【試し読み】隠れ初心なOLは強引上司に染められる
あらすじ
「お前、本当は経験ないんだろ?」――大手製菓会社の営業部で働く美原つぐみは、二十八歳にして恋愛経験はほぼゼロ。それなのに、華やかな顔立ちのせいで、周りからは〝経験豊富〟と誤解されていた。ある日、会社の飲み会で酔ってしまったつぐみは、その場で眠ってしまう。目を覚ますと、そこは部長・佐久間の自宅だった! 高身長で完璧なルックスを持つ佐久間だが、仕事人間で浮いた話は一切ない。そのうえ、目が合うたびに顔をしかめる佐久間に、つぐみは自分は嫌われていると思い込んでいたが……「ずっと好きだった」突然の佐久間からの告白。そして、俺が全部教えてやると言う強引な彼に逆らうことができず、付き合うことになり……?
登場人物
顔立ちのせいで経験豊富と思われており恋愛相談ばかりされるが、実は恋愛経験はほぼゼロ。
営業部部長。仕事もできてルックスも完璧のためモテるが、女性の影がまるでない仕事人間。
試し読み
万が一が起きました
「美原さーん!」
私の名前を呼ぶ大きな声が社員食堂内に響き、ホッケをほぐしていた箸を止めて顔を上げた。ふわふわしたショートカットの髪を振り乱しながら駆け寄ってくるのは、同い年で同期の原田さんだった。私は箸を置き、口もとに人差し指を立てて『静かに』と合図をする。
すると、ハッとした様子の原田さんは、もともと小柄な身体をさらに遠慮がちに縮めながら、空いていた私の隣の席へと腰掛けた。
「お昼中にごめん。この前は相談に乗ってくれてありがとう。彼氏、浮気じゃなくて仕事だったの。美原さんの言う通りだった」
机に身を乗り出した原田さんが、小声で言う。
「よかった。彼氏と話したんだね」
「うん。実は、プロポーズされて。計画がバレないように、よそよそしくなってたみたい。彼、顔に出やすいから」
まん丸な目を嬉しそうに細める彼女の左手の薬指には、ひと粒のダイヤモンドが輝いていた。
「そうだったんだ! おめでとう。指輪、とっても綺麗だね」
私がそう告げると、原田さんの表情もさらに明るくなる。
「本当に美原さんのおかげだよ。恋愛経験豊富だから、いつも助かる。また相談させてね。美原さんには早く伝えたくて、お昼邪魔しちゃってごめんね。じゃあ」
可愛らしい仕草で手を振る彼女に手を振り返し、弾むように揺れる背中を見送る。
経験、豊富……か。
私、今までそんなことひと言も言っていないんだけどな……。
だが、そう判断されたのも初めてではなかった。
女性にしては高めの百七十センチの身長。生まれつき色素が薄めの茶色の髪と瞳に、大きなつり目とぽってりとした厚めの唇。この外見のせいか、昔から『華やかな顔』や『派手な顔』と告げられることも少なくはなかった。
クールに見られがちな見た目をどうにかしたくて、できるだけメイクは薄づきのナチュラルなものにしているし、髪も巻いたりはせずに胸の下までのストレートヘアを維持しているけれど、あまり効果はないらしい。
つい先日も、会社から駅に向かっているところで男性に声を掛けられ、誘いを断ると、『しおらしいフリしやがって。どう見ても遊んでるくせに』と吐き捨てられた。
まぁ、あれは、相手が悪かったような気もするけれど……。
いつからだっただろう。『つぐみはきっと、モテるからわからないだろうけど』、『つぐみ、経験豊富そうだから』そんなふうに言われるようになったのは。
もちろん、学生の頃から否定はしていたが、なぜか皆謙遜だと思い本気にしてくれなかった。
私って、そんなに軽そうに見えるのかな?
そんな日々が少しずつ積み重なってトラウマのようになり、二十八歳になった今でも男性と手を繋ぐ以上の経験をしたことがない。それなのに相談ばかり受けるせいで、知識だけは入ってきて無駄に耳年増になってきたような気がする。
この歳になると経験がないといってもさらに信じてはもらえなくなったし、キスすらしたことがないというのもいい加減に恥ずかしくなってきた。だから、あえて否定せずに話を合わせるようになってしまったが、そのせいでときに息苦しくもなるのだった。
話の腰を折ってでも、『本当なの』と強く言える勇気があればいいのに。このままじゃ私、これからもずっとひとりかもしれない……。
原田さんとは、入社当時でこそあまり話したことはなかったが、三年ほど前に彼女がトイレの鏡の前で貧血を起こし真っ青な顔をしていたところを、私が社内にある医務室まで連れて行ってあげたのがきっかけで話すようになった。
それから大学生の頃から付き合っているという彼氏の相談を受けるようになり、最初は私も『恋愛のことはよくわからないから、良いアドバイスできないよ』と言っていたけれど、彼女もそれをただの建前だと思ったらしい。なにかあると相談されるようになった。
人の恋愛話を聞くのは嫌いじゃない。ただ、思うことを言うくらいで的確なアドバイスなんてできないから申し訳なくなるのだ。経験もないのに、嘘をついているみたいだし……。
脂ののったホッケの身を口に放り込み、小さく肩を落とす。
さっきの原田さん、幸せそうで可愛かったな。
人は人、私自身が変わらないと、意味ないのに。わかってはいても、ときどき、小動物のような可愛らしい原田さんが無性に羨ましくなる。
いい加減、成長したいな。
ランチを終え社員食堂から出た私は、エレベーターで五階に戻り、【営業部】のプレートがついたガラス扉を押し開けた。
「美原、戻りましたー」
そう呟くと、同僚たちからぱらぱらと返事が返ってくる。私も自分のデスクに腰掛け、再び仕事モードに気持ちを切り替えた。
今日は一日オフィスだし、抱えていた仕事もある程度落ち着いたから、これを完成させないと。
パソコンに向かい、作りかけだった企画書のファイルを開く。
私は六年前から、菓子、アイス、飲料、健康・美容食品などを製造、販売する大手製菓会社『柏木製菓株式会社』の本社にある営業部に所属している。その中の三分の二が男性で、外回りや出張もある激務だけれど、その分やりがいもある。最近ではプロジェクトのリーダーを任される機会もあり、さらに充実していた。
すっかり仕事が相棒になっているのも悪くないと思えるのだから、変わらないはずだよね……。
「みーはらさんっ」
弾んだ声とともに突然両方の肩に降ってきた衝撃に、驚いて跳ね上がった。
振り返ると背後には、今戻って来たのか、先ほどまで姿がなかった近藤くんが立っていた。
「今日の新年会、来ますよね?」
ニコニコと愛嬌のある笑顔を浮かべている彼の手をそっと払いながら、椅子ごとうしろを向く。
彼は、私の二年後輩の社員だ。背が高く、パーマ掛かった茶髪に大きな目が印象的な可愛らしい顔立ちをしていることもあって、他部署の女性社員からはアイドルのような人気があるらしいが、なにかにつけてボディタッチが多い。
それも私にだけらしく、彼が入社当時教育係をしていたせいで懐かれてしまったのだろうか? 以前から何度も注意しているけれど依然直る気配がないのでほとほと困り果てていた。
まぁ、手当たり次第よりはマシなのかな? 大事にはしたくないし、流してはいるが、どうしたものか。
「あ、うん。行くよ」
そうか。新年会、今日だった。
「ちゃんと来てくださいよ。美原さん、皆で飲むときしか参加してくれないから、俺、楽しみにしてるんですよ」
「ありがとう。でも、飲みすぎないようにね。近藤くん、明日大事なプレゼンがあるんでしょ?」
そう返すと、近藤くんは『はい!』と子犬のように目を輝かせて答える。
悪い子ではないんだよね……。
彼が席に戻ってから、デスクの引き出しを開けて手帳を取り出す。スケジュールを確認すると、今日の日付の下にはちゃんと『新年会』と記されていた。
危ない、忘れていた。企画書を仕上げようと思っていたけれど、これじゃ難しいか。
新年会と言っても、もう一月も末。年明け早々は忙しくそれどころではないので、うちの部署ではだいたいこの時期に行うのがお決まりになっていた。その方が参加率も良いし、精神的にもゆとりがあるからだ。
私はお酒がほとんど飲めないから、飲み会の場ってどう過ごしていたらいいのかわからなくて、全員参加するような会にしか出ていない。勧められたら断るのが苦手で、万が一飲みすぎてベロベロになんてなったら大変だし。
「お前は、会社の信用を失う気か!?」
突如、聞き覚えのある怒鳴り声がオフィス内に響く。
あぁ、また部長だ……。
恐る恐る視線を移すと、皆を見渡すように置かれた部長のデスクの前には、道上くんが立っていた。
「す、すみませんでした……!」
深く頭を下げた道上くんの横顔は真っ青に染まっていて、男性にしては小柄な身体は怒られているせいかさらに小さく見える。彼の正面には、眉間に深いシワを寄せた部長が座っていた。
「俺に謝ってどうする! 納期を守るのも大事だが、精度を落としたらなんの意味もない。この取引先は、三か月前もミスをして謝罪に行ったばかりだろ? 最悪の事態にはならなかったから良かったものの、下手をすれば会社の信用問題になっていたんだ」
道上くんは、入社して三年になる社員だ。彼はとにかくいつも一生懸命なのだが、不器用と言うか要領が悪いと言うか、日頃から失敗が目立っていた。そのせいで部長に怒られることも多く、この光景も部署内ではよく見かけるものだった。
わからないことがあったら質問にも来るし、頑張り屋なのだけれどな……。
「お前は焦って抱え込みすぎだ。間に合わないなら、どうして三日前、俺が聞いたときに報告しない? 迷惑をかけたくないのはわかるが、中身がめちゃくちゃじゃ意味がないと言ってるだろ!」
部長が叱咤しているのを聞いて、皆の顔も自然と引き締まる。
営業部の部長──名前は、佐久間恵士。
三年間ニューヨークにある支社で働き実績を積み上げ、四年前に三十歳の若さにしてこの営業部の部長に就任した彼は、功績も然ることながら、長めの黒髪にやや垂れた二重の目。先までツンと筋の通った鼻に、恐らく百八十五センチほどある高い身長とルックスまで完璧ときたもので、部長が来たばかりの頃は社内の女性社員たちが大騒ぎしていた。
しかし、部長はいわゆる仕事人間というやつらしく、浮いた話などは一切聞いたことがない。それどころか、狙っている女性社員はたくさんいるのに、皆部長の隙のなさに尻込みしてしまうのだとか。
それでも今までに何人かの人は勇気を出して連絡先を聞いたり、食事に誘ったりしたことがあるらしいけれど、全員玉砕させられたらしい。社内一美人の秘書課の香川さんにアプローチされて、『香水は苦手な方もいるので、適度にされた方が良いですよ』と返したと耳にしたときは、関係なくとも思わず震え上がった。
部長は間違ったことは言わない。だが、怒っているときの迫力はなかなかなもので、その上表情は、怒っている顔と無表情しか誰も見たことがない。
そのせいで普段なにを考えているかはわからないし、恐らくだが、社内の人間のほとんどが、部長と仕事以外の会話をしたことなんてないと思う。私も四年間同じ部署で働いているが、部長と楽しく雑談した記憶はない。
近藤くんだけが、たまに部長にプライベートな質問をしているのを見かけるけれど、いつも『答える必要はない。業務中だぞ』と怒りを刺激していた。そのせいでいつも『そんなにひまなら、これでもやっておけ』と仕事を増やされているのに、何度雷を落とされても向かっていく近藤くんのめげない精神力は、尊敬に値するほどだ。
部署内では、いつとばっちりが来るかとヒヤヒヤしている人も少なくない。
部長も無駄に愛想良くする必要はないが、たまにでも誰かとコミュニケーションを取ったり、もう少し優しい話し方もできたりすれば好感が持てるのに……。仕事ができるからと尊敬している人も多いけれど、私は、なにを考えているのかわからない部長が正直苦手だ。
それに、恐らくだが、私は部長に嫌われている。理由はわからないが、三年ほど前から、たまに目が合うと部長は露骨に顔をしかめるようになった。最初は機嫌でも悪いのだろうと思っていたけれど、観察していると、その反応は私にだけだった。
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