
新進気鋭企業の代表取締役。祖母の代わりにある本を探していたところ、詩織と出会う。
試し読み

第一章「律の風、再び」

 ──詩織しおりは子どもの頃から小説が大好きで、次第に現代の人気作だけでは飽き足らなくなり、絶版になった古書に手を伸ばすようになった。
 社会福祉法人の安月給の事務員に過ぎないので、高価な希少本などとは縁がない。週末になるとひたすら自分好みの安価な古書を、足で歩いて店を回って探していた。
 そんな詩織にとって、神田かんだ古書店街は宝の山だった。古今東西の様々な古書がある。
 一番のお気に入りの古書店は、文庫を専門に取り扱う、時任ときとう古書店だった。文庫ならどんなジャンルも取り揃えている。戦前を思わせる古い茶の壁がレンガのようで、趣のある建物も大好きだった。
 さて、今日はどんな本を読もうかと、うきうきしながら店に入る。
「こんにちは~」
 奥のレジ前に腰掛けていた白髪の店主が、人のいい笑みを浮かべて迎え入れてくれた。
「おや、詩織ちゃんじゃないかい。一昨日恋愛小説がたくさん入荷したよ。軒先のワゴンに積み上げてあるから」
「えっ、ありがとう!」
 店主に礼を言い早速軒先へと向かう。
 確かに錆びかけのワゴンには、背表紙が色褪せた文庫本が、無造作に積み上げられていた。
 一冊、一冊を手に取り、何気なくページを捲っていたのだが、うち一冊の最初の段落に目を惹かれた。
 ──たった今夏から秋になった。陽の光が柔らかくなり、風のにおいが変わった。そして、何かが起こる予感がした。人生を劇的に変えるほどではない、だが、淡々とした日常を、ほんの少し喜びの色に染めてくれるような何かだ。恵美子えみこはそうした予感を大切にしていた。
 九月半ばの今は、まさに小説に書かれている季節だ。タイトルは「りつの風」とある。作者は詩織が聞いたこともない名だった。きっとすでに忘れ去られた流行作家なのだろう。
 発行年は初版が一九五五年とあるから、もう六五年前もの小説ということになる。初版本ではないのだが、すでにボロボロで破れたページもあった。
 よし、これは買いだと文庫を手に取る。一冊だけでは店の利益にならないので、周囲にある古書も十冊ほど纏めて買うことにした。
「えーっと、これと、これと、これと……」
 合計三千円になったところでうんと頷く。早速ニコニコしながら店内のレジに向かうと、店主は持参のエコバッグに本を纏めて入れてくれた。
「詩織ちゃんはこういう本が好きだねえ」
「うん、名作やベストセラーよりワクワクするの」
 自分だけの物語を見つけたような気分になるのだ。
 店を出て軒先の下で「律の風」をエコバッグから取り出す。胸をときめかせながら再び最初の数ページを捲った。
 好きな物語に出会う瞬間は恋に落ちるのと似ている。繊細な文章が自分の琴線に優しく触れ、美しい音楽が心の中に鳴り響く。詩織はそうした瞬間が大好きだった。
 突然何者かに肩を掴まれたのは、一陣の澄んだ風が吹き、それに気を取られた直後のことだった。
「──君!」
「なっ……何っ!?」
 仰天して振り返り目を見開く。三十代前半ほどの長身痩躯の男性だった。
 その切れ長の目を見た途端、心臓が大きく鳴り響く。
 ブラウンダイヤを溶かして煮詰めたような、濃く深みのある茶の瞳だった。心が吸い込まれてしまいそうになる。その魅力的な双眸そうぼうに既視感を覚えた。
(……私、この人と会ったことがない?)
 そう、いつかどこかで──
 男性の髪は夜の闇にも似た漆黒で、くせがなく丁寧に整えられており、グレーのスーツがよく似合っていた。スーツはきっとオーダーメイドなのだろう。無駄のないラインがしっかりした肩と、厚い胸板、長い手足をさり気なく引き立てている。
 シャープさのある端整な顔立ちを間近にして、いいや、知り合いであるはずがないと心の中で首を振る。勤め先にも親戚にも友人にもこんな男性はいない。
 なら、この懐かしさにも似た感情はなんなのか。そして、なぜ目が離せないのか──男性もなぜか息を呑んで詩織を見つめている。
 それからどれだけの時が過ぎたのだろうか。ずっとこうしているわけにもいかないので、詩織は恐る恐る男性に声を掛けた。
「あ、あの、私に何か用でしょうか?」
 男性はようやく我に返ったらしい。慌てて詩織の肩から手を離した。
「あっ、申し訳ありません。つい……」
 続いて深々と頭を下げる。
 見ず知らずの女性の肩に触れたことに恐縮しており、詩織が「もういいですから」と許さなければならないほどだった。
 詩織の勤め先にはコンプライアンスの概念がなく、平気で彼氏はいるかと聞くだの、凝っているだろうから肩を揉んでやろうかだの、セクハラを恥じない年配の男性がいまだにいる。それゆえに男性の腰の低さには好感を抱いた。
 再び頭を上げた男性をあらためて見ると、先ほどの謙虚な態度には似合わない、スマートな自信のある雰囲気が魅力的だった。いや、自信があるからこそ謙虚でいられるのだろう。懐から名刺入れを取り出し、慣れた仕草で詩織に一枚手渡す。
「申し遅れました。僕は三田村みたむら貴一きいちと申します」
 名刺には横文字の社名が書かれており、しかも代表取締役とある。まさか、この若さで社長というのだろうか。
 この容姿に社長の肩書き──あまりにもできすぎていたので、一瞬新手のキャッチセールスかと警戒してしまう。詩織は雰囲気がのんびりまったりしているからか、舐められ、詐欺のターゲットにされやすく、たびたび怪しげな人物に声を掛けられてきたからだ。詩織は少々警戒しつつ顔を上げた。
「どこかの社長さんなんですか? あっ、まさか、時任古書店の取引先とか?」
「いいえ、業種が違いますね。我が社はインターネットメディア業で、就職・転職サイトやファイナンス、オンライン診療、近頃は遠隔医療サービスにも進出しています」
「は、はあ……」
 よくわからないが、いずれにせよ、しがない事務員の詩織とは縁がないように思えた。
「その三田村さんが私になんの用なんでしょう?」
 男性は──貴一は少々困ったような顔になった。詩織の左手にある「律の風」に目を向ける。
「実は、その本を僕も探していたんです」
「えっ?」
「いいえ、僕がというのは間違いですね。僕の祖母がその本を読みたいと言っているのです」

 ──お茶を飲みながら事情を説明したいと頭を下げられ、詩織は何がどうなっているのかと戸惑いながらも、神田古書店街の路地裏にある喫茶店のテーブル席に腰を下ろした。
 この喫茶店は近年どこにでもあるカフェのチェーン店とは違い、純喫茶でこの街と同じくレトロな雰囲気がある。テーブルも椅子も年月に磨かれ、味わいのある琥珀色になっていた。
 詩織は真向いに座る貴一をあらためて眺める。
 やはり、惚れ惚れするほど素敵な男性である。それ以上に、やはりどこかで会った気がしてならない。
 警戒すべきなのかどうかは、ひとまず話を聞いてから決めることにした。「だから、詩織ちゃんはお人好しって言われるんだよ」と、友人や同僚に呆れられそうだが、これが自分の性格なのだから仕方がないと諦める。
「お待たせしました。ブレンドコーヒー二つになります」
 どうしようかと迷ったものの、ウェイトレスによってコーヒーが置かれ、一口飲んだタイミングで思い切って口を開いた。
「あの……三田村さん、申し訳ございません」
 お会いしたことがありませんかと聞きかけ、これでは逆ナンパになってしまうと慌てる。そこで、質問を当たり障りのないものにした。
「この辺にはよくいらっしゃいますか?」
「ええ、はい。この数ヶ月、暇な時にはよく……」
 なら、顔を見かけることがあったのだろうか。だから、既視感を覚えるのだろうか。貴一ほどの男性であれば、一目で記憶してしまうと思うのだが──そう思いつつカップをソーサーの上に置く。続いて話は早いほうがいいだろうと、エコバッグから買ったばかりの「律の風」を取り出した。
「この本がどうしたのでしょうか?」
 貴一は「律の風」の表紙に目を落とした。
「実は祖母がその本をもう一度だけ読みたいと言っておりまして……」
 貴一の祖母は現在病気で入院中であり、とにかく暇を持て余しているのだとか。インターネットやゲームなどには興味がなく、とにかく本が読みたいのだと貴一に強請ねだり、貴一はそんな祖母の頼みに答えて、毎度見舞いには文庫本を十冊は持って行くのだという。
「どうも祖母が若い頃に読んだ本らしいんです。もう一度読みたいからと頼まれたものの、とっくに絶版になっていて……」
 とっくに消えた当時の流行作家の作品なので、当然一般の書店では手に入らず、それではとインターネットで古書店を片端から調べ、問い合わせたのだがやはり見付からない。
「だから、休日や休憩にこの街に来て、自分の足で探すしかなかったんです」
「そうですか。そんな事情が……」
 若い頃に読んだ懐かしい一冊をもう一度──その気持ちを詩織はよく理解できた。詩織も幼い頃に読んだ児童文学の一冊が今でも忘れられない。
「だったら……」
 キャッチセールスではないと判明してほっとしたのもあり、詩織は「律の風」の表紙に付いた埃を払うと、「どうぞ」と笑顔で差し出した。
「お祖母さん、喜んでくれるといいですね」
「いや、ですが……」
 詩織が躊躇いなく譲ってくれたからか、貴一は目を瞬かせている。
「いただけるのでしたら、代金をお支払いします。いくらだったでしょうか?」
「どうぞお構いなく。どうせ数百円くらいだったんです」
 貴一の祖母が楽しめるのなら大した損失ではない。
 貴一は態度から詩織が金を受け取らないと悟ったのだろう。苦笑しつつも「では、ありがたくいただきます」と本を受け取った。
 ダークブラウンの瞳に甘い光りが浮かぶ。
「……それでは、代わりにコーヒー代を支払わせてください。ああ、そうだ。せっかくだからケーキも。甘いものはお好きですか?」
「は、はい。でも、それじゃかえってお金掛かっちゃって……」
 慌てる詩織に貴一はにっと笑って見せた。悪戯っこのような笑顔に、詩織の心臓がドキンと鳴る。
「実は、僕も食べたかったんです。歩いたので甘いものがほしかったんですよ。でも、全部は食べられないでしょうから」
 貴一は詩織が止める間もなくウェイトレスを呼び、ショートケーキ、モンブラン、ティラミスを注文した。
 詩織は並べられた三つの皿を前にゴクリと唾を飲み込む。ちょうど小腹が空いていたところだったし、甘いものは詩織も大好物なのだ。
「じゃあ、全部半分にしましょうか」
「ええ、そうですね」
 貴一とは今日会ったばかりなのに、恋人のような遣り取りになっているのがおかしい。詩織は一瞬ときめいたものの、すぐに何を考えているのだとはっとした。
 タレント張りの美青年の貴一に比べ、詩織はどこまでも平凡な女性だった。
 唯一自慢できるところといえば、くせのないさらさらの淡い栗色のショートボブだろうか。この髪だけは家族からも知人友人からも評判がいいが、あとは特別目立つ顔立ちでもスタイルでもなく、まったくモテないわけではないのだが、男性から頻繁に声を掛けられるということもない。
 貴一のような男性と縁があるはずがなかった。
(やだなあ。私、いくら彼氏がいないからって)
 自意識過剰は禁物だと自分を叱り付ける。貴一もちょっとした恩人だから、付き合ってくれているだけだろうにと苦笑した。
 だが、せっかくの機会なのだからと、ケーキの甘さと胸のときめきを楽しむ。
 お茶の間にお喋りに勤しんだのだが、貴一は気取りがなく話しやすい青年だった。趣味はなんと自宅での料理なのだとか。学生時代自炊にハマって以来、世界中の調味料やスパイスを揃えているらしい。
「一週間前にはパエリアを作ってみたんです。ムール貝の代わりにアサリを使ったんですが、なかなか美味かったですよ」
「へえ、美味しそう! 食べてみたいですね」
 詩織としては何気ない褒め言葉だったのだが、貴一の眼差しがふと真剣なものになった。
「なら、食べに来ますか?」
「えっ……」
月見里やまなしさんなら大歓迎ですよ。いつも一人で食べきれないほど作るので。誰かがいてくれればありがたい」
 なんと答えていいのかがわからず口籠もる。
「えっと……その……」
 冗談だろうとは思うのだが、まだ異性と付き合ったことのない詩織は、気の利いた言葉が出てこなかった。貴一はそんな詩織を数十秒見つめていたが、やがて「すみません」と苦笑した。
「……ちょっと悪い冗談でしたね。どうも月見里さんは話しやすくて、つい初対面の女性だということも忘れていました」
(なんだ。そうだよね、やっぱり冗談だよね)
 一瞬ときめいただけに、残念な気持ちとほっとした気持ちが半々だった。
 それから二人がかりでケーキを平らげ、三杯目のコーヒーを飲み干す頃には、すでに辺りは窓から差し込む夕日の朱赤に染められていた。
 腕時計に目を落としてぎょっとする。
「あっ、いけない。宅配便があるんだった」
「ああ、付き合わせてしまってすみません」
 貴一は素早く立ち上がりレジに向かった。手早く支払いを済ませる。
 二人揃って店を出る。
 詩織は「それでは」と頭を下げた。
「今日は楽しかったです。ありがとうございました。お祖母さん、早く良くなるといいですね」
「また」とは付け加えなかった。身の程知らず過ぎると自覚していたからだ。
 身を翻し駅へ向かおうとしたのだが、「月見里さん!」と背に声を掛けられ立ち止まる。
「はい、なんでしょう?」
 貴一は何かを言いかけたものの、迷ったように口をつぐんだ。
「……帰りには気を付けてください。女性には物騒な世の中ですから」
「あ、ありがとうございます……」
 詩織は貴一との触れ合いは、これが最初で最後だと思い込んでいた。名刺をもらっていたので連絡先は把握していたが、特に何かしようとは思わなかった。ときめきはしたもののあまりに釣り合わないからだ。
 だから、二週間後に再び時任古書店前で肩を掴まれた時、仰天してつい悲鳴を上げてしまったのである。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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