【試し読み】高良さんに逆らえません!~過保護な俺様社長は甘すぎて危険。~

作家:木下杏
イラスト:さばるどろ
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2021/6/15
販売価格:900円
あらすじ

社長アシスタントを務める七海明莉は、社長の高良に望みのない片想いをしている。俺様な高良に振り回されてばかりだが、彼の遠回りな優しさにふと気付いた時から明莉は恋に落ち、「ナナ」と呼ばれたら逆らうことができない。想いを諦め切れずにいたが、ある日明莉は親友の結婚をきっかけに、自分が恋愛経験ゼロのまま二十代を終えようとしていることに危機感を覚える。実らない恋から卒業するため処女を捨てる決意をし合コンに参加したのだが――「処女捨てたいんだろ? じゃあ俺がもらう」お持ち帰りされる寸前で高良に強引に連れ戻されてしまい……!?

登場人物
七海明莉(ななみあかり)
社長の高良への片想いをこじらせ未だに恋愛経験ゼロ。処女を捨てようと合コンに参加する。
高良新(たからあらた)
俺様タイプのやり手イケメン社長。アシスタントである明莉を振り回すこともしばしば。
試し読み

「おい」
 真剣な顔でパソコンと向き合いながら、忙しなく手をキーボードの上で動かしていた七海ななみ明莉あかりは、すぐ近くで発せられた低い声と肩に乗せられた大きな手の感触に驚いてびくりと肩を震わせた。
「びっ……くりした」
 驚いた瞬間ひゅっと吸い込んでしまった息を、思わず飛び出た言葉と共にゆっくりと吐き出す。
 こんな風に声を掛けてくる人はこのオフィスに一人しかいない。誰かはすぐに見当がついた。
 気を取り直すように一拍だけ置くと、明莉はゆっくりと後ろを振り返った。
「何でしょうか。ご用があったなら声を掛けてもらえたら」
「呼んだけど。聞こえてなかったみたいだからわざわざ来てやったんだよ」
 ため息をつきながら呆れたような視線を向けたのは、思った通りの人物。明莉の上司である高良たからあらただった。
 不満そうな高良を見て、明莉の顔にしまったという表情がちらりと浮かぶ。しかし明莉はすぐにそれを引っ込めて取り繕った。
「そ、それは失礼いたしました。ちょっと集中していたもので。で、なんでしょうか」
「ああ。今進行中のツクイの案件、やっぱり途中で一回チェック入れたいから、スケジュールにそのタスク足しといて」
 さらりと言われたその言葉に明莉の表情がさっとかげる。
「ええっ。あれはもう進行がキツキツで。もともと納期が厳しいんですよ。それは高良さんもご存知で、だから途中チェックは入れないって」
「そのつもりだったんだけど、気が変わった」
 表情を変えずにばっさりと言い切った高良は、明莉の表情を見て眉をひそめる。おそらく明莉の顔からは、納得のいかない様子が駄々洩れだったのだろう。それで明莉は高良が自分の意思を全く変えるつもりがないことを、二の句が告げられる前から分かってしまった。
 この顔は高良が明莉に言うことを聞かせようとする時によくする表情だ。
「最終チェックで俺がNGだしたらどうすんだよ。そっから全体的にやり直しになったら納品に間に合わなくなる可能性もあるだろ。間で一回入れとけば方向性のすり合わせができる」
「そ、それはそうかもしれないですけど……」
 案の定、こちらが納得するしかないようなことを言われて、明莉はもごもごと口ごもった。その間で、とりあえず頭の中をフル回転させて改めて言われた案件のスケジュールをなぞってみる。
 ──だめだ。
 明莉は早々に結論を出した。本当にキツキツなのだ。元々先方に提示された納品日が作業必要日数を半ば無視しているような、けっこう無茶な日取りだった。しかしそれで高良が了承した以上、何とかしなければならない。だから工程表を前に悩みながら苦労し、製作スタッフにスケジュール調整を頼み込み何度も組み立て直してやっと形にしたという経緯がある代物だ。これ以上どうやって新しいタスクを追加すればいいのだ。
 頭に無理という言葉が浮かんで、安易には頷けなかった。しかし明莉の立場的にも性格的にも心情的にも高良の言葉を突っぱねることはできない。だから煮え切らない態度で困ったように高良を見つめた。
「ま、お前なら何とか調整できるだろ。そういうことでよろしく」
 しかし、明莉の願いもむなしく、高良はあっさりとそう言い置いて去って行こうとする。明莉は慌てて声を上げた。
「いやいやそんな簡単に。待ってください。これ以上の調整は本当に厳しくて……!」
 明莉の声に高良の身体がぴたりと動きを止める。振り向いたその表情には、ひどく優し気な笑みが浮かんでいた。
「ナナ、できるだろお前なら」
 明莉はその笑みに、まるでバッテリー切れにでもあったように動きを止めた。納得はいっていない。無理なものは無理だ。でもまるで魔法に掛けられたかのように、明莉の口は勝手に動いた。
「……はい」
「よろしくな。じゃ、俺ちょっと出てくるから」
 口の端を上げて満足気に笑うと、今度こそ高良はくるりと背を向けた。

 まただ。また頷かされてしまった。
 高良が去ると、はあ、と大きな息を吐いて明莉はデスクで額を押さえた。
 どうも明莉は高良のある種の笑みに弱い。そして、あの呼び方。普段高良は明莉のことを『七海』と苗字をきちんと呼ぶが、ああいう時にだけ、ナナ、と短くして呼ぶのだ。
 分かってやっている、と思う。ああいう風にすれば明莉が言うことを聞くと。そこまで分かっているのに、次こそは毅然と断ろうと思うのに、やっぱり馬鹿みたいに簡単に頷いてしまう。
 自分がそうしてしまう理由も明莉にはもちろん分かっていた。もちろん上司だからということもある。明莉は性格的に目上の者に意見を言えるようなタイプではない。たとえそれが理不尽なことであってもだ。でも、高良に限って言えば、純粋にそれだけではない。
「七海さんって本当に社長にあまあい」
 不意に横で特徴のある舌たらずな声が聞こえた。見ればそこには一人の人物が立っている。視線が合うと意味ありげに微笑まれた。
「佐和ちゃん」
 明莉にとっては後輩にあたる、同僚の佐和田さわだ奈緒なおだった。いつからいたのだろう。思わず首をかしげると、佐和田は明莉を見て肩を竦めた。
「七海さんの気持ちも分からなくはないですけどね。社長って七海さんには特に俺様だし。あんな言い方されたら絶対断りづらい」
 話しながら佐和田は明莉に身を寄せると、途中から内緒話でもするように声を潜めた。言い終わった後に訳知り顔でうんうんと頷いてみせる佐和田に明莉は苦笑いを浮かべた。
 明莉が働くここ『ACT』は、動画広告などの企画・制作や、広告コンテンツの配信サービスを行っている会社だ。そこまで従業員数は多くないものの、右肩上がりで業績を伸ばしている。社長は先ほど、明莉に無茶振りしていった高良が務めていて、ACTは高良が友人と立ち上げた会社だった。
 明莉は現在二十八歳。ACTで働き始めて六年が経っていた。ここで働くことになったのはちょっとした縁からだ。大学時代のゼミ仲間でもあった友人の兄が高良の後輩だったのだ。当時、明莉は自分の進みたい道が決められず、業界選びに迷っている内に就職活動に出遅れ、そのスタートの悪さを引きずってなかなか就職が決まらず困っていた。それを見かねた友人が、いい会社があるとACTを紹介したのだ。
 ACTは当時人材不足に陥っていた。高良が手掛けた電車内ビジョン広告が「思わず見入ってしまう」と話題になり、一躍注目を浴びたところだったからだ。その反響は凄まじく、新規案件が次々と舞い込み、それまでの社員だけではとても回せず、何件も断る羽目に陥ったとも聞いている。
 タイミングが良かったのだろうと、今考えれば明莉は思う。もちろんそれなりの選考はあったが明莉は面接をパスし、大学卒業とともにACTへと就職した。
 入社して一年はひたすら雑用だった。制作はチームで行う。人手が足りないチームのアシスタントとしていくつかのチームをぐるぐると回され、割り振られた仕事を必死にこなす。最初は右も左も分からずきついこともあったが、そうやってやっている内にどのようにして案件を回しているのか、動画やコンテンツを作っているのかが分かってくる。自分がどのように動けばいいのかが分かってくると、仕事に楽しさややりがいを覚えるようになった。
 そうやって過ごして入社から二年ほどが経過したある時、驚くべきことが起こった。いきなり、高良の専属アシスタントに抜擢されたのだ。
 それは、明莉にとって寝耳に水のような話だった。それまで高良とは、時折声を掛けられるぐらいの間柄で、もちろん仕事上では全く関わってなかった。何と言っても高良は社長で、自分はただの一社員。言葉を交わすのだって、ACTがそこまで大きい会社ではないから、おそらく高良の従業員への声かけの一環に過ぎない程度のものだった。自分がはっきりと高良に存在を認識されているとは思っておらず、明莉はこの突然の抜擢に相当戸惑った。
 世間から注目を集めた、高良の手掛けた広告は明莉も見たことがあった。
 何のCMなのか、一目では分からないような謎めいた導入で始まり、何となく惹き付けられて見ていると、途中であっと思う形でそれが分かる。その構成や展開が見事で、記憶にはっきりと残っていた。友人から紹介され、そのCMを作った会社だと知って面接を受けようと思った理由だって、CMの印象に寄るところが大きかったところもある。そんな人々の記憶に残るようなすごいものを作っている会社で自分も働いてみたいと思ったのだ。
 だから、高良は明莉の憧れの人物ではあった。能力が秀でているのはもちろん、ACTの前は大手の広告代理店に勤めていて、そこでもかなり優秀だったらしい。そんな華々しい経歴を持つ、雲の上のような人物。そんな人物のアシスタントに、まだまだ経験の浅い自分が抜擢されたのだ。
 しかもこの抜擢は高良の気まぐれや適当な人選の上のものでは決してなかった。会社が拡大するにつれて、高良の忙しさは年々ひどくなっていった。これ以上自分だけで回していくのは困難で、細々としたことをしてくれる、秘書のような存在が必要だと思った高良は社内でそれに適した人物を探していたらしい。
 けれど、あまり重要なポジションに就いている者は、自分の専属にはできない。それはそれで仕事が回らなくなるからだ。そこで白羽の矢を立てたのが明莉だった。高良曰く、明莉は全体を見て仕事をしているというのだ。周りを見て自分が何をすればいいのかが判断できる。細かいことによく気付く。高良があたりをつけて見ていた数名の中で、一番、アシスタント業務に適した能力があったと言われた。
 それを聞いた時、内心、明莉はとても舞い上がった。憧れの人物に自分の仕事ぶりを認められる。こんなに嬉しいことはない。性格的に決して自分に自信があるようなタイプではなかったが、そんな風に言ってもらえるなら、がっかりされないように死ぬ気で頑張ろうとまで思った。
 しかし、それからの毎日は想像以上に苦難の連続だった。高良は仕事に厳しかったし、行わなければいけない業務もそれまでとはレベルが違っていて、分からないことや戸惑うことも多かった。けれど当然ながら、忙しい高良に手取り足取り教えてもらう訳になんていかない。しかも高良はそんな細やかな面倒見のいいタイプでもなかった。
 できないなんて言わせない。高良には有無を言わせないような雰囲気があった。初日から気遣いも一切なく次々と仕事を覚えさせられた。そして、明莉はすぐに高良のその性格を知ることとなる。確かに仕事はできる。感性も鋭い。遠くから見ている時は、どこか豪快な雰囲気も漂わせていた彼だったが、自分の主張を突き通すことに長けた俺様タイプだったのだ。
 それは特に明莉に対する態度に顕著で、しかも年数を経て段々とエスカレートさえしているように感じていた。見ていると、他の社員にはそうでもないのだ。ある程度仕事のやり方を分かってくるようになるまでは、本当に毎日必死だった。それでも何とかアシスタントから外されることなくこれまでやってきた。さすがに今は大体のことは対処できるようになったが、それでも時折、こうやって右往左往させられることがある。
「これ、差し入れです」
 佐和田が手に持っていたものをちょこんと明莉のデスクに載せた。見るとそれはチョコレートの小袋だった。七海さん、がんばって、と言って佐和田は励ますように笑った。
「ありがとう」
「あ、そういや、小川おがわさんところ思ったよりも早く今の案件終わりそうだって言ってましたよ」
「え、それってほんと!?」
 どうやら佐和田の本当の差し入れはこちらの情報だったようだ。明莉は弾かれたように佐和田を見た。
「はい。さっき話してましたよ」
 佐和田は意味ありげに頷く。彼女は手配関係の業務を請け負っている。だから幅広く社内で人と関わっていて、情報が早いのだ。明莉は高良のスケジュール管理をしている関係で高良が関わる案件の進行を把握、時には調整を行わなければならないが、たまに制作チームと上手く折り合いがつかない時がある。そんな時に佐和田からのちょっとした情報がすごく役立つことがあるのだ。
「佐和ちゃんありがと。ほんと助かる……!」
 先ほど高良から命じられたツクイの案件のスケジュール調整。高良が関わっている時点でACTにとってはかなりの重要案件だ。通常規模のチーム編成では人が足りず、途中から別チームもヘルプに入ることになっていた。そのチームのリーダーが小川だ。
(小川さん達が早めに入ればいけるかも)
 明莉は勢いよく椅子から立ち上がった。

 *

 年々夏の期間が長くなっているのか、九月の半ばを過ぎても、アスファルトに突き刺さる日差しの強さは一向に弱まらない。明莉は待ち合わせのカフェの前に立つと、額に滲む汗をバッグから取り出したハンドタオルで拭った。ついでに首筋を伝う汗を押さえるようにして拭き取ってから、ぐいっと勢いをつけて扉を向こう側に押しやった。
「明莉。こっち」
 店内に入るとクーラーで冷やされた空気が熱くなった身体を包む。声に釣られたように目を向けると窓際に座る見知った顔が目に入った。明莉は軽く手を上げてから席に歩み寄ってその人物の向かい側の椅子に腰を下ろした。
「ごめん。待った?」
「全然。まだ注文前だよ」
 よかったと声を漏らすと、前に座る由衣子ゆいこは笑ってメニューを差し出した。今日は土曜日。会社は休みで明莉は高校時代からの友人である前橋まえばし由衣子と一緒に昼食を食べる約束をしていた。お互いの最寄駅のちょうど間ぐらいに位置する駅から少し歩いたところにある、ランチもやっているカフェで待ち合わせをしていたのだ。このエリアは駅前に商業ビルも建ち並んでいて、ランチ後は一緒にショッピングもしようと約束していた。
 ランチプレートの種類は多くはないので二人はすぐに決めて注文をお願いした。由衣子とは高校卒業以来定期的に会っているが、ここ最近はタイミングが悪く予定が合わない日が続いていたので会うのは少し久しぶりだった。それもあってランチプレートが届くまでのしばらくの間、軽く近況を報告し合うような会話が続いた。
「私、結婚することになった」
 それは、そんな会話がふっと途切れ、明莉が運ばれてきたランチプレートのサラダに手をつけている時だった。いつもあっけらかんとしている由衣子が少し照れくさそうな顔で口にした言葉を聞いて、明莉は思わず目を瞠った。
「うそ。プロポーズされたの?」
 はにかみながら頷く由衣子の顔をまじまじと見つめる。高校時代から知っている由衣子が結婚。長い付き合いであまりに近しい関係だからか、すぐに実感が湧かなくて、明莉は思考が停止したかのように驚きのまま動きを止めた。
 しかしそれはすぐに喜びの感情へ取って代わる。今まで見たことのないような幸せそうな顔で由衣子が笑ったからだった。
「おめでとう。うそやだすごい。何か泣きそう……」
 急に実感が押し寄せたと思ったら、なぜか娘を送り出す母親のような心境になった明莉は熱くなりそうな目頭を誤魔化すかのように瞬きをした。
「なんで明莉が泣くの」
「だって結婚だよ? めちゃくちゃ嬉しいよ。高校の時はクレーンゲームにはまってバイト代ほとんどつぎ込んで大きなぬいぐるみを取って誇らしげにしてたあの由衣子が……」
「それはもう忘れて。黒歴史」
 悪ノリした風を装って目元を押さえる真似をすると、由衣子は大げさに顔をしかめて見せた。二人が通っていたのは女子校で、高校時代はお互い全く男っ気はなかった。大学は別々になり、由衣子は同じ学部に彼氏ができ、その男性とはしばらくして別れたが、就職して今度は職場の先輩社員と付き合うようになった。性格が合っていたようでその付き合いは長く続き、確か三年ほど続いていたと記憶している。
「結婚式には呼んでね」
「もちろん。でもまだ全然決まってないけどね」
 由衣子の彼氏には会ったことがある。どこか飄々としたところがある由衣子をどっしりと受けとめてくれそうな、懐の広そうなタイプの男性だった。そんな二人の結婚式を想像しながらほんわかした気分に浸っていると、ふっと由衣子の表情が少し案じるような雰囲気に変わった。
「明莉は? 何か進展あった?」
「進展? 何の?」
 何について言われているのか、さっぱり心当たりのなかった明莉は不思議そうに首を傾ける。
「ほら……あの社長と」
 その途端、今までのほんわかとした気持ちが一瞬にして霧散し、明莉は、ぎゅ、と心臓を掴まれたような心地に陥った。
「なにも……ないよ。ある訳ないじゃん」
 虚勢を張るように笑ったが、その声は少し弱々しいものになってしまった。明莉はそれを誤魔化すように、半分ほどに減ったアイスカフェオレに口をつける。
「じゃあもう……ふっきれ、てる?」
「……うん」
 由衣子の目を見ないまま、明莉は頷く。
「そっか。ならいいんだけど。ほら、もううちらって二十九歳になるじゃん。もちろんさあ、結婚の時期なんて人それぞれだし、焦ることなんて全然ないと思う。でもさ明莉はさあ、そろそろさあ……」
 珍しく言いにくそうに語尾を途切れさせた由衣子に明莉は何度も同意するように頭を上下させた。
「わ、わかってる」
 由衣子はそこでひたりと明莉に視線を定めた。
「別の人にも目を向けれる? 明莉さえその気になれば出会いなんてまだまだたくさんあると思うよ。でもさ、そうやって選べる時期にもある程度タイムリミットはあると思う。なんかさ、こんな話の後に言うのもって感じなんだけど、まあそろそろ考えた方がいいタイミングだと思うから」
「……うん」
 観念するように頷きを返した明莉に、由衣子は宣告をするかのような顔で口を開いた。

 *

 ──三十歳までこのままじゃまずいと思うよ。
 由衣子と会った翌々日、週が明けていつも通り出社した明莉の耳には、その言葉がまだこびりついていた。ついつい、心にわだかまっているものを押し出すかのように息を吐く。ずっと見ないようにしていた現実を目の前に突きつけられたような気分だった。
 全く反論ができなかった。由衣子の言う通りだと思ったからだ。仕事中までこの気持ちを引きずるのはまずいと思ったが、由衣子と別れてからも、ぐるぐるとずっと同じことを考えている。
 分かっている。分かっているのだ。
 未来のない恋をいつまでも引きずっている場合ではないということは。
 明莉は現在二十八歳。あと少しで二十九歳。しかし、この年まで、まだ男の人とお付き合いというものをしたことがない。
 つまり、明莉は処女だった。
 由衣子が言っていたこのままじゃまずいというのは、このことを指している。三十まで処女はさすがにまずいということだ。
 高校は女子校であったため、そもそも男性と縁がなかった。大学は共学ではあったがそれまで周りに男性がいない環境で過ごしていたため、いきなり周囲に男の人が存在し始め、どう接していいのか分かりかねてついつい構えてしまうところがあって、距離を取りがちだった。
 それでもさすがにしばらくすれば慣れたが、及び腰というかつい一歩引いてしまうところはそのままで、そんな態度だから向こうからも敬遠されたのか、そこまで踏み込める相手もいないまま、時が過ぎてしまった。
 そして、就職。ACTは男性社員の方が多い。同年代の男性ももちろんいる。社内恋愛は禁止されていないし、社員同士で付き合っている人たちもいると、ちらほら噂も聞く。
 この年になればさすがに男性への接し方が分からない、なんて思うこともなくなった。周りを見て色々学んで、合コンに行ってみたり、デートみたいなことも少しは経験した。残念ながら付き合うところまで発展した男性はいなかったが作ろうと思えば彼氏ぐらい、できたかもしれない。
 ──だけど。
 明莉はちらりと自分の斜め横方向へ視線を向けた。
 ACTに社長室はない。そこには高良のデスクがあった。明莉は高良の秘書のような立場だから近い位置に席が配置されているのだ。だからその気になればすぐにその顔を視界に入れることができる。
 肘をつき少々行儀の悪い体勢で高良はデスクトップパソコンの画面を見ていた。何かを考えている時によくしている少しだけ険しさを帯びた顔。元の顔立ちが整っているからかどんな表情をしていても大体は格好良く見える気がする。

※この続きは製品版でお楽しみください。

関連記事一覧

テキストのコピーはできません。