【試し読み】諦め恋のひっかき傷←強引上司に舐められてます

作家:桐野りの
イラスト:一味ゆづる
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2017/9/8
販売価格:300円
あらすじ

あのひっかき傷は絶対気の強い美女よ――端正なルックスに完璧な仕事ぶりの麻生誠主任、その首には爪の痕が。誠のファンであるOL達は爪の長い彼女に付けられたと噂している。でも薬師寺紗羅はある日意外な姿の誠を目にし傷を付けた犯人を知った、可愛い「カレン」だと。紗羅は恋をする余裕などないのに、その日以降カレンを預かり誠との距離を縮めてゆく。カレンに振り回される誠をヘタレ扱いしたため本気モードONにしてしまい、甘くキスをされる。意地になるほど抑えられない「本当は好き」という気持ち。遠慮なく責めてくる誠に溶かされ、紗羅はこれ以上本音を隠しておけなくなって?カレンが引き寄せる素直な恋には思わぬ幸せがもう一つ!

登場人物
薬師寺紗羅(やくしじさら)
とある事情で仕事ばかりの味気ない日々を過ごしている。猫グッズ集めが唯一癒し。
麻生誠(あそうまこと)
ルックスが良く、仕事もできるため女性ファンが多い。気の強い美人な彼女がいるという噂も。
試し読み

◆一話

 薬師寺やくしじ紗羅さらが昼食を終えフロアに戻ると、主任の麻生あそうまことが紗羅のシャーペンをつまみ、指先でくるくると回しているのに出くわした。
 キャップトップの猫のオブジェが、誠の鼻先で高速回転している。
「主任、私の猫にゃんに何すんですか。動物虐待はダメですよ」
 紗羅は彼の手からペンを奪った。
「猫にゃん? なんだそれ」
 誠は綺麗な形の眉をひそめた。
「マンチカンがモデルのゆるキャラです。これ、限定商品なんですよ」
 オブジェの猫耳を撫でながら、紗羅はそう説明した。
 このシャーペンは一週間前、ネット通販で手に入れたものだ。
 販売開始30分前からパソコンの前にスタンバイしてゲットしたが、その後10分で売り切れたという、好事家こうずかには垂涎すいぜんの的なレア物である。
「というわけで『猫にゃんシャープペンシル』は私の宝物なんです。たとえ上司命令でも差し上げるわけにはいきませんから」
 念のために釘を刺すと、誠はムッとしたような表情を浮かべ、紗羅の手元に視線を向けた。
「お前には、俺がこれを欲しがってるように見えるのか……」
「違うんですか?」
「当たり前だろ!」
 そう言うと誠はわざとらしくため息をついた。
「……お前ってさ、いくつだっけ?」
 真剣な目で問いかけられ、質問の意図がわからぬまま、紗羅は答える。
「25ですけど」
「25、ねえ」
 この会社イチのイケメンで、「Mr・電報堂」と呼ばれている、哀愁をたたえた麗しい瞳が、紗羅の机上に落とされた。
 肉球ペン立てにペルシャ猫ノート、肉球肩たたきに、猫耳付箋。
 デスクには三年かけてじわじわと拡大した猫ワールドが広がっている。
「……猫が好きか?」
「それは……答えるまでもないような気がするんですけど……」
 紗羅もデスクに視線を落とす。
 あまりにもファンシーな様相だが、周囲もすっかり慣れてきて、今では誰も突っ込まない。
 猫グッズ集め。
 それは無味乾燥な毎日を彩る、たったひとつの癒やしだ。
 誰しも心の潤いは必要なのだ。
「悪い。確かに愚問だったな」
 誠は己の首筋に手をやると、机上の書類に指で触れた。
「庶務からチェックが戻ってきた。今日中に対応しろ」
「了解です」
 紗羅はぴし、と誠に敬礼した。
 誠の唇が、ふっ、と緩む。
「お前はいつも返事はいいな」
「……嫌味ですか?」
 誠は顔をしかめた。
「褒め言葉だよ。素直に受け取れ」
「ありがとうございます」
 誠は背中を向けると、首を撫でながら歩き始めた。
 自席へと向かう誠の後ろ姿に、違和感を覚えたが、その理由がわからない。
「……なんか変だな……? 一体なんだろ」
 もやもやした気分を抱えたまま、キーボードを叩いていると、先輩の石田いしだがやってきて、机に手を置き話しかけてきた。
「ねえねえ、部長の首、見た? 爪の痕があったよね」
 紗羅ははっとした。
「あ……確かに主任、しきりに首を押さえてましたね」
 違和感の正体はそれだったか。
 しかし理由がわかると、余計もやもやしてしまう。
「Mr・電報堂にもとうとう女ができたか。爪が長くて気が強い美女……だってあれ、絶対マーキングでしょ。ルックスよし、仕事は完璧、性格はちょっとクセがあるけど、トータル的にはレベル100オーバー、引く手あまたの優良物件だもの。唾をつけとかなきゃ不安だよね」
 持論をくり広げる石田に、紗羅はつい突っ込みを入れた。
「たまたま自分でひっかいたんじゃないですか? 寝ぼけてたとか」
 しかし石田は自信たっぷりに首を振る。
「そんなわけない。だってシャツの袖口からも傷跡が見えてたもの」
「マジですか」
「主任って、実はかなりのドMなのかも?」
 そうかなあ、と紗羅は窓際の端正な横顔に目をやった。
(いじめられて喜ぶタイプかな? どっちかといえばドSな気がするけど……)
 長い爪の美女と誠。
 生々しい想像を浮かべてしまいそうになり、紗羅は話題を切り替えた。
「あの、そんなことより、石田さん、何か私にご用でしょうか」
 石田はへらりと唇を緩ませた。
「えへへ。そうなのよ。あのさ、今日の残業、代わってくれない? 急用が入っちゃって」
(ふーん。そうか。石田さん、今晩デートなんだ)
 少しデレた幸せそうな顔。
 石田だけでなく誠のファンを自称するOLたちのほとんどは、社外にちゃっかり彼氏がいる。
 憧れと現実は別なのだ。
「いいですよ。後でファイルを送ってください」
「嬉しい! さすが紗羅ちゃん。愛してる」
 石田が去ると、隣席のOLが心配そうに尋ねてきた。
「今日も居残り?」
「そうですね」
「一週間ずっとじゃない。ちゃんと睡眠時間取れてる? 嫌なら断ってもいいんだからね。こんなんじゃデートもできないでしょ?」
「大丈夫です。今は恋愛とか興味ないですし、私、仕事が大好きですから!」
「若いのに偉いわね。うちの娘に聞かせてやりたいわ……」
 感心したような呟きに、かすかな罪悪感がこみ上げてくる。
(ごめんなさい。嘘つきました。仕事人間とかかっこつけてますけど、本当はお金が欲しいんです)
 もらい残業がなくなったら、きっと夜の店に働きに行くと思う。
 それくらい、紗羅はお金に窮していた。

 兄に押し付けられた400万の借金は、全額返済まであと一年になった。
 ゴールが見えてきて、気分はかなり楽になったが、まだまだ財布の紐を緩める余裕はない。
『新規事業設立のため、保証人になってくれ』と言われ、意気揚々と判子を押したのは、今から三年前の出来事だ。
 かつて神童と呼ばれた自慢の兄が、みそっかすだった自分を頼ってくれた。
 それが嬉しくてたまらなかったのに、兄はそのままどこかに姿を消した。
 ただ一言の言葉も残さずに。

(……信じてたんだよ。お兄ちゃん……お兄ちゃんはどうだったの……?)
 真実は未だにわからない。
 どっちにしても、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかなかった。
 少しでも早く返済しなければ、借金は泥沼式に増えていく。
 このことが片付くまで、ランチもお洒落も女子会も、大好きな猫を飼うことも、全てあきらめた。
 恋人とも別れ、以来一度も恋はしていない。

 キーボードの手を止めて昔のことを思い出していたら、いつの間にか10時を過ぎていた。
 省エネのため全体の電気は切られていて、真上の照明だけがスポットライトみたいに紗羅の体を照らしている。
 いつもの光景だが、今日は特別虚しく感じる。
 もうひとがんばりしようとキーボードに両手を伸ばすと、靴音が聞こえた。
(誰か忘れ物でも取りに来たのかな?)
 気にせず作業を続けていると、靴音はこちらに近づいてきて、デスクの隣でぴたりと止まった。
「ん?」
 顔を上げると誠がいた。
「お疲れ」
 冷たいものが紗羅の手にぴた、と押し付けられる。
 見ると栄養ドリンクだった。どさり、と机の上にコンビニの袋が置かれる。
 誠は近くの椅子を引っ張ってきて、隣に座るとビニール袋からサンドイッチを二つ取り出した。
「あの、主任……なんですか、これ……」
 紗羅は戸惑いながら尋ねた。
「働き者の部下に差し入れだ」
「え? 私に?」
「ああ。一緒に食おうぜ」
 そう言うと誠はサンドイッチを包みから出し、紗羅の目の前に突き出した。
「ほら」
 心細くなっていたところに、この気遣い。
(わ……反則だよ……)
 紗羅は慌てて目頭に力をこめ、落ちそうになる涙をき止めた。

※この続きは製品版でお楽しみください。

関連記事一覧

テキストのコピーはできません。