【試し読み】推しがドMで変態だなんて聞いてません!
あらすじ
推しに会えるかもという浮ついた心から、明日実がテレビ局の珈琲専門店で働き始めて三カ月。推しには未だ会えていない。付き合いで見ていたアニメの二・五次元とやらを視聴したことをきっかけに一番人気の俺様ドSキャラを演じる要くんの沼に落ちて以来、明日実は日々推し事に励んでいる。珈琲専門店での仕事を終え、次に向かうのはSMラウンジ。お金がかかる推し事のため、明日実はS役の女王様としてもバイトをしているのだ。すると、その日来店したM男客は推しの要くんにそっくり!? さらに彼は小学校のクラスメイトだった陰キャの同級生を名乗って……「ずっと、君にキモイと言われ、蔑まれたかった」──まさか要くんが、ドMの変態!?
登場人物
二・五次元舞台キャラの要に沼落ち。珈琲専門店とSMラウンジで働きながら推し活に励む。
歌い手を経て俳優としても活躍中のマルチタレント。ドSキャラで売っているが、実は…
試し読み
一 Roast 深煎り深入りSMバー
珈琲という飲み物はとても奥深い。
元宮明日実がそう思ったのは、つい最近──二十一歳を少し過ぎてからだ。
明日実の家では、毎日、父が珈琲を淹れていた。毎朝六時半、キッチンから漂う豆の匂いに包まれ目覚める朝は嫌いではなかった。だが同じ豆で、同じ金属フィルターで淹れている珈琲はいつだって代わり映えしない。実家で暮らしていた頃は、酸味と苦味の強いその黒い液体がむしろ苦手だった。
そんな明日実が、とある事情で都内の某テレビ局内にある『焙煎工房 珈琲こころ』でアルバイトを始めて、早、三カ月経つ。少しずつだが、珈琲という飲み物の奥深さについて分かってきたことがある。
まずは焙煎の浅深。これがとても重要で珈琲の香りや口当たりを左右する。同じ豆でも煎り方により、全く違う味わいになるのが面白い。苦手だと感じた豆でも、焙煎度合を変えてみれば好みの味わいに仕上がることがある。
ちなみに焙煎度合が浅ければ酸味は強く、苦味は弱くなり、口当たりはざらついたものになる。深ければ酸味は弱く、苦味は強く、口当たりは滑らかなものとなる。豆の色も深く煎れば煎るほど濃い色となる。もっとも浅いライトは小麦色だが、もっとも深いイタリアンはまるで墨汁に漬け置いたように真っ黒だ。
焙煎度合はライト、シナモン、ミディアム、ハイ、シティ、フルシティ、フレンチ、イタリアンと八段階存在する。一般的にライト、シナモンが浅煎り。ミディアム、ハイが中煎り。シティ、フルシティ、フレンチ、イタリアンが深煎りと呼ばれている。
珈琲の果実を生豆にする工程──精製はナチュラル、ウォッシュト、パルプトナチュラルの三種類があり、その精製方法により、ここでもまた甘さやコク、香りが違ってくる。更に豆の産地や品種、抽出方法を加味すれば、その楽しみ方は渺渺たるものとなる。
「いらっしゃいませ」
「明日実ちゃん、今日も可愛いね」
「いつものエスプレッソでいいですか? 門田さん」
「分かってきたじゃない。俺もそろそろこの店の常連だよね」
今日もこころにやってくるお客さんは、テレビ局の職員ばかりだ。
しつこく連絡先を聞いてくる職員を営業スマイルでかわしながら、明日実はこっそり溜息を吐いた。
(失敗したかなあ。ここでバイトすれば推しに会えると思ったのに)
時には大学の講義に穴を空けてまでシフトを入れてきたが、推しには未だ会えていない。
埼玉県長瀞町出身の明日実は、現在、都内にある学生会館から港区にある大学に通っている。
学生会館は都内の外れにあるが、毎日、長瀞から往復五時間かけて大学に通うよりは億劫ではない。一浪した挙句、奨学金を借りての大学進学だったので、両親は明日実が一人暮らしをすることを長らく渋ったが、滾々と「長瀞からキャンパスに通う時間をアルバイトにあてて、少しでも早く奨学金を返済したい」と伝えると、女性限定で門限のある学生会館に住むことを条件に許してくれた。
明日実の働く『焙煎工房 珈琲こころ』の時給は、港区ということを考慮すると安価なものだ。──だが、大学の近くにあるということ、テレビ局内にあることがポイントだった。
(テレビ局でバイトすれば、推しに会えるかも……?)
そんな浮ついた心で選んだバイト先だった。
明日実が推し──要くんにハマったのは、学生会館で暮らすようになってからだ。
大浴場で、いつも同じ時間に入浴する直美と仲良くなった明日実は、毎日、入浴後、彼女の部屋で過ごすようになった。
直美はドルフィントレーナーになる為に、動物海洋専門学校に通っている青森県出身の専門学校生だ。自分とは全く違う世界を生きる彼女の専門学校の話が楽しくて、興味本位で聞いていたら、気が付けば親友になっていた。
直美はいわゆるオタクという奴だった。
仲良くなっていくにつれ、アニメの話が増えていき、『スケートの王子様~ショーリ! on ICE~』というアニメを布教された。
正直あまりアニメに興味はなかったが、直美とお菓子を食べながら、深夜までおしゃべりする時間が楽しくて、気が付けばサードシーズンまで視聴していた。
付き合いで見ていた『スケートの王子様』だったが、舞台版──二・五次元とやらのDVDを視聴したところで、明日実はいわゆる沼という奴に落ちてしまった。
来栖要、二十一歳。明日実と同じ年の彼は、『スケートの王子様』で皇帝と呼ばれている勝利というキャラクターを演じているマルチなタレントだ。元々はNew Tubeで歌い手としても活躍していたが、最近は様々なメディアに進出している。
勝利は『スケートの王子様』一番人気のキャラクターで、いわゆる俺様系のキャラクターだった。最初は、直美にどんなに勝利の良さを語られても、アニメ視聴時は彼の良さをいまいち理解できなかったが、舞台版の要くんを観た瞬間に、一気に沼に沈んでしまった。それはもうずぶずぶと。ずっぷりと。舞台があれば北は北海道、南は九州まで飛び、週末やっている深夜生配信も、リアタイ勢として参加している。そんなに多くはない額だが、ちゃんと投げ銭もして、日々、推し事に励んでいる。
共演している女優さんよりも長い睫毛、筋の通った鼻筋、弾力のある、柔らかそうな唇。怜悧な瞳の奥には、彼の孤独と強さが見え隠れしており、ずっと無表情だった彼が、初めて見せた微笑みの破壊力に、明日実は一気に持って行かれてしまった。
アッシュグレーに染めたサラサラヘアのインナーカラーは、水色から紫色にグラデーションがかかっており、とっても可愛い。可愛い。可愛い。尊い。可愛い。無理。可愛い。……要くんはどちらかといえば可愛いではなく、格好良い顔立ちをしているけれど、オタクは推しを語る時、語彙力が低下して可愛い、尊いしか言えなくなるから駄目だ。あまりにも可愛いがすぎて、派手な色に染めることに抵抗があった明日実も「インナーカラーなら……」とサイドに同じカラーを入れてしまったくらいだ。ちなみに大学に持って行く筆記用具やバッグなども、推しのカラーで統一している。自分と同じ埼玉県出身というところにも、運命染みたものを感じた。
明日実たちファンの推し事の甲斐あってか、要くんは、去年、めでたくもテレビのレギュラーの仕事もゲットした。
そんな理由からこんな所でアルバイトまでしているが、明日実は別に推しと繋がりたいわけではない。彼女になりたいなんて大それた野望があるわけでもない。ただ、一目でも生の推しを拝むことができたら……という熱い想いから、こころの面接を受けに行った。
アルバイトなんて初めて応募するので、ネットで適当に調べて書いた履歴書の出来はかなり微妙だった。正直、受かるとも思っていなかった面接だが、驚くことに受かってしまった。なんでも前にアルバイトしていた子が辞めたばかりらしい。
面接に受かり「明日から来てね」と言われた明日実は、意気揚々に帰路に就いたが、地下鉄の改札を潜った所で気が付いた。現在、要くんはNew Tuber事務所に所属しており、マネージャーがいる。きっと彼は自分で珈琲なんか買いに来ない。マネージャーが買いに来るだろう。
それでも明日実は、「いつか、自分が淹れた珈琲を推しが飲んでくれたら……」、と思いながらこころで働いている。
今まで珈琲より紅茶派だったが、実際、珈琲専門店でアルバイトするようになって、明日実はすっかり珈琲の奥深さにハマってしまった。
(いつか推しに自分の珈琲を飲んでもらえるなら、死んでもいい)
そのくらい、推しを愛しているし崇拝している。ついでに珈琲も。
「局内でアルバイトを募集していたのはそこだけだったから」という理由から選んだアルバイト先だったが、今の明日実は珈琲という飲み物の虜になっている。
焙煎している豆の甘い香りをひと嗅ぎしただけで、多幸感を感じ、大学での疲れも吹き飛んでしまう。毎朝の珈琲と要くん、どちらかを選べと言われたら考えてしまう。
あっという間にアルバイトの時間が終わり、明日実はバックヤードに戻り、帰り支度を始める。
(今日も推しに会えなかった……)
狭いバックヤードの中にあるロッカーを開けて、制服を脱いで私服に着替える。
ロッカーの扉の内側にかけられた鏡に映る明日実の表情は憂い気だ。平行眉に整えた眉毛が、心なしかしょんぼり下がっている。
(マツエク取れてきたな)
鏡を覗き込みながら、下がってきた睫毛を直す。そろそろサロンに行かなければ。だって、いつ推しとすれ違うか分からない。
明日実は溜息を吐きながら、お気にのメイクポーチを開けてリップを塗り直す。最初は透明な美容液リップ。次に上唇の山にハイライトを入れて、人中短縮メイクにするのを忘れてはいけない。人中が短いと童顔に見えるからだ。
とは言っても、明日実は老け顔というわけではないし、人より人中──鼻の下が長いわけでもない。年齢相応の顔だが、推しは目が大きくて、地雷メイクをしている、ちょっと病み系の雰囲気のある子──病的なくらい自分を推してくれる、ヤンデレ系の子が好きらしい。雑誌でそれを見てから、人中短縮メイクと涙袋メイクを心掛けている。
そんなことを言いながら化粧品のアンバサダーをしている推しに、一消費者として、企業に乗せられている気がしないわけではないが。「ワルイ男ね……」と思いながら、そんな風に推しの手の上で踊らせられるのも込みでファンの醍醐味だ。
※この続きは製品版でお楽しみください。