【試し読み】侯爵令嬢の初恋を灼く義兄の蜜愛
あらすじ
「おまえの純潔をよこすんだ」──侯爵令嬢のエミーリアは兄のアルトゥルを秘かに恋い慕っていた。しかし屋敷が不審火で焼けたとき、自分を救うためにアルトゥルが大怪我を負ってしまったことに心を痛め、介抱する日々。ようやく傷が癒えた頃、怪我が原因でアルトゥルが後継者から外されたと聞き自分を激しく責め、そして消せない恋心にも思い悩むエミーリア。しかしある夜、助けた報酬を払うかと問うアルトゥルに寝台に押し倒され強引に甘く抱かれてしまう。禁断の関係──だが、彼と結ばれることに障害がないと分かり想いを通わせるが、アルトゥルに言い寄る積極的な令嬢に振り回され、家督争いに巻き込まれて……!?
登場人物
恋い慕う兄・アルトゥルが自らを救うために大怪我を負ったことに心を痛める。
自責の念に苛まれるエミーリアに助けた報酬として純潔を要求し、強引に抱くが…
試し読み
1
まだ遠いはずだった。
馬車の窓から見える光景は、赤々と燃える空が占める恐ろしいものだった。
屋敷の周辺に黒煙が立ち上っているのがわかり、エミーリアは背筋が寒くなっていた。
一瞬枝葉が途切れたとき、あたりの木々もそれを受け、灼熱に染まっているのを目の当たりにした。
「は、はやく……! 馬を急がせて……!」
エミーリアの叫びに、御者台から怒号さながらの声が降ってくる。
「お嬢さま方、しっかりつかまっていてください!」
いつも穏やかに話す御者の声は、逼迫した激しいものとなっていた。
エミーリアと侍女のクロエを乗せた馬車は速度を上げ、屋敷に向けてひた走る。
中央から国の東へとのび、街道の末端となるその道は、悪路とまでいかないが車輪が取られ馬車はよく揺れた。
馬車の窓を全開にし、エミーリアもクロエも外──空の赤をにらむようにしていた。
──夕刻をとうに過ぎている。
夜の帳が下りた天空の一端が、灼熱の赤に染められていた。
それは道の先、エミーリアの生家であるアンヴロシュ侯爵家の屋敷が建つ場所で起こっている。
ほかには森があるのみで、あたりに民家などはない。
「なんてこと……火事だなんて……そんな……」
クロエのつぶやきは涙声になっていた。
信じられない事態だった。
馬車が走り前進するなか、道にひとの姿がちらほらと見られるようになっていく。走るもの、歩くもの、馬や驢馬を使うもの、そのどれもが緊急事態に顔を青くし、アンヴロシュ家の紋の入った馬車に道を譲ってくれた。
どの顔も死人のような顔つきになっていたが、窓から顔をのぞかせているエミーリアに気がつくと、みな屋敷のほうを指さしなにか叫んでいた。
顔も声も瞬時に流れていくものの、そのどれもが火事という惨事に狼狽しているのがわかった。
「どうかみなさま、無事でいらして……!」
祈りはじめたクロエの姿に、エミーリアは窓に顔を押しつけて外の様子を探る。
そのとき馬車の揺れが軽くなった──足下の道が舗装されたものに変わったのだ。屋敷のものが頻繁に出入りし、動きまわるあたりでは、道が舗装されている。
そこまでくると、すでにあたりが赤いだけではなくなっていた。人出が多く、煙が流れ、馬車のなかまで焦げ臭くなってきていた。森への延焼だけはどうあっても阻止しなければならない。間に合うならば、屋敷から家財や貴重な品を運びだす──それがどれだけ可能なのか。
馬車が止まるなり、エミーリアはばね細工のように飛び出していく。
──あたりは騒音の坩堝だった。
「近づくな! 避難できるやつぁ屋敷から離れろ!」
「動けるやつは水被ってこい! とんでもない熱さだぞ!」
燃えているのは、間違いなくアンヴロシュ家の屋敷だ。
ひざの力が抜けそうになるのを堪えたエミーリアの耳は、聞きたくない言葉を拾っていた。
「アレナさま! アレナお嬢さま──どちらにいらっしゃいますか!」
取り乱した声が呼んでいたのは、エミーリアの末妹の名だった。
「だ、誰か……アレナさまの姿を誰か見た!? ずっといらっしゃらなくて……っ」
そちらでいまにも泣き出しそうになっているのは、アレナの家庭教師を勤める若い女性だ。
六歳になったばかりの末妹のアレナは、最近おとなの目と手をかいくぐって隠れるのが好きだった。
家庭教師もそれはわかってるだろう。
エミーリアは鳥肌を立てていた。
間近に巨大な熱源があるというのに、寒気に包まれていく。
「姿が見えないのか!?」
「いつからだ? 金髪のあのちいさな子だよな?」
使用人や近隣の住人たちの声が錯綜する。
火事で集まったひとびとの顔はどれも鬼気迫り、煤で汚れていた。
「アレナって、末っ子のお嬢さんだろ!?」
「どこかにもう避難してるんじゃないのか!?」
「おぉい、見たやつはいないか!」
いくつもの必死な声が上がるなか、家庭教師が泣き崩れた。
「か、火事の前から、姿が見えなくて……! 探していたんです……!」
エミーリアは足を動かしていた。
──最近アレナは、屋敷の東端にある部屋を気に入っていた。
もう少し大きくなったら、アレナの遊び部屋にする予定の部屋だ。いまは放置されているが、来年には床板と壁紙を張り替える算段になっていた。
未来の自室とあって、アレナはよくそこに入り浸っていた。
隠れていそうで家庭教師が探せる場所なら、きっともう探しているはずだ。
それでも見つからないなら、その部屋にいるのではないか。
入りこんで遊んでいることについては、「姉さまないしょよ」と真剣な顔のアレナに釘を刺されている。だからエミーリアは誰にも話していなかった。
しかし末妹がほかの兄弟にそういっているのも、エミーリアは目にしていた。
きっと周囲の全員に話しているだろう。
そう踏んでいたが、もしかするとアレナは家庭教師には話さずにいたのかもしれない。
エミーリアが目を向ければ、東の一角はまだ火に呑まれず、しかしいずれそうなるだろうことは明らかな状態だった。
「……アレナ……!」
走り出したエミーリアの背に誰かの声がかかった。しかし屋敷のどこかが崩れたらしき大きな音に、それが誰の声なのかもわからなかった。
アレナがいるかもしれない場所に向かう──それしか考えることができず、屋敷から荷物を運び出しているひとびとの間を縫ってエミーリアは走った。
屋敷に近づくその一歩一歩で、空気がさらなる熱を孕んでいくのがわかる。
「──アレナ!」
エミーリアは声を上げ、まだ火の手が及んでいない建物へと足を踏みこんでいった。
●
楽しい時間だった。
来年嫁ぐことが決まっている友達を訪ねたのだ。
久々に顔を合わせた友達との時間は楽しく、エミーリアの一日はあっという間に終わろうとしていた。
幼いころに行き来が頻繁だった遠縁の親類で、エミーリアは赤い花をまとめたブーケを手土産に持っていった。
訪問すると、友達もおなじく赤い花のブーケをエミーリアに用意してくれていて──思い返されるのは楽しい思い出ばかりで、ひざに乗せたブーケを眺めては温かい気持ちになっていた。
山ほど用意されていた菓子を供に、会話は弾む一方だった。
おたがいの侍女も顔見知り同士で、それぞれ会話を楽しむことができた。
向かいの席にすわるエミーリアの侍女クロエは、満ち足りた顔で窓の外を眺めている。おそらくエミーリアも、クロエと同様の表情をしていることだろう。
先方を辞したのは日暮れ前だ。
屋敷に帰り着くのは、夕食の時間をとうに過ぎるころになる。
今日ばかりは父たちも叱りつけてこないだろう。友達が嫁ぐのは遠方で、再会はもう期待できないかもしれないのだ。これからはせめて手紙のやり取りだけでもしたい、そう願っていた。
がたん、と馬車が大きく揺れたとき、クロエが声を上げた。
「なんでしょう、あれは……」
ひどくかたい声で、エミーリアも緊張してしまうようなものだった。
クロエがなにを見たか、エミーリアにもすぐわかった。
──がたがたと揺れる座席で、外の風景を切り取る窓の眺め。
──ひどく赤い。手元の花の赤と違い、禍々しいものだった。
「あんなに赤いなんて、な……なにが」
エミーリアがつぶやいたとき、御者席から声がかかった。
「お嬢さま! 申し上げにくいのですが──お、お屋敷が」
馬車が減速していくのがわかる。
「まさかあれ、火事なんでしょうか」
クロエの言葉に鳥肌が立った。
停まった馬車から飛び出すと、空の一角があまりに赤くて足がすくんだ。
背中に短いクロエの悲鳴が聞こえた。エミーリアのとなりにやってきた御者は、あたりを忙しなく見回している。
「このへんに民家は……お嬢さま方は、そこで待たせてもらえませんかね。俺がお屋敷までいって、様子を」
「様子を見るまでもありません、あれは……おそらく」
全員が息を呑んでいた。
ひとたび火事が起これば、家財の大半を失うことになる。都のほうでは消防団というものが機能しているようだが、国の東端にあるアンヴロシュ家の領地にそれは望めなかった。
「いきましょう、なにかできることが」
クロエたちがうなずき、馬車はふたたび走りはじめる。
できること──そんなものがあるのだろうか。
馬車の揺れのなか、エミーリアはくちびるを噛んでいた。
空が赤くなるほどの火災など、このあたりで聞いたことがない。小火でさえ起こらず、一度火が起これば一大事だ。誰も彼もが火の取り扱いには注意をしていただろう──なのに、起きてしまっている。
速度を上げた馬車の窓から見える景色は、エミーリアの不安をかき立てた。
進むなか、馬を駆ってそちらに向かう近隣住人を何度か見かけた。
彼らの投げかけてくるもののなか、エミーリアの耳が拾えたのは「アンヴロシュさまの屋敷が燃えている」。不安の後押しをされても、まだエミーリアにはなにかの間違いではないか、そう思う部分があった。彼らもこれから屋敷に向かう。火事をその目で見たわけではないはずだ。
林道の間にあるほそい道に彼らは消え、馬車は迂回路ながら幅のある道をひた走った。
──めまいがする。
──エミーリアの家族が火に巻かれているかもしれない。
友達からもらった赤い花よりも、空を焦がす赤は鮮烈だった。なにもかもを呑みこもうとし、そうなったらすべてが消し炭にされてしまう。
馬車の窓から頭を出すようにし、エミーリアは燃える空を見つめていた。もっと屋敷のほうを確かめたい、と思うと、窓の大きさが大きくなる。
窓から肩まで出していたエミーリアが瞬くと、そこはすでに馬車ではなかった。
いままさに燃え盛る炎に包まれようとする部屋──アンヴロシュ家の屋敷に変わっていた。
「……アレナ! いるなら返事をして!」
エミーリアは大きな声で呼びかける──そうだ、自分は妹を探しに屋敷に飛びこんだのだ。
屋敷の東側、まだ火はまわっていなかったが──黒煙が廊下を流れてきていた。アレナの名を呼び、エミーリアは走った。ごうごうと火が燃える音と、どこかで建物が崩れる音。そればかりでアレナの声は聞こえてこない。
アレナが気に入っている部屋の扉を前にして、エミーリアの背に火が追いすがってきた。
「アレナ! 返事をして!」
壁が燃え、天井が燃え、床板が燃えていく。
火に取り囲まれたエミーリアは、扉を叩いた。どうやってもそれは開かず、アレナの声も聞こえない。
「アレナ!」
ドレスに火が移ったが、熱さを感じなかった。
エミーリアは悲鳴も上げられず、扉にすがりつくようにしながらその場に崩れ落ちた。
「……いや……っ」
こんなこと、どうして。
──こんな悪夢みたいな。
そう思ったところで、エミーリアは目を覚ましていた。
「……っ、あ……」
心臓が胸から飛び出そうなほど激しく打っている。
目の前に広がるものを、エミーリアは何度も瞬きしなければ理解できなかった。
「こ、ここ……」
そこにあるものは、見慣れた天井だった。蔓薔薇のレリーフがところどころに施され、清廉な陰影を落としている。
「──ああ」
エミーリアは息をついた。
客間だ。
延焼を免れた別館の、客間のひとつ。
長椅子で休むうちに、いつの間にか眠ってしまったようだ。身を起こしたエミーリアは、部屋の空気を入れ換えようと窓を開けた。
窓の向こう、よく晴れた空の下では、焼けた屋敷の解体作業が進められていた。
いまだに近づけば焼け焦げたにおいが鼻につくものの、すでに起き、終わったものとして風景から消えていこうとしている。
家財の被害は大きかったが、重要な書類や貴重なものは、火の手がまわる前に運び出すことができていた。
周囲の森や、客人をもてなすために建てられた別館への延焼はなく、火災での死者はない──そこは喜ぶべきところだった。
火の気のない場所で火災が起き、その原因は父の差配で調査が進められている。
エミーリアは鏡の前で身なりを整えた。
──末妹のアレナは無事だった。
エミーリアが燃え盛る屋敷に足を踏み入れたときには、アレナはすでに避難しており、安全な場所にいたのだ。
屋敷に飛びこんだものの、迫る煙と火の熱さで、エミーリアはあっという間に冷静さを欠いていった。狼狽し、ひたすらアレナの名を呼ぶなか、それまで火に呑まれていなかった壁が燃えていくところを眼前にすることとなった。
空気のあまりの熱さから袖を口元に当てたが、呼吸もままならなくなり──エミーリアがどうしていいかわからず硬直していると、ふいに背中から身体を引き寄せられた。
そこに姿を現していたのは、長兄のアルトゥルだった。
無事か、と耳元で叫ぶように問われ、エミーリアはアルトゥルにしがみついていた。
現実味がなかった。
火事など嘘で、妹の安否がわからないなど嘘で、火のなかで惑っていたら兄が助けにきてくれる──それさえも嘘のようだった。
ごうごうと燃えた火の上げる咆哮は耳を聾さんばかりだったが、アルトゥルに背を抱かれエミーリアは屋敷の外へと足を向けていた。
開かれた扉の周囲にも火は広がり、その先にはこっちへ、と叫ぶ使用人たちの姿があった。
安全な屋外に向かいながら、そのときもエミーリアには現実感が薄かった。
──すべて嘘だったらいい。
燃える屋敷を飛び出ると、急に空気を冷たく感じた。
ひざの力が抜けたエミーリアの身体を、待ちかねたように侍女のクロエが抱き留めてくれた。
難を逃れた、と屋敷を振り返ったとき、壁が崩れはじめていた。
そこには屋敷から飛び出そうとしていたアルトゥルがおり、背に垂れていた兄の黒髪に火が点くのを、エミーリアは目の当たりにしていた。
一瞬で燃え上がろうとする火を消そうと、使用人たちが集まり──彼ら諸共、崩れはじめた建材の下敷きになるのをエミーリアは悲鳴を上げながら凝視していた。
名を呼び駆け寄ろうとするエミーリアを、クロエ以外の腕も必死に止めてくれていた。
数歩離れた距離で兄が倒れ、意識を失い力なく垂れた腕を見た──。
エミーリアは鏡に映った自分の顔を見返す。薄い青の瞳には、色濃い披露がにじんでいる。
「……嘘だったら、いいのに」
※この続きは製品版でお楽しみください。