【試し読み】7人目の妹なんて不服です!

作家:友野紅子
イラスト:Ruki
レーベル:夢中文庫プランセ
発売日:2020/5/26
販売価格:900円
あらすじ

社長令嬢として何不自由なく暮らしていた麻里はある日、階段を踏み外し異世界へと落ちてしまう。右も左もわからない世界で拾ってくれたのは、王国軍将軍・ルクスフェルド。亡き両親に代わり9人の弟妹を一人で育て上げたルクスに、麻里は7人目の妹として引き取られることに。次第に麻里はルクスに惹かれるようになり、ルクスもまた麻里を妹以上の存在に感じ始めるのだが……二人の気持ちが近づき始めたとき、ルクスの不倫疑惑が浮上! さらに、王宮で働き始めた麻里には王子からのアプローチが始まって? 届きそうで届かない、すれ違う二人の想いが行き着く先は……? 書下ろし番外編も収録。ムズキュン満載のラブファンタジー!

登場人物
市橋麻里(いちはしまり)
階段を踏み外し異世界へと落ちる。ルクスフェルドの7人目の妹として引き取られる。
ルクスフェルド
亡き両親に代わり年の離れた九人の弟妹を養う。落ちてきた麻里を自らの妹として保護する。
試し読み

 ……ん?
 煙たさに目が覚める。
 昨晩は少し寝苦しく、薄く窓を開けて眠りについた。その僅かな隙間から、煙が部屋に流れ込んでいた。
 さてはパパがまた、ママに追い出されて中庭でシガレットを吸ってるな。
 寝起きの頭に、しょんぼりと背中を丸めてシガレットを吹かすパパの姿が浮かんだ。
 もう、パパってば……うん? パパのシガレットって、こんなに焦げ臭いっけ……?
 脳裏を過ぎった違和感は徐々に確信に変わり、寝ぼけた頭を覚醒させた。
「って、んな訳ゃない! ナニコレ!? 煙くっさ!!」
 ベッドから飛び起きる。
「うっ、目ぇ沁みるっ」
 この煙はパパのシガレットとは訳が違う。ゆらりと立ち昇る高貴な揺らめきとは対照的、もんもん、もくもくの害悪だ。
 腕で鼻を塞ぎ、駆け寄った窓から中庭を見下ろす。
「ルクスさん!? これは一体、何事ですか!?」
「お! マリィ、起きたのか? もうじき、朝飯に芋が焼けるぞ」
 焚火に木の棒を突っ込んで弾ける笑顔を向けるのは、私の扶養者であるルクスさん。
 いきなり知らぬ世界に落とされて、右も左も分からない私の世話を買って出てくれた彼には感謝しかない。
「どうして焜炉こんろを使わないんですか!? 庭先で焚火なんてどうかしてます!」
「いや、なに。以前、王城の庭園で出た落ち葉や枝を破棄するというから、貰ってきて乾燥させておいたんだ。ほら、こうして燃やせば薪の節約になるだろう? 何より直火焼きの芋はホクホクで美味いぞ?」
 そう、感謝しかないけれど、ルクスさんの染み付いたケチ根性にはどうしても馴染めない……。
「ルクスさんの将軍職の年俸を強引に時給換算すれば、およそ一万イエン。焚火で火をおこし、芋が焼き上がるまでに掛かる時間がおよそ一時間。二本の芋が一万イエンもするんですよ? そこに煙害も加味すれば、焚火で芋を焼く経済効率は限りなく悪いです。その芋、高くつきすぎです。非効率です」
「ふむ。焼き芋を頬張るマリィを想像しながら待つ一時間は楽しい、故に俺は非効率とは思わんのだがな。それに今朝は奮発してなんと一人二本ずつ、四本の芋を焼いている」
 ルクスさんがぶつぶつと呟いているが、二階までは聞こえてこない。
「とにかく、かなり煙いですよ!? 焼き上がったら火はすぐ消しましょう。お隣にまで煙が届いたら大変です。私も着替えたら行きますから」
 私は窓から身を翻すと、足早にクローゼットに向かった。
 末の妹さんが使っていたこの部屋のクローゼットには、彼女が嫁入り前に着ていたワンピースがそのまま下がっている。夜着を脱ぎ捨てると、私は中から木綿のワンピースを引っ張り出して被った。
 このワンピースはルクスさんの六人の妹さんが順番におさがりで着てきて、袖を通すのも私で七人目だ。洗濯こそきちんとされているけれど、さすがに色褪せて、綻びもあった。けれど機能的には何の問題もない。
「はぁ、まったくもう……。九人の弟妹も無事に巣立った訳だし、もうそんなに切り詰めなくても十分やっていけるでしょうに。長年染み付いた習慣は抜けないのかなぁ……ん?」
 腰のリボンを手に取って、ふと気付いた。
 屋敷に来た初日に、ルクスさんは私のワンピースを新調しようと言った。
 クローゼットには十分な枚数があったから当然新調は断ったけれど、ルクスさんともあろうドケチがあの時はどうしたと言うのか。
「……謎だ。あ、今はそれよりも焚火! 万が一隣の伯爵家に煙がいったら、ネチネチ言われちゃうってば!」
 私はリボンをウエストでキュッと結び付けると、急いで階下に向かった。

 私は、市橋いちはし麻里まり
 私のパパは大手ゼネコン市橋いちはし建設けんせつの社長。ママは料理と手芸をこよなく愛する専業主婦。
 優しい両親に蝶よ花よと育てられ、私はお嬢様街道まっしぐら……とは、ならなかった。
 初等部から違和感を覚え始め、ついに中等部で挫折した。「ごきげんよう」と「おほほほほ」のお嬢様トークに限界を感じ、高等部に上がる直前にドロップアウトを決断したのだ。
 この時点で残っていたのは、偏差値最下位の公立校の補欠入試という選択肢のみだったけれど、迷いはなかった。
 そうして私は、高校から公立校に移った。
 しかし腐ってもお嬢様育ち、セレブな暮らしが染み付いていた為に、最初は驚きの連続だった──。

『麻里~、帰りコーヒー飲んでこうぜ?』
『はい! 何処のカフェでしょう?』
『はー? そこのコンビニに決まってるでしょ』
 ……コンビニで、コーヒー?
 首を捻りつつ、友人に伴われて到着したコンビニで、レジカウンターの横に積み上がる紙のカップを掴んだ。
 ええっと、このカップを使うのかしら?
『って麻里。なに無銭飲食しようとしてんだよ? 先にレジでカップ買うんでしょうが』
『え!? あ、そうよね』
 友人の見様見真似で何とか購入し、一口飲んで、……目からウロコが落ちた。
『美味しい……』
 ナニ? 百円のコンビニコーヒーってこんなに美味しいの!?
『だよな~、一杯ずつ挽いてるってんだからコスパ凄いよなぁ。なぁ麻里、なんか甘いもん欲しくない? あたしが奢ってやるよ!』
 そうして渡されたのは、紙に包まれた小さな四角いチョコレート菓子。
 ……チョロルチョコ?
 口にして、……その美味しさと言ったらなかった!!
『こんなに美味しい物を戴いたままにはできません! おいくらですか!? 私、やっぱりお支払いします!』
 一体いくらするのだろう? 想像もつかぬまま、財布からとりあえずお札を一枚取り出そうとした。
『十円くらい、いいってことよ!』
 !!
 このチョロルチョコは、この美味しさで十円!? それは本当!?
『はははっ、麻里ってば遠慮しぃだなぁ』
 私はよろよろと、友人の隣に腰を下ろした。
 コンビニ前の縁石は椅子代わりにもなるのだと、これもまた初めて知ったことだった。
 ……庶民の暮らしは、なんて素敵に満ちているんだろう。
 私は、庶民感覚の虜になった──。

 そうして高校三年間ですっかりお嬢様っぽさも抜けた私は、大学生になった。
 通う高校の偏差値は地を這っていたけれど、自主勉強は怠らずに邁進し、国立大学の政経学部に合格を果たした。学歴だけが全てとは思わないけど、あるに越したことはない。
 私は、ゆくゆくはパパの会社を継ぎたいと思っていた。
 パパにはまだ告げていない。告げればパパは、まず、困ったように目尻を下げるだろう。
 会社を担う重圧を身を以って知るパパは、もしかすると反対するかもしれない。だから告げるのは、もっと先。パパが一も二もなく首を縦に振れるくらい、私に社会的な信用が追いついてからでいい。社会人としてのキャリアを積んで、その後カミングアウトしたって遅くない。
 だってパパは生涯現役を豪語してる。だから、急ぐ必要なんてない。時間に、未来に、果てなんてないのだと、私はそんな当たり前を疑っていなかった。
 十日前のあの日も、私はパパとママとモーニングコーヒーを飲んでいた──。

『私、今日からバイト始めることにした。帰りは遅くなるから夕飯はいらない。まかないが出るんだってさ』
 精一杯のさりげなさを装って、アルバイトを事後報告で告げた。
『麻里ちゃん!? あなたはアルバイトなんてしなくていいのよ?』
 アルバイトと聞かされたママは、案の定真っ青な顔をして声を震わせた。
『そうだぞ麻里! 小遣いが足りないなら早く言いなさい!』
 パパが大慌てで胸の財布から、小遣いを差し出した。私はパパの手を押して、首を横に振る。
『お小遣いは十分すぎ、これ以上はいらないよ』
 ちなみにパパの手には万札が十枚ほど握られている。……パパとママの金銭感覚は、オカシイ。
『それに社会経験は必要だよ。私だってもう大学生だもん。いつまでもパパとママのすねっ齧りじゃいられないでしょう?』
『麻里ちゃん一人養うくらい、パパは屁でもないわ! もしパパがそんな甲斐性無しなら、ママ泣いちゃう!』
 ママの口から出た〝屁〟という言葉に、ママの動揺の激しさを知った。
 日頃のママはトイレだって、ちょっとお花を摘みに……なんて本気で言っちゃう淑女の鑑だ。
『そうだぞ! パパがちゃんと麻里に遺産だって残す。だから麻里は何の心配もしなくていい!』
 もう、過保護なんだから。……けれど、なんて優しくて愛しい両親だろう。
『パパ、ママ、ありがとう! でもやっぱりバイトは行くよ。それで最初のバイト代でパパとママにとびきり美味しいコーヒーとチョコレートを奢ってあげる!』
 あれ? 二百二十円じゃあまりにも安上がりかな? ……そうだ! コーヒーをLサイズにして、チョロルチョコはバラエティパックを買おう。
『麻里~!』
『麻里ちゃん~!』
『ちょ、パパママ、苦しいよっ!』
 これが、パパとママと交わした最後の会話になった──。

 ……結局、私はパパとママにコンビニコーヒーも、チョロルチョコも、奢ってあげることはできなかった。初めてのアルバイトからの帰り道に、私はどんな神様の悪戯か、ここドランド王国に飛ばされてしまったからだ。
 ドジな私が悪いと言われればそこまで。だけどまさか階段を踏み外し、瞑っていた瞼を開いたらそこは異世界で、空中から垂直に落下中というのは、神様もあまりにも意地悪ではないだろうか。
 普通は、病院での目覚めとかがせいぜいだと思うのだ。
 パパ、ママ……。
 二人のことを考えれば、涙は尽きない。けれどもう、泣くのは止めた。
 三日三晩泣き明かし、泣いていても状況は何ひとつ変わらないことに気付いた。
 ルクスさんは仕事柄とても多忙だ。なのに時間さえあれば私の頭を撫でて、背中をさすってくれた。
 これ以上、好意で引き取ってくれたルクスさんに迷惑を掛ける訳にはいかないと、四日目に涙と決別して前を見据えた。それから一週間、私はルクスさんの屋敷で家事仕事を手伝って過ごしている。

 階段を駆け下りると、まず厨房に向かう。食器棚から皿を二枚、布製の手袋と濡れ布巾を二枚掴んで玄関に走った。
「ルクスさん!」
 私が靴を引っ掛けて庭に飛び出すと、焚火から少し離れた木陰のウッドチェアで、ルクスさんが棒に刺さった焼き芋を持って、ほくほく顔で微笑んでいた。
 ……あれ、芋が四本もある! これはルクスさんには珍しい、大盤振る舞いだ。
 基本、ルクスさんは粗食だ。しかし私は、結構な頻度でルクスさんがお腹を鳴らしているのを知っている。それを聞く度に、私はいつも少し切ない。
「ちょうど焼けたところだ。温かい内に食おう。焚火で焼いた芋は一味も二味も違うぞ! なに、心配せずともちゃんと火は消した」
 なるほどルクスさんの申告通り、焚火は既に火が消され、煙も上がっていない。
 ルクスさんは棒に刺さる四本の芋の内、大きい二本をにこにこと私に差し出す。
 ……でっかい芋を二本も食べられないのだが、笑顔に押されて受け取った。
「ありがとうございます。手袋とお皿を持ってきたので、ルクスさんの分もよかったら錫箔を剥きましょうか?」
「あぁ、頼む」
 ルクスさんは私に芋を寄越すと、もう一度焚火に戻り、かき混ぜながら燃え残りがないか確認していた。
 私は手袋を付けると、受け取った四本全部から棒を抜き、芋を包んでいた錫箔を剥がした。
「はい、ルクスさん」
 戻ったルクスさんに、大きい芋を二本載せた皿を差し出した。
「お、すまんな」
 ルクスさんは皿を受け取るとウッドチェアに腰を下ろす。芋のサイズがすり替わっていることには気付かずに、豪快にかぶりついた。当然、皮ごとだ。
 ちなみにルクスさんが食べた後は皮はもちろん、茎に近いところも根端も何も残らない。いい食べっぷり、ならぬドケチっぷりなのだ。
 私は手袋を外すと、申し訳ないと思いつつ、自分の芋の皮を剥き始める。
 何回目かの食事までは私もルクスさんを倣い、芋の皮や茎はもちろん、魚の骨も皮も全部食べていたのだけれど、慣れない食事にお腹を壊してしまった。
 青くなったルクスさんが「俺に付き合わせてすまなかった。どうか残してくれ」と、何故か謝り倒してきた。それ以来、私は彼の言葉に甘えさせてもらっていた。
「いやぁ、昔はこんなふうにゆっくり食えたためしがなかった。なにぶん、食い盛りの弟妹が九人もいれば喧嘩が絶えなくてな。食いっぱぐれた下の奴らが泣き出すなど、日常茶飯事だった」
 本来男爵家に生まれたルクスさんは、そんなに貧乏な生まれではない。事実、住まいの男爵邸はなかなかに立派な佇まいだ。
 けれど問題は、一番下の妹さんが一歳の時に両親が借金を残して亡くなってしまったことだ。これによりルクスさんは、見習い新兵になったばかりの十四歳にして、年の離れた九人の弟妹を養うことになった。屋敷の外観こそ立派だが、家具の類が何もなく中がスカスカなのは、一家を養う為に売ってしまったからだ。
 食堂の長テーブルまで売り払い、自作のちゃぶ台にラグを敷いて食事をとっていると聞かされた時は流石にビックリしたけれど、今では私もすっかり慣れた。
 ただし、物のない環境には慣れたけれど、彼がここまでどれだけの苦労で弟妹を育ててきたかを想像すれば、涙しか浮かんでこない。
「……ルクスさん、私、本当にここにいていいんですか? 私、食い扶持の分、入れもしないでのうのうと食べさせてもらってて……。借金の返済に、障るでしょう?」
 私ときたら、ただ飯ぐらいでご厄介になってて、……あげく芋の皮まで残してる。
「何を言っているんだ!? マリィが遠慮する必要などどこにもない! 今はもう、弟妹も皆巣立った。父が残した借金も、今月の支給金で返済が終わる」
 風の噂で億に届く負債額と聞いていた。それを完済? ……まさか、嘘でしょう??
「ほんとに完済、したんですか?」
 将軍であるルクスさんの年収は三千万イエンくらい。
 これだけ聞けばウハウハだが、ルクスさんは将軍になってまだ三年。しかも借金はお父さまの負債だけではない。爵位を継ぐ為の莫大な相続税もまた借り入れで支払っていた。
 薄給の時代から弟妹を養い、六人の妹達が嫁ぐ度に持参金もきちんと持たせてきた。さらに貴族社会というのは、それ以外にも出費が尽きない。
 もちろんそれなりの稼ぎ故、いつかは完済するだろうと思われていた。それでもこんな状況でまさか、億の借金を完済したのは神業と言える。
 目を丸くする私に、ルクスさんは力強く頷いてみせた。
「あぁ、だからもう倹約はせずともいいんだ。けれど長年染み付いた習慣はなかなか変えられなくてなぁ……」
 ルクスさんの血の滲むドケチ、凄すぎる!
「昨日の軍議会で年俸の減額を申し入れた。俺が不要の贅沢をするのなら、その分を国境警備の増強にでもあてた方が余程に建設的だからな」
「……ルクスさん、ほんとに凄いです。ルクスさんは、ただのケチなんかじゃありません。一本筋の通った、ドケチの神髄です」
 隣のルクスさんを眩しい思いで見上げた。
「褒められているのか少々悩ましいところだが、まぁそんな訳だからマリィも必要以上に俺に付き合って倹約をしなくても大丈夫だ。食い難い物を無理に食って腹を壊すなど、言語道断だ」
 ルクスさんは芋の二本目、食い難い根端を齧りながら朗らかに笑った。
「……はい」
 ぼろを纏えど心は錦。ルクスさんがひどく、眩しかった。

   * * *

 芋を完食した俺は、向かいで二本目の芋の皮を剥くマリィを微笑ましい思いで見下ろした。
 マリィを引き取って、今日で十日目。明るく真っ直ぐな彼女につられるように、俺の心までもが明るく前向きに変わっていた。
 彼女との同居に、違和感はまるでなかった。まるで妹達といるかのように、マリィが隣にいることは自然だった。
 直感、とでもいうのだろうか。不思議なもので、俺は出会った瞬間に、マリィを守ろうと決めた。
 それはもしかすると、目に見えぬ何かの導きであったのかもしれない……。
 ふと、空を見上げれば、十日前と同じ、晴天の空が広がっていた。
 ……あの日も、こんなふうに晴れた空をしていた。
 俺はマリィと出会った十日前に、思いを馳せた──。

 その日も、俺は特大の溜息と共に惰性で書類に判を押していた。
『はぁ~』
 ──ポンッ。
 俺は有難くも将軍の位を拝命している。
 先の大戦の功績で、陛下よりドランド王国軍将軍に大抜擢を受け、既に三年が経つ。けれど将軍職の実体は、執務室で膨大な書類に判を押すばかりの毎日だった。
 将軍就任直後の燃えるような情熱は冷め、職務への遣り甲斐を見失いかけていた。同時に、実生活でも十八年に及んだ弟妹の育児に区切りがつき、燃え尽きていた。
 それでも将軍執務室に来れば、俺が判を押すべき書類は山積みだった。
『はぁ、隊長時代に戻りたい。……いや、あの頃はあの頃で部隊の訓練に加え、家事育児に寝る間もなく、厳しい毎日だった。所詮、無い物強請ねだりということなのか……』
 俺は爵位こそ男爵だが、金の掛かる社交の場に縁は薄い。
 俺が十四歳の時、予期せぬ事故で両親が死んだ。いや、正確には臨月だった母の腹の子も含め、三人が死んだ。
 母が外傷で息を引き取った時、微かに動く腹を見た医師は腹の子を取り出した。結局腹の子は処置の段階で息を引き取り、生きて産まれてくることはなかったのだが、子は女児であったらしい。生きていれば末妹セレアのひとつ下の十八歳、俺の七人目の妹だった。
 ともあれ、俺は十四歳にして九人の弟妹を抱える家長になった。それ以来、我武者羅に走り抜けてきた。立ち止まる余裕も、脇目を振る余力もなかった。
『……将軍、将軍?』
 それが先月、ついに末の妹が子爵家の嫡子に嫁いで屋敷を巣立った。妹が軽んじられぬよう、それなりの額の持参金も工面した。
 ──ポンッ。
 そして妹の婚儀が無事に終わった。
 肩の荷が全て下りて嬉しい反面、喪失感は予想以上に大きかった。
 ──ポンッ。
 俺は、燃え尽きてしまったのだ。
『将軍ってば! ……もう、いいし』
 ん?
 隣の執務机を見れば、近習きんじゅのアロットが不満げに頬を膨らませている。
 俺の将軍就任と同時に近習となったアロットは、いまだ幼さを残す十九歳。
 けれどその手腕は実年齢にはまるで見合わず、老獪ろうかいとしていて隙がない。俺はアロットに何度助けられたか知れなかった。
『すまんアロット、何の話だったか?』
 いかん、余所事を考えていてまるで聞いていなかった。
 しれっと問い掛けると、アロットが胡乱うろんな目で俺を見つめた。
『……もういいです。お袋が持たせてくれたクッキー、将軍にあげようと思ったんですけど気が変わりました』
 !!
 アロットの母上が営む菓子店のクッキーはそんじょそこらのクッキーとは訳が違う。行列必至の超人気店の一番人気で、且つ高級品だ。
 ちなみにアロットの生家は伯爵家。当然伯爵夫人の営む菓子店は営利目的ではなく、売り上げは全額慈善活動費にあてられている。
『すまんアロット! お母上のクッキーはセレアの大好物だ! へそを曲げずにクッキーをくれ、この通りだ!』
 両手を合わせ、平頭する。
 誕生日くらいしか買ってやれない末妹の大好物が、目の前にあるのだ。頭を下げてでも貰って帰るしかないじゃないか!
 ん?
 ところが手を合わせて頭を下げた俺に、アロットは何とも言えない視線を寄越した。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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