【試し読み】すべてを失った令嬢は初恋の紳士に愛される
あらすじ
ティーの幸福は一瞬にして壊されてしまった。強盗が押し入り、両親を殺害、屋敷に火を放ったのだ。あまりのショックに声を失ってしまったティーは血のつながらない叔父に引き取られるものの、ストレスから日に日に弱っていくばかりだった。そんなある日、オズワルドと名乗る一回り年上の紳士が訪ねてくる。驚くティー。彼はティーの初恋の人だったのだ。オズワルドはティーに自分の屋敷で共に暮らすことを提案。オズワルドの屋敷に行く決意をしたティーは、献身的なオズワルドの心遣いに元気を取り戻していく。そしてオズワルドを愛していることを自覚するのだが、彼はティーのことを家族だと言ってこの愛を受け入れてくれず――
登場人物
強盗に押し入られ両親と生家を失う。ショックにより声も失い、ストレスから弱っていくばかりだったが…
家族のように思っているティーが弱っていく姿を目の当たりにし、自らの屋敷で暮らすことを提案する。
試し読み
プロローグ
廊下を月明かりだけが照らしていた。
真っ赤な絨毯の上を走る。
とっくに息は上がっているし、苦しい。それでも侍女のメイファが手を引っ張って走るので足を止めることができない。
ほんの十分前のことだ。
ティー・アーネットの寝室にメイファがノックもせずやってきた。
主人の大事な一人娘を、彼女にしては珍しく乱暴に揺する。
「お、お嬢さま、お嬢さまっ。起きてください。早く、早く!」
なにかに怯えているようなメイファの声に飛び起きると、すぐ彼女の手によって口元を塞がれた。メイファは声を殺しながら話す。
「泥棒が屋敷に侵入したのです。お願いでございます。大きな声を出さないでくださいませ」
(ど、泥棒……!)
聞きたいことはたくさんあったが驚きですぐに真っ白になってしまった。メイファを見つめていると、彼女は口元を震わせながら真剣な瞳で迫ってきた。
「お嬢さまのことは、このメイファが命にかえてもお守りいたします。ですから、信じて私めについてきてください」
メイファは先祖代々アーネット家に仕える使用人だ。
三歳年上で、実の姉のように慕っていた。だから、信じないという選択肢は頭の中にはない。ただ、なにか最悪な状況に陥ったとき、メイファが本当に自分のために命を投げ出してしまうのではないかと思うと怖くなった。
恐怖でいっぱいになりながらも小刻みに頷くとメイファは安心したようだ。
そのまま彼女に手を引かれて、ティーはネグリジェのまま寝室を飛び出した。
(どうして泥棒が……?)
息はとっくに上がっていたが、少し待ってなんてわがままは言えない。
一階への階段にさしかかったとき、バンッと大きな音が響いて思わず二人は足を止めた。突如、金切り声が聞こえ、それが母のものだとわかるとティーは息を呑んだ。
(もしかして今のはピストルの音……? お母さまの身になにかあったの? それともお父さまに……?)
心のどこかで、メイファが嘘をついているのではないかと思っていた。普段冗談の一つも言わないメイファが、驚かせようとしているのではないか、と。
だが、泣き叫ぶ母の声を遠くに聞いて、これが現実なのだと悟った。恐ろしくて足が震えてしまう。その場で座り込みそうになったが、メイファに強く腕を引かれた。
「お嬢さま、きっと逃げ切れます。お辛いですが、走ってください」
見るとメイファも涙を流していた。いつもはクールで表情一つ変えない彼女が苦痛を耐えるように泣いていた。言葉を失っていると、さらに強く腕を引かれ、足が一歩前に出る。
再び手を引かれながら走り出し、階段を駆け下りた。
なんとか屋敷を脱出すると、建物から遠く離れた庭のはずれにある農具入れの納屋の扉を開けてメイファはティーを押し込んだ。すぐ後に扉の向こうでカチリと音がする。
「メイファ!」
扉を身体で押したが開かない。
先ほどの音が、外からかける鍵なのだと気付いたときにはもう遅かった。
「どうして私を閉じ込めるの!」
木製の扉を拳で叩く。
しかしメイファがもたれかかっているのか、扉はびくともしない。
閉じ込められているとわかるとよけいに焦った。ドアノブを何度もガチャガチャと回し、扉越しにいるメイファに呼びかけた。
そのとき、わずかな光に気が付いた。
手のひらほどの小さな採光窓からオレンジ色の光が漏れている。
(なに……?)
胸騒ぎがしていた。
夜の明かりといえば、月の光かカンテラか。しかしその光は煌々と輝いている。扉近くの木箱を踏み台に上り小窓を覗いた。
そうして、呆然となった。
ティーの頬はオレンジ色に照らされ、視線はただ一点を見つめて動かせずにいた。
「屋敷が……燃えている」
生まれ育った屋敷が、炎に包まれていた。
炎は屋敷の外壁を伝うように広がっている。
ぼんやりと、メイファが鍵をかけた理由がわかった。きっとメイファは屋敷に火がついていることにいち早く気付き、ティーが戻らないようにするため閉じ込めたのだ。
戻って、ティーが泥棒に見つからないために。
「お父さま……お母さま……」
頬を涙が伝っていった。
炎はとどまることを知らず、屋敷を焼きつくしていく。
「いや……いや……っ!」
どこかで、父や母は無事だろうと思っていた。
さきほどの銃声に似たなにかや、母のものらしき叫び声も。
きっと奇跡みたいなことが起こってみんな無事で再会できるのだと思っていた。
しかし、目の前にあるのは屋敷が炎に包まれている光景だ。
何不自由ない生活が一瞬にして崩れていく。
大好きな両親も、幸せな生活も、生まれ育った大事な屋敷も。何者かの手によって灰へと変わる。
絶望が心を黒く埋めつくす。
ティーは叫び、泣き続けた。その綺麗な栗毛色の髪を乱し、声がかれるまで。
第一章 奈落の底で
ティーは何度も同じ夢を見ていた。
屋敷の中で、なにかに追われていて必死に逃げる。
やっとのことで脱出できたかと思うと、突然屋敷が燃え始め、両親が助けを求める声が聞こえるのだ。
それなのに、身体はピクリとも動かない。
煌々と燃える屋敷から屈強な男たちが出てくるが、それを見ているだけだ。男たちの腕にはヘビとドクロのタトゥーが彫ってあった。
こちらが見えないとでもいうように、男たちは横を通り過ぎていく。
そのとき、ティーはヘビと目が合った。
「お前は逃げたんだ」
ヘビが笑った。
「お嬢さま、今日はいい天気ですね」
メイファの明るい声に目を覚ました。
カーテンが開かれ、太陽の光が部屋を満たす。
ティーはあまりの眩しさに、眉間に皺を寄せた。
(……またあの夢。眠れた気がしないわ。まだ寝ていたい)
悪夢にうなされ、寝汗をかいていた。
気持ちわるさを感じつつ、もぞもぞと窓に背を向けると、メイファに毛布をはぎとられてしまう。
「ダメですよ。今日はお客さまがいらっしゃるんですから」
(……ああ、そういえばそうだったわね)
今日の予定を思い出すとみぞおちの奥が痛み始める。
それでも寝ていられるような立場ではなく、身体をゆっくりと起こした。
「お嬢さま、そんな不安そうな顔、らしくないですよ。きっと大丈夫ですよ。ブラックストン伯爵の長男のティオンさまはとても優秀なお方だとお聞きしております。お見合いが上手くいって、結婚して、そうしたらきっと幸せになれますよ」
(……メイファの言う通りね)
肩をすくめて口元を緩めた。
(私とお見合いをしたいと言ってくれるだけでもきっとすばらしい人だわ)
「さぁ、お嬢さま! とっておきのドレスを着ましょう!」
メイファが補助しながら立たせてくれる。
強盗に両親を殺され、屋敷を焼かれてから約一年の月日が流れていた。
あの日、夜が明けて警備隊が駆けつけたが、屋敷はすでに炭と化し、肝心のなにが盗まれたのかもわからない。
納屋で発見されたティーは、衰弱し声を失っていた。
すぐに病院へ運ばれ「精神的なショックでしょう。安静にしていればじきによくなるはずです」と診断された。
しかし、ティーには長期入院するための資金を用意する方法も、療養するための家ももうない。
そんな彼女を訪ねたのは叔父だった。
叔父といっても母の妹の嫁ぎ先で、ティーにとって血縁である叔母はすでに亡くなっている。ティー自身も叔父に会うのは初めてだった。
父カールと母ジュエルは家族の反対を押し切り、駆け落ち同然で結婚したため、ティーは親戚に会ったことがなかったのだ。
叔父はティーの事情を知って同情し、一緒に住まないかと提案してくれた。
ティーは戸惑ったが選べる立場ではなく、これからどうしていいかもわからなかったため叔父の屋敷で世話になることになった。
しかし、初対面である叔父と暮らすことは思ったよりも困難なことだった。
叔父もメイドもティーによくしてくれるが、どこかよそよそしい。
突然やってきた若い女性にどう接すればいいか戸惑っているようだった。
ティーもまた叔父という存在が初めてで気を遣ってしまい、それから数か月経っても慣れることはなかった。
「お綺麗ですよ。お嬢さま」
メイファに声をかけられ、意識が現実に引き戻された。
鏡越しに、ティーの姿が映る。
ふわふわの柔らかな茶色の髪。少し困ったように見える下がり眉。大きなクリッとした瞳は父似。ふっくらとした唇や小さな顎は母似。
年を重ねるごとに母に似ていく。
自分の顔に亡き両親を思い出し、悲しさがこみ上げてくる。
今着ている上等なレース生地で作られた薄桃色のドレスはところどころ窮屈だ。
あの事件の日の昼。
仕立屋に頼んでいたものである。
保護された後の病院でドレスを受け取ったときは、これが両親からの最後のプレゼントになるだなんて想像もできなかった。
叔父から新しいドレスを仕立てることを何度か提案してくれていたが、負担になりたくなくて必要最低限のものしか受け取らなかった。
「お嬢さまはお顔のパーツが整っていてお美しいから、紅を引くだけで見違えますね」
ただただ明るく、メイファが話しかけてくれる。
(メイファには本当によくしてもらっているわ。あんなに辛いことがあったのに、私を見捨てないでずっと一緒にいてくれる。そんなメイファのためにも今回のお見合い、なんとしても成功させなくてはいけないわ)
唇をキュッと結ぶと、メイファがティーの腕をそっと擦った。
「お嬢さま、リラックスです。そして、愛されるコツは愛嬌ですわ」
愛嬌、と言われてきょとんと首を傾げる。
(声が出ないのに、愛嬌……?)
「今は声が出なくても、上品にほほ笑むことは大事ですよ。お嬢さまの笑顔を見れば、きっとお相手の方も心奪われるはずです。そうして二人は恋に落ちるのです。その男性はお嬢さまを心の底から大事にしてくれて、ある朝目が覚めると声が戻って……」
メイファが自分の世界へ入っているのを見て、ティーは目を細め口角を上げて笑った。
それでも気分が晴れることはない。今日の見合いのことを考えると、みぞおちの奥が痛くなる。
この見合いも叔父がよかれと思って用意したものだったが、医者の言う安静とは程遠く、声が戻る兆しはない。
「いけない! そろそろお時間です。お嬢さま、行きましょう」
メイファに急かされ、ティーは席を立ち部屋を出た。
ほんの少しだけ、相手が素敵な異性であるように期待しながら客間へ向かう。
「はぁ……」
見合い相手の溜め息にティーは縮こまってしまった。
その相手とは、父の古い友人であるというハイネ・ブラックストン伯爵の長男、ティオンである。
ハイネのことは覚えている。
いつも陽気な父が、ハイネを見るとやや困った顔をするのが印象的だった。
長男のティオン・ブラックストンと会うのは初めてだ。小太りなハイネとは違い、全体的にほっそりとしている。ウェーブした長い黒髪を後ろでくくり、切れ長の瞳とつり上がった眉が不機嫌そうに見えた。
ティーが二人の前に腰を下ろすとすぐに、ハイネが媚びるように手を擦り合わせ「せっかくの見合いだ。私は退散しようかな」と立ち上がった。
扉から出ていくとき、念を押すように「ティオン! しっかりやるんだぞ!」と言った後、ティーには格別の笑顔を送り、メイファをも外に出るように促して退散していった。
そういう経緯もあり、見合い相手に大きな溜め息をつかれてしまったのだ。
「……俺さぁ」
ティオンはソファにもたれかかりながら、けだるそうに窓の外に視線をやった。
こちらの目すら見たくないと言うように。
「この見合いに魅力を感じてないんですよねぇ。だって、俺に得が一つもないじゃないですか」
「……」
動揺を隠しきれず、ティーの瞳は揺れる。
返事のないことに苛立ったティオンが、ちらりと見る。
「ああ、そういえば話せないんだっけ? なら、かしこまった話し方をする必要はないか」
クスクスと笑うティオンに恐怖する。
初めて向けられた敵意だった。
今まで、両親が亡くなって財産も言葉も失い、陰口を言われることはあった。
それでもティーの目の前に立てば、それなりの扱いをする。
だが、ティオンの言動で改めて思い知らされることになった。
(この方にとって、私は取り繕う価値がないんだわ……)
緊張と不安で身体に力が入ってしまう。
(声が出れば文句の一つでも言えたのかしら。……いいえ。無理ね……)
「だからさぁ!」
大きな声にハッと我に返るとティオンの顔がすぐ近くまできていた。
どうやらぐるぐると同じことを考えている間にもティオンは話し続けていたらしい。
「アンタが言ってくれよ。俺とは結婚したくないって」
言ってすぐに気付いたようだ。
「あ、そうだ、声が出ないんだ。じゃあ、どうすればいいんだ?」
しかし考えるのが面倒になったようで「まあいいや。文字は書けるだろ? なんでもいいから辞退して」と肩をすくめた。
「ん? でもよく見たら顔は悪くないな。……残念、話せないならマネキン同然だよね。そうだ。気が向いたら、愛人にならしてやってもいい」
鼻でせせら笑うと立ち上がり、ティーを置き去りにしたまま去っていった。
扉が音を立てて閉まり、現実に引き戻される。
(あ、愛人……)
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
あまりの言葉の暴力に反応すらできなかった。ただティオンが出ていった扉を見つめることしかできない。
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