【試し読み】(元)わがままお嬢様はずる甘秘書しか愛せない~あなただけに恋してる~

作家:結祈みのり
イラスト:南国ばなな
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2022/1/28
販売価格:1000円
あらすじ

一ノ瀬食品、社長令嬢の雅は、その美貌と家柄によりインフルエンサーとして活躍していたが、実態は呆れるほど我儘なお嬢様。それでも一筋、父の秘書の優馬に恋をしていた。「お子様には興味ない」と初告白では振られてしまうも、自身の誕生日に告白し続け、玉砕すること5回。23歳の雅は見た目こそ美しい女性となったが、告白が受け入れられることはなかった。そんな傷心の最中、鬼畜な兄の命により雅は一ノ瀬食品の秘書課で働くことに!?――社会に打ちのめされ、優馬とのオフィスラブを妄想していた浮かれは消え去り、自分の愚かさを思い知る。だが彼女なりに社会に揉まれていくうち、優馬の態度が変わりはじめ――!?「……今のは、反則」

登場人物
一ノ瀬雅(いちのせみやび)
大手食品会社の社長令嬢。兄の命令で秘書課で働くこととなり、社会の厳しさを知る。
佐倉優馬(さくらゆうま)
社長秘書。初めて雅から告白された時は「お子様には興味ない」と冷たくあしらった。
試し読み

プロローグ 恋の始まり

 心の底から「欲しい」と望んだ男性ひとがいる。
 彼だけが欲しい。彼だけに触れたい。彼だけに見てほしい。
 そんな執着心を抱くほどに心を揺さぶられた唯一の人。
 愛や恋なんて所詮は幻想。ファンタジーの世界にすぎない。
 彼の存在は、そんな冷めきったみやびの恋愛を根本からくつがえした。
 男なんて皆同じだと思っていたのに、その人だけは違った。
 彼は、他の男のように雅に世辞を言ったりしない。
 こちらに向ける笑顔は上部だけのもので、褒め言葉はもちろん甘い言葉なんて一度も囁かれたことはない。
 彼は、雅に触れようとしない。
 手を繋ぐのは雅のパートナーとしてパーティーに参加する時だけ。それさえも彼にとっては仕事の一環で、仮に相手が他の女性だったとしても彼は気にも止めないだろう。
 彼は、まるで雅に興味を示さない。
 もしかしたら彼にとっての雅など、道端の石ころ程度の価値しかないのかもしれない。
 それでもよかった。
 彼は雅を「嫌い」ではないと言う。ならば諦める必要なんて一つもない。
 雅は何度だって告白して、同じ数だけ失恋した。
 それでも彼を好きでいることを辞めなかった。
 ──彼が欲しかったから。
 男性にかけらも興味がなかった雅が初めて好きになった人。
 後にも先にも心の底から欲したただ一人の男。
「私、あなたが好き」
 だから今日もまた雅は想いを伝える。
「十八歳の時から今日までの五年間、あなただけを見てきた。あなた以外の人を好きになったことは一度もない。私が欲しいと望むのはあなただけなの。だから──私の恋人になってください!」
 どうか届いてほしいと、願いをこめて。

 ──これは、わがままお嬢様が幾度もの失恋を経て、本当の恋を知る物語。

1 お嬢様、社会の厳しさを知る

 七月中旬。
 夏の気配が日に日に濃くなるこの時期、ひとたび太陽の下に出るとすぐに汗ばんでくる。
 それに比べれば程よく空調の効いたオフィス内は天国のようだ。社内にいる限りは、じめじめとした湿っぽさとは無縁だし汗をかくこともほとんどない。
 ただし、一ノ瀬いちのせ雅を除いては。
「一ノ瀬さん。確認したいことがあるから、小会議室Aに来るように」
 背後からかけられた声に雅は即座に振り向いた。しかし声の主は雅の返事も待たずに背を向ける。
 その後ろ姿に雅の背中に一筋の冷や汗が伝った。
 室内が寒いくらいに涼しいにもかかわらず、だ。
(私、また何かやらかした!?)
 先ほど雅を呼び止めた女性は、株式会社一ノ瀬食品いちのせしょくひん秘書課第二係長・野田のだ真由子まゆこ
 雅直属の上司であり、今現在、最も苦手としている存在である。
 そんな人物に呼び出されたとあって、雅の頭は一気に真っ白になった。
 秘書課第二係に配属されて今日で早三ヶ月。
 雅はすぐさま頭の中で自分の行動を振り返るが、特に思い当たる節はない。
 現在時刻は午前十時。一ノ瀬食品の始業時刻は九時だから、まだ一時間しか経っていない。この間に雅がしたことといえば、メールチェックと電話応対、コピー用紙の補充などでこれといってイレギュラーな案件はなかったはずだ。
 そもそも新入社員の仕事といえば電話応対やファイリング、会議室の予約やあらかじめ決まっていた来客応対など、基本的なことがほとんど。
 役員のスケジュール管理や出張手配といった一般的に「秘書の仕事」と知られる仕事はまだ任されておらず、今は先輩社員に日々業務を教わりながら事務作業をメインにしている状態だ。
 一ノ瀬食品の新人教育は歳の近い先輩社員が務めることが多い。しかし雅の場合は違った。雅の教育係は、異例の係長。そして彼女からの呼び出しが明るい理由だったことは、一度もない。
(行きたくない……)
 本当に、心の底から行きたくない。しかし上司の呼び出しを無視できるはずもなく、雅は戦々恐々としながらも指定された会議室へと向かう。
 気分はさながら判決を待つ罪人である。否、もしもミスをして注意のために呼び出されたのであれば、あながち間違いではないのかもしれない。
 雅は呼吸を整えた後、緊張した面持ちでドアを開けた。
「……失礼します」
「呼び出して悪いわね」
 会議室の中で雅を迎えた真由子は、ホワイトのスーツをビシッと着込んだショートカットの美女である。
「いえ、大丈夫です!」
 背筋をピシッと伸ばして滑舌よく答える。体育会系ばりのノリだが、雅は運動部に所属していたことはない。しかしそうさせるだけの雰囲気を目の前の上司は持っていた。
 野田真由子。密かに「秘書課の女帝」の諱を持つ彼女の年齢は、確か今年四十歳。
 中学生と小学生の母親と聞いているが、その見た目はとても二人の子持ちには見られない。外見だけで言えば、二十代でも十分通用する美魔女である。
 まさに「キャリアウーマン」をそのまま体現化したような人だ。
 一方の雅は、四月に二十三歳を迎えたばかりの新入社員。一回り以上の年齢差がある二人だが、見た目はほぼ同年代の上司の様子を雅は緊張しながら伺った。
 雅を見据える表情は笑顔。それなのに圧がすごい。目が笑っていないのだ。
 彼女との付き合いはまだ三ヶ月足らずだけれど、雅はこの状態の彼女を嫌というほど見たことがある。
 やはり何かしてしまったのだ。しかしそれが「何」かが分からない。
 その答え合わせをするように真由子はにこりと笑むと、彼女の背後にある会議机を指差した。その上には大量の箱がずらりと並んでいる。真由子の意図が分からず机の前に移動した雅だが、直後、箱の表面を見るなり絶句した。
「あっ……!」
「一ノ瀬さん。これが何か説明してくれるかしら?」
 真由子は抑揚のない声で問う。一方の雅といえば、真っ青な顔でその箱の山を見つめた。バクバクと心臓が激しく波打っているのがわかる。背中に嫌な汗が伝った。
「これは、その……『風庵ふうあん』のお弁当です。本日の経営者会議にお出しするために発注しました」
「そうね。じゃあ、この請求書を見て気づくことは?」
 真由子から請求書を受け取った雅は内心天を仰いだ。
 そこには「発注数・100」としっかりと記載されていたのだ。
 真由子に指示された個数は十個。つまり雅は、本来必要な数の十倍も発注してしまったことになる。
「申し訳ありませんでしたっ──!」
 事態を把握した雅はすぐさまばっと頭を下げた。
「ゼロを一つ多く記載してしまった」というケアレスミス。だが弁当十個と百個では金額も量もまるで違ってくる。その分経費を無駄にしたことにもなるし、現実に、本来必要なかった弁当の山が目の前にあるのだ。そして床を見つめる雅の頭上に降ってきたのは、大きなため息。
「──顔を上げて」
 予想通り、こちらを見る真由子の眼差しは冷ややかだ。
「まず前提として、新入社員にミスはつきものよ。誰だって失敗を繰り返して成長していくものだし、もちろん私も入社したばかりの頃はミスをしたこともあるわ。だから私は必要な指導はしてもむやみやたらと怒ったり、うるさく言うつもりはないの。一ノ瀬さん、あなたに対してもね」
 でも、と真由子は淡々と続けた。
「あなたはいくらなんでもミスが多すぎる。コピーを二十部頼んだら二百部刷る。電話応対をすれば相手の名前も電話番号も間違えてメモを取る。データ入力を頼んだはずが誤って消去。シュレッダーを頼めば重要書類も自己判断で破棄。そして今日はお弁当の過剰発注。今言ったのはどれも少し気をつければ防げたものばかりだと思うけれど、違う?」
「……いいえ」
 その通りです、とか細く答える。それに返ってきたのは、再びの深いため息。
「仕事に集中できていない証拠ね。それとも、仕事じゃなくて遊びのつもりで会社に来てるのかしら」
「それはっ!」
「『それは』、何?」
 鋭い視線にビクッとしながらも、雅はグッと拳を握る。
「……いえ、なんでもありません」
 雅は消え入りそうな声で答えた。
『私なりに頑張っているつもりなのに』
『わざとミスしたわけじゃないのに』
 そんな言い訳が頭に浮かんでも言葉にはしない。集中していないつもりも遊びのつもりもないけれど、大量の発注ミスを前にしてはそう言われても仕方ないのは雅自身も分かっていた。
「本当に申し訳ありませんでした。余剰発注分の処理は私にさせてください」
「どう処理するつもりなの?」
「それは……」
 責任を持ってなんとかしなければと申し出たけれど、雅にはどうしたらよいのか判断がつかない。
「仕方ないわね」
 答えに詰まる雅を見た真由子は眉を寄せた。
「こんなにも大量のお弁当を処分するわけにはいかないわ。他部署にメールをして、引き取ってくれる社員がいるか探してみて。有名なお店のお弁当だから余ることはないと思うわ。一人一人に渡していたら時間がかかって仕方ないから、部署ごとに必要数を集計して終業時刻までに届けるように。できる?」
「はい!」
 雅はすぐに頷く。しかし真由子の反応は冷ややかだ。
「……返事だけはいいのよね」
 そして彼女は出ていく直前、付け足した。
「一ノ瀬さんが入社してもうすぐ三ヶ月。試用期間はこの七月で終わりね。あなたは今後もこの会社で働くつもりでいるの?」
「……そのつもりです」
「そう。なら言わせてもらうけれど、社内にいるのは真面目に仕事をしている人がほとんどなの。私も他の社員もお嬢様の道楽に付き合わされるのはごめんだわ。そうではなく今後も真剣に働くつもりがあるのなら、態度で示して。私が言いたいのはそれだけよ」
 バタン、とドアが閉まる。直後、感情が溢れて目頭が熱くなるけれど、雅は涙が溢れる寸前でなんとか堪えた。
(泣いちゃだめ。こんなにミスしてたらあんな風に言われて当然だもの)
 感情を鎮めるために深呼吸を繰り返す。そうするうちに涙は引っ込んで気持ちも落ち着いてきた。
 実際、真由子の言うことは全て正しい。
 ケアレスミスを連発しているのは雅だ。それに「お嬢様の道楽」と言われてしまうのは仕方のないことでもあった。
『株式会社一ノ瀬食品』
 国内の食品会社では間違いなくトップスリーに入るであろう大企業である。
 主な事業内容としては、菓子や加工品、栄養食品や乳製品の開発や製造を行なっている。特に製菓部門では国内ナンバーワンのシェアを誇り、その事業規模は国内に留まらず海外にも幅広く展開していた。
 そんな世界的に名のしれた大企業の現在のトップは、一ノ瀬智社長。
 彼は雅の父親だ。つまり、雅は正真正銘の「お嬢様」なのだ。
 先ほど真由子に「お嬢様の道楽」と言われてしまった所以はここにある。
(──とにかく、早く各部署にメールしないと)
 時刻は十時半。弁当を昼食にする社員もいるだろう。
 デスクに戻った雅はすぐさま各部署にメールを送る。その後は必要な数を確認し、手配に追われた。
 社内でも花形の秘書、その上社長令嬢がさながら出前のごとくお弁当を届けて回る姿は社内にも衝撃を与えたらしい。いずれの部署でも驚きを持って迎えられたが、雅はあくまで一社員として丁寧に応対した。
 結局、全てが終わったのは昼休みが終わる頃。
 雅は自分の休憩を返上してようやく事は収まった。
 そのまま午後の仕事に入るつもりだったが、意外にも真由子からストップがかかった。
 なんでも、「休憩は社員の権利。それに疲れた体で仕事をするなら、しっかり休んで一度リセットしてからの方が集中できるし効率もいいから」らしい。
 指示通り社員専用の休憩ラウンジに向かった雅は、ソファに座るなりうなだれた。
「……はあ」
 体全体を包むような背もたれの感触に、午前中の疲れが一気に溢れ出たような気がする。
 昼休みが終わったばかりの時刻だからだろう、ラウンジは閑散としている。それがかえって今の雅にはちょうどよかった。
 社長令嬢の雅はよくも悪くも社内で目立つ。そんな自分が凹んでいるところを見られたら、どんな噂が流れるか分からない。
(……お父様はすごいな)
 自社ビルの中でも最も眺めがいいと評判のラウンジは、カフェを併設していることもあり社員に大人気の憩いの場だ。品の良いテーブルとソファが並ぶここはさながら高級ホテルのラウンジのようで、およそ社内の施設とは思えない。
 それも全て「社員第一」を掲げる一ノ瀬社長の考えが反映されているからなのだが、父がそんな考えで会社経営をしているなんて、娘の雅は入社するまで知らなかった。
 ──いいや、知ろうともしていなかった。
(「働く」って、大変なのね)
 働いて給料を得る。
 そのお金で衣食住を整える。
 そんな当たり前のことがいかに大変か、この歳になって思い知る。
 きっと多くの人にとっては当たり前のそのサイクルは、雅にとってそうではなかった。
『お金なんてたくさんあって当たり前。むしろ使い切る方が難しい』
 そう考えていた数ヶ月前までの自分が恥ずかしくてたまらない。
 一方で、「恥ずかしい」と思えるようになってよかったと今では本気で思っている。
 今のように一社員として働くことがなかったら、雅はきっと父の会社のことも「働く」ことが何かも知らない、中身が空っぽのお嬢様のままだった。
 だからこそそのきっかけを作った兄には、今となっては心から感謝している。
 雅は、自ら望んで入社したわけではない。
 大学卒業当初、雅は父の会社に入社する予定はなかった。それがなぜこうして働いているかといえば、兄の一ノ瀬すぐるに半ば無理やり入社させられたのだ。
 三ヶ月前、兄は言った。
『一般社員と同待遇で働いて、その曲がりまくった性格と根性を叩き直してこい』
 と。
 以降、雅は秘書課第二係の社員として週に五日間働いている。
 現時点で「性格が叩き直された」かは分からないが、少なくとも毎日が必死だ。
 正直なところ辞めたいと思ったことは何度もある。しかし雅が退職を申し出たことはない。
 なぜなら雅には、絶対に会社を辞められない理由が存在するのだから。

「はい、どうぞ」
 その時、突然目の前のテーブルに紙コップが置かれた。
優馬ゆうまさん?」
 顔を上げた先にいたのは、眼鏡をかけた男性社員。彼は驚く雅の隣にごく自然に座ると微笑んだ。
「よかったら飲んで。ミルクたっぷりのカフェラテ、好きだったよね」
「好きだけど……」
 どうして彼がここに。突然のことに素で答えかけた雅だが、ここが会社内であることを思い出すと、慌てて言葉使いを改めた。
「──失礼しました、佐倉さくら主任」
 すると眼鏡の男性は、急に改まった雅の口調がおかしかったのか小さく吹き出した。
「そんなにかしこまらなくていいのに。君にそう呼ばれるのはなかなか慣れないね」
 その屈託のない笑みを前に、雅の胸がとくんと高鳴る。
 柔らかな笑顔が魅力的な彼の名は、佐倉優馬。雅と同じ秘書課の先輩である。しかし彼の所属は、社長・副社長などのいわば会社のトップ付きの秘書が所属する第一係。
 一方、雅の所属する第二係はその他の執行役員を担当している。
 そして優馬は、五年前から社長──雅の父親・一ノ瀬智の専属第二秘書を務めている。加えて兄の傑の友人ということもあり、雅は高校生の頃から彼のことを知っていた。
 雅と優馬、二人の所属は同じ秘書課だが、係が異なれば関わることは少ない。
 その証拠に入社して三ヶ月、社内で顔を合わせることはあったけれど、優馬が雅を気にしている様子はなかった。こんな風に二人きりになるのも初めてだ。
 そんな彼がなぜここにいるのだろう?
「佐倉主任も今からお昼休みですか?」
「俺はもう昼食は済ませたよ。この後もすぐに社長と一緒に外出予定が入ってる」
「じゃあ、どうして」
「野田さんから弁当事件について聞いたから」
「え……?」
「ちなみに社内でも『社長令嬢がお弁当を持って走り回っていた』ってちょっとした噂になってる。社長と副社長の耳にも入ってたよ」
「兄さん──副社長、何か言ってましたか?」
「『あいつは本当にバカだな。数字もまともに数えられないのか』」
「……今、頭の中で兄が言ってる姿が想像できました。絶対、小馬鹿にした顔してましたよね」
 ジト目で隣を向くと優馬は苦笑する。頷きこそしないが、それが答えでもあった。
 これに雅は頭を抱えたくなった。今日帰宅したら、兄に何か言われるのが目に見えたからだ。大きなミスをしてしまったのは確かだが、事件扱いされるのはなかなか凹む。
 それにしても優馬も優馬だ。
 彼の多忙さは雅も知っている。社長と行動を共にすることが多い彼は海外出張も多いのだ。そんな彼がここにいる理由を雅は勘繰らずにはいられない。
「……佐倉主任は、それを言いにここに来たんですか?」
 我ながら可愛さのかけらもない。
 本当はこうして会えたことも、三ヶ月ぶりに二人きりになれたことも嬉しくてたまらないのに。しかし、わざわざ傷口に塩を塗らなくてもいいのにとも思う。
「まさか。そこまで暇じゃないよ」
「じゃあ、どうして」
「心配だったから」
 一瞬、言葉の意味を理解できずに目を瞬かせる。そんな雅に優馬は目を細めて微笑んだ。
「今回はさすがに凹んでるかと思って、社長に頼んで少しだけ抜けてきた。俺に何ができるわけでもないけど、話を聞くくらいならできるから」
 彼は何を言っているのだろう。
 できることはない?
 そんなことない。
 だって雅はこうして優馬と一緒に過ごす時間が、何よりも嬉しくて大切なのだ。
 そんな優馬が雅を心配して来てくれた。雅を想って仕事中にもかかわらずここに来てくれた。こうして、雅の大好きな飲み物を差し入れてくれた。
 その不意打ちの優しさに胸が詰まって言葉が出ない。
(……もしも、今までの私なら)
 その場で「ありがとう!」と優馬に抱きついていただろう。自分の感情のままに振る舞って、彼への気持ちを隠したりしなかっただろう。でも、今は──
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
 雅はあえて冷静に答える。そうでもしないと胸の高鳴りを隠せそうになかったからだ。しかしそれがかえって優馬の目には不自然に映ったらしい。彼は気遣わしそうな視線を向けると、雅にだけ聞こえるほどの声量で囁いた。
「本当に大丈夫? ──『雅ちゃん』」
「っ……!」
 突然の名前呼びに雅は今度こそ我慢できずに顔を背ける。
 そしてつい、言ってしまった。
「仕事中は敬語じゃないとダメだって──それがけじめだって言ったのは、優馬さんじゃない……!」
 ああ、どうしてこうなるのだろう。こんな風に感情的になるつもりなんてなかったのに。
 こんな姿を見られてしまって、穴があったら入りたくてたまらない。だがそんな雅とは正反対に、優馬はおかしそうに小さく笑う。
 その反応は、まるで雅のこの反応を待っていたかのようだった。

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