【試し読み】氷の公爵は黒百合の毒婦を愛して離さない
あらすじ
黒百合の毒婦──手段を選ばず、瞬く間に公爵夫人にまでのぼりつめたリネットを貴族たちはそう呼んだ。とある事情から、爵位と後見人を次々と乗り換えて成り上がったリネットは、ついに若き公爵・ギゼイルの妻となる。その婚姻は彼を罠に嵌めた結果のものだったが、リネットの思惑を知ってもなお誠実に、優しく接してくれるギゼイルにリネットは惹かれていく。しかし一方で彼を利用している罪悪感も膨れ上がっていった。そして、目的を果たしたのちギゼイルのもとを離れようと決意した夜。「悪いが、逃がすつもりはない」ギゼイルはリネットを熱く求め、二人はようやく結ばれた──かのように思えたのだが、未だ互いに秘密を抱えていて……?
登場人物
美貌を武器に手段を選ばないやり方で成り上がった為、貴族からは「黒百合の毒婦」と呼ばれている。
王太子の筆頭補佐官を務める若き公爵。罠に嵌められる形でリネットと結婚せざるを得なくなるが…
試し読み
序章
ギゼイル・ラグノア・バルツァード様。
まずはじめに、あなたにとって、私は決して良い妻ではなかったことを深くお詫び申し上げます。
それにもかかわらず、あなたには多くの配慮をいただき、心から感謝しております。
この恩をお返しできずに去る私を、どうぞお許しください……
そこまで書いてリネットはペンを持つ手を止めると、便せんを取り上げて細かく千切り捨てた。
今更、何を書き残すつもりだったのか、自分の都合のために彼の人生に土足で踏み込み利用したくせに、最後に未練がましい謝辞を述べて許されようとするなんて、あまりにも虫が良すぎる。
こんな手紙を残せば、夫、ギゼイルは少なからず気に病むだろう。
間違いなく彼は夫として誠実な男性だった。
たとえ出来の悪い妻だったとしても、その身を案じるくらいのことはきっとしてくれる。
一見冷徹に見えながら、実は優しい男性であることを今のリネットは知っている。
だからこそ、そんな彼にはなんて酷い女だと、勝手にしろと思わせるくらいでちょうど良いのだ。
静かに目を閉じた。
細く息を吐き出して、改めてたった一行の言葉を書き残す。
後のことはあなたの良いようになさってください。全てをお任せいたします。
便せんの一番下に自分の名を書き記し、手早く封筒に収めた。
伝えたいこと、言いたいことはたくさんあるような気がするけれど、多分それらは彼に告げてはならないことでもある。
封筒を机の中央に置くと、リネットは自分の中の未練を振り切るように視線を手紙から引きはがして背を向け、足元の旅行鞄を持ち上げた。
鞄はさほど重くない。入っている物は少しの着替えと、日用品、そして少しのお金……それだけだ。
部屋の壁際に置かれている姿見にふと視線を向けると、地味な金髪の女が一人映り込んでいた。
身に纏うドレスも、その上に羽織っているコートもなんの特徴もない、丈夫なだけが取り柄の平凡な品。
今は、キツい厚化粧も、その身を飾る宝石も何もない。
でも、それが本来のリネットの姿だ。
きっと今のこの姿を見て、社交界で『黒百合の毒婦』とその名を知らしめたバルツァード公爵夫人その人だと気付く者は殆どいないだろう。
「……さようなら、ギゼイル様」
小さく呟いて、部屋を出た。
夫は今夜も屋敷へは戻れないという報せを受けたばかりだ。
使用人達には、早めに休むように命じ、あらかじめ夕食時に、日頃の労をねぎらうという名目で上等な酒を振る舞っておいた。
口当たりは良いが強い酒のおかげで、きっと今頃はもう多くの使用人達が眠りについているか、起きていたとしてもごく一部だろう。
その証拠に、耳を澄ませても廊下は静まり返り、誰の気配も感じられない。
けれどいつ人が来るかは判らない。急いでここから離れてしまおう。そう思うのに、なかなか足が思うように動かず、頭の中に今朝出かけていく姿を見送った時の夫の姿がちらついて消えてくれない。
お互いに、望んで結婚したわけではなかった。
ギゼイルにとっては責任を取るために。リネットにとっては目的を果たすために。
必要に駆られてやむなく受け入れた夫婦関係のはずなのに、今リネットの心は確かに夫への未練でこの足を鈍らせようとしている。
頭の中に、何度もずるい考えが浮かんだ。
良いじゃない、と。
このまま知らん顔をして、彼の妻の座に納まっていれば良いでしょう、と。
そしてもっと時間を掛けて、彼と本当の夫婦になれるよう絆を深めていけば良い。
そうすれば、いつかは彼も愛してくれるかもしれない。その腕に、抱いてくれる時が来るかもしれないわ、と。
けれど、すぐに頭を振る。
最初から自分の目的が叶ったら、速やかにこの世界から身を引こうと決めていたではないか。ここは自分が生きていく世界ではないし、これ以上ギゼイルの元にいても、彼のためにはならない。
きっとお互いにこれ以上深入りしないうちに離れるのが、一番良いのだ。
廊下の窓越しに、細く弓の形を描く、青白い月を見上げた。
あの人は、まるでこの月のようだ。物静かで、気高く、そっと心に寄り添ってくれる月の光のような人。
そう感じた途端、ほんの少しだけ目頭が熱くなった。
リネットの頭の中に、これまでの出来事が蘇る。自分のこと、家族のこと、夫との出会い、そして結婚とその後のこと。
ひとつひとつはっきりと、まるで昨日経験したことのように。
第一章 その全てがはかりごと
ざわざわと賑やかな人々の声、優雅な楽器が奏でる音楽、たくさんのドレスの衣擦れの音。
いくつもの燭台に灯された蝋燭の明かりが、頭上から下がるシャンデリアのクリスタルに弾かれて、キラキラと宝石のように輝いている。
この場にいる全ての人を収容してもまだ余裕のあるダンスフロアの天井を支えるのは、等間隔で並ぶ、様々な女神達の姿が刻まれた巨大な彫刻の柱だ。
女神達と共に柱に絡みつくように施された花の模様が天井まで這い上り、輝ける太陽神とその妻が描かれた天井画を華々しく彩っている。
その天井画のちょうど真下に、二人の男性がいた。
多くの人々に取り囲まれ、その場の殆ど全ての視線を浴びるように身に受けている二人は、どちらもまだ二十代半ばから三十手前の若い青年だ。
一人は太陽の光を集めたような金色の髪を、もう一人は夜の闇をかき集めたような漆黒の髪をしている。
どちらも惚れ惚れとするほど美しく精悍な男達だった。
甘い表情と美貌で人懐こく人々に微笑み掛ける金髪の青年は、まるで頭上の太陽神がこの世に降臨した姿のようで、その神々しさに近づきたいのに恐れ多くて気安くは近づけない……そんな人々の様子が窺い知れる。
その青年に寄り添うように傍に控える黒髪の青年は対照的だ。整った容姿の持ち主なのは金髪の青年と同じだが、その質が違う。
上質な衣装の上からでも判る、適度に鍛えられたバランスの良い体格の持ち主で、隣の金髪の青年より少しだけ背が高い。
殆ど感情の見えない物静かなその表情は凪いだ海のようで、眼鏡の奥の切れ長の眼差しが、どこか近寄りがたい雰囲気を与えて近づこうとする人々の足を鈍らせる。
金髪の青年が太陽ならば、黒髪の青年の方は月のよう。まるで対となる二人に共通しているのは、どちらも人の上に立つことを約束された人物であること。
当たり前だ。金髪の青年の方はこの国の王太子であるエセルバート王子、そしてもう一人の黒髪の青年はその王太子の筆頭補佐官を務める若きバルツァード公爵。未来の王であり、宰相となるだろうと言われる二人である。
周囲の男達は少しでも彼らに気に入られようと顔と名を売るために二人の元に集う。
また、娘達にとっても最高の夫候補である。
より美しく、より近くに。大輪の色鮮やかな花々のように身を飾り立てた令嬢や親達が、二人の目に止まるよう懸命に健気な努力を繰り返しているのが遠目でも判る。
そんな人々の姿を、リネットは少し離れた場所から見つめていた。
憎らしいほど完璧な男達だと思った。
見目も良く、身分も高く、財力にも恵まれた彼らは、きっと一生食べる物や着る物、住む場所に困ることはなく、大きな挫折や屈辱を味わうこともなく、たくさんの人々に当たり前のように傅かれて生きていくのだろう。
自分とは住む世界の違う人間だと、そう思った。
どこまで進んでも決して交わることのない平行線上にいるような、そんな人達。
けれど今のリネットはあの二人のどちらかに近づき、そして自分の望む情報を手に入れなくてはならない。
かたや世継ぎの王子、かたや貴族の中でも最上級階級の若き公爵。
たかだか男爵令嬢としてデビューしたリネットの手の届く相手ではない。ましてその男爵令嬢という身分も借り物でしかないのでは、まともな手段では足元にも近づけない。
誰もが言うだろう、身の程を知れ、立場を弁えろと。
そんなことは嫌と言うほど判っている。それでもあえて近づかなくてはならない。
王太子付きの書記官として王宮に勤めていた兄、クラウスが半年程前のとある日、忽然と姿を消していたからだ。
王宮の、王太子の元に登城したのを最後に。
リネットと兄のクラウスは、ともにエルダー伯爵家で生を受けた兄妹である。
しかし嫡子であるクラウスとは違い、リネットの生まれは少々複雑だ。
母、イリーゼは社交界でも有数の華と称賛されるほど美しい人だった。
娘の目から見ても繊細でどこか儚げな母の美貌は、純白の百合にたとえられ、多くの男性の目を惹き付け、そして庇護欲をかき立てたらしい。
幾人もの貴公子が母の前に膝を付き、愛を囁き、そしてその愛を請うたと聞く。
そうした求婚者達の中で、母が手を取ったのは家を継いだばかりの若き青年、エルダー伯爵だった。
結婚して間もなく伯爵に良く似た息子を授かり、夫と息子とともに穏やかで幸福な日々を送っていた母の幸せは、けれど長くは続かなかったらしい。
貴族の男の一人が、母の美貌に惹かれて懸想したのだ。
とはいえ、既に母は他人の妻である。密かに誘いかけられても、その誘いに決して応じなかった。本来ならそこで終わるはずだが、なんとその貴族は恥知らずにも、ならばエルダー伯爵の方から妻を自分に差し出せ、と要求したのである。
母にとって不運だったのは、その貴族が力のある上級貴族であったこと。そして……その貴族の要求に、伯爵が従ってしまったことだ。
夫としてエルダー伯爵は妻を守ることもできたはずだった。
けれど不当とも言える貴族の圧力を前に、あっけなく伯爵は膝を折った。脅されたか、破格の報酬でもちらつかされたか……恐らくその両方なのだろう。
つまり母は、夫に売られたのだ。
そしてその結果生まれたのが、リネットだったのである。
きっと母にとって自分の誕生は心から望んだものではないだろう。屈辱の証として生まれた子の顔など、見ずに済むならその方が良かったに違いない。
それでも母は、産まれた子に罪はない、大切な我が子だと、リネットを愛してくれた。
兄もまた、妹としてリネットを慈しんでくれた。
しかし、伯爵は違った。元々は自分が強要した結果とはいえ、実際に他人の子を産み、我が子として腕に抱く妻の姿を間近にして伯爵はその現実を受け止めることを拒絶した。
そしてとうとう、リネットが五つになった頃、母とリネットを屋敷から追い出し、実家へと帰してしまったのだ。その子供は、自分の子ではないと母を詰って。
当時既に家督を継いでいた母の実弟は、母を夫以外の男を誘惑する恥知らずな女だと激しく怒り罵った。
そしてリネットもお前は不義の子だ、忌まわしい悪魔の子だと毎日辛く当たられていたので、詳しい事情は判らないまでも、物心つく前から自分が望まれて産まれた子ではないことを、既に知っていた。
叔父に毎日のように罵られ、その妻に子供達、使用人にすら虐げられる男爵家での肩身の狭い生活がどれほど続いた頃か。苦しい日々を強いられる母とリネットの二人を見ていられないと屋敷から連れ出してくれたのは、母の乳母であった女性である。
そうして母とリネット、そして乳母の三人は王都の下町に小さな家を借りて、自活することとなったのだ。
簡単に想像が付く通り、決して楽な生活ではなかったはずだ。
貴族の娘として育ち、伯爵夫人にまでなったはずの母は、労働はもちろん家事だってしたことのない人だった。
それでも母は文句の一つも口にせず、懸命にリネットを育ててくれた。
母の美貌は市井の中でもひときわ目を惹き、子供がいても構わないと求婚してくる男性は幾人もいたし、金持ちの商人が何度も通ってきては愛人にならないかと誘い掛けていたのを知っている。
けれど母はそのいずれの誘いにも頷かず、ただ子供を愛し、その子供を育てるために精一杯日々働き、そして伯爵家に残してこざるを得なかった息子のことを思って胸を痛める愛情深い母親であり続けた。
だからこそリネットは成長するにつれて不思議に思えて仕方なかった。
自分は誰の子なのか。どういった事情で生まれてきたのかと。
けれど母はそのことに関しては決して口を開かない。一度だけ訊いてみたことはあったけれど、見る間に強ばり、悲しげに曇っていく母の顔を見てしまっては、それ以上尋ねることはできなかった。
そうした生活に転機が訪れたのは、リネットが八歳になった頃だ。リネットの異父兄であるクラウスが、父親の目を盗んでこっそりと母の行方を探し出し、訪ねてきてくれたのだ。
成長して現れた兄の両手を握りながら、声を上げて泣き崩れる母の姿を見たのは、後にも先にもその一度きり。
「ごめんなさい……クラウス、ごめんなさい……!」
嗚咽混じりに謝罪を繰り返す母を抱き締めて、兄は優しく囁くように答える。
「良いんです。僕はちゃんと知っています……あなたが悪いわけではない。どうかそんなに泣かないでください、母上」
母と呼ぶ息子の声に、イリーゼの涙はしばらく収まらない。そんな母の背を兄は落ち着くまでずっと擦り続けている。
あまりにも小さな頃に別れてしまったため、リネットに兄の記憶は殆ど残っていなかった。それでもうっすらと、小さな自分の傍に小さな男の子が寄り添ってくれていたことは何となく覚えている。
母と兄の二人の間を邪魔してしまうようで、少し離れたところでもじもじとしていると、それに気付いたクラウスがリネットにも優しく微笑んで、その手を差し伸べてくれた。
「リネットだね。僕を覚えているかな。お前の兄の、クラウスだよ」
「……クラウス、さま?」
「できれば兄さんって呼んで欲しいな。たった二人きりの血の繋がった兄妹なのだから」
そう言われた途端、思わずわんわん泣き出してしまったことを今でもはっきりと覚えている。大切な家族との、温かな記憶だった。
それから兄は定期的に母とリネットの元を訪ね、その度に生活費の援助をしてくれるようになった。当時兄もまだ十四歳、自由に持ち出せる金銭など殆どなかったはずだが、唯一使用人の中で事情を知る執事が兄に協力してくれていたらしい。
その援助にどれほど救われたか判らない。
そしてクラウスが訪ねてくるようになって三、四年が過ぎた頃。
「お兄様。私、本当のことが知りたいの。今までずっと、母様には訊けなかったけど……昔何があったの? そして……私の、本当のお父様は誰?」
「リネット。それは、知っても楽しい話にはならないよ」
「それでも良いの。何も知らないより、ずっと良い。お願い、お兄様」
どうしても本当のことが知りたいのだと詰め寄ったリネットに、母親の、それも男女の生々しい事情を答えても良いものかどうかクラウスは相当に悩んだらしい。それでも結局はリネットの要求に折れた。
リネットが決して諦めようとしなかったせいもあるだろうが、きっと息子として母が望んで不貞を犯すような女性だとは、妹に思わせたくなかったのだろう。
兄曰く、自分も知っていることには限りがある。リネットの実父が誰なのかも判らない、と前置きした上で、言える範囲のことを教えてくれたのだ。
全ての話を聞き終えて、リネットの胸に湧き上がったのは顔も覚えていないエルダー伯爵に対する怒りと、母を傷つけた貴族に対する憎悪、そして貴族というものに対する強い拒絶だ。
力があれば、何をしても良いのか。
力を示されれば、どんな要求にも応えるのか。それが自分が望んで迎え入れた妻を差し出すことであっても……貴族とは、そういうことが容易くできる生き物なのかと。
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