【試し読み】豹変した完璧貴公子との破談を阻止します!~わたしを大嫌いな婚約者に恋をしてしまいました~
あらすじ
あなたに睨まれてドキドキしてます──完璧貴公子と名高いレイノルドと婚約した伯爵令嬢のセシリー。五年経っても彼と心を通わせられていないが、貴族同士の結婚と割り切っていた。しかしある日、怪我を負ったレイノルドに異変が……。「今すぐ私の前から消え失せろ!」悪夢を見るようになったレイノルドは強くセシリーを憎むようになり、婚約解消を宣言。初めて彼が見せる激しい拒絶、冷酷で野性味ある素顔に──皮肉にもセシリーは恋に落ちてしまった。邪神に魅入られたレイノルドを悪夢から救うため、彼の心に強く入り込みたいセシリーは身を捧げる覚悟をして……!? 切実な思いは果たしてレイノルドに届くのか──
登場人物
辺境育ちの伯爵令嬢。婚約者であるレイノルドから突然婚約解消を宣言される。
完璧貴公子と名高い公爵家嫡男。怪我による後遺症で悪夢を見るようになる。
試し読み
レイノルド・アトレーは完璧な貴公子だと誰もが言う。美しい容姿、高貴なる血筋、聡明で沈着な人柄……どこをとってもまるで非の打ち所のない男性であると。
たしかに近寄り難いほど隙のない人物だったように思う。
つい、昨日までは──
「貴女とは絶対に結婚しない!」
怒りか憎しみか……よく分からない負の感情を全身に纏わせたレイノルドが、激昂を堪えつつわたしを睨み上げてきた。
「レイ、ノルド?」
ちょっと待ってほしい。
激しい動悸に胸を押さえながら、わたしは必死にこの状況を整理する。
今日は王領地で定例の狩猟大会が行われていた。そこでレイノルドが怪我を負ったとの知らせを受け、わたしは取るものもとりあえずアトレー家へ駆けつけたのだ。
彼は頭を強く打ったとのことで意識はなく、頭部に巻き付けられた包帯がなんとも痛々しかった。幸い命に別状はないという医師の言葉に安堵し、わたしはベッドの傍らで意識の回復を見守ることにした。
けれど待てど暮らせど目覚める気配はない。手持ち無沙汰についウトウトしているうちに、いつの間にか日も暮れていた。
今頃実家の姉も心配しているだろう。ひとまず連絡を入れるべきかと逡巡していたところ、ようやくレイノルドが意識を取り戻したのだ。
「レイノルド、大丈夫ですか」
レイノルドはぼんやり辺りを見回しながら記憶を辿っているようだった。そしてわたしの顔に目を留めた瞬間、彼の気配が一気に不穏なものに変わったのだ。
「レイノルド?」
「……なぜ、貴女がここに」
「早馬で知らせが届いたので……」
「ちっ、余計なことを」
忌々しげに舌打ちまでされて、わたしは訳が分からずポカンとする。
レイノルドってこんな人だったかしら?
これまでわたしの前で感情を露わにしたことなど一度もなかった。いつだって(わたしにだけは)無口無表情で何を考えているか分からない人だったのに。
二の句が継げずにいるわたしに苛立ったように、レイノルドは語気を荒げ、見たこともないくらい恐ろしい形相で言ったのだ。
「よく聞けセシリー、貴女との婚約は解消する」
「え?」
「貴女とは絶対に結婚しない!」
そして今に至る……わけだけれど──
もとより好かれてはいなかったから、それが本音かと納得する気持ちと、何故今更こんなことを、と理解できない気持ちとに心が揺れる。頭を強く打った影響か、それとも貯めに溜め込んだ鬱憤が爆発したのか……
戸惑いながらレイノルドの顔を見下ろせば、いつもはなんの感情も窺えない琥珀の瞳が、ギラギラと射殺さんばかりの殺気を放っていた。
ドクッと胸が鳴る。
これ、普通の令嬢なら怯えて逃げ出すところじゃないだろうか。
でもわたしは──身が震えるほどゾクゾクした。これは恐怖なんかじゃない、神像を前にした崇拝に近いかもしれない。
なんて、美しいの……
いつか故郷で見た白狼のように、獰猛で神秘的な輝きに魅せられて目が離せない。
これが、レイノルドの本性──?
わたしが知るレイノルドは、常に事務的で冷淡な人だった。そんな彼に気後れしてしまい、わたしはこれまで言いたいこともろくに伝えることができなかった。だから定期的に顔を合わせても気まずい時間が過ぎるばかりで……
──嫌われているんだ。
そう察するのに時間はかからなかった。洗練された王都育ちのレイノルドと、辺境育ちのわたしとでは馴染んだ文化も価値観も何もかもが違う。それにバランスを重視する貴族結婚において、公爵家嫡子のレイノルドと伯爵家のわたしとでは家格差がある。レイノルドとしては受け入れ難いことも多かったはずだ。
それでも彼がわたしを拒めなかったのは、陛下が主導して纏められた婚約だったからだ。凡庸なわたしよりもっと吊り合う女性は他にいただろうに……その点は心から気の毒に思う。
至らないなりになんとか打ち解けようと努力はしたけれど、レイノルドの凍てついた心の壁を打ち破ることは叶わなかった。
辛くなかったと言えば嘘になる。けれど月日を経るうちに、いつしか彼との関係も割り切れるようになっていた。
元々両家はそれぞれに大きな商団を率いる元締めでもあり、同業として良好な関係を築いている。この婚姻の意図も商売上の利害関係にあると父からは聞かされていた。だからレイノルドと心は通じ合えなくても、この婚姻で家の役に立てるならそれだけで本望だと思っていた。
つい、先程までは。
「……理由を、伺っても?」
問うように首を傾げると、レイノルドは嫌そうに視線を背けた。
「……言っても、貴女は信じない」
「伺ってみないことにはなんとも」
「頭痛がひどいんだ、今日のところは帰ってくれ」
「それではますます帰れません。看病させて頂きます」
「ハッキリ言わないと分からないのか? 貴女の顔など見たくもないんだが」
困った。辛辣なことを言われているのに、先ほどからこの目に睨まれると胸がキュンキュンときめいて仕方がない。冷たく突き放されて初めて好意を感じるだなんて、わたしったらまるで……
いや、今は気付かされたおかしな性癖を嘆くより、この男を手放してなるものか──そう思うと腹の底から力が湧いてきた。
「理由が分かるまでは帰りません」
「頑固な……後日書面ででも──」
「あなたの口から直接伺いたいです」
「貴女とは話したくないと言っているだろう」
「ではお話を伺えるまで、あなたの看病がてらこちらへ滞在させて頂きますね」
にっこり笑って押し切ると、レイノルドの双眸がぶわっと怒りで輝きを増す。
わあ、綺麗……
王族の象徴である青みを帯びた黒髪も、今日は一際神々しく見えて仕方がない。つい手を合わせてウットリと見入ってしまう。
そんなわたしの視線が癇に触るのか、レイノルドの表情はますます険しさを増してゆく。もうわたしの心臓は破裂寸前だ。
やがて根負けしたようにレイノルドは視線を逸らすと、ふうっと溜息を零した。
「……長い夢を見た。いや、夢と片付けるにはあまりに鮮明で……すべてが現実のように感じられた」
「それは一体どのような?」
「レイノルド・アトレーの生涯を追体験した……そんな印象だった。死のその瞬間すらまだ生々しく覚えている」
淡々と語りながら、レイノルドはじっと自身の掌を見ていた。
正直彼の言っていることはよく分からない。高位の神官が稀に見るという予知夢のようなものだろうか。王族はレイノス神の系譜に連なるとの伝承があるので、それも何か関係があるのか……
「これからどんな未来が待ち受けているのか、私は全部見た。貴女という女の本性もな」
「わたしの本性? わたしが一体何をするというのでしょう」
あなたに睨まれてドキドキしてます、なんてことまで知られてしまったのだろうか……変な意味でドキリとする。
「……私は貴女の無垢な瞳にずっと騙されていた。この悪女め! 今すぐ私の前から消え失せろ!」
「騙す? 悪女?」
予想外の言葉に面食らう。レイノルドを騙そうと思ったことなど一度もない。こんなにも怒り憎悪するなんて、夢(?)のわたしは彼にどんな悪事を働いたというのか。
「全く身に覚えのないことで責められましても……」
「ああ、少なくとも今の貴女はそうだろう。だが将来貴女は……」
鮮明な記憶とやらが蘇ったのか、レイノルドはキッとわたしを睨め付けた。
ああもう堪らない、今の彼はなんて蠱惑的なんだろう。
「口にするのも汚らわしい……! とにかく、結婚してしまっては簡単に別れられない。だからどれだけ難しくとも婚約を破談にする」
「あの、夢のわたしは一体どんな汚らわしいことをしたのでしょう?」
「……言いたくない」
「ならば全力で破談を阻止します」
「何故だ! 貴女は私のことなど何とも思っていないだろう!」
はい、と言いそうになって慌てて口を噤む。昨日までのわたしは確かにそのとおりだった。
でも、今のレイノルドは生命力に溢れキラキラと輝いて、どうしようもなく惹きつけられて仕方がない。
酷い男……別れ話をするなら完璧なレイノルドのままでいて欲しかったのに。
「……て」
「は?」
「どうして、もっと早く本当のあなたを見せてくださらなかったのですか」
「本当の私?」
「今のあなたは恐ろしいほど魅力的なんです。あなたがそんな方だなんてわたし、今までまっっったく知りませんでした。時間を損した気分です」
早口で捲し立てるわたしに、レイノルドは口をぽかんと開けたまま絶句する。
わたしはこれまでレイノルドに本来の自分を晒すことができずにいた。だから言いたいことをハッキリと口にする今のわたしに面食らっているのかもしれない。
「あなたの口ぶりでは、その夢のわたしは結婚後あなたを裏切り陥れるようなことをするのですね?」
「……そうだ」
「それではわたしも正直に打ち明けましょう。昨日までのあなたとなら、そういう未来もあり得るのかもしれないなと思いました」
「……セシリー、貴女という女は……!」
怒りでワナワナと震えるレイノルドの唇を蓋するようにそっと指先で触れる。
「最後まで聞いてください、昨日まではと言ったでしょう。でも今のあなたは……」
頬が熱い。赤くなっているかもしれない。どう伝えたらいいかと口籠るわたしを、レイノルドは訝しげに見ている。
「今の私はなんだというのだ」
焦れたように苛立つ眼差しもすごくいい。もう変態でもなんでもいい、わたしはこの人を──
「誰にも渡したくありません」
「なっ……!」
瞳に明らかな動揺が走り、レイノルドは慌てて半身を起こしてわたしを手で押しのけようとする。わたしは残念に思いながら大人しく身を引いた。
「今のあなた、すごく素敵です」
「馬鹿を言うな! 貴女は昨日までの私を否定するというのか」
「とんでもない。でも……例えるなら昨日までのあなたは……一流料理店の味のないスープのようで……」
「味のない、スープ?」
「表面は完璧なのに人間味が感じられなくて、その……興味が持てませんでした」
レイノルドの顔からすうっと血の気が引いてゆく。
「ごめんなさい、いくら本音と言っても気分を害しましたよね」
それがトドメのようにレイノルドはガクッと項垂れてしまった。
「レイノルド、大丈夫ですか」
「……貴女と初めて会ったのは五年前だったな」
「え、ええ、そうですね」
王命とのことでひどく緊張していて、何を話したのか全く覚えていない。ただ、酷く拒絶されたことが悲しかったのと、ひとつ年上のレイノルドがとても大人びて見えたことだけはよく覚えている。
「貴女は私の周りに居る令嬢達とはまるで違って……どう接すればいいかと日々頭を悩ませた。完璧であろうと私なりに努力もした。それを味のないスープとは……まったく滑稽以外の何物でもないな」
あまりの衝撃に瞬きもできずに立ち尽くす。これほどよく喋るレイノルドにも驚かされたけれど、それ以上に打ちのめされたのは、この五年間がすべてわたしの勘違いだったかもしれないということ。
わたし、嫌われていたのではなかったの? だってずっとレイノルドは冷たかったし、ろくに話もしてくれなかった。でもそれは、わたしをどう扱って良いか分からず戸惑っていただけだったというの? その結果があの近寄り難い完璧貴公子だったと?
ああ……もっと早く正直に打ち明けてくれたなら、今とは違う関係を築けたはずなのに……五年もレイノルドの魅力を隠されていたなんて時間を損した気分だ。
「……本当に愚かだった。貴女は将来私を欺きクレイと……くそっ! 絶対に破談にしてクレイも殺してやる! セシリー今すぐ出て行け!」
激しい怒りで朱金に染まるレイノルドの瞳を呆然と見つめる。
胸が痛いほど締め付けられる。今すぐ平伏してやってもいない罪の赦しを乞いたくなってしまう。
「わた、し……」
膝を折りかけたところでハッと我に返った。
違う、こんな事をしている場合ではない。レイノルドは今、その悪夢とやらの内容を語ってはいなかったか。わたしがレイノルドを欺きクレイと……何だというのだろう? 汚らわしいことと明言していたから、恐らくクレイと何かよからぬことを企むのだろうか。もしくは不貞行為?
クレイの顔を思い浮かべ想像してみる。いや、ありえない。
クレイは幼馴染で、わたしの姉リシャの婿養子だ。穏やかで知的で尊敬できる人柄ではあるけれど、彼と共に育んだのは信頼と友情、それだけだ。なにより大好きな姉を悲しませる不貞行為など冗談ではない。
ただ、将来の夫が昨日までのレイノルドだったなら、わたしは空虚なものを抱えた結婚生活を送っていたことだろう。そしてその穴を埋めるために何かを求めたとしても不思議ではない。それがクレイとの不貞行為は論外だけれど。
「レイノルド……」
まだ起きてもいない未来のことで責められるのは正直納得がいかない。でも、これまでのわたしの心の在り方やレイノルドへの態度に問題があったことは事実だ。わたしはこの五年間必要最低限の関係しか築けなかったし、昨日までの彼とならあっさり破談も受け入れたはずだ。
でも、今のレイノルドとは絶対に別れたくない。どんな手を使ってでも引き止めてみせる──
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