【試し読み】推し活侍女は、ご主人様の溺愛に気づかない
あらすじ
「別に俺は、おまえがいればいい」「そりゃ、私はずっと坊ちゃんにお仕えしますけれど」マラスカーナ伯爵家に仕える侍女リィンは、嫡男ラーヴィルに舞い込んだ婚約話を断るための偽恋人役を、『推しの舞台切符』に釣られて引き受けてしまった。――婚約は白紙に戻り、無事任務完了!……のはずが、なぜかラーヴィルは恋人のフリをやめず、リィンを『婚約者』と紹介しはじめた!? 嘘がバレるのではとひやひやするリィンだが――「おまえのことが好きなのに、どこまでつれないんだ。鈍感女」主人からの突然のキスで、初めて彼の甘ーい言動の数々に気がつきはじめ……?
登場人物
伯爵家に仕える侍女。推し俳優の舞台チケットのために偽恋人役を引き受ける。
伯爵家嫡男で騎士隊長。リィンに恋しているが、アプローチしてもなかなか気付かれず…
試し読み
序章 マラスカーナ伯爵家の家族会議
「来月には、おまえがこのマラスカーナ伯爵家を継ぐことになる。ラーヴィル、おまえは剣技にも優れているし、学問も歴史も経済面の学びも人並み以上。実にすばらしい後継者だが、ただひとつ父の心配は、生涯の伴侶選びについて──だ」
立派な口髭をたくわえたマラスカーナ伯爵は、正面に座している赤毛の息子に重々しく告げる。
ラーヴィル・ラウド・マラスカーナ子爵、二十一歳。来月には父の跡目を継ぎ、マラスカーナ伯爵となる。
こざっぱりした、だが目を惹く鮮やかな赤毛に、男性らしさを凝縮した黒い瞳は鋭く強い。顔立ちも精悍そのもので、リュリアーサ王国の貴族女性たちの心を惑わせる魅力的な騎士隊長である。
だが、両親にしてみれば、そんな立派な息子も、女性ひとり口説くこともできない情けない子供にすぎない。
とはいえ、伯爵家を継ぐからには、早々に伴侶を得なければならない。息子の自主性に任せていては、いつになるやら──ということで、現在に至る。
「お母さまもそれだけが心配です。心配のあまり友人に相談したところ、この通り」
隣に座った母のリュリラも念を押すように言いながら、一枚の小さな肖像画を息子の前に差し出した。
「これは……?」
ラーヴィルは小さなキャンパスに描かれた肖像画を見て、目を瞠った。
「おまえの婚約者候補の、フローラ・ラウド・ヴィルヘイトだ。どうだ、品があって美しい女性だろう」
その絵を受け取ったラーヴィルは、鋭く精悍な目許をさすがに困ったように下げ、肖像画と両親を見比べた。
「父上、いくらなんでも」
「ラーヴィル、これは決して悪い話ではない。先方もこの話にいたく乗り気でな。こと女性に関することでは、おまえの情けない姿をさんざん見てきた。おまえひとりに任せておいては埒が明かん。リセもそう思うだろう?」
伯爵は、ラーヴィルの背後に控えていた侍女頭に同意を求める。
「さようでございますね。ですが、フローラさまでしたらきっと、ラーヴィル坊ちゃんの力強い助けになってくださると思いますわ」
「う……」
幼い頃から面倒みてくれている侍女頭のリセに対しては、実母よりも頭が上がらないラーヴィルである。彼女にそう言われてしまったら、ぐうの音も出ない。
「今週末にヴィルヘイト伯爵家で夜会を開くそうなので、顔見せのために必ず出向くようにね。正式な婚約はその後で。フローラもあなたが来るのをとても楽しみにしているのよ」
「母上はおいでにはならないのですか」
「わたくしはお父さまと旅行よ。来月からは領地に引っ込むから、大都市圏の旅行はこれが最後なの。邪魔をしないでね」
「そうだぞ、ラーヴィル。おまえは次期マラスカーナ伯爵だ。婚約者の相手くらいひとりでできなくてどうする」
挙句の果てに、両親は手を繋いで「ねーっ」とふたりの世界だ。大恋愛の果てに結ばれたという両親は、息子に家督を譲る年齢になっても仲睦まじいままである。
「しかし、だからといって……この女性はいったいおいくつなのです?」
「あら。女性の年齢を気にするようでは、立派な紳士になれませんよ」
母はおほほと笑って口許を扇で隠す。
「そういう問題ではありません! どう見ても俺より……いえ、父上や母上よりもさらに上に見えますが!? いくらなんでも、さすがに無理があるでしょう!」
「なに、たったの五十二歳だ。それに、亀の甲より年の功と言うではないか。そう細かいことをグダグダと気にするから、おまえはいかんのだ。大の男なら、もっとどしっと構えんか」
好き勝手に言いたい放題の両親を見やり、ラーヴィルはため息をついた。このふたりに何を言っても無駄である。
「わかりました。ではこちらはこちらで、好きにやらせていただきます」
「おお、がんばれよ。さあリュリラ、旅行の準備をしようじゃないか」
両親は、リセを伴ってにぎやかに退出し、ひとり残されたラーヴィルは絵姿の夫人を眺め、大きなため息をついた。
第一章 新人メイドが見た、伯爵家の恋の話
「今日からこちらのお邸でお世話になります、アルナです。どうぞよろしくお願いいたします!」
「こちらこそよろしくお願いね、アルナ。私は侍女のリィンといいます。このマラスカーナ伯爵家の皆さまはとても気さくなので、気楽にしてね」
緊張してしゃちほこばっている新人メイドのアルナに、侍女のリィンがにこやかに声をかけ、広大な邸中を案内してくれた。
マラスカーナ伯爵邸は、リュリアーサ王国王都の一角にその瀟洒な佇まいを見せている。三階建てのこぢんまりとした建物だが、横広がりで、庭園は馬を駆らねば一周するのも大変な広さを誇っている。
「リィンさんはお若いのに、若さまの侍女をなさっているんですってね。すごいです」
「リィン、でいいわ。アルナと私はひとつしか違わないんでしょう? それに、別にすごいわけじゃないのよ。生まれる前に騎士だった父を亡くして、母が頼ったのがこのマラスカーナ伯爵家だったの。父は昔、マラスカーナ伯爵の護衛を務めていたから、そのご縁もあって今でも母子でご厄介になっているの。もう長いことお仕えしているし年も近いから、このお邸の坊ちゃんも、気安くなんでも言える私が侍女だと楽なんですって」
「このお邸の若さまって……ラーヴィルさまですよね?」
アルナは確かめるように、リィンの仕える主人の名を確認する。
「ええ、そうよ。ラーヴィル・ラウド・マラスカーナ子爵。ご両親のマラスカーナ伯爵夫妻が坊ちゃんに家督を譲ってご領地に隠棲なさるから、もうすぐ伯爵さまだけどね」
そして、古くからこの邸に仕えているメイドたちの多くが伯爵夫妻に付き従って領地へ行ってしまうため、マラスカーナ新伯爵の邸で働くメイドを募集しているのだ。アルナはその募集で、新伯爵の邸で働くためにここへやってきた。
「きょ、今日は、ラーヴィルさまは……?」
「昨日、夜勤だったからまだ寝ているわ。あとで紹介するわね」
そう言われ、アルナは胸の前で手を握り合わせて頬を赤らめた。
「あのラーヴィルさまのお邸にお仕えできるなんて、とても光栄です……!」
「あら、坊ちゃんを知っているの?」
「だって、騎士隊長のラーヴィルさまと言ったら、王都中の女の子のあこがれの的じゃないですか! 燃えるような赤毛の勇敢な騎士であられる上に、とってもおやさしくて、とんでもない美形で!」
アルナは瞳をきらきらさせながら昂奮して言うが、リィンは首をひねるばかりだ。
「あこがれの的? 美形? そうかしら。まあ顔は整っているとは思うけれど、美形っていうにはちょっと男臭すぎると思うわ。赤毛はすこし暑苦しいし、眉毛がけっこう太いのよ。背も無駄に高いし、腕も太いわ。愛想もそんなによくないし」
「暑苦しいなんて……だってラーヴィルさまは、王国でも一二を争う剣豪でいらっしゃるのですもの。腕は『太い』ではなくて『たくましい』のです!」
「ふぅん、そんなものかしらね」
アルナがどんなに騒いでみせても、リィンには伝わっていないようだ。
「私なんて、毎日ラーヴィルさまのお顔を拝見できると思っただけで、卒倒しそうですのに。このお邸で雇っていただけることになって、うれしすぎて友人たちに自慢しました!」
「そんなの、毎日見ていればそのうち飽きるわよ」
そう言ってリィンはけらけら笑った。
*
リィンに「男臭すぎる」と貶される次期当主ラーヴィルは、午後を少しまわった時刻に目を覚ました。
ベルの音が聞こえたので、侍女のリィンがアルナを伴ってすっ飛んでいく。
「おはようございます、ラーヴィル坊ちゃん」
「おはようございます」
ノックしてラーヴィルの部屋に入ると、部屋の主は生欠伸をかみ殺し、寝ぐせのついた赤毛を手で撫でつけながら窓に向かって大きく伸びをしていた。
「リィン、おまえいい加減、俺を坊ちゃんと呼ぶのはやめ……」
振り向きざまに文句を言うラーヴィルだったが、リィンの後ろに立つ、見知らぬ顔の娘に気づいて口を噤んだ。
「ご紹介させていただきます。彼女はアルナ・ローレルフ。今日からメイドとして働くことになりましたので、お見知りおきください」
「は、はじめまして旦那さま! アルナと申します。一生懸命お仕えいたします」
「あっ、ああ。よろしく……」
ラーヴィルは勢いを削がれたように口の中でもごもごと言い、軽くリィンをにらんだ。
「お食事の用意をしてもよろしいですか?」
「ああ」
「ではすぐに準備いたします。アルナ、ワゴンをここへ。給仕は私がやるから」
「かしこまりました」
もう起きる頃合いだからと、リィンが指示して準備させていたのだ。アルナが廊下に出て、すでに用意されていたワゴンを室内に押して入ると、リィンが部屋の中に入って窓を開け放つところだった。
ひとくくりにした彼女の艶やかな銀髪が、風に揺れる。
その様子を目を細めて眺めていたラーヴィルは、リィンが振り返ると、すぐに渋面に作り変えた。
「しかし、なんで寝起きに新顔を連れてくるんだ。初対面で寝ぐせなんて、心証が悪いじゃないか」
本気で言っているわけではないだろうが、アルナはひたすら平身低頭だ。なるべくラーヴィルの方を見ないように気をつけながら、遅すぎる朝食の席を整えていく。
「あら、私は新人に仕事を教えているだけですよ、ねえアルナ。坊ちゃんも、かわいい子の前だからって、ええかっこしいしなくてもいいんですよ」
「誰がええかっこしいだ。それと、坊ちゃんやめろ」
「申し訳ございません、坊ちゃん。口癖というものは、かんたんに直らないもので」
アルナはこのやりとりを聞いてぽかんとした。これまでにも何軒かの貴族の邸で働いた経験があるのだが、こんな気安い主従関係を見たことがなかったから、ひたすら驚きだ。
リィンは子供の頃からマラスカーナ家にいると聞いていたし、ラーヴィルと年が近いため、遊び友達として兄妹のように育ってきたという。ゆえの気安さである。
わかってはいても、やはり驚きは隠せなかった。
「俺のほうがふたつ年上なのに、子供のように坊ちゃん坊ちゃんと……」
彼は眉根を寄せてにらんだが、リィンは涼しい顔で笑っている。
「じきに坊ちゃんも伯爵さまですものね。気をつけます、ラーヴィルさま。それから、今夜は旦那さまと奥さまがご領地からお戻りになるそうです」
ラーヴィルの父であるマラスカーナ伯爵は、齢五十を迎えるにあたり領地でのんびり余生を過ごしたいと宣言し、その準備のため妻を伴って領地へ赴いていたのだ。
来月にもこの邸と家督をラーヴィルに譲って隠棲することになっているが、手続きやら何やらで、あっちとこっちを行き来する日が続いている。移住もかんたんではないようだ。
「わかった。ところでリィン、あの花壇の一画を自分専用にしたいと言っていたが、何を植えたんだ?」
窓から見える庭園には、庭師が丹精込めて世話している花々が咲き乱れているが、花壇の一画を貸してほしいとリィンが頼み込み、ラーヴィルの承諾を得たのは一年前だ。今はその辺りにたくさんの真っ赤な花が咲いている。
「薔薇を植えました。庭師のフォルスさんに教わって」
「薔薇? おまえに庭いじりの趣味があるとは知らなかった」
「虫がついたり病気になったり、けっこう手がかかるんですけど、きれいな花を咲かせると感動ですよ。最近は香水や精油にしたり、薔薇のジャムとかお菓子とか、いろいろ作ってます。今度、坊ちゃん……ラーヴィルさまも食べてくださいね」
「ふうん……」
ラーヴィルがもの言いたげに口を噤むと、リィンは隣室の衣装部屋から着替えを持ってきた。
「さあ、食事の前に着替えてくださいな。アルナはラーヴィルさまに仕えるのをとっても楽しみにしていたんですって。そんな寝ぐせ頭の寝間着姿じゃ、百年の恋も冷めちゃいます」
「リ、リィンさん……っ!」
まるで自分がラーヴィルに恋しているみたいな言われ方に、さすがに焦って制止するものの、当のラーヴィルは見事にそれをかわした。
「寝起きに連れてきたのはおまえだろうが。それに、その程度で冷めるものは、百年の恋とは言わないんだ。俺はリィンが寝起きのぐしゃぐしゃ頭でも何とも思わない」
(ん……!?)
なにか今、ラーヴィルがすごいことを言ったような……。聞き間違い、もしくは勘違いだろうか。
驚き目を瞠るアルナを尻目に、リィンは彼の手に服を押しつけ、呆れたように苦笑した。
「私は仕えるお方にそんな姿、見せたりいたしません。早起きは得意なので。ほら、ひとりでできないなら、お着替え、手伝いましょうか?」
「……ひとりで着替える」
*
次期マラスカーナ伯爵となるラーヴィルは、リュリアーサ王国の騎士団に所属し、現在は貴族街エレンの警備隊隊長を任じられている。
伯爵家の子息ではあるが、夜通しの警備も珍しくはない。週に二三度は夜勤も担当しているため、日中、邸にいることがわりと多いらしい。
気を取り直したアルナは、リィンが給仕するのを手伝いながら、ちらちらと主のラーヴィルを見てはうっとりした。
騎士らしく短くはしているが、いつもこざっぱりと上げている赤毛は、寝起きのため無造作に下ろしたままだ。
窓辺のテーブルで食事をする横顔はきりりと整って精悍で、リィンに「太い」と酷評された眉はべつに太すぎるわけでもなく男らしい。黒い瞳を縁取る睫毛が意外に長くて、きれいという形容もよく似合う。
背はとても高く、優雅に食事をする手も大きくてしっとりしていて、指先は整って繊細だ。まだ二十一歳という若さなのに、とても色気があった。
(ああ、ほんとにラーヴィルさまが目の前にいらっしゃるんだ……!)
ラーヴィルに心を寄せるリュリアーサの女性は、老若かかわらず多い。
アルナ自身は、街中で彼を何度か遠目にしか見たことがなく、すてきだなと思いつつも別に本気の恋心を抱いていたわけではない。
それでも、彼の噂を様々な場所で聞いたあとで、こうして近くでラーヴィルの顔を見ると、彼に熱を上げる女性の気持ちはすぐに理解できた。
マラスカーナ伯爵邸のメイドに決まったときは、周囲にうらやましがられるどころか、一周回って殺意まで感じたほどだ。夜道には注意しようと思ったとかなんとか。
しかし、侍女のリィンはそんな彼を見慣れすぎてしまっているらしく、気安いを通り越してどこか慇懃無礼だ。
幼馴染という関係に納得はしているが、まるで下々の家庭の母親と息子みたいなやりとりなので、いちいちこちらが緊張してしまう。
「またクレソンだけ残して。栄養があるんですから、ちゃんと食べましょう」
「こんな葉っぱ一枚食べようが残そうが変わらない」
「クレソンは栄養豊富なんですよ! 血行もよくなるし、美肌効果もあるし、余分な塩分も排出してくれるんです。なんならボウルいっぱいにして食べてほしいくらいですけど」
「やめてくれ……!」
「アルナからも言ってやってよ。もうすぐ伯爵号を継ぐっていうのに、クレソンも食べられないなんて恥ずかしいわよね」
いきなり話を振られたアルナはひたすら困惑し、笑ってごまかすに留めた。
仕事の先輩であるリィンの言葉を否定はできないが、仕える主に意見するなんてできようはずがない。せっかくありついた伯爵家の仕事を、初日でふいにしたくはなかった。
「リィン、相手の立場を考えろ。彼女はリセじゃないんだぞ」
「あ──。アルナ、ごめんなさい」
リセとはリィンの母親の名で、この邸の侍女頭でもある。
きっとラーヴィルは、リィンとリセの三人でいるときは、こういった家族のような会話をしているのだろう。
しかし、幼馴染の侍女にやりこめられるだけでなく、ちゃんと嗜めて新人メイドをかばってくれた若い主人に対し、アルナの好感度は爆上がりである。リィンも、年下の自分に素直に頭を下げてくれた。
「いえ、マラスカーナ家のみなさまが気さくでおやさしいので、とても働きやすそうでうれしいです」
「侍女にいじめられたら、すぐに報告するんだぞ」
そう言いながら、ラーヴィルは最後に残されたクレソンをフォークで刺し、あまりおいしくなさそうに口の中に押し込んだ。
「ふん、やっぱりおいしくないな」
「ちゃんと食べられてえらいですね」
仏頂面のラーヴィルを見てリィンがにやにやしている。
「おまえが言うから、仕方なく食べてやったんだぞ」
「回りまわってご自分のためですよ」
その様子を傍から見ているアルナは、なぜか赤面してしまう。
不愛想な表情を作っているラーヴィルだったが、リィンを見る目はとても穏やかな一方で、なんとなく熱っぽかった。
※この続きは製品版でお楽しみください。