【試し読み】再会したイケメンシェフは、幼馴染を甘やかに誘惑する

作家:西條六花
イラスト:カトーナオ
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2022/3/8
販売価格:900円
あらすじ

俺を恋人にしてくれないかな。他に好きな人ができるまでの、〝繋ぎ〟でもいいから──。22年ぶりに幼馴染の蓮に再会し、その日のうちに彼から告白されたなずな。大人になった蓮は料理人としての才能に溢れ、誰もが振り返るような容姿を持つ魅力的な男性になっていた。元彼との別れ方に根深いトラウマがあり、恋愛に積極的になれないなずなだったが、蓮のペースに巻き込まれて少しずつ彼に心を許していく。やがて流されて蓮と身体の関係を持ったなずなは、蕩けるように優しくされるうち、彼に強い独占欲を抱いていることを自覚した。そんな中、同じ職場に勤める元彼の言動をきっかけに、なずなは社内で理不尽な目に遭い始め……。

登場人物
野島なずな(のじまなずな)
食品メーカーの商品開発部に勤務。22年ぶりに再会した幼馴染・蓮に告白されるが…
江上蓮(えがみれん)
なずなの幼馴染でプロの料理人。新進気鋭の若手シェフとして注目されている。
試し読み

*第一章

 街中から地下鉄で三駅のところに位置するこの辺りは、かつては昔ながらの商店街が栄えていたものの、近年はおしゃれなパン屋やカフェ、服のセレクトショップなど、若者向けの店が増えてきている。民家を改造したバルや茶葉専門店などもあり、ローカル誌でも取り上げられることが多い地域だ。
 その一角にある野島のじま酒店は、祖父の代からこの地で四十年営業している。日本酒や焼酎、ビールの他、近年はワインにも力を入れていて、品揃えには自信があった。
 日曜日の昼下がり、近くの寿司屋に配達するために倉庫から瓶ビールのケースを運んできた野島なずなは、トラックに積み込んでふうと息をつく。ここ最近はいい天気が続いていて、朝からよく晴れている今日は五月半ばであるにもかかわらず、汗ばむ陽気になっていた。
「お父さん、きよ寿司さんに配達するビールって、二ケースでいいんだよね」
「ああ」
 店内で品出しをしていた父が、日本酒を陳列しながら頷く。
 なずなは外に視線を向け、道路を挟んで向かい側にあるこぢんまりとした一軒家を見つめて言った。
「お向かいの篠原しのはらさん家、どうするんだろうね。お婆ちゃんが亡くなるまではすごくきれいにしてたのに、最近は雑草が生えてきてるし」
「四ヵ月前に亡くなったときは、千代ちよさんの弟さんが遠方から駆けつけてお葬式を出していたが。最近は誰も来てないし、住む人もいないから、そのうち処分するんじゃないか」
 向かいに住んでいた篠原千代はとても品のいい老婦人で、なずなも幼い頃から可愛がってもらっていた。
 一人娘がいたはずだが、子どもを連れて一度出戻ったあと、再婚するためにまた出ていってしまい、それから実家に寄りついている様子がない。穏やかで優しい人だったのに家族の縁が薄かった千代を、なずなは気の毒に思う。
 それからトラックを運転して馴染みの寿司屋に瓶ビールを配達し、店に戻った。夕食の材料の買い物に行くという母に代わってレジに入り、ちょうど客が引けたときにぼんやり外を眺めていると、向かいの家の前に車が停まるのが見える。
 運転席から降りてきたのは、スラリとした長身の男性だった。均整が取れた身体つきの彼は運転席から歩道のほうに回り、家をじっと見上げている。どれだけのあいだそうしていたのか、小さく息をついた男性がくるりとこちらを向いた。そして車の行き来が途切れたタイミングで道路を渡り、店に入ってくる。
 レジカウンターにいたなずなはびっくりして居住まいを正し、彼に声をかけた。
「い、いらっしゃいませ」
「…………」
 店内に入ってきた男性は二十代後半で、とても端整な顔立ちをしていた。
 切れ長の目元に前髪がハラリと掛かり、すっと通った鼻梁や薄い唇、シャープな輪郭など、その造作はモデルを思わせるほどに整っている。身体つきはしっかりしており、男らしい肩幅やボタンを二つほど外したシャツから垣間見える首元に、仄かな色気を感じた。
 彼は店内の商品には目もくれずにこちらをじっと見つめてきて、なずなはドキリとする。テレビや雑誌以外でこんなにきれいな男性を見たのが初めてで、頬がじわじわと熱を持つのがわかった。
「あ、あの、何かお探しのものでもありましたか?」
 しどろもどろにそう問いかけると、男性がポツリとつぶやく。
「…………な」
「えっ?」
「なずなだろ。久しぶり」
 思いがけない言葉に、なずなの頭の中に疑問符が浮かぶ。
 まるで旧知の仲のように呼びかけられたものの、目の前の男性にはまったく見覚えがない。だがこちらの名前を知っているのなら、過去に関わりのあった人物だろうか。
 彼は大股でレジまで歩み寄り、カウンター越しに腕を伸ばすと、なずなの上体を抱き寄せて言った。
「会いたかった!」
「えっ、えっ?」
 突然見知らぬ男性に抱き寄せられたなずなは、パニックになる。慌てて彼の身体を押しのけ、頬が熱くなるのを感じながら問いかけた。
「一体何なんですか? わたし、あなたのお知り合いじゃ──……」
「俺のこと覚えてない? れんだよ」
「……蓮?」
 記憶を辿ったなずなは、ふとその名前に聞き覚えがあるのに気づく。
 そして彼が先ほど向かいの家を見つめていた姿がフラッシュバックし、一気に記憶が繋がった。なずなは信じられない気持ちでつぶやいた。
「蓮ってもしかして、お向かいの篠原さん家の……?」
「うん、今の苗字は江上えがみだけどね。久しぶり」
 男性がうれしそうに、ニッコリ笑う。
 なずなの記憶の中の蓮は、小学校一年生の姿のままだ。女の子のように可愛らしい顔をし、内気で泣き虫だった彼は、いつもこちらの後をくっついて歩いていた。
 しかし目の前の彼はスラリと背が高くなり、当時の可愛さは欠片もない。ただ整った顔立ちに、ほんのわずかだけ面影が残っている。なずなは唖然としてつぶやいた。
「びっくりした……すっごく変わったね。小学校一年生のときに蓮がお母さんと出ていってからだから、二十二年ぶりくらい?」
「そうだね。久しぶりにここに来たら、周りの店がかなり変わってて驚いた。でも野島酒店はそのままで、うれしいよ」
 二十二年ぶりに会った幼馴染がすっかり大人の男性になっていて、なずなは気後れする。
 近所には他の幼馴染たちも数多く住んでいるが、気心の知れた仲でこんなふうに緊張はしない。
(そうだよね。小学校一年生以来なんだし、ほぼ知らない人だ)
 どういう態度を取るべきか迷いつつ、なずなはぎこちない笑みを浮かべて問いかけた。
「今日はどうしたの? わざわざ帰ってきたのって、もしかしてお婆ちゃんの家のことで?」
「ああ、うん。俺、ここに住もうかと思って」
「えっ?」
 聞けば蓮の祖母である千代は、遺言で「自宅を孫に相続させる」と書き記していたらしい。そのために必要な手続きも、生前から弁護士に依頼していたという。
「そっか。お婆ちゃん、自分が亡くなったあとのことをちゃんと考えてたんだね」
「うん。突然弁護士から連絡がきて、驚いた。ここを出て以来ずっと会ってなかったんだけど、俺のことを気にかけてくれていたんだなって」
 彼が寂しそうに微笑み、なずなは何と答えていいかわからず黙り込む。
 祖母と孫であるにもかかわらず、二十二年ものあいだ連絡を取っていなかったというのは普通ではないが、もしかすると他人が窺い知ることのできない深い事情があるのかもしれない。
 蓮が微笑んで言った。
「なずなはこのお店を、ずっと手伝ってるの?」
「ううん、手伝うのは週末とか、閉店間際の短い時間だけだよ。わたし、平日は仕事してるから」
「何の?」
「コンビニの商品開発」
 なずなの答えを聞いた彼が眉を上げ、「へえ」と言う。
「それって、お弁当とかスイーツってこと?」
「うちの会社は、お弁当だけ。スイーツやパンとかは、それぞれ別の専門メーカーがあるの。蓮は?」
「何だと思う?」
 悪戯っぽく見つめられ、なずなは考え込みながら口を開く。
「何だろ……普通の会社員とかしか、思いつかないけど」
 すると蓮は答えずに小さく笑い、店内を見回して突然話を変えた。
「ところで子どものときは気づかなかったけど、この店ってワインが充実してるんだな」
「うん。ここ数年、お父さんがものすごく勉強して仕入れを頑張ってるの。その甲斐あって、最近はワイン通の人とかがよく来てくれるようになってる」
「少し見てもいい?」
「もちろん」
 ワインコーナーに向かった彼が、商品を手に取って眺め始める。
 真剣な顔で吟味している様子からすると、ワインが好きなのだろうか。何本かチョイスしてレジまで持ってきたところで、そこに戻ってきた父が「いらっしゃいませ」と声をかけた。蓮が笑って答えた。
「こんにちは。ご無沙汰しています」
「ご無沙汰って……」
 父は一目見て誰かわからなかったらしく、戸惑った顔をする。なずなは彼の袖を引いて耳打ちした。
「お向かいのお孫さんの、蓮だよ。小学校一年生まで住んでた」
「おお、あの蓮か! 久しぶりだなあ。元気だったか?」
「はい、お陰さまで」
 蓮が笑顔で答え、なずなに視線を向けて言った。
「積もる話もあるし、よかったら今日の夜七時にうちに来てくれないかな。このワインは配達ってことで」
「えっ」
「頼むね」
 彼は手を振り、店を出ていく。なずなは唖然としてそれを見送った。
(夜七時に配達って、わたしに持ってこいってこと? 本当にお向かいに住むつもりなんだ)
 そんなことを考えていると、父が隣で感慨深げに言う。
「しかし、見違えたなあ。昔は女の子みたいに可愛い顔をしてたのに、あんなにでっかくなっちまって」
「うん。最初見たとき、全然わかんなかった。もう二十二年も経ってるしね」
 結局、蓮の職業は聞けず仕舞いだった。
 その後店で接客を続けたなずなは、午後七時になる五分前に彼の家へ持っていくワインを袋に詰める。そして道路を渡り、篠原家の玄関のインターホンを押した。
「こんばんは、野島酒店です」
 ドアが開き、蓮が姿を現す。彼はなずなの顔を見るなり、噴き出して言った。
「お店の名前を名乗らずに、『なずなです』でいいのに」
「い、いつもの配達の癖で」
 家の中はいい匂いが漂っており、なずなは「料理をしてたのかな」と考え、意外に思う。
 中に入ると、居間の続き間の和室には段ボール箱やボストンバッグなどがいくつも積まれていた。それを横目に、なずなは蓮に持参した袋を手渡す。
「これ、注文してくれたワイン」
「ああ、ありがとう。さっき掃除をしたあと、料理を作ったんだ。一緒に食べながら飲もう」
「えっ、でも」
 夕食をご馳走になるつもりがなかったなずなは、戸惑って彼を見る。蓮は三本買ったうちの二本を冷蔵庫に入れ、一本を手にして言った。
「もしかして、お酒が苦手だったりする?」
「そんなことないけど」
「じゃあいいだろ。ほら、座って」
 居間のテーブルに並べられたのは、生ハムを巻いたグリッシーニ、ソテーしたアスパラのポーチドエッグのせ、パン粉をまぶしたサーモンのグリルにオリーブとアンチョビのソースを添えたもの、フレッシュトマトのブルスケッタなど、色鮮やかでバラエティに富んだメニューだった。
 なずなは驚き、目を丸くして言う。
「これ、全部蓮が作ったの? デリバリーとかじゃなく?」
「うん。俺は料理人だから」
「えっ」
「イタリアンのシェフをしてる」
 確かに目の前に並べられた料理はクォリティが高く、プロが作ったものだと言われれば素直に頷ける。
 彼がタンブラーにシャンパンを注ぎ、グラスを合わせて言った。
「じゃあ、再会を祝して。乾杯」
「……乾杯」
 ──蓮の作った料理は、どれも味が素晴らしかった。
 肉厚でジューシーなサーモンは上に載せたパン粉がカリカリで香ばしく、にんにくとアンチョビ、オリーブをペースト状にしたタプナードソースがよく合う。
 アスパラのビスマルク風は塩コショウで歯ごたえよくソテーしたアスパラと、黄身がとろりとしたポーチドエッグが絡み、上からたっぷり掛けたパルミジャーノ・レッジャーノの塩気がアクセントになっていた。
 彼がチョイスしたシャンパンや辛口の白ワインも料理に合っていて、なずなはほうっとため息を漏らす。
「こんなに美味しい料理を作れるのって、すごいね。やっぱり何年も修行したの?」
「うん。こっちの調理専門学校で二年間学んだあと、五年くらいイタリアに行ってたんだ。帰国してからは三年間、東京のリストランテで修行してた」
 蓮は「なずなは?」と問いかけてきて、グラスを置いて答える。
「わたしは大学で栄養士の資格を取って、今の会社に入社したの。クライアントはコンビニで、北海道地区のお店で出す商品を開発提案してる」
「そっか。食の分野に携わってるっていう意味では、俺と同じだな」
 なずなはさりげなく、向かいに座る彼を観察する。
 自分たちは同い年のため、蓮も二十八歳のはずだが、彼の物腰はひどく落ち着いていた。長めの前髪が掛かる目元は涼やかで、顔立ちは秀麗と言うのがふさわしい端整さだ。
 しっかりと広い肩幅、男らしい太さの首と骨格、ほんの少しラフさが漂う服装が大人の色気を醸し出し、おそらく誰が見ても「イケメンだ」と感じるに違いない。
 気がつけば見惚れてしまっていて、そんな自分に気づいたなずなはきまりの悪さをおぼえた。そしてそれを誤魔化すように問いかける。
「東京で働いていたのに、わざわざこっちに戻ってきたのはどうして? 修行するなら、向こうのほうがよさそうなのに」
「実はこっちで、リストランテをオープンするつもりなんだ。元々やるつもりで半年以上前から準備してたんだけど、祖母ちゃんが俺にこの家を遺してくれたって知ったとき、『北海道に戻るのもいいな』って思って。それから急遽、店舗物件探しをこっちに変更したら、すぐにいいところが見つかった。もう内装工事が始まってる」
 店は元々洋食屋だったところで、居抜きの物件だという。彼は開業コンサルタントに依頼して綿密な事業計画を練り、事を進めてきたらしい。
 なずなは興奮し、テーブルに身を乗り出すように言った。
「すごいね。こんなに美味しい料理を作れるんだから、きっと成功するよ。オープンしたら、絶対に行くから」
「ありがと。ところでまだ食べられそう? イワシとなすのアマトリチャーナを作ろうと思うんだけど」
「えっ、食べたい」
 許可を得て作っているところを見せてもらったが、蓮の手つきはさすがプロだと頷けるくらいに鮮やかだった。
 大鍋でパスタを茹でる傍ら、玉ねぎを薄切りにし、にんにくは芽を取って包丁で潰す。下処理済みのイワシは一口大に切って小麦粉をまぶし、オリーブオイルでこんがりと焼いて一旦取り出した。
 油をサッと拭き取ったフライパンでにんにくを熱し、香りが立ったら玉ねぎの半量と角切りにしたなすを炒めて、そこにホールトマトを潰しながら加えていく。
「すごい、いい匂いだね。それに動きに無駄がなくて、てきぱきしてる」
「まあ、慣れだよ」
 酒と塩コショウを加え、トマトソースを煮詰める。
 そこにイワシと茹で上がったパスタを加え、茹で汁少々と残りの玉ねぎを入れてフライパンで勢いよくあおった。再度味を見て塩で調味し、ソースがよく絡んだら皿に盛りつけて、オリーブオイルとブラックペッパー、イタリアンパセリを散らす。
「はい、完成」
「美味しそう」
 出来立てのパスタを頬張ると、ふっくらしたイワシの旨味とナスと玉ねぎのトマトソースが絡み、何ともいえず美味しい。
 仕上げに散らしたブラックペッパーとイタリアンパセリがいいアクセントになっており、いくらでも食べられそうな味だった。
 どんどんワインが進み、なずなは次第に酩酊してくる。気づけば聞かれるまま、これまでの恋愛遍歴を喋っていた。
「へえ、半年前に彼氏と別れたんだ」
「うん、クリスマス近くにね。今はもう、その相手のことはどうでもいいんだけど」
 本当はそこまで達観しておらず、胸の奥には痛みが残ったままだが、詳しい話をするつもりはない。
 酒気を帯びた息を吐いたなずなは、緩慢なしぐさでグリッシーニを手に取る。そしてその先端で蓮を指しながら言った。
「わたしのことばっかり聞いてるけど、そっちはどうなの」
「何が?」
「昔は小さくてお人形みたいな顔をしてたのに、今はわたしより背が伸びちゃって。どうせその顔で、あちこちの女の子を引っかけてるんでしょ。イタリアってそういうイメージだし」
「さあ、どうかな。気になる?」
 面白がる口調の彼はまったく酔っておらず、態度にひどく余裕がある。しばらく考えたなずなは、やがて頬を膨らませて答えた。
「……やっぱりいい。聞いたら何かムカつきそうだし」
「心外だな。なずなの目にどう見えてるのかは知らないけど、俺は結構真面目なほうだよ」
 キラキラとした王子さま顔で、いかにも女慣れしている態度でそんなことを言われても、まったく信憑性がない。
 そう思いながら、なずなは「もう帰ろうかな」と考えた。
(明日は月曜で、仕事だもんね。さっさと帰って、お風呂入って寝なきゃ)
「蓮、わたしそろそろ──……」
 なずながいとまを告げようとした瞬間、彼が突然手をつかんでくる。そして思いのほか近い場所からこちらをじっと見つめ、口を開いた。
「なずなが今フリーなら、俺にしたら?」
「えっ?」
「俺もつきあってる相手はいないし、好都合だろ。大事にするから、彼女になって」
 突然の申し出に驚き、なずなは口をつぐむ。
 二十二年ぶりに再会したその日に「つきあおう」と告白してくるなど、何かの冗談としか思えない。そこまで考え、ふいにストンと腑に落ちた。
(そっか、冗談だよね。わたし、本気にしちゃって馬鹿みたい)
 なずなは蓮の手を引き剥がそうとしながら、笑って言った。
「何言ってんの、もう。さすがイタリア帰りだね、女を口説くのに慣れてる」
「──冗談じゃないよ」
 彼がこちらに身を寄せてきて、照明の光が陰る。気がつけばなずなは、蓮に唇を塞がれていた。
「……っ」
 一旦触れるだけで唇が離れ、間近で視線が絡み合う。
 ドキリとするほど整った顔、こちらに向けられる色めいた眼差しになずなが呑まれたように動けないでいると、蓮が再び唇を塞いできた。濡れた舌先が合わせをなぞり、そっと中に忍んでくる。
 ゆるゆると絡められ、次第に深くなるキスに、思わず彼の服の袖をつかんだ。
「ん……っ、ふ……っ」
 蓮のキスは巧みで、ざらつく表面を擦り合わせ、舌先で側面をなぞったり喉奥まで探られると、ゾクゾクとした感覚が背すじを這い上がってくる。激しくはないのに官能を引き出すような動きに、気がつけば息が乱れていた。
 だがつきあっている関係でもないのにこんなことをするのは、倫理的におかしい。そんな気持ちがこみ上げ、なずなは思いきって彼の身体を押しのけて告げた。
「や、やめてよ、いきなりこんなことするの。友達なのにおかしいでしょ」
 すると蓮が目を丸くし、少し考えたあと、ばつが悪そうに言う。
「そうだな。……ごめん」
「わたし、もう帰るから」
 動揺を押し殺しながら立ち上がり、居間を出て足早に玄関に向かう。
 靴を履いていると、後ろから追いかけてきた彼が言った。
「待って。家の前まで送るから」
「いいよ、道路を渡ってすぐなんだし」
「よくない。もう夜の十時を過ぎてるんだし、ちょっとの距離でも何があるかわかんないだろ」
 ずいぶんと過保護なことを言う蓮は、言葉どおり自宅の玄関前まで送ってくれる。そしてなずなを見下ろして言った。
「じゃあ、今日はワインを届けてくれてありがとう」
「ううん。……おやすみ」
 彼の顔を見ないようにしながら、精一杯何食わぬ顔で自宅に入る。
 ドアが閉まった途端、なずなは頬がじわじわと熱を持つのを感じた。
(何あれ。……いきなりあんなすごいキスをするなんて)
 ──あまりの巧みさに、腰が砕けるかと思った。
 間近で見た蓮の整った顔もさることながら、あんなにも官能的なキスをされたのが初めてで、咄嗟に突き飛ばすことができなかった自分が恨めしい。飲みながら話しているうち、二十二年間の空白はかなり埋められた気がするが、突然あんな行動に出るなら今後友達づきあいをするのは難しく感じる。
(結構女慣れしてるのかな。あんなにイケメンだし、きっと女の人のほうが放っておかないんだろうけど)
「おかえり、なずな。ずいぶん長居してたのね」
 居間から顔を出した母親にそんなことを言われ、なずなはハッと我に返る。
 そして取り繕うように答えた。
「蓮の家で、いろいろご馳走になりながら飲んじゃった。彼、今はイタリアンのシェフをしてるんだって」
「えー、そうなの? すごいわねえ。あんなにちっちゃくていつも泣いていた子が、そんな立派になっただなんて。何だか感慨深いわ」
 母はいろいろと話を聞きたそうだったが、なずなは靴を脱いで家に上がりつつ言う。
「わたし、お風呂に入るね。明日は仕事だし、早く寝ないと」
 二階に上がり、箪笥から着替えのパジャマを出しながら、なずなは考える。
 たまたま今つきあっている相手がいないからといって、暇潰しのようにちょっかいを掛けられるのはご免だ。いくら向かいに住んでいる幼馴染とはいえ、今後は少し蓮と距離を置いたほうがいいかもしれない。
(そうだよ。あんな簡単にキスするくらいなんだから、浮気とかに罪悪感がないタイプかもしれないし)
 半年前に彼氏と別れたときのことがふいに脳裏によみがえり、胸がムカムカする。
 あんな思いは、もう二度としたくない。だったら軽薄そうな人間とは、最初から距離を置いたほうが楽だ。
 そう結論を出したなずなは、小さく息をつく。そして風呂に入るべく、電気を消して私室をあとにした。

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