【試し読み】シューカツ婚~永久就職、内定です!~
あらすじ
就職難って言葉を完全に甘く見ていた……。就職活動に疲れていた椎名桃子のお尻は、面接会場の最寄り駅に到着しても、座席から離れなかった。そのまま終点まで乗ってしまった桃子。せっかくだから、知らない町を探索しようと歩き出す。すると、どこからかいい匂いが! たどり着いたカフェのおいしい料理に気が緩み、うっかり眠ってしまった桃子。目覚めるとイケメン店主・大島栄一の布団に寝かされていた。ちょっとしたロマンスを期待した桃子に、栄一が店の手伝いを依頼する。彼も別れがたく思ってくれたと喜んだ桃子は後日、大胆発言をしてしまう。「就職活動は栄一さんにしたいなって、そう思っているんです」――はたして栄一の返答は?!
登場人物
就職活動から逃れ、たどり着いた知らない町を散策。偶然見つけた喫茶店で栄一と出会う。
喫茶店の店主。精悍な顔つきで、筋肉質な体と日に焼けた肌が印象的なイケメン。
試し読み
1.就職難の海で漂流。
電車の中に、ぎっしりとスーツ姿の男女が詰まっている。朝だというのに、くたびれた顔が多い気がするのは、自分の気持ちが疲れているからかもしれない。
そっと息を吐いた椎名桃子の肩までの黒髪が、さらりと流れてうつうつとした顔を隠す。桃子は鞄を胸に抱えて、深く息を吸い込むと、もう一度ため息をついた。
鞄の中には、いまから面接を受ける会社の概要とエントリーシートが入っている。
(これで、何社目だっけ)
いちいち覚えている人もいるらしいが、桃子は途中で数えることをやめにした。
就職難という言葉を、理解しているつもりだった。それでもどこか引っかかる会社はあるだろうと思っていた。成績は悪くないし、教師受けもそこそこいい。それに就職難といいながら、人手不足という話も聞くから、難しいのは一流企業だけだろうとも考えていた。
(甘かった……)
桃子は電車の中を目の動きだけで見回した。リクルートスーツに身を包んだ、自分とおなじくらいの年齢の男女がチラホラ見える。
あの人たちも、おなじかもしれない。
ひとりじゃないと思うと、すこしだけ気が紛れた。
背筋を伸ばし、向かいの窓の外に目を向ける。前に座っている人の頭越しに流れる景色は、就職活動をはじめてからの時間の流れのようだ。自分はこうして動いていないのに、時間だけがどんどん流れて目に映る景色が変わっていく。
(このまま、ずっと乗っていたらどこにいくんだろう)
就職活動という電車から、降りられなかったら──?
そんなことを考えていたら、目的の駅に到着した。電車の中から次々に人が消える。それをながめる桃子のお尻は、根が生えたように座席にくっついたまま動かなかった。
(降りなきゃ)
頭ではそう思うのに、体が立ち上がるのを拒絶していた。
アナウンスがあって、ドアが閉まる。
ぐっと体が引っ張られるような揺れを感じて、ホームの景色が流れ去った。
(ああ)
次の駅で降りて、反対側の電車に乗ればまだ間に合う。
そう思っても、次の駅でも桃子のお尻は座席から離れなかった。
次の駅、そのまた次の駅と電車は進み、車内の顔ぶれがすべて入れ替わっても、桃子は座り続けていた。
(──なんか、疲れたなぁ)
見本どおりに心にもないことを面接で答えるのも、背筋をピンと伸ばして笑顔を浮かべ、やる気があるように見せ続けるのもウンザリだ。
「はぁ」
音に出して気を抜くと、体の芯から力が抜けた。
胸に抱えた鞄によりかかり目を閉じた桃子は、連日の緊張や寝不足に包まれて眠りに落ちた。
肩を軽く揺さぶられて顔を上げれば、駅員さんが眉を下げて笑っていた。
「終点ですよ」
「えっ。あ、はい!」
勢いよく立ち上がり、電車を降りる。
「──えっと」
(ここ、どこだろう)
ホームを見回して陸橋を見上げる。まばらな人影がそこにあった。ホームに人の姿はない。電車に乗っていた人たちは、とっくに階段を上って改札へ向かってしまったらしい。
駅名は、電車の行き先掲示板でよく見るものだった。
腕時計を確認すると、面接の時間はとっくにはじまっていた。いまから戻っても、受けられないだろう。
(それならいっそ、知らない町を探索してみよう)
桃子はホームから見える、都会でも田舎でもない景色をながめた。商店街の名前が書かれている古くて大きなアーケードが見える。桃子はそういうものをテレビでしか見たことがなかった。接してきたのはショッピングモールやスーパー、コンビニばかりだ。商店街というものを体験してもいいだろうと、陸橋の階段に足をかける。
改札はICカード乗車券に対応をしていなかった。駅員に声をかけて処理をしてもらい、外に出る。
駅前ロータリーにタクシーの姿が見えない。こういう場所にはいつもタクシーが並んでいるものと思っていた桃子にとって、その光景は不思議で新鮮なものだった。
未知への好奇心が、子どものころに持っていた冒険にあこがれる気持ちをくすぐる。
桃子の足取りは自然と大きく、いさましいものとなった。
商店街に入り、テレビでしか見たことのないような、古びた看板を掲げる店をながめる桃子の唇が、意識せず笑みの形にゆるむ。とっくに社名を変更した電気メーカーの、旧社名を大きく看板に掲げている電気屋の前を通り過ぎ、室内が見えない重そうな木のドアの喫茶店のメニューに目を止め、肉屋や八百屋などの姿に、心の中で「テレビとおなじだ」と妙な関心をしていると、商店街はあっという間に終わってしまった。
「ああ」
残念。
もっとワクワクしていたいのに、と桃子は眉を下げた。タレ目ぎみの桃子がそういう顔をすると、迷子の子どもに似た表情になる。
引き返して、もっとよく商店街を観察しようか。
でも、そうすると駅に到着してしまう。
桃子は腕時計を見た。
(時間はたっぷりあるんだし、もっと違うところを見て回ろう)
どうせ家に帰るために、この商店街を通るのだ。
そう決めた桃子は首を巡らせ、マンションなどの高い建物がほとんど見えない街並みに頬を持ち上げた。
こんな景色はテレビや映画、写真でしか見たことがない。それを見学してみるのもいいだろう。
そう考えた桃子は、あてずっぽうに足先を向けて見知らぬ土地を歩きはじめた。
はじめは物珍しくウキウキとしていたが、一時間もすると足が疲れてきた。喉も渇いてきたけれど、コンビニも自動販売機の姿も見えず、喫茶店らしきものもない。
「ううー」
ここに来る途中に見た自動販売機まで戻るか。しかしそれだと、けっこうな距離になる。その手前に蕎麦屋らしきものはあったが、そういう店に入り慣れていない桃子にとって、自動ではない扉を開けて入るのは、かなりの勇気が必要だった。
通りすがりの人に、喫茶店はどこですかと聞いてみようかと思っても、人の姿が見えない。
桃子は心細くなった。
「ああ、もう」
就職活動からの現実逃避ができたと思ったら、休憩所難民になってしまった。これでは漂流をしているようだと思った桃子は、自分の考えの大げささがおかしくなって、ちょっぴり気分が浮上した。
「もうちょっと歩いてみよう」
声に出せば元気が出た。
よしっと気合を入れて歩きだし、しばらくすると鼻先においしそうな香りが触れた。
ひくひくと鼻を動かし、その匂いを確かめる。
「パンの匂いだ」
どこかでパンが焼かれている。そう認識すると同時に、桃子のお腹がグウッと鳴った。昼食にはすこし早いが、たくさん歩いたので空腹だ。
(パン屋さんなら、飲み物だって置いてあるよね)
これだけ店がないのだから、イートインもあるかもしれない。
桃子は香ばしい匂いを追って、古い民家の間を進んだ。
「……ここ?」
そうしてたどりついたのは、庭つき平屋建ての一軒家だった。昭和初期を題材にしたドラマなんかで見たことのある家の門扉には、表札よろしく店の名前がついていた。
「喫茶つどい」
声に出して読んだ桃子は、表札の下にオープンとカタカナで書かれている木札を見て、ふたたび家に視線を戻した。
喫茶店、という雰囲気はどこにもない。どう見ても、ただの家にしか思えない。
(でも、喫茶って書いてあるし、すごくいい匂いするし)
桃子が迷っていると、ふたり連れの年配の女性が気軽な様子で門扉をくぐり、引き戸の玄関扉を開けて中へ消えた。
(ええいっ!)
自分だけではないのなら、大丈夫。きっと大丈夫。
言い聞かせながら、桃子も門扉をくぐって引き戸に手をかけた。がらりと開くと涼やかな音がして、見上げると扉の上に鈴が取りつけられていた。
「いらっしゃいませ」
ふんわりとした雰囲気の、田舎のおばちゃん代表と言いたくなるような女性が現れ、どうぞと上がるように奥を手のひらで示される。桃子はぎこちなくうなずいて靴を脱ぎ、女性に続いて廊下を進んだ。
「わぁ」
案内されたのは庭に面した畳敷きの部屋だった。それぞれの席が掘りごたつ形式になっている。正座があまり得意ではない桃子には、ありがたかった。
テーブルは6卓。そのうち2卓が6人掛けで、残り4卓は4人掛けだ。
桃子は庭に近い4人掛けの席に通された。
「どうぞ、ごゆっくり。注文が決まったら、呼んでくださいね」
「あ、はい」
メニューを置いた女性は、桃子の先に入った客へ声をかけ、軽く談笑をはじめた。常連客なんだろうなと思いつつ、メニューを開く。
(自家製パンがあるんだ)
開いてすぐに目に入ったのは、籠に入ったパンの写真と自家製パンの文字だった。だから香ばしい匂いがしていたのかと納得し、次のページを開く。自家製パンと地元野菜を使った本日のプレート。総菜パンとドリンクのセット。ピザトーストとドリンクのセットと続き、そのあとはアイスクリームや焼き菓子になっている。
(どうしよう)
本日のプレートは、メインが鶏の蒸し焼きか白身魚のムニエル。軽くお茶をして小腹を落ち着かせられればと思っていたけれど、すぐにほかのお店が見つかるとは思えない。居心地もよさそうだし、ちょっと長居をさせてもらおう。
そう決めて、常連客とおぼしき年配女性たちと談笑をしている店員に声をかけようとしたら、若い男性がプレートを持って入ってきた。
年のころは桃子よりもすこし上くらいだろうか。こんがりと日焼けをしており、筋肉質で精悍な顔つきをしている。髪は短く茶色に染められていて、趣味はサーフィンですと言いそうな容姿をしていた。
(こういう人も、こんなところにいるんだ)
多分に失礼な感想を抱えながら桃子が見ていると、彼は常連客のテーブルに皿を置いて振り向き、にっこりと桃子に笑いかけた。
(わ……)
思った以上のさわやかさに、桃子の心臓が跳ねる。ぱっと見はちょっと怖そうに見えるけれど、実はとってもやさしいのかもしれない。
そんな感想を抱いた桃子の前に近づいた彼が、畳に膝をついた。
「ご注文はお決まりですか」
低めのやわらかな声に、桃子の背中がゾクゾクする。
(すっごい、好みの声)
こっそりと興奮しながら、桃子は笑顔を返した。
「本日のプレートの、お魚で」
「飲み物は、どうされます?」
「えっと……。それじゃあ、アイスティーを」
「はい」
注文を聞いた彼は立ち上がり、談笑中の店員に声をかけると、ふたりで客席の奥へと消えてしまった。
(かっこよかったなぁ)
それだけでも、来たかいがあった。いままで入った店の中にも、そこそこいいなと思う人はいたけれど、あんなにかっこいい人はめったにいない。
そんなことを思っていると、客が次々に現れて店はすぐに満席となった。客のどれもが年配の人々で、あの青年と年齢的に釣り合いそうなのは自分しかいない。
(ちょっとかわいいな、とか興味持ってくれて、軽いロマンスとかはじまったりして)
ありえないとは思いつつ、そういう夢想をして遊ぶのは自由だろうと、桃子は料理が運ばれてくるまで、ほんのりとした妄想にうつつを抜かしていた。
「お待たせしました」
彼が運んでくれるのではと期待していたが、現れたのはさきほどとは違った年配の女性だった。青年の姿はさきほど見た一回きりで、あとはふたりの女性が注文を聞いたり料理を運んだりしている。
(あの人は、なにをしている人なんだろう)
そう思いつつフォークを手にし、サラダを口に入れた桃子は目を丸くした。
「……おいしい」
野菜がシャキシャキとしていて、茎の部分がほんのりと甘い。自家製パンは穀物が練りこまれているものと、スタンダードなものとがあった。どちらも生地にしっかりとした味があって、添えられているバターを塗るのがもったいないほどだ。
桃子は夢中で食べ終えて、これならばとデザートに焼き菓子を注文し、それにも満足をしてほっと息をついた。
「はー、しあわせ」
つぶやいた桃子は、狭いが手入れの行き届いている庭に目を向けた。さまざまな深みの緑の姿が、満たされた気持ちを幸福なものへと高めてくれる。
乗り過ごさなければ、いまごろはきっとせわしない心地で昼食を取り、面接の反省をしながら大学へ戻って就職支援の講師に相談をしていた。こんなふうに、身も心も広がるような、ゆったりとした時間ではなく、狭苦しく息が詰まるような時間を得ていた。
(神様が、ちょっと休んだらって言ってくれたのかも)
だから駅で降りなくてはと思ったのに、金縛りに遭ったように体が動かなかったのではと、本気とも冗談ともつかない考えを巡らせる桃子のまぶたが重くなる。
電車の中でもウトウトしたが、ひさしぶりに長時間歩き続けた疲れと、のんびりとした空気、おだやかな庭の風景に満腹の心地よさが相まって、桃子は全身をふわりと眠気にくるまれた。
※この続きは製品版でお楽しみください。