【試し読み】転生したのに、前世の恋人に忘れられています。
あらすじ
「生まれ変わったら、今度こそ幸せになりましょう」一国の姫だったルチアは護衛騎士のレイと身分を越えた禁断の恋に落ちた。敵国に攻め込まれる前の最後の夜、二人は愛し合い、そして命を落とした。ルチアは記憶を残したまま現代の日本に生を受け、レイを探し続けてきたけれど、気づけば28歳。これ以上はもう待てない──そう思い始めた頃、勤務先で一際目立つスーツ姿の男性と出会う。全身の毛が逆立つような感覚。胸の奥が熱くなって身体中が細胞レベルで歓喜する。一目でわかった、レイだ! やっと出会えた。私の運命の人! しかし……「誰だ?」──レイともう一度会うために生まれてきたはずのルチア。それなのに、忘れられてる……!?
登場人物
守時光莉(もりときひかり)
前世では一国の姫だったが、敵国に攻め込まれ命を落とし、現代日本へ転生する。
月咲玲司(つきさきれいじ)
前世はルチアの護衛騎士。同じく現代日本に転生し、光莉の勤務先で再会するが…
試し読み
1.前世の記憶
──ああ、またこの場所だ。
真っ暗闇の中で意識だけがはっきりする。私は目だけの存在になって、ゆっくりと宙を漂う。
ここは遥か昔、現在ではないどこか。空には月も星もなくて、私のいる場所より高い建物も街を照らす灯りもない。
私は窓辺に佇んで外を見ていた。遠くでチラチラと揺れているのは松明だろう。その光が、周囲と同化した山の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
ふいに、背後から抱き締められた。
「姫様」
耳元で囁かれた男の声に、イヤイヤと小さく首を振る。
──違う、そうじゃなくて……名前で呼んでほしい。
身体の前に回された手に自分の手を重ねて、声の先へ顔だけを向ける。
「ルチア……」
暗闇でもわかる輝きを帯びた瞳と視線がぶつかって、今度こそ男は私の名を呼んだ。
ルチア──それが、私の名前。
陽の光に透けると金にも銀にも見える髪に、澄んだ空色の瞳が自慢だった。だけど、この暗闇では誰に披露することもできないだろう。
でも今は、目の前のたった一人の瞳に留まっているのならそれでいい。
するりと武骨な手が頬を撫でる。私も身体を翻し、背の高い彼を迎えるように顎を持ち上げ、お互いの唇がゆっくりと重なり合う。
「……レイ……」
キスの合間に、愛しい人の名を呼ぶ。
口づけをしながら、レイは私の身体を大事そうに横抱きにする。彼の動きに合わせて、薄いドレスの裾が踊るようにふわりと揺れる。それから、私を寝台の上に優しく横たわらせて、膝をつきながら慎重に覆い被さってくる。
二人分の重みで、ベッドがギシリと軋んだ。
レイは私を護衛する騎士であり、この世でただ一人の想いを寄せる相手。
闇に溶け込む黒髪に、同じ色の切れ長の瞳。愛おしげに見下ろされる表情には優しげな微笑みを湛えているけれど、どこか寂しげでもあった。
だけども決して逃がすつもりはないのだと、再度深く口づける。
「ん、ふ……」
僅かな隙間から差し込まれた舌に自分のそれを絡め取られ、上顎や歯列の裏まで丁寧に舐めあげられる。お互いの吐き出した息すら惜しむように、きゅっと頭を抱き締め合って強く密着する。
身分を越えた禁断の恋に落ちたのは、いつだったか。気がついたときには、お互いに惹かれあっていた。しかし、それぞれの立場から、その想いを口にすることはなかった。
──たとえ姫が、敵国の王子から婚約者として望まれても。
だが、二人はついに均衡を破った。
夜が明けるまでの僅かな間。すべてを忘れるように唇を合わせ、身体を重ねる。
「あ……っ、ん、あ、あ……あっ、ああっ」
私の口からは絶え間なく嬌声が上がる。レイの唇は首筋や乳房を容赦なく貪り、誰に見られても構わないとばかりに次々と所有印を残していく。肌は汗ばみ、お互いの身体がぶつかるたびに湿り気を帯びた音がした。
もう、どちらの熱か匂いかもわからない。だけど、胸の鼓動だけはやけに鮮明で、激しく切なく痛んでいる。一番深く、誰よりも近いところで彼と繋がって、瞳からは生理的な涙が零れた。
「……っ、ルチア……ルチア、愛してる」
愛おしげに名前を呼ぶ、この世で最も愛する人の声。
「私も、愛してる。愛してるわ、レイ」
愛している──あなただけを、誰よりも。
これから先も、ずっと……。
「ルチア……、永遠に、きみと──」
永遠がないことなど、二人とも悟っていた。
周囲は敵国の兵に囲まれ、明日にはすべてが終わる。
──だから今だけは、ただの男と女として。
「生まれ変わったら、今度こそ幸せになりましょう」
空が白み始めるまで、二人は何度も愛し合った。
魂と身体が切り離されても、深く深く結びついて、片時も離れずにいられるように──。
*****
PPPPPPP……。
規則正しい電子音で目を開けば、城壁を思わせる冷たい石壁ではなく、茶色い板の列に電気の傘がぶら下がった築五十年のアパートの天井だった。
ベッドから起き上がって大きく伸びをすると、足元で丸まっていた黒猫もゴソゴソと動き出す。
「おはよう、レイ」
「ニャー」
カーテンを開けばごく普通の現代日本の町並みが広がって、テレビではお天気お姉さんが笑顔で今日の気象情報を伝えている。
この世界の日常が、当たり前のようにそこにはある。
──そう。さっきまでの光景は、私が見ていた夢だ。
だけどただの夢ではない。淫夢と呼んでいい部類ではあるが、大事なのは、あれが私の記憶であるということ。
あれは私──守時光莉が、この世界に生まれてくる前の記憶なのだ。
中二病が炸裂したわけでも、ある日突然夢に見るようになったのでもない。世の中には異世界転生や異世界トリップといったジャンルの話が溢れているので、逆パターンがあってもおかしくないと思っている。
とにかく、私には前世の記憶があって、そこではルチアという名前だった。
繰り返すが中二病ではない。だとしたら、発症時期があまりにも早すぎる。
記憶と現実が結びついたのは、私が幼稚園児だった頃。祖父母と古い映画を観ていて、男女の濡れ場を指さしながら『あー! これだぁ!』と叫んだら、祖母は赤面して祖父は泣いた。
あれ以来、私はこの記憶のことを公にはしていない。
そのうちアレがどういうシーンなのか、嫌でも知ることになったからね……。
「それにしても、今朝もエロかった……」
誰もいない部屋で独りごちて、身体に籠もった熱を吐き出す。
昔はあそこまでリアルな夢ではなかった。せいぜい抱き合ってキスをして、自分の上で男が腰を振っている程度だったのに、年を取るごとに濃厚になっていくのは、欲求不満だからだろうか……?
そもそもセ○クスシーンばかり思い出すのは、あれがルチアの人生のハイライトだからだ。
あの後、敵国に攻め込まれて二人は命を落とした。敵に囲まれた状態で朝までヤりまくるのかという突っ込みどころもあるが、ルチアにとってレイと過ごしたあの夜が、最高で最後の幸せな時間だったのだ。
そして私は『生まれ変わったら今度こそ幸せになりましょう』との約束を胸に、現代の日本に生を受けた。
ちなみに、前世持ちだからといって過去の記憶が役に立つことは皆無である。現代の知識を持って異世界に行けば役立ちそうなのだけど、逆パターンでは文明の進化には到底追いつかない。現代の私はドレスも着なければ、舞踏会で踊ることもない。せいぜい体育の授業でフォークダンスを踊って、筋が良いと褒められる程度だ。
それに、すべての記憶があるわけでもなく、亡国の知識など世界史の授業でも使いどころがない。
つまり私は、ごく普通の日本人なのである。
髪の色は栗色だけど、この程度は掃いて捨てるほどいる。瞳の色は若干青みがかった黒なので、もしかすると外国にルーツがあるのかもしれないが、真相はわからない。
なぜなら、私には前世の記憶はあっても両親に関する記憶がない。
祖父母曰く、母は近所では有名な不良娘だったそうだ。家を飛び出して水商売で生計を立て、ある日誰が父親ともわからぬ子供を身ごもった。女手ひとつで立派に子供を育て──ることはなく、ふらりと舞い戻った実家に幼い赤ん坊を預けて、『ちょっと出かける』と言ったきり今も戻ってきていない。
祖父母にとって、母は遅くにできた大事な一人娘だった。だから必要以上に過保護に接して、行動を制限して締め付け続けた結果、彼女はグレた……。
自分たちの行動を反省したのだろうし、父親のわからない私が不憫だったのかもしれない。その上、性教育どころか義務教育も受けていない段階で男女の濡れ場を知っていると宣うものだから、『この子はなんて劣悪な環境で生まれたのか!?』と、ひたすらに愛情を注いでくれた。
学校が終われば真っ直ぐに帰宅を促し、部活動もバイトも禁止。悪い仲間と関わらないよう交友関係にも口を出し、特に異性に対してはチェックが厳しく──これって反省してなくない?
とはいえ、現状に不満はない。ルチアはずっとレイとの身分差に悩んでいた。姫と騎士という縛りがなければ、もっと早くに彼と結ばれて幸せになれたかもしれなかったからだ。
だから、次に生まれるなら彼と同じ平民になりたかった。豪華なドレスも宝石もいらない。たくさんの使用人に傅かれた何不自由ない生活より、貧しくてもいいから平凡になりたい。そう願った結果……なんか、世間的には、ちょっと不幸になった。
親の愛は知らず祖父母の束縛はきつかったけど、なにせ前世は姫である。行動を制限されるのも、付き合う相手を限られるのも慣れっこで、まして前世の恋人を覚えているのだから、新たな出会いを求める暇なんかなかった。
物心がついてからは、私はレイを探した。とはいっても、日本や世界を飛び回るわけではなく、町内をチャリで流したり、彼に似た人がいないかを目で追う程度だ。
──だって、未成年だったから!
だがそんな狭い範囲で見つかるはずもなく、成長した暁には運命の相手を探す旅に出かける予定でいた。
しかし結果として、私は地元の学校に通って、地元の会社に就職する。祖父母の強い希望があったためでもあるが、一番の理由は彼らの老いだ。年々弱っていく二人を残して、遠くに行く決断はできなかった。
それでも、定期的にあの夢を見るくらい、レイを忘れた日は一日だってない。
彼は今、なにをしているだろう。同じ時間に命を落としたのだから、生まれ変わるなら時差はないはずだ。前世ではレイは私より二つ年上だったけれど、今世では同い年かもしれない。やり手のサラリーマンか、騎士だった前職を活かして警察官や自衛官として働いているのだろうか──そんな妄想だけで、私の胸は期待で躍りまくった。
前世の記憶を持って生まれるほど、ルチアはレイを愛していた。もちろんレイだって同じ気持ちだ。
だから、大丈夫。わざわざ探しに行かなくても、きっと私たちは巡り会う。
運命とは、自らが望まなくとも向こうからやって来るものなのだ。
やがて祖父が他界し、半年後には後を追うように祖母も逝った。二人の葬儀にも母は現れず、三人で暮らした家を処分してアパートを借りた。
1DKの古いアパートに猫一匹、それが、私のすべて。質素で慎ましやかで、男っ気のない人生で、気がつけばもう二十八歳──運命の恋人は、未だに現れない。
「もしかしてレイは、この世界には生まれていない?」
「ニャー」
「ああ、ごめん。あんたじゃなくて」
独り言に応えた猫の頭を撫でると、気持ちよさそうに尻尾を振る。その愛くるしさに癒やされても、いつの間にかできた喪失感を埋めるにはまだ時間がかかりそうだ。
ここまでくれば、諦めというものも生まれてくる。
ルチアは外国人然とした容姿だったが、今の私にその要素はない。
この世に生を受けて二十八年。コンビニでアルコールを購入しても年齢確認されなくなって、つるつるだった肌も乾燥が気になり始めた。ちょっとくらい夜更かししても平気だった体力は翌日に怠さを伴うようになり、にきびや傷の治りも遅くなった。
まだ焦る年齢ではないと思う。でも、若者かといえば違和感があって、大人の女性と呼ばれるにはまだ足りないような、微妙なお年頃だ。
ルチアが命を落としたのが十八歳で、すでに十年上回っている。十年という歳月はあまりにも大きい。金髪碧眼でなくとも、十代の頃はまだ余裕があった。前世の容姿もカバーできると思わせるほど、若さは武器だった。
でも、ピチピチだったのは遠い昔。少女の面持ちすらも消えた私から、ルチアの面影を見つけるのは至難の業だろう。これから先に出会ったとしても、レイは私に気がつかないかもしれない。
会いたい気持ちは変わらないけれど、これ以上はもう待てない。
だって、このまま中年や初老になって再会するなら、来世に賭けたほうがマシじゃない?
それに、しわくちゃになってから、この世で初めての恋人ができても……。
「──にゃああ」
ぼんやりしていたら、足元にまとわりつく柔らかな感触に意識を元に戻される。見るとレイがパジャマの裾に噛みついて、ぐいぐいと引っ張っていた。
『のんびりしていないで、早く支度をしてください』
そう言って催促しているようだ。
「そうだった……仕事に行かなきゃ」
お利口なレイの頭を撫でて、水とキャットフードを用意してから身支度に取りかかる。
『姫様は大変おおらかですが、待たされる身にもなってください』
人の記憶は声から忘れるというのに、レイの言葉がすぐそばで発せられたように脳内で蘇る。支度に手間取って待たせるたびに、よくお小言をもらったものだ。
──だけどね、レイ? その言葉、そっくりそのままお返しするわ!
今じゃすっかり、私のほうが待ちぼうけしてるんだから。
「なるべく早く帰るから、留守番よろしくね?」
「ニャー」
一緒に暮らし始めてそう長くないのに、レイは聞き分けも良くて大人しくて手がかからない。悪さをすることもなく、普段は静かに私のそばに寄り添っている。だけど、さっきみたいに私がぼんやりしていると、決まって声をかけてくる。
まるで、ルチアに寄り添っていたレイのようだ。
曇りもなく真っ直ぐに私を見つめる黒い瞳。それが、記憶のあの人と重なる。
自分がこの世に生まれたからと疑いもしなかったけど、同じ人間同士とは限らない。ひとり暮らしを始めたときに、ペットショップで一目惚れして当然のごとくレイと名付けたけれど……。
「もしかして、本当にレイ、だったりしてね」
口にしてから、微妙な気分になった。
……考えても仕方がない。仕事に、行こう。
2.運命の再会は?
「光莉ちゃん、おはよう。今日も頑張ろうね」
「おはようございます、節子さん。今日も張り切っていきましょう」
隣に並んだ同僚に挨拶をして持ち場につく。
白い作業服エプロン。髪はひとつに束ねて丸めて、前髪一本すら残らないよう帽子の中へ押し込め、上からビニールキャップを被る。もちろん口元にはマスクを着用、手にはビニール手袋。ズボンの裾もゴム長靴にしっかり収めた。
胸の名札がなければ誰が誰かも判別しづらい真っ白な衛生服。これが私たちの戦闘着。
私は「にこにこフードサービス」という弁当製造工場で働いている。お弁当を製造販売し、ランチタイムに企業戦士たちの空腹を満たすのが仕事である。
身の回りのことはすべて使用人任せだったルチアと違って、私は家事全般を祖母に教え込まれた。名目は花嫁修業だったけど、私が将来困らないようにするためか、自分たちの負担を減らしたかったのかはわからない。数ある家事でも特に料理が一番好きだったこともあり、今では私の仕事になった。
「それでは皆さん、今日も一日よろしくお願いします」
朝礼を終えて、それぞれが製造ラインの持ち場につく。私は今日の担当である筑前煮を作り、できた総菜を木箱を模したプラスチック容器へと詰めていく。
「相変わらず光莉ちゃんは手際がいいわね」
「節子さんこそ、流石です」
作業中の私語は厳禁でも、たまにこうしてお互いを褒め合わなければ張り合いがない。それに、口は動いても手はそれ以上に動かしている。
「盛り付けも上手になったわ」
「ふふっ、ありがとうございます」
そりゃあ、短大を卒業してからの勤続八年だもの。働き始めた頃は、同僚は年上の経験豊富な主婦ばかりで苦労したけれど、今では私もそれなりに熟練してきた。
「光莉ちゃんはまだ若いんだから、こんなところでパートするよりもっと他の仕事もあるでしょうに」
「うーん、でもここ、祖父の紹介だったから」
母の反省もあってか、祖父母はとにかく私を外へ出したくなかったようだ。先代の社長と祖父が知り合いだった関係から、卒業すると同時に採用が決まっていた。正社員ではなかったけれど、そのうち昇格という話もあったが、いつの間にか社長の代替わりが起きてパートの身分のまま現在に至っている。
「でも、最近お弁当の発注も減ったわよね。そろそろ危ないっていう噂も、現実味を増してきた気がするわ」
「たしかに……」
社長が代わったばかりの頃、一時的に手広く事業を広げたものの、結局は現状へと落ち着いた。SNS映えを狙ったお洒落なお弁当も多いが、うちは幕の内弁当一本勝負。企業戦士を癒やすのは、おふくろの味と手頃な値段設定という考えに辿り着いたと思われる。なにしろ、うちの従業員の平均年齢は高いのだ。
発注数は減っても、味と質には自信がある。今日の白米もふっくらピカピカで、筑前煮もいい色つやをしている。
愛情込めたお弁当たちも完成して、あとは出荷するだけとなったとき。突然、作業中は閉じられたままであるはずの、工場の扉が大きく開かれた。
「なに、あの人たち……?」
節子さんが目を細める。私も顔を上げて確認すると、白の軍団とは違うスーツ姿の男達がぞろぞろと入ってくるところだった。
「ちょっと、衛生服も着用しないで……!」
先頭を歩いているのは、いつもは事務所に常駐している経理担当の平野さんだ。
いくら現場担当ではないとはいえ、工場内に入るときにはくたびれたスーツから着替えるのがルールである。食品会社の御法度は承知しているはずなのにと食ってかかろうとしたら──。
「皆さん、作業を中断してください。突然ですが、この会社は倒産しました」
「──は!?」
呆然とする私たちに告げられたのは、まさに先ほど懸念していた倒産の知らせだった。
弁当製造業だけで会社を支えていると思われていた社長だが、どうやら違っていたらしい。代替わり後の事業拡大で背負った借金を返済するため、先物取引に手を出して案の定失敗し、ついに夜逃げしたそうだ。
そういえば、今日の朝礼に社長の姿はなかった。いや、もうしばらく見ていないから、すっかり気にならなくなっていた。
「社長とは連絡が取れません。今日この時をもって、この会社は差し押さえとなりました」
工場内に踏み込んできたのは、いわゆる借金取りというやつだ。白一色の私たちの中に流れ込んでくる黒装束は、銀行員なのかヤバイ組織か定かでない。
彼らは工場内の機械に次々と札を貼っていく。
「大変なことになったわね」
手際よく作業を進める様子を見つめながら、節子さんが呟く。
一箇所に集められた従業員はみんな、始めて知る事実に動揺を隠せない。もちろん、私だってそうだ。
だけど、私の動揺は、それだけでは終わらなかった。
目の前に並んだスーツの集団の向こうから、一際目立つ男の人が入ってくる。
心臓が、ドクンと大きく音を立てる──。
ぶわっと、全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。胸の奥が熱くなって、身体中が細胞レベルで歓喜する。
夜の闇と同じ黒い髪。ほかと比べても頭ひとつ抜き出た長身に、整った顔立ち。
記憶よりも大人びているが、一目でわかった。
──レイだ!
「光莉ちゃん……?」
節子さんが怪訝そうに声をかけてきたけど、耳を素通りした。聞こえるのは自分の鼓動の音だけ。目に映るのはあの人の姿だけ。
このまま会えなくてもいいなんて愚かな考えは、一瞬で消し飛んだ。
──だって、ずっと会いたかった……!
この世に生を受ける前からずっと、このときだけを待っていた。
処理しきれなかった感情が涙となり自然にこぼれ落ちる。足が勝手に前に出て、一歩ずつ彼へと向かっていく。やけに動きが緩慢で、足がもつれそうになるのを懸命に堪えた。
──やっと出会えた。私の、運命の人!
「れ……レイ……」
震える声で、彼の名を呼ぶ。揺れる視界めがけて、懸命に手を伸ばした。
だが、あと少しで触れられるというところで、スイッと彼は後ろに下がった。
──なんで!?
スカッと宙を掻いた手の先で、切れ長の瞳が私を見下ろしている。見たことのない冷ややかな視線に晒されて、思考が停止した。
「──誰だ?」
その声は、やはりレイのものだった。それなのに、忘れられない声で冷たく告げられて、目の前が真っ白になる。
「俺に不平不満を言っても無駄だ。話の続きがあるから、さっさと戻れ」
目と目が合っているのにまるで反応がない。見ず知らずの人間に接するように、レイは私を突き放した。
「はいはい。気が動転してるのはわかるけど、説明するから列に戻って」
知らない誰かに肩を掴まれて、せっかく近づいた距離が引き戻されていく。
※この続きは製品版でお楽しみください。