【試し読み】溺甘な極上旦那様は愛妻のすべてを守りたい
あらすじ
高瀬香澄は夫に大切にされてる――優しくて仕事もできて、ちょっと心配性な夫の千歌との新婚生活は、情熱的に甘く蕩かされ愛し合う、かけがえのない幸せが詰まった毎日。けれど香澄は千歌に心配をかけたくなくて、とある悩みを打ち明けられずにいる。「俺をもっと頼ってくれ。必ず守るから」 本当の自分を見せ合って、もっと深く愛し合いたい──千歌も香澄のために秘かな努力を続け、最愛の妻にもっと甘えられる男になろうと頑張っていた。そんななか、二人が生活する古民家の売却を親族から迫られるようになって……!?
登場人物
真面目でしっかり者だが甘え下手。夫に心配をかけまいと悩みを打ち明けずにいるが…
外資系の証券会社勤務。忙しい日々を送りながらも、妻である香澄に惜しみなく愛情を注ぐ。
試し読み
プロローグ
「おかえり、香澄。どうしたの?」
千歌くんの優しい声が、深夜の居間に入ってきた。
深みのある穏やかなトーンだ。
わたしは帰宅するなり、畳にへたり込んでため息をついている最中だった。胸のあたりまで伸びたまっすぐの髪を耳にかけつつ、慌てて襖を見る。
そこには鴨居に片手をかけた格好の千歌くんがいた。
長身の彼にとって、年季の入った日本家屋はいつも窮屈そうだ。
わたしは千歌くんと真逆で、小柄な体格をしている。並んで立つと、彼の肩の高さに頭がくるくらいだ。
わたしはスーツスカートのしわを伸ばしつつ、笑顔を見せた。
「起こしちゃった? ごめんね」
いまは夜中の十二時である。
千歌くんにとって、本来なら寝ている時間だ。
大手企業の若手エースとして活躍する彼は、毎日忙しい。早出や残業が多いのも特徴だ。
一方でわたしは、中堅規模の商社で、営業事務として働いている。
高卒で入社して十年、それなりに忙しくしているが、定時をすぎる日はそれほどない。
そんなわたしが真夜中に帰宅したのには、とある理由がある。
それも、個人的な。
(自分の事情で、忙しい夫を夜中に起こすなんて)
申し訳なく思っていると、千歌くんは隣に腰を下ろした。
大きな体で、畳の上にあぐらをかく。
「大丈夫だよ、起きてたから」
グレーのスウェット姿の彼は、いつもと同じにほほ笑んだ。
夜更けの時間帯でも、千歌くんはさわやかだ。
やわらかなこげ茶色の瞳と、同じ色の髪。男らしく整った面差しは穏やかで、包み込んでくれるような優しさがある。
(落ち込んでるときに見る千歌くんは、ずるいな)
つい、寄りかかりたくなる。
「俺のことより、なにかあった?」
千歌くんは大きな手で、わたしの頬にふれた。
わたしは二十八歳にしては、若く見えるらしい。
黒目がちの瞳と華奢な体型が、その理由なのだそうだ。
一方で、ひとつ年上の千歌くんには、全身からみなぎるような精悍さがある。穏やかで優しげなのに頼り甲斐があるのは、そのたくましさがあるからだろう。
千歌くんは、わたしの頬にふれるのがお気に入りのようで、たびたびそうされる。
くすぐったいけれど、心地いい。千歌くんの体温はいつもちょうどいい温かさなのだ。
優しく咎めるように、千歌くんは言う。
「こんなに遅くなるなんて。心配するじゃないか」
「ごめんね。でも、ちゃんと連絡入れたでしょ?」
「もし連絡がなかったら、香澄の会社まで押しかけていたところだよ」
千歌くんは肩をすくめた。
彼からシャンプーの匂いが漂う。
わたしと同じ香りだ。
「車で迎えに行くという提案は、しっかり者の奥さんに却下されたしね」
「残業してたのは、わたしだけじゃなかったもの。チーム全員が残ってたんだよ。わたしにだけ旦那さんの迎えがあるのは、なんとなく気まずいよ」
「誰も気にしないと思うけどね。高瀬香澄は夫に大切にされてるんだって、思われるくらいだよ」
千歌くんの手が、ふたたび頬を撫でる。
愛しげな仕草にどきりとした。
(高瀬香澄は夫に大切にされてる──)
千歌くんの言葉が胸のなかでくり返される。
そう。わたしはきっと、愛されている。
一歳上の、優しくて頼りがいがあって、仕事もできる旦那様に。
愛し合い、結婚して、幸せに暮らす。こんな日々が自分に訪れるなんて、考えもしなかった。
幸せな家庭をもつなんてこと、自分にはむりだと思っていた。
「ひとつ聞きたいんだけど」
あらたまった口調で千歌くんが言う。
「今日みたいに、たまにすごく遅くなる日があるよな。本当に、仕事だけでここまで遅くなるのか?」
ぎくりとした。
平静を装って笑う。
「うん、そうだよ。嘘ついてどうするの」
千歌くんは三秒ほどわたしの顔を見つめた。
それから、苦笑まじりの息をつく。
「信じるよ」
わたしは内心で胸を撫で下ろした。
千歌くんは続ける。
「明日は普通に出勤か?」
「うん。千歌くんは?」
話題がそれたことがありがたい。
聞き返すと、千歌くんは唐突に手を動かした。わたしの腕を軽く引いて、近づいた唇にキスをする。
唇ごしにやわらかなぬくもりが溶けて、胸の鼓動が波打った。
「千歌くん?」
「好きだよ、香澄」
少しかすれて、愛しさに満ちた声だった。
鼓動がさらに速まる。
「おいで」
たくましい両腕に抱き寄せられて、口づけが深まる。
彼の熱を感じて、わたしの肌もほてっていく。
千歌くんの舌が唇を割って侵入し、わたしのそれに絡んだ。
「……っ、千歌くん、まだ、シャワーしてない……」
「もう少し」
千歌くんの瞳に、愛欲が見え隠れする。
「いまはキスだけで我慢するから。シャワー浴びたら抱かせて」
焦がれるようなささやきを、拒めるはずもない。
わたしは彼の腕のなかで、しばしのあいだ情熱的なキスを受け続けた。
残業があったのは本当だ。
でも実際に終わった時刻はもっと早い。たしか、夜の九時頃だったと記憶している。
それから十一時すぎまで、わたしはひとりきりでネットカフェの個室にいた。いつもどおりの顔をして帰宅するために、心を落ち着かせる時間が必要だったからだ。
わたしには小さい頃から、厄介な癖がある。
落ち込むことやショックなことがあると、涙が出る。これは誰でもそうだろう。
けれどわたしの場合、それが止まらなくなるのだ。
ショックがすぎ去って、もう泣きたくなくても、はらはらと涙が落ちてしまう。嗚咽が出るわけではない。ただ涙だけが、こぼれ続ける。
短くて二時間。
長いときは、ひと晩中。
この癖というか体質は、誰にも言っていない。もちろん千歌くんにも。
唯一知る父親は、わたしの体質をとても嫌がった。鬱陶しそうに舌打ちをしたり、怒鳴りつけてきたりした。
そのたびに怖くて、わたしは部屋の隅に縮こまった。薄いカーテンのうしろに隠れるのが、幼いなりの自衛策だった。
母親はわたしが五歳のときに、病死している。
この体質が出はじめたのはちょうどその頃からで、だから父親は、よけいにイラついたのだろう。
『俺ひとりがおまえを押しつけられて。泣きたいのはこっちだ』
父はそう言って、わたしをいつも怒鳴った。
「香澄──」
シャワーを浴びたのち、寝室に敷かれた布団のなか。
千歌くんに裸身を力強く抱きすくめられ、わたしは今夜も、甘く熱く愛された。
情熱的なキスで唇を塞がれる。
ときに優しく、ときに激しく素肌を愛撫され、みるみる官能を高められた。
やがて、蜜に潤う箇所を、固い昂りに貫かれる。
「……っあ」
最奥まで穿たれて、彼以外誰も侵入したことのない場所でつながり合う。
密着し、こすれ合うところから愉悦が生まれ、広がり、互いの息を熱くしていく。
かすれた声で名を呼ばれながら求められると、途方もない幸福感に包まれた。
(どうかこのまま、なにも崩れませんように)
母の死から十二年後、父は蒸発した。
どこかの女性と逃げたのだろうと、親戚たちは口にした。
わたしは十八歳になっていた。誰にも迷惑をかけたくなかったため、アパートにそのままひとりで住み続けた。
高校生の身では生活費を稼ぐことに限界がある。けれどそのときすでに卒業まで三ヶ月というところで、就職先も決まっていた。だからアルバイトでしのげたのだ。
母はいなくなり、父もいなくなった。
わたしはひとりになって、そしてこれからも、ひとりで生きていくのだと思っていた。
「香澄。愛してる」
熱のこもったささやきと、まなざし。
汗ばむ筋肉質の体を、わたしは抱き締め返した。ありったけの想いを込めて。
迸る熱情を、体内で受け止める。
眼裏が白く弾け、官能が全身を駆けめぐった。
体が震えて、彼も震えた。痛いほどに抱きすくめられ、口づけられる。
「香澄」
熱く呼ぶ声を、彼の腕のなかで聞く。これ以上の幸せを、わたしは知らない。
優しくてかけがえのないこの日々が、どうか続きますように。
1 愛妻は誤解している
物音がして、目が覚めた。
ぼんやりする視界に、千歌くんのうしろ姿が映る。彼は洋服箪笥を開けて、スーツに袖を通していた。
壁かけ時計に目を向けると、まだ朝の四時だった。
朝日は完全に昇っていないようで、薄暗い。
「こんなに早くどうしたの、千歌くん……?」
ぼんやりした頭で聞く。
彼は顔をこちらに向けて、ほほ笑んだ。整った面差しが常夜灯を受け、陰影を落とす。
「おはよう、香澄。起こしてごめんな」
ネイビーのネクタイを締めながら、布団脇にしゃがむ。
優しく髪を撫でられた。
「今日は出張なんだ。着替えたらすぐ出るよ」
「えっ?」
わたしはいっきに目が覚めた。
慌てて起き上がる。
「出張なの? ごめんなさい、知らなくてわたし──」
「ああ、言ってなかったからな。昨日急に決まったことなんだ」
ならばわたしが知らなくてもむりはないかもしれない。
でも昨夜帰宅が遅かったせいで、千歌くんの睡眠時間が短くなったことはたしかだ。
「ごめんね、千歌くん。寝るの足りてないよね」
「平気だよ」
千歌くんは、わたしの頬に軽くキスを落とす。
「それに寝るのが遅くなったのは、香澄の帰りが遅かったせいだけじゃないだろ?」
意味ありげにうなじのあたりを撫でられて、わたしの鼓動が跳ねる。
赤くなったであろう顔をうつむけると、千歌くんのくすくす笑う声が降ってきた。
「香澄がそんなふうだから、いつまでも放せないんだよ」
「やっぱりわたしのせいってことじゃない」
わざと拗ねてみると、千歌くんは笑った。
「俺を寝不足にさせたくないなら、男心をもっと勉強したほうがいいな」
「むずかしそうだけど、がんばります」
こういうやり取りが、ただ楽しい。
と、千歌くんはわたしの顔をじっと見下ろしてきた。
「どうしたの、千歌くん」
「いや。もう大丈夫そうだと思ってさ」
千歌くんは軽く息をつきながらほほ笑む。
わたしは胸をつかれた。
「大丈夫って──」
「昨夜は元気なさそうだったから」
見つめる瞳が優しくて、どきりとする。
平常心に戻るための時間を作ってから帰宅したのに。平気なふりは得意のはずなのに、千歌くんには見破られてしまう。
不安と、そしてわずかな安心を感じた。
わたしはうつむくようにうなずく。
「……うん。大丈夫だよ。ありがとう」
きっと昨夜は、わたしのために優しく抱いてくれたのだ。
千歌くんはわたしの頭を撫でた。
「なるべく早く帰るよ」
目下の問題は、取引先にある。
受話器ごしに延々と流れる叱責のシャワーを、今日もわたしは浴びていた。
朝礼直後に鳴り響く電話の、十回に八回は、大手電気機器メーカー・T工業からだ。
そこの水谷課長という男性社員が、毎日かけてくるのである。四十代くらいの、男性にしては高めの声をした、神経質そうな人だ。
そして彼はいつも、わたしを指名してくる。T工業の営業デスク担当が、わたしだからだ。
同じフロアの同僚は皆、水谷課長の厄介さを知っている。
だから今朝も、電話が鳴ったとたんに、同情を含んだまなざしがこちらに注がれた。
『この仕様書ではなにもわからないと言っているでしょう。メーカーの公式説明とは別に、担当であるきみの見解を加えるよう何度も伝えたじゃないですか』
「申し訳ございません。改善したものをすぐにお送りいたします」
わたしは静かな声で、低姿勢に返した。
しかし水谷課長の話は、別の製品の見積りに移り、また叱責を浴びせてくる。
資料にはわたしなりの解説も付け加えているし、見積書についても詳細に綴っている。
落ち度はない。
ほかの取引先であれば、喜んでもらえるレベルのものを毎回提出している。
それでもこの水谷正輝課長は、細かいクレームを毎日のように入れてくるのだ。
(いろいろ言ってくる程度なら、まだいいんだけど)
受話器を片手に、わたしはため息を押しとどめた。
水谷主任が厄介なのは、会話の最中に突然ヒートアップするところだ。
『きみは本当に、僕の言葉を理解しているんですか!』
怒鳴り声に鼓膜が震えて、わたしは全身を強張らせた。
動悸が激しくなり、視界が狭くなっていく。
『いつも同じミスをおかしているじゃないですか。いい加減にしてくれないか!』
受話器を握る指先が冷えていく。
怒鳴り声は苦手だ。
とても。
冷たい汗が滲んで、わたしは渇ききった喉を鳴らした。
「大丈夫かい、高瀬さん」
うちの課長が心配顔でやって来て、唇の動きだけで語りかけてくる。
わたしは我に返って、課長を振り仰いだ。
五十代前半の犬井課長には、どこか恵比寿様に似た雰囲気がある。優しくて融通が利くけれど、日和見で気の小さいところがある人だ。
大丈夫ですという意味を込めて、犬井課長にほほ笑む。
うまく笑えただろうか。
犬井課長はほっとした様子でうなずいた。激励するようにわたしの肩に手を置いてから、自分のデスクに戻っていく。
※この続きは製品版でお楽しみください。