【試し読み】今日こそ義兄を誘惑します~十年越しの初恋と一途な溺愛~

作家:りりす
イラスト:水野かがり
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2021/2/19
販売価格:700円
あらすじ

十年ものあいだ、義兄に片思いし続けている美弥子。彼からは妹としか思われていないことはよく分かっている。再婚した両親が事故で亡くなってからも、年頃の男女がずっと一緒に暮らしながら、清々しいほど何も起こらなかったのだから。──もういいかげんこの関係を変えたい。どうしたら義兄の特別な存在になれるのか。思いつめた美弥子はある夜、義兄を誘惑しようと決意する。でもちょうどその頃、一度は諦めた夢が叶うチャンスが美弥子に巡ってきて……。 ※過去に公開していたweb小説を加筆修正し、電子書籍化したものです。《書下ろし番外編》も収録!

登場人物
佐川美弥子(さがわみやこ)
母親の再婚により義兄となった柊に十年間片思い中。兄妹の関係を変えようと誘惑するが…
佐川柊(さがわしゅう)
義兄。美弥子のことを大切に思っており、両親が事故で亡くなった後も共に暮らし続ける。
試し読み

一 恋心

 この街は、いつも潮の香りがする。
 佐川さがわ美弥子みやこは玄関先で小さく伸びをして、早朝の海風を胸いっぱいに吸い込んだ。海辺の朝は五月でも少し肌寒く、冷たい風に長い髪が乱される。
 家の前は海岸沿いの国道に繋がる、長く緩やかな坂道だ。この家に住んで十年。海が見える高台の家を、美弥子はとても気に入っていた。
「……よし、今日こそは」
 神妙な表情でしばらく海を眺め、重々しく頷いてから家の中へ戻る。
 新聞をとってきて、朝食の準備をして。いつもどおりの習慣をこなしながらも、美弥子は落ち着かない。ついチラチラと何度も時計を見上げてしまう。
 ……そろそろ時間だ。彼がキッチンに姿を見せたら。そしたら、今日こそは。
 ちょうどそう思ったところで、義兄のしゅうがキッチンに入ってきた。「おはよ、美弥子」と笑みを向けられ、ドキッとした美弥子は慌てて手元に視線を戻す。
「柊、おはよう。お水いる?」
「うん、ありがとう」
 コップに入った水を差し出しながら、そっと柊の横顔を見上げた。
 意思の強そうなキリッとした眉、涼しげな目元。高い鼻に口角の上がった形のいい口元。初めて会ったころから美しく整っていた義兄の顔立ちは、ここ数年で精悍さを増した。
 毎日顔を合わせていても、美形に笑顔を向けられることにはさっぱり慣れない。「寒くないの?」と問いかける声は、自然と小さくなる。
「いや、暑いくらいだけど。寒い?」
「寒いよ」
 シャワーを浴びたあとの柊は、いつも薄い半袖シャツ一枚だ。見ているだけで寒い。そして暑そうに襟元をパタパタされると、ボディソープの香りとともに柊の肌の香りまで感じてしまって落ち着かない。
 それでも柊としては気を遣っているのだろう。美弥子が一緒に住むようになるまでは、風呂上がりは上半身裸で過ごしていたらしいから。着替えや風呂、洗濯物。家族として暮らしていても、血の繋がらない美弥子に対する配慮を感じる場面は多い。
 ……妹としか見ていないんだから、そんな気遣いはいらないのに。私を女として見たことなんて、一度もないくせに。
 つい恨みがましい気持ちになりながら、美弥子は小さく息をつく。
 柊はいつだって、義理の兄妹として適切な距離を保って接してくる。家族としての親密さと、血縁ではない義妹への節度。そのバランスはいつも完璧だ。
 今までは美弥子もその距離感を受け入れてきた。でも今朝の自分はひと味違う。美弥子は覚悟を決め、ギュッと目をつぶって柊に向き合った。
「あれ……美弥子」
「えっ、なに?」
「ここ、開いてる」
 思わず上擦った声を出して柊を見上げた瞬間、笑顔で胸元を指さされた。
 美弥子の部屋着のファスナーは、下着がちらりと見えるくらい開いている。いや、むしろ黒いレースがばっちり見えている。柊は平然とそのファスナーを閉めた。
「だから寒いんだよ、美弥子。あったかくしないと駄目だよ」
「……ハイ。ソウデスネ」
「これ貸してあげる。着てなよ」
「……ありがと」
 柊は小脇に抱えていた長袖のパーカーを美弥子の肩にかけた。
 そこまで寒くはないと思いつつも、せっかくなので貸してもらった服を着る。柊の服。いつもグレープフルーツみたいなさっぱりとした香りが漂うのは、香水なんだろうか。化粧もほとんどしない美弥子には、香水の種類なんて全然分からないけれど。
 もそもそと袖を通しているあいだに、柊は何事もなかったように「風呂掃除してくるぞー」とキッチンを出ていった。
 ……誘惑、失敗。
 美弥子はがっくりと肩を落とし、その場にうずくまった。
 いや、分かっている。義妹としか思われていないと。だからこそ、波風立たずに家族として暮らしてこられたのだと。
 それでももう、美弥子は今の関係を変えたかった。いつからか芽生えた義兄への恋心は、最近ではもう苦しいほどだ。少しでも女性として意識してほしいのに、柊は美弥子の下着を見たくらいでは動揺しないらしい。
 今さらどうすれば、柊の特別な存在になれるのか。
 十年も続けた義妹というポジションから抜け出す方法を、美弥子はここのところずっと考え続けている。

「なんであんなに平気な顔してるのかなー……下着見えてたのになー……」
 勤務先のカフェでの仕事中、美弥子は鬱々とした表情でカウンターを拭きながら今朝のことを思い返していた。
 普通ならもう少しうろたえたり、照れたりする場面だったような。顔色ひとつ変えずに受け流されてしまったのはなぜなのか。
「パンツのほうがよかった……? いやでもいきなりパンツは……」
 今年二十八歳になるというのに、男性と付き合った経験はゼロ。むしろ柊が初恋の相手。そんな美弥子にとって、男性をドキリとさせる方法など見当もつかない。
「待て。お前レベルの初心者にパンツはまだ早い」
 厨房で呆れ声を出したのは島村しまむら大和やまとだ。一人でブツブツ言っていたつもりが、聞こえてしまったらしい。
「……私レベル」
「この年でキスもしたことないって希少生物だぞ。それでもせっかく勇気とブラジャー出したのにな、ご愁傷様」
「くっ、バカにされてる……!」
 いつもながら口の悪い男の言葉に、美弥子は唇を噛んでカウンターに伏せる。
 美弥子が働いている「エスカリエ」は、海辺にある小さなカフェだ。若いころからサーフィンに夢中だったというオーナーが、有名なサーフポイントとして知られるこの地を気に入り、十年前にエスカリエをオープンさせた。
 もっともオーナーはあちこちに店を持っているので、ここにはあまり寄り付かない。実質店を回しているのは、オーナーのおいである大和だ。美弥子は大和と幼なじみだった縁から、ここで働かせてもらうようになった。
 薄化粧にシンプルな服装を好む、地味な美弥子。金色に近い明るさの髪、日焼けした肌に髭をはやしたワイルド系の大和。
 見た目では全然違う系統の二人で、年齢も大和のほうが三歳年上だが、子供のころからずっと馬が合う友人だ。中学高校と女子校で過ごした美弥子にとって、大和は気安く付き合える貴重な男友達だった。
 コトリと何か置かれた音に、美弥子は顔を上げる。カウンターに置かれたのはハイネケンだ。瓶から直飲みするタイプのビールは「ビーチで飲みやすい」という理由でオーナーのお気に入りであり、ついでに「仕事中に飲みやすい」という理由で大和のお気に入りでもある。
 大和は美弥子に勧めながら、自分もさっさと飲み始めていた。
「仕事中」
「いいんだよ客もいないし。この店どうせ金持ちの道楽なんだから、適当でいいって言ってるだろ」
「まあ、そうだけど」
 オーナーはあちこちにリゾートマンションやクルーザーを持っているセレブだ。美弥子を採用するときも「頑張らなくていいからね。この店、趣味と税金対策兼ねてやりたいだけだから」と笑っていた。
 でも根が真面目な美弥子は、時給分の仕事をしないと落ち着かない。「客いないし座ってコーヒーでも飲んでろ」と大和に言われても、掃除をしたり調味料の補充をしたり、何かしら仕事を探すのが常だ。貧乏性だと自分でも思うけれど。
「なんでビールが出てきたの。サービスいいね」
「その話、素面しらふじゃ聞けないから。要するに軽くあしらわれたんだろ、切ないねぇ」
 柊に女性として見られていないと悩む美弥子に、大和が「さりげなく下着姿とか見せてアピれば?」と適当に答えたのが昨日。そしてズーンと落ち込んだ表情で美弥子が出勤してきたのが今朝。
 これはもう、幼なじみとしては当然察するというもので。
「おかしいなー……爽やかイケメンなあの兄貴も、下着見せればさすがに動揺しそうだと思ったんだけどなー」
「ぜんっぜん動揺しなかったよ。力及ばず申し訳ない」
 ……そう、義兄は全然動揺しなかった。むしろいつもどおりの爽やかな笑顔で、ご丁寧にファスナーを閉めていただいた。泣きたい。
「お前のことだから、色気ない下着だったんじゃないの?」
「黒のセクシー系だよ、めちゃくちゃ攻めたよ」
「具体的な話を出すな、気持ち悪い」
「気持ち悪いって言うな」
 でもそこで、ふと気付いたように大和が顔を上げた。
「なあ、そういやお前の部屋着ってどんなのだよ。手抜きしてないだろうな、まさか」
 着るものに無頓着な美弥子は、仕事のときはいつも白いシャツと黒いパンツ姿だ。着回しを考えるのも、洋服を買いにいくのも面倒だという理由で。
 確実に家でも色気のない格好をしているに違いない。その大和の予想は当たり、美弥子は平然と信じられないことを口にする。
「部屋着? 高校ジャージだけど」
「……高校ジャージ」
 大和の脳裏に、美弥子が通っていた中高一貫校のジャージが浮かぶ。偏差値の高さと生徒の真面目さに定評のある学校の、超絶野暮ったいジャージが。
「あの伝説のイモジャーをいまだに愛用……?」
「えー、イモって」
「イモだろあれは。好きな男と暮らしてるのに部屋着があれって……お前つくづく勇者だな……!」
「あったかいし丈夫だし、まだ着られるんだもん」
 はぁ、と大袈裟にため息をつく大和。「やる気があるのかないのか分かんねーな、こいつ」と思いながら、大和は美弥子の額を指先でつつく。
「お前ね。満腹なのにイモ食いたいと思う男はいないよ?」
「……イモ」
「お前の兄貴はあれだけの男前で、綺麗な女を食い放題だぞ。常に腹いっぱいの男にイモを差し出しても食うわけないだろ」
「食べ放題なんて、柊はそんなことしないよ。……え、しないよね?」
「知らんわ、俺に聞くな。でも少なくともイモに手を出すほど飢えてないと思うけど」
 すっかりイモ扱い。でも一理ある。自分の下着を見ても何の反応もなかった柊を思い出し、美弥子はしょんぼりする。
「かわいくなくはないんだけどなー、お前」
「微妙なフォロー。私に足りないものは何ですか師匠」
「色気」
「一言。そして致命的」
「それでも果敢に恋をする勇気は買ってるぞ、俺は。相手が義理の兄貴だっていうのがちょっとあれだけど……まあ一応頑張ってみれば」
 気のない口調で言いながら、大和は二本目のハイネケンを空けている。
「応援する気ゼロだよね」
「応援してるけど進展する気がしない。来世あたりで何とか結ばれるといいよな」
「来世……遠いわー……」
 長い長い美弥子の片思い。大和は最初のうち、ただヒヤヒヤしながら見守っていたのだ。美弥子は今どきめずらしいほど男に免疫がない。あんなイケメンに恋をしても、傷付くだけではないかと。
 でももうここまでの長丁場になれば、応援してやりたい気持ちにもなってくる。何だかんだ言いながらも、大和としてはかわいい妹のように思ってきた幼なじみの初恋なのだから。
 美弥子が大きなため息をつく。そんな彼女の浮かない表情に苦笑しながら、大和は励ますようにもう一本ハイネケンを出してやった。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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