【試し読み】モブ女子ですが、観察していた最推しの上司に攻略されました。

作家:涼川凛
イラスト:梓月ちとせ
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2022/7/8
販売価格:700円
あらすじ

生産管理部で働く真理の日課は、一日15分、最推しの上司・名倉課長を観察すること。自他ともに認める存在感の薄さをフル活用して、彼の姿をじっくりと目に焼き付け――毎晩、趣味で書いているTL小説に活かしていた。真理の描くヒーローのモデルは、名倉課長。モブ女子として、こっそり観察できるだけで幸せ!――と思っていたのに、ひょんなことから、名倉課長の方から急接近!? 「今からきみを独占しようと思ってる」遠くから見ていた最推しに、甘く強引に迫られて……!?

登場人物
大崎真理(おおさきまり)
文具メーカー勤務のOL。推し上司である名倉を観察し、趣味で書いているTL小説に活かす。
名倉信也(なぐらしんや)
生産管理部の課長。長身イケメンで結婚したい男性社員一位に選ばれるほど女子社員に人気。
試し読み

一 推しの上司

 文具メーカー『コトハ』に勤める大崎おおさき真理まり(二十五歳)はパソコンモニターに隠れるようにして、自身の上司──生産管理部の課長を見つめた。
 ──ああ、今日もカッコイイ……。
 見惚れてサボっているのがばれないように時折キーボードを叩きつつも、ほんのりと頬を染めて眺め、ほぅ……とため息をつく。
 課長の名は名倉なぐら信也しんや。三十歳で今のところ独身。
 二年ほど恋人はいないという噂だが、定かではない。
 手元の書類に向けられる奥二重の目は厳しく、色素の薄い唇はきりりと結ばれている。
 短めだがきっちり櫛を通してある髪は朝から乱れず清潔感に溢れ、高級そうなスーツも相まってエリートなオーラがだだ漏れだ。
 今目を通している書類は誰のものか定かではないが、怒りのオーラを放出しているように感じる。
 おそらくミスがあるのだろう。
 それとも意味不明な部分があるのか。
 真理はそれが自分の作成したものであることを半ば願いながら、じっと名倉の様子を窺う。
 無論、真理は毎度ミスなき書類を作成している。だが、名倉の視線を一身に集めているそれが自分の入力した文字群でありたいと思うのだ。
 名倉の思考を占めているのが自分(作成した書類)で、彼の脳内で文章がリピートされていると想像すれば真理のハートは天にも昇る心地になる。
 そのうえ『質問がある』などと声をかけられたなら、その記憶をおかずにして、一週間くらいは副菜なしでご飯三杯は食べられるはずだ。
 デザートさえもいらないかも……なんて経済的なのだろうか。自分の思考ながら変態だと思う。
 だからこの推しに向ける感情は誰にも知られてはならないし、本人にばれたら速攻で死ねる。
 ──でもこの席、ほんと最高。
『コトハ』の本社にあるこの生産管理部には、国内事業部と海外事業部を合わせると五十名あまりの社員がいる。
 デスクの島はふたつの事業課長を上座に三つ形成されていて、真理のデスクは壁際の上座から三番目。おまけに斜め向かいの席は空席というラッキーさ。
 真理から見れば名倉のデスクが良く見える位置にあり、本来ならば対角線上のデスクを使う同僚に阻まれるところだ。しかし空席のため遮るものがなにもなく、常に視界に入るベストなポジション。
 神様が思う存分眺めなさいと言っているかの如く、日ごろの行いが正しいのか、日々清廉潔白に過ごしている真理へのご褒美か。
 無宗教ではあるが、ありがたい神の思し召しに感謝しつつ毎日存分に目の保養をしているのだ。
 適度にマウスをカチカチさせながら名倉の眉目秀麗さにうっとりしていると、彼がふと顔を上げて心臓が跳ねた。
 ひょっとしたらお声がかかるかも!
 しかし期待とは裏腹に、鋭利な目を向ける先は真理とは反対方向。
 自分の書類ではなかったことに「やっぱりそうよね……」と落胆しながらも、名倉の動向を観察する。
 おそらくすぐに書類作成の主が呼ばれる。室内に鳴り響く電話や同僚たちの話し声、それにキーボードを叩く音などにかき消されてはたまらない。
 頼むからみんな静かにしてと、一心に念を飛ばすも、オフィス内は静かになるはずもない。
 名倉の第一声を聞き逃すまいと、真理は懸命に集中した。
間中まなか、ちょっと来い」
 ──キターっ、この声っ。ああ、今日もありがとうございます……!
 熱くなった頬を両手で包み、ふるふると震える体をなだめる。
 深く、かといって低すぎないボイス。しかも滑舌が良い。
 真理にとってどストライクな名倉の美声はボイスレコーダーに入れて、いつでもどこでもヘビロテしたいくらいだ。
 心の中で感涙にむせび、呼ばれた間中を横目で見た。
 ──また、この人なのね。
 彼は書類作成のたびに名倉に呼ばれているのだ。
 急ぎ歩く彼は『まずった』というように顔を歪めているが、目が笑っているように見えなくもない。
 慣れているからか。いやひょっとして嬉しいからではないか?
 間中はデキない社員ではあるけれども、こうも毎日だと、わざと不備な書類を作成しているのでは……という疑惑が生じる。
 ひょっとして課長と言葉を交わしたい気持ちから……? ということは……!?
 ──ああ、なんてことなのっ。
 それはそれで真理としては大変萌えるシチュエーション。名倉の声を聞ける機会が増えることもありがたい。
「すみません! 課長、どこかミスってましたか」
「誤字脱字が多すぎる。『企画』じゃなく、『規格』だろう。そのほか多数。やり直しだ」
 ──いつものことながら、怒気を含んだ声までもステキだなんて……!
 名倉が発する空気分子を揺らす音の波は、小声でも遠くまで運んでいく。オフィスの隅々まで伝える力があるのだ。
 その声質はまるで舞台俳優や人気アニメの声優のようで、耳に届けば瞬時に真理の聴覚と心を震わせ幸せの頂点まで導いてくれる。
 同僚たちが放つ雑音に影響される離れた位置にいてもこう感じさせるのだから、至近距離で聞いたら鼻血が出るだろう。
 それがもしも自分の名前で、しかも対面で会話をしたら……真理は昇天してしまうかもしれない。
 やはり自分は遠くから観察するのが最良であると感じるのだ。
「毎度見直せと言っているだろう」
 今度はうんざりしたような声である。これはレアだ。
 ──今回はいろんな声が聞けた!
 ほくほくした気分でいると隣席から伸びてきた手にデスクをコンコンと叩かれてハッと我に返る。
「大崎さん? 文字を入力するときはモニター見なくちゃダメですよ」
 一年後輩の本田ほんだ留美るみだ。
「わっ、あ~、ぐちゃぐちゃだ……」
 モニターを見た真理は唇を歪めた。
 作成中の生産管理データは数字があちこちに散らかっていた。これでは間中のことを言えない。真理も最初からやり直しである。
「いったい、どこを見てたんですかね~?」
 留美が意味ありげな笑顔を向けてくる。
「どこって……どこも見てないよ。ちょっと寝不足気味でぼーっとしてただけだから」
「そんなバレバレの嘘、隣席の私には通じませんよ。課長を見てたんですよね」
「う……」
 図星過ぎて答えに窮し、目が泳いでしまう。
「でも大崎さんじゃ課長は無理だと思いますよ? 普通の容姿だから、並んでも釣り合い取れませんもん。せめて営業部の女子みたいな華美さとか、受付嬢くらいの容姿端麗さがないと」
 留美はさらっと酷いことを言ってくれるが、真実なのでぐうの音も出ない。しかし、留美の容姿もそれほど自慢できるものではないのに、と心の中で反論する。
『コトハ』の受付嬢たちはタレントと見まごうばかりの美女ぞろいだ。彼女たちに勝てる女子社員は、この生産管理部にはいない。
「大丈夫。身のほどはわきまえてるから」
「どうですかね~、課長に向ける熱い眼差しはごまかしようがないですよ? 大崎さんなら、間中さんのほうがお似合いですから、乗り換えたほうが最善です」
 ツンと言い捨て、留美はデスクのモニターに目を戻す。
 留美は名倉に恋心を抱いてるのだろうか。なにかと真理に対して敵意を向けてくるのは何故だろう。
 ──私なんかライバル視しても、エネルギーの無駄なのに。
 名倉が中部支社から本社に転勤してきたのは三ヶ月ほど前のこと。
 三十歳の若さで課長に就任したうえに長身のイケメンなこともあって、転勤当時は女子社員たちが大いにざわめいた。
 うわさを聞きつけた他部署……主に営業部の女子社員たちが用もないのに部屋を覗きに来て騒ぎ、男性社員から注意を受ける始末。
 そんな転勤当初の熱はいくらか冷めたものの、まだまだ現在進行形で視線を集めているのだ。
 数日前に行われた独身女子社員のアンケートでは、結婚したい男性社員一位。留美が名倉に恋をしているならば、ひとりでもライバルを減らしたいのだろう。
「そんなんじゃ、ないんだから」
 ボソッと口の中で呟く。
 真理は名倉とどうにかなりたいなんて、一ミクロンも思っていない。
 性格は大人しいほうで顔のパーツも華やかな特徴がなく、ブラウンに染めた髪をいつもひとつにしばっていて、スタイルは中肉中背の極々普通。全身全てが地味オブ地味だ。
 生産管理部では入社して半年ほど経って、ようやく名を覚えてくれた人もいるくらいだ。まあそれは普段関わりのない海外事業部の社員だったので、仕方ないと言えなくもないが。
 名倉は真理にとって近年まれに見る最上の男性で、数多の芸能人を押しのけて優勝、グランプリ、チャンピオンの唯一無二の推しである。日々の観察対象。それ以上でもそれ以下でもないのだ。
 言うなれば、一般人が抱く俳優やアイドルへの憧れと同じ。恋心は、ない。
「工場ごとの生産データは誰が作成してる?」
 ──ああ、また推しの声がっ……って、そのデータは!
「は、はいっ、私です。大崎が作成してますっ」
 思わず立ち上がって手を上げると、名倉は固まったように真理を見つめた。
「あ、ああ。今日の十六時までに上げてくれ。共有フォルダに入れてくれたらいいから」
「承知しました!」
 真理は会話できたことと目が合った歓喜に震えながら椅子に座り直し、新たな気持ちでパソコンに向かう。
 先程の名倉は「こんな女子社員いたかな?」みたいな反応だったが慣れている。真理のペラペラの紙みたいな薄い存在感はそんなものなのだ。
 このことで真理はへこむこともないし、改善したいとも思っていない。
 だって必要なスキルなのだから。
 その後きちんとデータ入力を済ませ、時間通りにきっちりと終えたのは言うまでもない。

 たとえば街中で道行く人やデートをしているカップルの様子など、じっと観察していても対象にばれない存在感の薄さは、趣味をするうえではとても便利なものだ。
 仕事を終えて帰宅した真理は食事をするのもそこそこにして、さっそくノートパソコンを開いた。
 ブラウザを開いて真っ先にアクセスするのは小説投稿サイト。
 ログインしてマイページに飛び、ペンネーム『マリリン』で執筆中の作品タイトル『婚約破棄された侍女レテシアは、孤高の国王陛下に夜ごと乱される』をクリックした。
「やった! 読者が増えてるー!」
 思わず歓喜の声が漏れる。
 昨日の更新分で閲覧数が飛躍的に伸び、お気に入り登録も増えているのだ。
 婚約破棄された没落貴族令嬢のレテシアは行き場がなくなり、家計を助けるために王城で侍女をしている。下働き同然の仕事をしているレテシアだが、庭で草取り作業中に国王陛下と出会い、何故か見初められてしまった……というストーリーである。
 先の更新分は国王陛下がレテシアを捕まえて部屋に引き入れたところで止めたのだ。
【先が気になり過ぎる~。続きが楽しみです!】との感想もいくつか投稿されていて、真理は頬が緩むのを感じた。
「期待に応えられるようにしなくちゃ。よ~し、今日も頑張って書くぞ!」
 ──えっと、まずは陛下の部屋で抱き締められてキスをされ、「お戯れはいけません」と言って逃げるレテシアを壁に追い詰めた陛下の指がレテシアの下半身に伸びる。ダメなのに感じてしまうけれど……って感じかな……。
 シーンの流れを決め、カタカタとリズミカルにキーボードを叩く。文章が湯水のようにあふれ出て留まることを知らない。

 更新予定分まで一気に書いて、真理はふぅっと一息つく。
 一時間ほどの作業で、約八千文字の入力。文章を見直して誤字をチェックし、サイトにアップするだけだ。
 この話は十二万文字ほどで完結。序盤ジレジレ、中盤ハラハラ、終盤ラブラブ展開でいく予定である。
 今はふたりの仲が縮まらないジレジレモード。国王陛下はともかくレテシアが恋心を抱くまでの心の動きが難しい。
 真理が恋愛をしたことがないためか、恋情を自覚する瞬間を描くのが大変なのだ。そこも含めて文章を書くのが楽しいのだけど。
 ──まあ、趣味だから気楽に書けばいいのよね。
 とは思っても、技術を向上させたい気持ちはある。
 読者が増えてランキングに入り、上位になったらファンが増えるかもしれないのだ。そうしたら執筆意欲が今よりも増すに違いない。
 それに運が良ければ出版社の目に留まり、書籍として出版することも夢じゃない。
 真理はそこまでの高望みはしていないが、交流を持つ作者仲間には書籍化を目指す人が多い。
「ん~、疲れた」
 伸びをして首をコキコキと鳴らす。集中しすぎて肩も目もお疲れ気味だ。
 会社でも家でもパソコン作業するもの好きは、『コトハ』でも真理くらいなものだろうか。同年代の女子とは一線を画す生活をしている自覚はある。
 同僚の女子たちは毎週末に合コンに参加したり月一で女子会をしたり、自分を磨くための情報収集などに勤しんでいるようなのだ。
 真理のように付き合いや恋愛そっちのけでまっすぐ帰宅し、ウェブで小説を書く人などいないだろう。
「甘いものほしいな……」
 あたたかいココアを入れるべくキッチンに向かう。
 真理が暮らしているのは1LDKのごく普通の賃貸マンション。大学に通うために地方から出てきて以来、ずっとここに住んでいる。
 築年数は二十年ほどと少々古めだが、家賃は給料の三分の一程度。
 オートロックがないためセキュリティには不安があるが、駅から近く病院やスーパーも徒歩十五分圏内にあるので当分住み替える予定はない。
 小さなケトルで湯を沸かし、お気に入りの猫模様のカップにココアの粉末を入れてお湯を注ぐ。
 甘い香りが鼻腔をくすぐり、疲れた脳がたちどころに癒されていく。
 ココアには疲労回復と脳の機能を改善する効果があるのだ。集中力や記憶力を高め、しかも血流を良くするから冷え性にもいい。
 ほぼ一日中デスクに座ってパソコン作業をする真理にとって、なくてはならぬ飲み物である。
 猫カップをテーブルに置き、更新前にSNSのチェックを始める。
 SNSアプリを開くとDMにお知らせアイコンがついていた。メッセージの主は小説投稿サイトで知り合った作者仲間である。
 ペンネームは『本野ほんのしおり』。
 彼女とは実際に会ったことはないが、同年代で大手企業のOL。真理と似たようなスペックの持ち主。
 おまけに投稿サイトで小説を書き始めた時期が近いこともあって親近感が湧き、話が合うことからDMで話をする仲になった。
 お互いの住所や具体的な勤め先は知らない。しおりに会ってみたいと考えたことはあるが、今のところはネットオンリーの付き合い。
 相手の顔が見えないから、リアルと仮想の微妙なバランスを保つことができている。親しすぎることのないその距離感が、丁度いいと思っている。
【更新分読んだよー。マリリンの書くヒーローはリアルっぽさがいいよね】
 しおりは毎回こんなふうに感想をくれる。ときにはアドバイスもくれたりして、よき執筆仲間に巡り合えたと笑顔が零れる。
 ヒーローがいいのは秘訣があるのだ。【モデルが素敵だからね】とハート目の絵文字つきで送信しておく。
 真理の書くヒーローは大抵読者から高評価を受ける。
 ファンタジーものは『カッコイイ』『クールな中に情熱が見えて素敵』。
 先に完結させたオフィスラブ『失恋秘書ですが、完璧御曹司の妻に所望されました』のほうも『こんな上司に憧れます』『ヒーローの仕事描写がリアル』との、好評なコメントを多くもらっている。
 それもこれも日々名倉のことを観察しているおかげである。彼を見つめるようになってヒーローの描写が格段に上手くなったと感じているのだ。
 今書いている国王陛下も、もちろんモデルは名倉だ。
 真理は名倉の姿を思い浮かべ、瞳を潤ませてほのかに頬を染めた。
 あの厳しくも優しさが垣間見える眼差しと、どことなく気品を感じさせる立ち居振る舞いは、執筆中の国王陛下そのもの。
 通勤時でもコートをひるがえして颯爽と歩く姿はきびきびしていて、騎士服を着せて剣を持たせたらさぞかしお似合いになるだろうと思う。
 ──コスプレさせてみたい。
 紺地に金の刺繍の入った豪華な衣装とか絶対素敵だ。真黒な軍装もいいかもしれない。
 鋭い目つきで剣をすらりと抜いてニヤリとし、あの深くて良い声で『俺を敵に回すとはいい度胸だ』とか言ってほしい。
「きゃあぁぁっ、絶対イイ! ドはまり!」
 シーンを想像して興奮した真理は、椅子に座ったまま足をバタバタと踏み鳴らす。そんなことをしてもらえたら、その映像は永久保存版ものである。
 それ以外にも名倉の麗しい姿を妄想してうっとりしているとしおりから返信が届き、意識を現実に引き戻した。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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