【試し読み】クールな同期がいきなり豹変して私を溺愛執着しはじめた件
あらすじ
梅は過去のトラウマから、自分に自信がなく恋愛を避け気味。それなのに、入社間もなく取引先でセクハラされているところを同期の孝成に助けてもらった瞬間、恋に落ちてしまった。見た目も良く、実力も十分な孝成は社内の美人たちがアプローチするもまったく見向きもせず。梅には気の合う親友という感じで接してくる。そんな態度に想いを諦めきれず、もう一年以上片思いをこじらせていた。ところが、どうやらカノジョがいるらしい…と耳にした梅は、いよいよもって諦めの境地。ちょうど取引先の担当者から食事にも誘われているし。ところが、なぜだか孝成が態度を豹変させ、梅が困るほど距離を詰めてくる。これは一体、どういうこと!?
登場人物
同期の孝成に片思いして一年以上。カノジョがいるという噂を聞き、諦めようとするが…
優しくて仕事もできるイケメン。社内の女性からアプローチを受けるが見向きもしない。
試し読み
プロローグ
背後から伸びてきた手が、尻の膨らみに触れた。
トン、とまるでただ手を置いただけのように思えたが、徐々に男の指先が尻の割れ目をなぞるように動かされて、あまりの不快さに梅は顔を顰めた。
「……っ」
隣の席で酔った男はますます大胆な手の動きで、今度は梅の太ももの上を撫でてきた。スカートを捲り上げるように動かされて、悔しくて目に涙が滲む。
打ちあわせと称した取引先との接待の場に、社会勉強だと先輩社員に連れてこられた。新入社員である身ではどうすることもできない。目の前に座る先輩に視線で助けを求めるが気づいてはくれなかった。
「君がセクハラだなんだと叫んでも、誰も信用しないし、お宅は大口の取引先を失うことになるぞ。それに……君みたいなブスに触ってやるだけありがたく思えよ」
男は梅の耳元でそう告げてきた。
女性は梅一人しかいない。取引先の上役でもあるこの男が「違う、やっていない」と言えば、誰が梅の味方をしてくれるだろう。場の空気を乱したとして責められる可能性だってある。
(仕事じゃなかったら、我慢なんかしないのに……っ)
悔しさに唇を噛んでいると、尻に置かれていた手が急に持ち上げられて、背後から低く不機嫌そうな声がかけられた。
「証拠の動画撮りましたけど……警察行きましょうか? あんた、さっきからこの子の身体、触ってましたよね」
先輩たちの目が一斉に梅に集まった。本当か、と言わんばかりに訝しむような視線に晒された。
助けてくれた同期入社の彼──大森孝成は、たまたま洗面所に立っていたのか、普段は可愛いと言われる目元をキツく細めて、まるで汚物を見るような目で男を睨んでいた。
一八〇近くある長身の孝成が腕を組み立っていると、妙な威圧感がある。最近流行の塩顔男子といった印象のある優しげな面立ちだが、怒った表情は凛々しく相手を萎縮させるに十分だったらしい。
「大森……? あの、いったいなにを」
先輩の一人が困惑した様子で問いかけるも、孝成は自然な色の緩いパーマをくしゃりとかき上げ男を蔑んだ目で見つめ続けた。
「そ、そんな大袈裟な、たまたま手があたっていただけだろう!」
「だから、動画撮ったって……ほら。前からじゃ見えないけど、後ろからだとバレバレ」
たしかに梅たちが座る椅子の背もたれは格子のようなデザインで、近くに寄れば手が置かれているのは見えるだろうが。
(……お店の人も、誰も気づいてくれなかったのに)
周りの同僚にも見えるように彼は音量を大にして動画を見せた。すぐ後ろで撮っていたのか『触ってやるだけありがたく思え』という音声もバッチリと記録されていた。
「わ、悪かったよ……ほら、そう大事にしないでさ……ま、まぁ座ったら? 君も新入社員なんだろ? 空気を読んだ方がいい」
孝成は、嫌そうな顔を隠そうともせず梅と男の間に椅子を持ってきて座った。おそらく、梅を庇ってくれたのだと思う。
たいそうモテると噂の同期は、かなりのフェミニストだったようだ。
微妙な雰囲気のまま接待は終わり、梅は取引先の社員たちを見送ってから彼を追った。
「待って! 大森くん!」
振り返った彼は実に面倒そうな顔で嘆息した。あの場で意見したことで、先輩から小言を言われたのだ。自分のせいで迷惑をかけてしまったのだから、という思いがあった。
「萩野谷……大丈夫だったか?」
「うん、ありがとう。さっきは助かりました」
「ならいいけど」
「つか、私みたいな女触ろうとする男いるんだねぇ。物好きじゃない? ははっ」
自虐的な言葉は自分の心を傷つける。
美人でもないし、男勝りだとも言われるが梅は女だ。好きでもない男に触れられて嬉しいはずがない。
ただ、被害者ぶれば「ブスがよく言うよ」という目で見られるのではないかと怖かった。だからつい平気なフリをして笑ったのだが、彼は案じるような顔で思ってもみなかったことを告げてきた。
「無理しなくていい。怖かっただろ」
(あ……好きだわ……)
なんとも呆気なく恋に落ちた瞬間だった。
彼の顔と名前と年齢くらいしか知らないのに、ちょっと優しくされただけであっさりと。
しかし同時に失恋も決定する。
噂でしか知らないが、社内でも人気の美女たちが彼に告白し振られていると聞いた。
彼に告白する度胸もない梅では、そもそも始まりを告げるゴングすら鳴ることなく終わる──はずだったのだ。
第一章
猛暑と言われる今年の夏。
社内はエアコンの設定温度を高めにしてあるため暑いくらいだ。
けれど、休憩室の三つ並んだ椅子の端に座っている女──萩野谷梅の顔は真冬かと思うほど寒々しく青ざめていた。
家から持ってきただいぶ大きめのおにぎりを一口頬張った梅は、肩の下まである緩くカールした黒髪を某ホラー映画のように前に垂らしガックリと項垂れた。
「私、もう大森のこと……諦めようと思う」
梅の言葉に呆れたのか、それとも同情してくれているのか、すぐ隣からは友人で同僚の蒔田名子の重苦しいため息が聞こえてくる。
梅が働いているR&C産業は食品の卸売りをしている会社だ。
新入社員として、自社ブランド米や米の加工食品を小売業者に卸す米穀営業部に配属されたのは一年と数ヶ月前のこと。
梅はあの一件以来、同期で営業成績トップを独走中の男、大森孝成に片思い中である。
(今だったら、おっさんの手をギュッと抓ってやるけど……新人だったしね)
あの頃は同じ部署内といっても別の先輩がOJTについていたため関わりもそうなかったが、二年目に孝成のフォローとして梅が指名されてからは、仕事でそばにいる時間が増えた。
新人や入社歴が浅い社員は大型案件をいくつも抱える先輩のフォローにつくのが当たり前で、孝成のフォローに同期の梅がつくなんて本来はあり得ない。
しかし彼は入社二年目にもかかわらず、新規の顧客を次から次へと獲得し、某大手飲食チェーン店とも契約を締結させ、あっという間に売上トップに躍りでたのだ。彼の仕事のやり方を学ばせてもらえと梅がフォローに決まったが、周りとの軋轢を考えての配属なのだろう。実際、新人らしからぬ実績に嫌味を言ってくる社員もいるくらいだ。
「なんでよ?」
名子の声がシンとした休憩室内に響いた。
五階フロアにある備品室近くの休憩室は滅多に人が来ない。
社内には弁当持ち込み可の食堂があり、ほとんどの社員はそちらに行くからだ。
別フロアには給湯器が設置された休憩室もあった。エレベーター側から遠い場所に位置し、エアコンの風がまったく届かないこの場所は、冬は寒く、夏は暑い。
つまり、誰にも聞かれたくない話をするにはもってこいである。
「なんでって……」
顔がよく、優しく、将来性もある。そんな三拍子揃った男を女が放っておくはずはなくて。入社以来、社内でも男性社員から人気の高い受付嬢や役員秘書らがこぞって孝成を狙っているらしい。
『大森くんって彼女いないんだよね。なら、あたし、立候補しちゃおうかなぁ』
『終わったら食事にでも行きましょうよ』
そんな会話を何度聞いたことか。
ただ、なぜか彼は誰の誘いにも乗らなかった。女性たちから難攻不落と言われているのだけが、梅にとっては唯一の救いだったのに。
「恋人がいるんだって」
「へぇ~そうなんだ。大森がそう言ってたの?」
「ううん。大森に振られた人たち」
偶然、社員食堂で隣に座ったグループがそう話しているのを聞いた。
「本人にちゃんと確認しなさいよ。体よく恋人がいるって言っとけば断りやすいからかもしれないでしょ」
「確認なんてできるわけないよ。私の気持ち言ってるようなもんじゃん」
「さりげなく聞くくらいのことはできるでしょ?」
「そういうさ、恋愛を匂わせるような会話、苦手なの」
「どうして? 聞き方なんていくらでもあるじゃない」
名子が呆れ顔で見つめてくる。言いたいことはわかるけれど、仕方がないじゃないか。
初恋がひどい形で玉砕した梅にとっては、恋愛自体がトラウマみたいなものだ。誰かを好きにはなっても、気持ちを確かめたり、告白したりするのが怖い。
大学時代、梅には好きな人がいた。
その人とは男女混合のグループ内で仲がよくて、梅とは特別に気が合った。
二人で出かけることもあったし、食事にもよく行っていた。だから、彼から好かれているのではないかと勘違いしてしまった。
梅の告白を聞いた時の彼の顔が忘れられない。「冗談だろ?」そんな声が聞こえてきそうだった。
梅にとってはデートだったが彼にとっては違った。彼が腕を組んでくるのは梅を好きだからではなかった。
腕を掴んだり肩を組んだりするのも、彼からしたらただのスキンシップだった。彼の恋慕は梅には向いていなかった。ただの友達だったのだ。
「昔……ものすごく恥ずかしいことがあったの。相手に好かれてると思い込んでさ。〝そろそろ付きあおうよ〟なんて聞いておいて、実はまったく女として見られてなかったっていうね。それ以来、怖くなっちゃって」
名子とは入社式に初めて言葉を交わしてから、ずっと仲良くしてもらっている。孝成を好きだと打ち明けたのも名子だけだ。
言葉はキツい名子だが、梅の想いを茶化してきたりはしないし、誰かに吹聴するようなこともない。信頼できる友人だ。
「女として見たことは一度もない。さすがにお前と付きあうのはないわってさ。笑って言うんだよ。私、男並みに食べるしさ、自分がガサツで女らしくないのなんて十分すぎるほど知ってるけど〝さすがに〟ってさぁ。で、そのあと彼女を紹介されて、ないわって言われた理由わかっちゃったもん。唇ツヤツヤしてるし、チークはピンクだし。アホ毛も出てないし。スカートはふわふわだし」
食べるのが大好きな梅だが、まさか引かれているとはその時まで思ってもみなかった。たくさん食べる女の子っていいよな、彼はそんな風に言っていたから。浮かれて舞い上がってしまっていた。
「二人とも恋してるって感じだった。彼女のことほんとに好きなんだなってわかった。だって私とは腕とか肩は組んでも、手は繋がなかったし……あんな顔見たことなかった」
孝成と一緒にいるとその彼と自分に重なった。仕事で二人でいる時間は長いし食事に行くこともあるが、それだけだ。自分たちは、プライベートの携帯番号すら知らないただの同僚。
きっと孝成も好きな人の前でだけ見せる顔があるのだ。
これを機に片思いに終止符を打ちたかった。告白もできないのに、ズルズルと好きでいるのは辛い。
口に出して名子に言ったのは、自分なりの決意表明のつもりだ。
諦める方が簡単だと思っていたのに、胸に燻った恋情はそう簡単に消えてなくなるものではなかったから。
人任せにもほどがあるが、名子ならばそんな梅をバッサリと一蹴してくれるような気がしたのだ。
そして、さして興味もなさそうな名子は「ふぅん」と言った。
「だから二十三にもなって彼氏の一人もいたことないのね」
「名子さん、キツイ……」
「あいつの周り、隙あらば食う気満々の肉食女だらけよ。大森に恋人がいようが諦めるつもりはなさそうよね」
たしかに休憩のたびに孝成を追いかけ回している女性たちは、彼の恋人の有無は関係ないらしかった。
「私もあれくらい美人だったら、告白とかしてたのかな……」
梅は、名子曰く〝化粧したら美人〟らしいが、ほとんどすっぴんに近い化粧しかしないから自分ではよくわからない。
身体つきは細く、身長一六〇センチとそこそこだ。
生まれも育ちも東京だが大学の同級生からは「どこ出身?」と頻繁に聞かれた。祖父母も東京出身だから地方にはまったく縁がないというのに、梅の垢抜けない外見がそう見せているのだろう。逆に地方出身者に失礼な気がしてならない。
「あんたはいつも、大森を追いかけ回してる肉食女たちを見ても、羨ましそうにしてるだけだもんね」
羨ましそうになんてしていない、とは言えなかった。
孝成にあしらわれながらも、好きと言える彼女たちが羨ましかった。
自分に自信があれば、梅だって好きという感情をもっと表に出せていたかもしれない。
「席も隣だし、営業の外出もほとんど一緒。それにあんたたちしょっちゅうご飯食べに行ってるんでしょう? 恋人がいる男がプライベートの時間をそう頻繁に同僚に使うかしら?」
「でも、私とは仕事の延長だし……一緒に行動してるんだから仕方ないじゃん」
梅は、孝成が獲得してきた新規顧客のフォローや事務仕事がメインになる。
ランチによく行くのも、一度会社に戻ってからまた外に出るよりも、朝準備をしてそのまま午後も動いてしまった方が早いだろ、そう言った孝成に付きあっているだけだ。
直帰も多いから、取引先から帰る途中食事に行くこともあるが、それをプライベートな時間だとは思えない。
(食事って言っても、せいぜい三十分くらいだしね……)
同僚として一緒にいる時間が長いだけのこと。
「私なら、四六時中一緒にいる同僚と、会社帰りまでご飯食べに行きたいとは思わないわ。特別な感情でもない限り。それに、鈍いから気づかないかもしれないけど、あんたわりと目の敵にされてるわよ」
「え、誰に?」
「だから肉食女たち! ま、あんたたちの雰囲気が男女のそれじゃないから、今のところ静観って感じだけど、おもしろくないのは確かでしょうよ」
「男女のそれって……当たり前でしょ!」
孝成が梅を見る目は、同僚以上ではない。
よく食事には行っていても、話す内容は仕事のことばかり。どこの産地の米にはこの食材があうとか、こういう提案をしてみたらどうだとか。梅は食べるのが好きだから、仕事の話は苦ではない。むしろ楽しい。
話すネタが尽きないのはありがたいが、そのせいで彼の誕生日どころか住んでいる場所すら知らない。逆も然りで、孝成もまた梅の誕生日も住所も知らないはずだ。
つまりは友人ですらない。ただの同僚。
「大森の恋人って……どういう人なのかな」
昔みたいな思いをするのは嫌だ。だから見ているだけでいい。そう思っていたはずなのに、彼の恋人にどうしようもなく嫉妬してしまう。
「はぁ……あんたね。諦めたいのか、諦めたくないのかどっちよ?」
「だって……」
名子が呆れるのも無理はない。恋人を羨み、恋人がいても関係ないと行動できる人をも羨んでいるのだから。
恋人から奪うなんて梅には無理だし、それならば一年以上の恋心にピリオドを打った方が楽だと思った。
「大森の親、不動産会社の社長だか会長だからしいわよ。スペックは高いわ、あの外見だわで、女には苦労しないでしょうね。入社一年目にしてうん千万って契約取ってさ。人生楽勝よ」
「簡単に契約取ってるように見えるけど、その陰で努力してるんだから。何度も何度も通ってさ。門前払い食らっても、なんとかまたアポ取って」
彼の営業報告書を目にする機会は何度もある。だから梅にはわかる。
現在、彼は帝東ホテル内にオープンする懐石料理店を新規顧客にするため尽力していた。しかし昔から付きあいのある業者がいるため、なかなか上手くはいかないのをそばで見ている梅としては、そんな孝成の努力が蔑視されるのは悔しくてならない。
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