【試し読み】突然現れた許婚に執着されて
あらすじ
『二十八歳までに結婚しなさいね』──真千子が母から何度も言われた言葉。その年齢を迎えたが残念ながら恋人とは別れたばかり。何より真千子自身、結婚を焦っていなかった。妻の不倫に悩む同僚を励まし、いつもの帰り道。突然、幼馴染の男の子と真千子を結婚させる約束を父がしていたことを知らされる。しかもその相手・陽介が真千子に会いたいのだという。にわかに信じられず困惑のなか二十年ぶりに陽介と再会。記憶と違って優しそうなイケメンに成長した陽介に驚くが、既婚者の女性と付き合っていると聞いた真千子は彼を更生させようとする。けれど、会うたび真千子は陽介に惹かれてしまっている自分に気づかされて……!?
登場人物
結婚願望は薄めだが、二十八歳までに結婚するように母親からプレッシャーをかけられている。
真千子の幼馴染。独身の理由を「既婚者と付き合っているから」と話すが…
試し読み
1.
『二十八歳までに、結婚しなさいね……』
母親の声に被さるように目覚ましの音が聞こえて、千家真千子は腕を伸ばした。
アラームを止めて身体を起こす。寝起きは良い方で、いつもならさっさとベッドから降りるところだ。
「誕生日の朝の夢にお母さんが……」
夢の中に現れた母の残像は消えず、真千子は枕を抱き締めて呻いた。
それもこれも、母親に二十八歳までには結婚をしなさい、と言われ続けたせいだ。サブリミナル効果なのか、夢にまで出てきた。
真千子はのろのろと洗面所に向かい、歯ブラシに歯磨き粉をつけて口の中に入れる。
『あなたはきれいな顔をしているのだし、ちゃんと結婚できると思うのよ』
記憶の中の母親に、容姿と結婚に何の因果関係があるのかと聞く。当たり前に、答えてくれない。
それなのに、頭の中の母親はさらに畳みかけてくる。
『彼氏と結婚すればいいのに。付き合って長いでしょう』
そう言われてもなぁ、と真千子は鏡に映る自分のぼさぼさ髪を手櫛で整えながら、客観的に自分を眺めた。
センターで分けた、胸に届くまでの長さの染めていない黒い髪は、染め直すのが面倒くさいからというだけでこだわりはない。
涼し気な濃茶の目、目尻は少しだけ下がっている。迫力が無いのがコンプレックスで、メイクでつり目ふうに整える毎日だ。
手足はすらりと長いが、胸は微妙な大きさ。同僚に良いブラジャーを教えてもらうも、興味が無くてスルーしている。
トータルで標準、と真千子は自分を位置付けていた。
口をゆすぐと、だんだんと目が覚めてくる。
母親からの結婚話は最初こそ冗談かと思っていた。だが、八年間も言われ続ければそうではないと嫌でもわかる。若いうちに孫の面倒をみたいという感じでもないのが不思議な所だ。
母親が結婚結婚と煩いので、黙っていることがあった。
三年付き合った彼氏には自然消滅風に振られている。そして、彼は新しい彼女と先日スピード婚をしてしまった。
『俺達、親友だよな』
そう言って手渡された招待状は、欠席にマルをして投函。封筒他は手で細かくビリビリ破って燃えるゴミの日に出した。
私だって結婚できる!なんて、強がりを言うつもりはない。
結婚は、運・縁・タイミング、これら全てが揃わないとできない、ギャンブル的なものだと思っている。二十八歳までに結婚できなくて、負けた気分になっているのはそのせいだ。
ずっと疑問を持っていたが、改めて思う。
『なぜ、結婚しろと煩いのか』
結婚が条件の相続する遺産があるだとか、そんなドラマティックな展開があるのなら早く言ってくれたはずだ。
母親は口を出してくる割に、結婚しないと恥ずかしいなどという感覚は持っていない。
何か、ちぐはぐだな、とは思っていた。
「まぁ、いいか」
今日は同期と飲みに行く予定があり、一日が長いことを思い出す。どの服を着ていくかも決めていなかった。
母親が結婚と煩く言っていた理由も気になるが、そもそも深く考えることは不得意だ。
真千子は背伸びをし、出社の支度を始めた。
同僚が予約してくれた店は高層階にある、暖色系の照明が灯されたお洒落な店だった。予約者の名を伝えて通されたのは、窓ガラスに接した小上がりの席で、眼下には夜景が煌めいている。
気負わない飲み会のつもりだった真千子は同僚の佳恵の腕を引っ張った。
「こんな店を予約したのは誰よ」
「出村だよ」
真千子は唸る。同僚の出村は気遣いができる男、と女子の間では評判だ。その彼が予約したと聞いて、すごく納得はしたが表情は歪む。ある噂を知っているからだ。
「……こういう店は、奥さん……大事な人を連れてくるべきでは……」
「その奥さんが浮気してるんでしょ。誘ったところで、拒否られるんじゃないの」
うまくいっていないとは聞いていたが、浮気とは知らなかった。
絶句する真千子の横で、佳恵が夜景に感嘆の声を漏らす。
「まだ電気が付いているオフィスビルを見下ろしながら飲むビールって格別よね……」
正直な感想過ぎる、と思いつつ、真千子もヒールを脱いで小上がりに上がった。
絶景の夜景を見てもときめかないのは、浮気、という言葉に引っ張られているせいだ。
「佳恵はどうして知っているの」
「あいつが自分で喋るから」
男のプライドだとかで隠したりしないところも出村らしい。真千子は苦笑を浮かべた。
「相談でも受けた?」
「ううん。浮気してるんだよね、ていう雑談。同情やアドバイスを求めている感じではなかったね」
雑談で話せることなのだろうか、と真千子は首を傾げる。出村は人が反応に困ることを喋る所があった。
自分ならネタにするのは無理だ、と思うと、胸がチクリと痛んだ。
「お疲れ~。お、さすが。時間前行動が身に付いてるね~」
出村の明るい声がしたので真千子は顔を上げ、そして苦笑した。
手を振りながらやってくる出村のスーツが、いつもどおりヨレていたからだ。社内では見慣れているものの、社外で見ると改めてクリーニングを勧めたくなる。
ワイシャツは形状安定なのだろうが、アイロンを当てていないせいか、パリっと感がない。厚みのないネクタイは貧弱な印象を与える。
おまけに靴には艶もなく深い皺が何本も入っていた。
いつものヨレヨレな姿を、奥さんとの不仲と繋げてしまって、真千子は反省する。
「俺達、遅れてないよな」
出村と一緒に来た井口は中肉中背だ。こだわりの丸眼鏡を掛けて、独身特有の緩い空気を纏わせていた。
ときどきこうやって四人集まって飲んでいるが、正直、同僚という共通項がなければ、飲み仲間になる接点は無かったと思っている。
人の縁とは不思議なものだ。出会いは必然で、偶然などないのかもしれない。
「お疲れ! 遅れてないよ」
真千子は手を上げて二人を迎えた。
「ああ、そう。俺の奥さん、浮気してんの」
テーブルにビールが四杯並び、食べ物を数品、頼んだところで、出村はあっさりと喋った。
水を向けたのは佳恵、嫌そうな素振りをまったく見せなかったのは出村だ。
話したくなければ、全力で話題を変えたのに。真千子はがくり、と肩を落とす。
「真千子が出村は家に帰った方がいいんじゃないかって心配してんの。夫婦仲のために」
「え、優しいね」
「優しいとかじゃないよ」
真千子は唇を突き出して言うと、出村は歯並びの良い歯を見せて嬉しそうに笑った。
「家で知らないシャンプーの香りをさせる奥さんと、一緒にいるのもしんどいんだよね」
笑って言う事かな、と真千子はぎょっとする。自分も明るい方だが、こういうあっけらかんさは持ち合わせていない。
場の雰囲気を暗くしないための出村の配慮だと、真千子は呼吸を整える。
「やだそれ」
佳恵は嫌悪感も露に反応した。
「な、やだろ」
身を乗り出して話を続ける出村に違和感を覚えつつ、そりゃしんどいだろうとは思った。
しかもこの話は真千子の記憶を刺激する。別れる前の元彼からは知らない甘い香りがしていた。
「それさ、平気なの?」
「平気なわけないし」
垣間見ることのできた、出村の人らしい部分にほっとした。奥さんの事を話しているのに、どこか他人事のようだったからだ。
でも、こういう非常事態に感情は、一時的に凍結されるのかもしれない。真千子は唇を噛む。
元彼が新しい彼女とゴールイン済なのも承知だが、既に終わった事として見ないようにしていた。
真千子はテーブルに並べられたエビの入った生春巻きを食べながら、まだ続いている出村の話に耳を傾ける。
「俺にも悪い所があるんだろうなーと思って、自分の言動行動を振り返りつつ、この微妙な距離間を保っているってわけ」
うぅん、と真千子は生春巻きをビールで流し込んだ。浮気されてなお、こんな余裕な態度でいられるものだろうか。
なんだろう、強がりも、諦めも、出村からは何も感じないのだ。
そんな真千子の横で、井口と佳恵は出村に言いたい放題だった。
「もっと早く帰るようにすればいいんじゃないのか。奥さん寂しいんだろ。なら、お前が悪い。さっさと帰ってセ○クスしとけよ」
セ○クス、と真千子は咳き込みそうになる。
「奥さん、専業主婦だっけ。働いたら良いのに。そしたら、離婚できるじゃん。あ、でもセ○クスしまくって仲直りには賛成」
「人のセ○クスに口出すなってー」
まだビール一杯目なのにこれだ。下ネタが苦手な真千子は、話題に入らないで済むように、合鴨のローストを口にした。ネギと生姜が合鴨の脂をまろやかにしてくれている。柔らかい食感がまた良く、ビールとも合った。
おいしいものを食べて心が落ち着いた所で、真千子は話に割って入る。
「それ、浮気じゃないかもしれないよね」
真千子の発言に、三人がはた、と動きを止めたので、少し怯んだ。けれど、片一方の話だけで、奥さんを有罪と決めて話のネタにするのはよくない。真面目だなとツッコミを入れる自分がいる。だけど、と真千子はテーブルの下でぎゅっと手を握った。
『きっと、前から裏切ってたんだよ』
どうして人は善人の顔で、他人の傷に塩を塗るのか。
彼が結婚したことよりも、この話を酒の肴にしたがった人たちの存在がつらかった。同情の表情を浮かべながらも話を止めようとしない。
それが、怖かった。
自分の傷を心の奥にしまい込みながら、女子なら身に覚えのある可能性を真千子は口にする。
「ヘアコロンを付けているかもしれないじゃん」
「あー…」
すぐに反応したのは佳恵だった。
「そういうのあるよね。アウトバストリートメントも香りが強いのあるし」
ヘアケア剤をひとつでも変えれば、香りはいくらでも変わる。佳恵がすんなりと頷いたのに勇気を得て、真千子は出村に笑顔を向けた。
「ほら、決まったわけじゃないよ。出村はもっと奥さんとの会話を増やそうよ。せっかく結婚したんだから」
少し出過ぎたかなとは思ったが、出村の表情に不快を感じている様子はない。
それから話題は、会社の方針への苦言や、上司への愚痴に移った。
真千子は安心して、酒をビールからチューハイに変え、おいしい多国籍料理に舌鼓を打つ。
料理の値段はお高めだけれど、夜景を眼下に臨みながらの食事は、ストレス解消にはとてもいい。
お腹も心も満たされた頃、テーブルにパチパチと花火を差したケーキが運ばれてきた。
「千家、今日、誕生日だっただろ」
出村の言葉にきょとんとする真千子の前にケーキが置かれた。お誕生日おめでとう、というクッキーが乗せてある。
「え、あ、ありがとう」
誰にも誕生日なんて話していなかったのに。じんわりと目の奥が熱くなる。
井口と佳恵、出村が顔を見合わせてから、誕生日ソングを歌い始めてくれた。
「ハッピバースデー、まーちこー」
歌い終わるとあちこちのテーブルから拍手の音が聞こえてくる。真千子は周りへお礼に頭を下げて、火花を散らす花火を見つめた。
こんなサプライズは期待をしていなかっただけに、素直に嬉しい。
「これ、出村が言い出しっぺだよ」
佳恵の言葉に顔を上げると、はにかんだ表情の出村と目が合った。
いい人は、夫婦仲良く、末永く暮らして欲しい。
全てがうまくいくようにと願いながら、真千子は出村に笑顔を向けた。
解散した帰り道、願いは聞き届けられないことを知る。
出村と二人で最寄り駅へと向かう途中、真千子は打ち明けられた。
「実はさ、浮気はガチなんだ。俺、昼間に帰った家で現場を押さえちゃって。──今度、相談に乗ってくれよ」
嘘でしょう、という言葉は呑み込んだ。
「そっか、そうなんだね」
凝視した出村の目の中にある寂しさに、自分を重ねてしまう。
別れた元彼との関係が恋人から親友に変わったことには気づいていた。でも、そんな関係だからこそ、結婚生活はうまくいくと思っていたのは、自分だけだとはわからなかった。
真千子はにっこりと笑んだ。
「大丈夫、やり直せるよ」
ちょっと前の自分に向けた言葉に、出村は肩を竦める。
「そうかな。案外、新しい出会いにかけた方がいいかも」
「何を言ってんの。それは最後の最後の手段」
自分自身にはもう遅くて、とりかえしなんてつかないけれど、誰かに同じ気持ちを抱いて欲しくない。
「いつでもいくらでも付き合うから。まずは目の前の人を大事にしないと」
「優しいな」
真千子は静かに首を振った。元彼に抱いて欲しかった想いを伝えただけだ。
「まずは奥さんに笑顔でただいまって言うところからだね!」
過去を振り払うように、真千子は出村の背中をバシッと叩いた。
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