【試し読み】翡翠の愛寵~拗らせ王子は癒しの乙女に恋い焦がれる~

あらすじ

「ユーリヤ。僕に、もっと許してくれる?」――閉鎖的な島国ロヌの巫女・ユーリヤは〝癒しの力〟を持っている。秘密にしていたそれを、しかし彼女は海の向こうから来た女性使節団員の怪我を癒すため使ってしまう。驚きつつも秘密を守る女性を、ユーリヤは〝お姉様〟と呼び慕い始めるが……「約束しただろう、攫ってあげるって」彼女が慕った〝姉〟は、女性に扮した大国の第二王子・エグバートだった。彼とともに大国へ渡ったユーリヤは、島では得られなかった自由を手に入れる。やがて彼女は、妹扱いしてくるエグバートへ身分違いの恋心を抱き始めるが、それを抑え込むため再び彼を〝お姉様〟と呼んだとき、エグバートは態度を豹変させ――

登場人物
ユーリヤ
〝癒しの力〟を持つ巫女。閉鎖的な島国から捧げ物として大国へ渡ることになる。
エグバート
女装をして使節団の一員として島国ロヌを訪問。ユーリヤに〝姉〟として慕われる。
試し読み

プロローグ

 ……参った。
 瓦礫がれきに埋もれた水路に気づかず、ごく自然に足を踏み込んだ。予測していなかった衝撃とともに、溝に深く嵌まり込んでしまった己の右足を一瞥した後、男は小さく溜息を落とした。
 よりによって、この雨脚の中ときた。
 控えめな舌打ちは、思いのほか周囲に響き渡ってしまう。過剰な響きを前に、男は派手に背筋を強張らせた。
 四方を海に囲まれた島を襲った嵐は、とにかく激しく、また容赦がなかったようだ。
 支援という大義名分こそあれ、嵐の真っ只中に目的地を目指して出発するわけにはいかなかった。そもそも、嵐が猛威を奮っている時点で海路は封鎖同然だ。
 使節団の結成は早い段階で計画され始めていたが、選ばれた面々が実際に島入りするまで、数日を要した。
 未曾有みぞうの嵐により、壊滅的な被害を受けた西方の島国・ロヌ。その支援にと真っ先に動いたのは、海を挟んだ隣国であるレシェトアだ。
 男もまた、視察と支援のためにレシェトアから派遣されてきた使節団員のひとりだ。ただし、彼は別人に扮して今回の渡航を果たしていた。
 後ろで結んだ髪をシニヨン状にまとめていたはずが、水路に落ちた衝撃で解れたらしい。赤毛のウィッグは肩下よりもさらに長く、男の視界を無駄にちらちらと遮る。慣れないその感覚のせいで、男の焦燥と苛立ちは余計にかさを増していく。
 制服こそ男女兼用の仕様ではあるが、それもまた、男が普段着ている制服とは若干構造が異なる。ひとつひとつは取るに足らない変化でありながらも、結局はそれらに翻弄され、つい目測を見誤ってしまった。
 男が女性団員に扮したのは、この島で信仰されている海神をまつる神殿で、多くの女性が巫女みこを務めていると聞いたためだ。
 元々厳しい生活の中にあり、また、島外の男を警戒しやすい……そんな彼女たちとのやり取りももちろん生じるだろう。それなら、ひとりくらいは女の姿をした団員がいたほうがやりやすい。そう踏んでいた。
 今回の水害で、島の東側、特に船着き場の周囲一帯が壊滅状態に陥ったという。さらに、神殿の東側を囲うように広がる街にも被害が出ている。
 神殿にも相応の被害があるようだ。神官らによる不眠不休の祈りが神に通じなかったのだと、ほとんどの島民はそう信じているらしい。
 島の東南部に建つ海神神殿は、島の人々の拠りどころだと聞いている。神殿の神官や島民たちが、周辺の復旧作業を急ぎたくなる気持ちも確かに理解できる。しかし。
 ──思った以上に女性の立場が低いんだなぁ、この島では。
 心の中で、男は派手に頭を抱えた。
 女性に扮したのは失敗だったかもしれない。運良く誰かがここを通りかかったとして、それが島の男性ならば、正当な対応を取られるとは限らなかった。
 使節団の面々は、もちろん男の正体を知っている。だが生憎、男の近くに彼らの姿は見当たらなかった。
 脅威であった嵐こそ去ったが、雨は今なお不規則ながらも続いている。こうした天候の荒れを、島民の多くが「神の怒り」だと信じてやまない。土着の信仰の影響は、そのまま民族性となって表れているらしい。
 救いは、レシェトアを含む大陸側の言語とこの島の言語がそう変わらないという点か。
 元を辿れば、ロヌ島は大陸の祖先が移り住んだ島である。古い時代の話とはいっても言語は基本的に同じであり、島側の訛りこそ強いものの、意思疎通は可能だ。
 大降りとまでは言えないが、降りやむ気配も一向に見せない雨に、動けずじまいの男はじりじりと体温を奪われていた。ぶるりと身震いした男がふと視線を落とすと、そこには水路に深く嵌まり込んだ己の右足が覗く。
 足首を痛めた自覚はある。また、咄嗟に動かした腕が瓦礫に挟まる木片を掠め、多少切れた感覚もあった。さらには反動で頭も打っている。
 考えごとをしながらの作業はいけない。怪我そのものより、己の失態にこそ舌打ちしたくなる。
 嵐のせいで汚れに汚れた泥……この状況下での切り傷の放置はまずい。どちらかといえば、怪我や捻挫による痛みより、次第に頭が朦朧としてくることのほうが厄介だった。
 この痛みは、本当に打った衝撃による痛みなのか。混乱を煽ろうと、不安の芽が男に牙を剥く。
 くらりとした眩暈めまいが男を襲った、そのときだった。
「……もし。どうされましたか」
 雨が気配を掻き消したのか、単に自身の注意力が散漫になっていただけか。
 背後から女性の声が聞こえ、男ははっと振り返った。雨を吸って重くなったウィッグの毛先が、男の勢いに合わせて左右に振れる。
 男の視線の先にいたのは、ごく質素な──男の祖国ではワンピースと称して差し支えないだろう、裾の長い濃紺の衣服をまとった女性だった。
 女性にしては上背がある。痩せ細った体躯としなやかに伸びた腕が目を惹くが、まだ少女といった齢の頃、せいぜい十四、五ほどの娘に見えた。
 娘の褐色の細腕は、自身に向けて伸ばされている。堪らず、男は安堵に口元を緩ませた。
「ああ、……ええと、水路に……足を取られてしまって」
「お怪我は?」
「多分、少し」
 少々高いトーンに声音を調節し、男は控えめに答える。
 徐々に歩み寄ってくる少女の足取りは、泥濘ぬかるみと瓦礫ばかりの足元を意識させぬほど軽やかだ。また、簡潔なやり取りだったからか、少女が繰り出す言葉の訛りは大して気に懸からなかった。
「今、退けます」
 表情を曇らせた少女が、男の足元を埋める瓦礫へ腕を伸ばす。
 彼女の格好は、瓦礫の処理どころか軽作業にさえ向きそうにない。誰かを呼んできてくれれば、と男は口を開きかけたが、スカートの裾を大胆にたくし上げた彼女は、無駄のない動きで黙々と瓦礫を退かしていく。
 痛む頭を押さえつつ、男は感心を覚えていた。その細腕で……随分と慣れた所作だ。
「ありがとう。もう大丈夫」
 足元に自由が戻った男は、捻挫に痛む右足を隠しながら少女に礼を告げた。
 多少の怪我とやや深い眩暈が気に懸かるといえば懸かるが、使節団の艦船まで戻ればなんとかなる。そう考えての判断だった。だが。
「いけません。傷が」
 緊張を宿した少女の声に、男は思わず自身の左腕に視線を向けた。
 肘から手首にかけて走る薄い切り傷──少女もまた、そこを凝視している。傷自体はさして深くないが、そこは足を取られて間もなく脱出を試みたときにねた泥で汚れていた。
 黙ったきり、少女は男の腕を取り、ところどころ破けた彼の制服の袖をまくり上げる。男が声をあげる間もなく、肩に下げた鞄から白い布を取り出した彼女は、それで男の腕を拭った。
 ……清潔な水もなにもないこの状況での手当ては難しいだろう。艦に戻って処置をするから、と男が遠慮がちに申し出ようとした、そのとき。
 傷口を覆うかのごとく、少女が男の腕に手のひらをかざした。
 沈黙が降りる。雨に濡れる彼女の黒髪が、重たげに耳から外れ、褐色の頬にかかる。雨の雫が頬を伝い、喉に零れ落ち、これではこの娘こそ病に臥してしまうと男は不安に駆られた。
 今度こそ制止せねばと男が口を開いた矢先、少女の指がようやく男の肌を離れ、そして。
「……あ……?」
 望んであげた声ではなかった。知らず零れていた。
 男の傷口はすっかり塞がっていた。筋状に走っていた痕も残さず、綺麗に。
「毒が入り込んでましたので……このことはご内密に」
「待って。あなたは神殿の巫女?」
「……はい」
「この島の巫女は、皆このような力を?」
 口早に問う男に、少女はしばし逡巡する仕種を見せた。
 答えていいものか迷っている顔だ。しかし、やがて彼女は首を横に振った。どうかご内密に、と再び告げられ、男は勢いに呑まれて頷く。
「ありがとう。あなたのお名前をお訊きしても?」
 傷の消えた腕をさすりながら、男は女性らしい言葉遣いを意識して少女に尋ねる。
 わずかに躊躇した後、少女はそれまでよりもさらに小さな、ともすれば雨に簡単に掻き消されてしまうほどに細い声でそっと答えた。
「……ユーリヤ」
「そう。ありがとう、ユーリヤ。あなたのおかげで命拾いしました」
 自身に施した化粧が、今どの程度残っているのか、男には判断がつかなかった。とはいえ、中性的と称される顔立ちをしている自覚はある。笑みを浮かべ、男は少女に改めて礼を告げた。
 はにかむように笑んだユーリヤは、ぺこりと頭を下げた後、足早にその場を去っていく。間を置かず、彼女の背は崩れた家屋の陰に消えた。
 再び、男は自身の左腕を擦る。
 傷はすでにない。傷口どころか、痛みすらも残っていなかった。
 少女──ユーリヤは、他の巫女は持たない力だと言った。ご内密に、と念を押すあどけない娘の顔が脳裏を過ぎり、男は小さく溜息を落とす。
 毒、という言葉が男の頭を巡る。いわれてみれば、先ほどまで朦朧としていた頭が妙にすっきりしている気もした。
 正確には、毒ではなく泥による黴菌ばいきんの類だろう。まずは艦に戻り、体裁を整えねば。不注意を咎められる可能性は大いにあるが、それを厭っている場合でもない。
 挫いた右足を庇いつつ、男は静かに立ち上がった。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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