【試し読み】亡失の森~消えた婚約者と侯爵の深い愛~

作家:蘇我空木
イラスト:蜂不二子
レーベル:夢中文庫プランセ
発売日:2022/1/7
販売価格:600円
あらすじ

「私は、今の君を愛している」──深い森の小屋でたったひとり静かに暮らしていたサスキアは、ある日突然男達に攫われて見知らぬ屋敷へと連れて行かれてしまう。初めて訪れる場所にもかかわらず、屋敷の使用人はまるで以前から自分を知っているかのように振る舞い、サスキア自身もなぜか懐かしいような奇妙な感覚にとらわれる。自分が置かれた状況を理解できず、森から連れ出した理由すら教えてもらえない。そこへ屋敷の主人・侯爵家当主のエイナルが帰ってくると、彼はサスキアを見るなり微笑みを浮かべ、彼女を強く抱きしめてきた。見知らぬ男に拘束されて恐怖を感じたサスキアは思わず逃げ出すが、男は「君は私の婚約者だ」と言ってきて……?

登場人物
サスキア
森の中でひとり自給自足生活を送っていたが、突然現れた見知らぬ男達に攫われる。
エイナル
サスキアが連れてこられた屋敷の主人で侯爵家当主。自らをサスキアの婚約者と名乗るが…
試し読み

プロローグ

 鬱蒼とした木々に囲まれた森に朝日がゆっくりと差し込んでいく。朝露に濡れた草花がキラキラと輝き、一日の始まりを知らせた。
 爽やかな朝を迎えた森の片隅にある小屋の扉が開く。そこから出てきた人影は両手を上に突き上げながら大きく伸びをした。
「んー、今日もいい天気!」
 簡素なワンピースを着て、明るい茶色の髪を一つにくくった女は、弾んだ声と共に川のある方向へと歩き始めた。少しひんやりとした空気と柔らかな日差しが僅かに残っていた眠気を優しく覚ましてくれる。
 ざぁっと風が吹き抜けると樹々が纏った朝露が頬をかすめ、この森とよく似た緑の瞳を細めた。
 そういえばこの森に雨が降ったのはいつだっただろう。思い出せないまま目的の場所へ着いてしまった。
 清らかな水が流れる川には小さな水車小屋がある。中に入るといつものようにゴトゴトと歯車が水流で回っている。歯車の前に屈みこみ、挽き終わった小麦粉を木のボウルへと慎重に移した。
 たった一人で小屋に住み、自給自足の生活をしている女には日によってやることが決まっている。そして今日はパンを作る日。小麦粉の入ったボウルに布を被せると、足取りも軽く小屋へと戻っていった。
「この前はハーブを入れすぎちゃったから気を付けないと。あっ、今日は胡桃も入れてみようかな」
 うきうきとした呟きに可愛らしいさえずりが返される。樹の枝に留まった鳥を見上げ、女はふっと顔を綻ばせた。
 ──今日はきっと良い一日になる。
 不思議と確信めいた自信を抱く。しかし日が暮れる頃になって、その予想が見事に裏切られるなど、この時は想像もしていなかった。

 前回の反省をふまえたパン作りは見事に成功し、これで少なくとも十日は持ちそうだと満足する。
 ノックの音が聞こえたのは、そろそろ夕食の用意に取り掛かろうとしていた時だった。返事をしつつ扉を開けると、そこには見知らぬ壮年の男性が立っている。この人は誰で、どんな用向きでここに来たのか。
 戸惑いを隠せないでいると、突然の来訪者は女の顔を見るなりほっとした表情を浮かべた。
「サスキア様……」
 名を呼ばれた途端、心臓がどくりと大きく跳ねた。
 そう、私の名前はサスキア。久しく人に会っていないせいで忘れかけていた。
 でもどうして、この見覚えのない人が私の名前を知っているのだろう。
「あの……どちら様、ですか?」
 サスキアがおずおずと尋ねると男性は小さく息を呑んだ。そして悲しげに顔を歪ませると軽く後ろを振り返る。つられるようにそちらへと視線を向けると、少し離れた場所に馬車が待機しているではないか。しかもその周囲にあった複数の人影がこちらへ向かってくるのが見えた。
 言い知れぬ恐怖を覚え、サスキアは咄嗟に扉を閉めようとした。しかし素早く取っ手を掴まれ阻まれてしまう。身を翻し、慌てて部屋の奥へと駆け出すと複数の足音が追いかけてきた。しかし隠れようにも小屋の広さはたかが知れている。台所の隅で身を縮こまらせているサスキアを四人の男が取り囲んだ。
「こ……ここには何もありません! 帰ってください!!」
 半ば叫ぶような懇願の声に扉をノックした男が唇を噛みしめた。その表情は怒りでも嘲りでもない、言うなれば苦悩の色を滲ませている。だけど見知らぬ男達に取り囲まれたサスキアは完全に恐怖に支配されて、そんな違いに気付くはずもなかった。
 ゆっくりと伸ばされた手から何とか逃れようと必死で壁に身体を押し付ける。全身で拒否を示すサスキアにばさりと大きな布が被せられた。
「い、……やあっ!」
「絶対に落とさないように。丁重に扱いなさい」
 分厚い布に包まれた身体がふわりと持ち上がる。どんなにもがき、暴れてもびくともせず、遂には小屋の外に連れ出されてしまった。
「旦那、ちょいと長居しすぎたようだ。急いで抜けさせてもらうぞ」
「仕方ありませんね。まさか、私のことまで……」
 ばたんという音が聞こえ周囲の音が小さくなる。柔らかな場所へ下ろされたので、どうやら馬車に乗せられたらしい。
 どうして、私がこんな目に遭わなければならないの?
 ただ森の中で静かに暮らしていただけなのに。
 暗闇の中、不規則な振動に揺られながらサスキアは歯を食いしばり、溢れそうになる涙を必死で堪えていた。

◇◆◇

 馬車に揺られること一昼夜。
 大きな屋敷へと連れてこられたサスキアは、ふらつきながらも自力で玄関へと降り立った。
 道中はロビンと名乗った壮年の男が同乗していた。水や食料を差し出してきたものの、サスキアはとても食べられる状況ではない。結局は僅かな水で喉を潤しただけで、あとはずっと座席の隅でうずくまって過ごした。
 何度も隙を見て逃げ出そうと考えた。しかし馬車の扉は外側からしか開かないように細工され、馬に乗った三人の男が並走している。この上なくしっかりとした対策になす術はなく、彼らの目的地まで運ばれてきてしまった。
「サスキア様…………! よくぞ、ご無事で……っ」
 屋敷の使用人だろうか。玄関に控えていた中年の女性が両手で口元を覆って目を潤ませている。彼女は自分の訪問に感激しているようだが、サスキアにはまったく覚えがなかった。
「ダニエラ、こちらへ」
 ロビンから何やら耳打ちされるなり、女性は潤ませていた目を大きく見開く。そしてサスキアへとぎこちない微笑みを向けてくる。一体何を伝えたのだろう。不審に思われない程度に周囲を観察していると、ダニエラに手を取られた。
「さぁ……お部屋へご案内いたします」
「サスキア様はまったく食事をなさっていません。軽食の用意をいたしますので、まずは湯浴みを」
「承知いたしました」
 手を掴む力はごく柔らかで簡単に振りほどけそうだった。しかし扉の前にはサスキアをここに連れてきた男達が立ちはだかり、多くの使用人が取り囲んでいる。とても逃げ出せそうにないし、飛び出したところでどこに逃げたらいいのかわからない。
 それに今は──疲労と空腹でふらふらだ。
 サスキアは添えられた手に支えられ、階段をゆっくりとした足取りで上り始めた。
 最後の段へ足を掛けると、手を引かれるより先に身体が自然と右を向く。隣を歩くダニエラはその流れに逆らうことなく右手の廊下を進んでいった。
 どうして、場所がわかるんだろう。
 ──扉を三つ超えて、四つ目の扉が目的の部屋。
 不意に浮かんだ考えの通り、ダニエラは四番目の扉へと手を伸ばした。
 手前には立派な応接セットが鎮座し、窓辺には大きな鏡のついたチェストが置かれている。導かれるままに部屋へ足を踏み入れた途端、心臓がどくりと大きく鳴った。
 初めて来た場所のはずなのに、なぜか懐かしさがこみ上げてくる。奥にある二つの扉のうち、右側が浴室へと繋がっているはず。サスキアの予想通りの場所にあった浴室には既に用意が整っていた。
 一人で入れる、と言ったのにダニエラは頑として譲らない。しかも使用人がもう二人追加された状態で、文字通り頭の先から爪先まで入念に洗われた。
 ふんわりとしたバスローブに身を包み、火の焚かれた暖炉の前で髪を乾かしながら手足にクリームを塗り込まれる。
「お手がこんなに荒れてしまって……」
 ダニエラが痛ましげな顔で指の先まで丹念にクリームを塗ってくれるが、それが少しくすぐったい。そんなに悲しい顔をされても、なにせ森での一人暮らしだからやるべきことが満載だった。毎日の食事作り、掃除や洗濯。薪割りだってやっていたのだから、指にひび割れの一つや二つがあって当然だろう。
 言い返したい気持ちを堪えていると、どこからともなくいい匂いが漂ってきた。
「失礼いたします。お食事をお持ちしました」
 ロビンがワゴンを押して入ってくる。お風呂で緊張が多少解れたせいか、急に空腹感を覚える。お腹が鳴りそうになるのを何とか阻止しつつ、暖炉の前からソファーへと移動した。
「どうぞ、ゆっくりお召し上がりください」
 深めのお皿の中には、クリーム色のスープと共に細かく刻まれた野菜が浮かんでいる。おそるおそるスプーンを手に取り、少しだけ掬って口に運んでみた。久しぶりに味わう温かな食事になぜか涙が出そうになる。じっくり噛みしめ、味わってから飲み込むと胃に栄養がじんわりと染み込んでいくのを感じた。
「お味はいかがですか?」
「美味しい、です……」
 部屋にいる全員が食い入るように見つめているのに気付き、急に恥ずかしくなる。サスキアが小声で返すと安堵の溜息があちこちから聞こえてきた。
 完食しなくてもいい、と言われたものの、やはり食べ物を残すのは気が引ける。そんなに量は多くなかったはずなのに、お皿が空になる頃にはお腹がはちきれそうだった。思わず大きく息を吐き出すと、ロビンが微笑みながらティーカップを差し出してくる。中身はリラックス効果のあるハーブティーだと言い添え、皿を回収すると部屋を後にした。
 食事の間に髪はすっかり乾いたらしい。用意された寝間着に着替え、ティーカップの中身をちびちびと飲んでいると、急に眠気が襲ってきた。
 馬車に揺られている間、サスキアはほとんど眠っていなかった。頭の中は緊張と恐怖に支配され、微睡みに近い睡眠を細切れに取っていただけなので、いよいよ限界が訪れてしまったようだ。
「サスキア様、そろそろベッドに入りましょう」
 必死で我慢していたのに、遂にかくんと頭が落ちてしまった。当然ながらダニエラがそれを見逃すはずがない。またもや手を取られ、今度は隣室へと案内される。
 そこは先ほどの部屋と同じく暖炉で温められていた。窓の近くには天蓋付きの大きなベッドが鎮座している。大きさは小屋で使っていたもののゆうに三倍はあるだろうか。掛け布団を捲り上げ、室内履きを脱いでよじ登るとあまりの柔らかさに驚いてしまった。
「何かありましたら、そちらのベルでお呼びください」
「…………は、い」
 ベッドサイドには小さな金属製のベルと水差し、そして大きな鈴蘭のような鉢植えがある。それにしても、どうして花が光っているのだろう。ランプよりもより柔らかな光を眺めていると、ダニエラが教えてくれた。
「これは安眠花あんみんかでございます」
「あぁ……魔付き植物、なの……ね」
 植物の中には魔力を帯び、それぞれ特有の能力を持つものがある。どういった条件で魔付きになるのか、仕組みは未だに解明されていない。そのため非常に高値で取引がされていた。
 名前から察するに、この花の光は安眠を促す効果があるのだろう。とても珍しい植物を枕元に置いてくれるなんて随分と気前がいい。やはりここは、お金持ちのお屋敷なのだろうか?
 わからないことだらけだというのに、今はもう何も考えられない。
 ──もしかすると、これは夢なのかも。
 次に目が覚めたら、すべてが元通り。森の小屋での静かな生活に戻っているかもしれない。
 急激に沈んでいく意識の中、サスキアは必死で願っていた。

第一章 恐怖と混乱

 翌日、軽い頭痛と共に目覚めたのは豪華なベッドの上。状況を呑み込めず、身を起こしてぼんやりしていると、天蓋から吊るされたカーテンの外側で人の気配がした。
「サスキア様、おはようございます」
「あ、はい……」
 名を呼ばれたので咄嗟に返事をしてしまう。カーテンが静かに開かれ、小さな桶を持った女性が入ってきた。確か名前はダニエラといっただろうか。ダニエラは目が合うなりにっこりと微笑み、もう一度朝の挨拶を伝えてきた。
「顔色が随分と良くなりましたね」
 桶には水が張られているようだ。それがサイドテーブルに置かれ、浸されていたタオルを絞ったものがそっと差し出された。受け取るまで何をするものかわからなかったというのに手が自然と動いてしまう。顔を丁寧に拭うとようやく頭がすっきりしてきた。
「あの、私は……」
「お食事の用意ができております。お着替えいたしましょうね」
 サスキアの声を遮り、ダニエラはさっさと桶を手に取った。そして後ろに控えていた別の女性に渡し、何やら指示を出している。
 ベッドを下りて向かった先は壁に造り付けられたクローゼット。扉を開け放てばずらりと並んだ服の数々に思わず目を丸くした。どうしてこんなに用意されているのかまるで意味がわからない。立ち尽くすサスキアに構わず、ダニエラがいくつかハンガーを取り出した。
「さぁさぁ、今日はどんなお色にいたしましょう?」
 一瞬ドレスを着させられるのかと焦ったが、幸いにも候補として提示されたのはすべてシンプルな形をしたワンピースだった。手触りも良いので着心地は抜群だろうが、どれもこれも淡く優しい色合いをしている。ずっと紺や茶色といった暗い色の服ばかり着ていたせいもあるのだろうが、鏡の前で合わせるとどうにも違和感が拭えなかった。
「サスキア様、いかがですか?」
「え、えっと……」
 ざっと見回したが、正直どれがどれなのか覚えていない。でも、サスキアが選ばなければこれが延々と繰り返されるのは目に見えていた。結局はなにを着ても同じだと開き直り、手前にあった若草色のワンピースを指差した。
 サイズは大丈夫なのかと不安だったが、ほとんどぴったりと言って差し支えなかった。唯一、腕の部分だけが少しきつかったがあまり締め付けるタイプではないので問題はないだろう。背中の中ほどまである髪に香油を馴染ませ、ゆるい三つ編みにして身支度が無事に完了した。
 朝食には野菜たっぷりのコンソメスープと白パン、そして温められたミルクが用意されていた。焼き立てなのか、白パンをちぎるとふわりと湯気が立つ。ふわふわとした食感と噛みしめるたびに口の中に広がる小麦の甘さに思わず感激してしまう。どうやったらこんなに柔らかく焼き上げられるのか、是非ともコツを教えてほしかった。
「あ、あの……ダニエラ、さん?」
「サスキア様、わたくしに『さん』は不要でございます」
「ごめんなさい。あの……」
「はい、お替りでしょうか?」
「いえっ、ちがいます」
 ティーポットに伸ばされた手が止まり、困ったような表情が向けられた。ダニエラは甲斐甲斐しく世話をしてくれるものの、もしかするとサスキアと話をするのを避けているのかもしれない。それでもここで引き下がるわけにはいかないと、膝に乗せた手をぎゅっと握りしめた。
「どうして私がここに連れてこられたのか、何かご存じありませんか?」
「それ、は……」
 質問が直球すぎただろうか。ダニエラは目を泳がせ、わかりやすく動揺している。扉付近に控える女性達にも目を向けてみたものの、さっと俯いて視線を逸らされてしまった。
 このままでは埒が明かない。ティーカップを手に取り、残った紅茶を飲み干すとおもむろに立ち上がった。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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