【試し読み】蘇った国王は最愛の妻にもう一度愛を伝えたい
あらすじ
「私のこと、愛していましたか?」──婚礼式から二年。そして、夫の喪に服して一年。国王だった最愛の夫・グラントの死をようやく受け容れ始めたベルには未だに、一つだけ知りたいことがあった。夫は自分を愛してくれていると思っていた。だが、それならばなぜ指一つ触れなかったのか。いにしえの魔術師の血を引くベルは魂を迎える儀式を行い、グラントと再会を果たす。「……愛している。過去なんかじゃない。死して今もなお、ベル。お前が愛しい」──グラントと二人、甘い生活をやり直すベル。しかし彼と過ごすうち、事故で亡くなったはずのグラントの死に不審な点があることを知り──夫の死に隠された真相。そして、ベルが下した決断は……
登場人物
クレイトン王国王妃。魔術師の血を引いており、亡夫・グラントを蘇らせる儀式を行う。
2年前に事故死した国王。優しく誠実な夫だが、生前はベルに指一本触れなかった。
試し読み
プロローグ 子守唄と涙
柔らかな日差しの中、赤ん坊のベル・オドネルは温かな腕に抱かれて眠気に誘われていた。
春の花が豊かに咲いている庭園は、甘い匂いが漂って心地よい。
オドネル家はクレイトン王国の伯爵だ。
ここは、オドネル家の邸宅の敷地内。伯爵夫妻の娘として生まれたベルは、赤みがかった茶色の髪に緑の眼が特徴的だった。
ベルを抱いているのは、同じ赤茶色の髪を結い上げた女だった。
「お眠り、お眠り。母の腕は優しかろう。母の胸は柔らかろう」
赤茶髪の女は、柔らかな印象を与える垂れ気味の眼を細め、穏やかな声で静かに歌う。
ゆりかごの如く、常に赤ん坊のベルをあやすために、ベンチにも座らない。
「お眠り。静かにお眠り」
ベルの瞼はもうすっかり重くて、女の顔は殆ど見えていなかった。
自分をあやす女は、同じ髪をしているもののベルの母親ではない。
乳母だ。まだ年若い。ベルの母親は、出産で身体を壊してしまった。もちろんそのことはベルの知るところではなく、彼女にとってはこうしてあやしてくれる人こそ、親そのものだった。
「天より祝福されるだろう、いとし人の子。安らかに静かに眠れ」
さあっと風が吹く。とても心地よい。
もうベルの意識は、殆どなかった。
「静かに、静かに暖かくおやすみ──私のぼうや」
眠りに落ちる直前に、いつも乳母はそうしめくくる。
男女の区別は、赤ん坊のベル自身にはない。だが穏やかな乳母の声がその時だけ震えるように揺らぐのが、耳を通してベルの深層意識に刻まれた。
「……ぼうや。愛しているわ」
そう言って、乳母が瞼にそっと唇を落とすのだった。
「……お起きや、お起きや……」
同じメロディに、違う言葉がのる。しかしベルの意識は、眠りの中に落ちていく。
***
ベルが七歳になると、長年身体を壊し療養していた母が亡くなった。
貴族ともなると、多くの参列者が訪れる。
父が一人一人に丁寧に挨拶をしているのを、ベルは遠くからじっと見つめていた。
娘として隣で一緒に挨拶をすべきなのだろうが、父は「できるだけ母のそばにいておやり」と、強要しなかった。
なのに、涙は、出ない。出さない。
それが、大人には可愛げがなく映ったようだ。こそっと、誰かが「伯爵家のご令嬢は氷のよう」と呟いたのが聞こえた。
その言葉の意味を、ベルは分かっていた。
「お嬢様はお強いですね。でも、今は泣いてもいいのですよ」
ベルの隣に立つ乳母──クローディアが、目尻の垂れ気味の眼を細めて、そう語りかけてきた。彼女は片時もベルの傍を離れなかった。
だから氷のようだという言葉は、聞こえていたのだろう。
クローディアは母とは遠い親戚だが、実家とは疎遠らしい。そんな彼女が、弔問客を咎めでもすれば、伯爵家の面子にも関わる。
幼いベルでも、理解していた。
「泣いたら、お母様が悲しむから」
だからそう答えた。だが、本心でもあった。
病床で、いつも儚げに微笑む母。
その細腕に抱かれた記憶は殆どない。
そんな母の笑顔が悲しくてベッドに顔を埋めると、そっと頭を撫でてくれた。クローディアのよりも乾いていて力が弱い。
しかしクローディアと同じように優しい手だった。
『ベルは可愛い。愛しい愛しい、私の娘。私のお姫様、私の宝物』
掠れ気味でも歌うように、母はいつも言っていた。
「大丈夫ですよ。お嬢様が笑っていても泣いていても、奥様はきっと見守っていてくださいますからね」
「……うん」
「伯爵様はもちろん、このクローディアもいます。お嬢様が大人におなりあそばしても、ずっとずっと一緒にいます。いつかお嬢様がお嫁に行く時も、世話役として連れて行ってくださると嬉しいです」
「……うん……」
「お嬢様は、伯爵様と奥様、そして私の宝物なのですよ」
それでも涙は出てこない。
泣いたら、きっと母の優しい笑みも手も思い出せなくなる。それが怖い。
「可愛げのなさは、やはり母親が問題だったのよ」
また、誰かの囁く声がした。
「オドネル伯爵も物好きですわよね。鄙びたオルフィール地方で見初めた女を妻になど」
「ただの田舎娘ならまだしも、ほら、ねぇあの怪しげな家の生まれで」
「だから社交界にも出てこなかったのよ」
「恥は知っているのが救いでしたわね」
ベルの心は冷えていく。
父には聞こえぬように、それでいて娘の自分には届くように言っているのだ、と。
(お母様がお外に出られなかったのは、私を産んだから。それで身体を壊してしまったから……だから、お母様のせいじゃないのに!)
クローディアと親戚である以外、母の実家のことはよく知らない。父も話してくれなかったし、病身の母には到底聞けなかった。
クローディアに聞いてみたことが一度だけあったが「奥様は伯爵夫人として素晴らしい方です。それで充分なのですよ、お嬢様」と、やんわりとはぐらかされてしまった。
聞いてはいけないことなのだと、自然と考えるようになった。だが、周りの人々は知っているようだ。
──好奇と蔑みの視線が突き刺さる。
でも負けない。逃げない。
何より、母に対してあまりに酷いではないか。
「なんて無礼な……!」
クローディアが憤る。
「私は大丈夫だから」
自分の代わりに乳母は怒ってくれている。それでいい。なのに、だんだん胸がきゅうっと締めつけられて苦しくなる。
母は死んでしまったのに。
母の前で、母を侮辱するような言葉を投げつけるなど酷すぎる。
クローディアの立場ではこれ以上は言い返せない。
だったら、娘の自分が言い返さなくてはいけない。毅然とした態度で。
しかし、ベルはふるりと唇を震わすことしかできなかった。声を出そうとすると、息が詰まってしまった。すると噂をしている彼女達は愉快と言わんばかりに、くすくすと笑った。
「おい。うるさいぞ」
静かだが、糸を一筋ピンと張ったような通る声がした。同時に場も静まりかえった。
(誰?)
ベルはそちらに視線を向けた。
自分よりも少し年上の少年が立っていた。艶やかな髪はとても黒く、血色の良い肌をしていた。太めの眉に、碧い眼。真っ直ぐに結ばれた口。
彼は、威風堂々とした空気をまとっていた。キッと、噂をしていた女達を睨むと「あっ」と声があがり、彼女達は頭を下げて素早く散っていった。
「グラント王子!」
彼の後ろから、若い男性が追いかけてきた。従者のようだ。この国では比較的珍しい、真っ黒な髪をしていて、腰まで長いのを一つに束ねている。肌の色は血の気を感じないほど色白だった。他国の出身なのだろう。
「いきなり走り出して驚きました……いったい何を」
「何でもない。死を悼む場にうるさい虫が飛んでいたから追い払っただけだ」
「王子……あまりそういうことを仰っては……」
「ふん」
グラントと呼ばれた王子を、ベルも知っていた。
このクレイトン王国の第一王子。御年十二歳だ。
もっとも母親は側妃であり、正妃の子である第二王子のロジャーが王位を継ぐだろうと言われていた。だが、文武両道で風貌も優れており、早くも彼を王太子にと推す空気になっているらしい。
(……庇って、くださった?)
そう思うと、ドクドクと心臓が高鳴った。
するとグラントが、視線を向けてきた。身体が一瞬震えるほど、心音が跳ねた。
「……オドネル伯爵の令嬢か」
「は、はい……あの、お初にお目にかかります……ベル・オドネルと申します」
スカートの裾を摘まみ、頭を深く下げた。王族に対する礼だ。
「……泣かないんだな」
「え……」
ベルは顔を上げた。
「俺は可愛げがないとは思わないけど、悲しいなら泣いた方がいい」
「あの……」
「でないと、やり場のない感情が残り続ける。それを君の母親が望むとは思わない」
心臓の音が、少しずつ落ち着いてくる。
心が冷えたのではない。
言葉が沁みていく。ゆっくりと、冷え固まった心のうちに浸透して、内側から温めるような、そんな声だった。先ほどの怒りを秘めた声とは別に、とても優しいものだった。
クローディアの言葉でも、ここまで入ってこなかったというのに。
初めて逢った王子の言葉を、どうしてこうもしっかりと受け止められるのだろう。
「今日は父の代理で挨拶に来た。オドネル伯爵は日頃王国に尽くしてくれ、我ら王家も感謝している。このたびはお悔やみ申し上げる」
グラントが、さっと軽く頭を下げた。王家の人間が、臣下貴族の、それも当主以外の人間に頭を下げることは滅多にない。僅かに頭が動いただけでも、最大級とも言える礼だった。
「っ……はい。勿体ないお言葉、感謝致します……」
ベルは再び頭を下げた。今度はより深くだ。これも、本来は国王に捧げる礼ではあるが、王子に頭を下げられてはこちらも最大のもので返すしかない。
ざわ、ざわ、と、周りのどよめきが聞こえ始めた。
「いつか、君がきちんと泣けることを祈っている」
呟くように言ったグラントが、踵を返したのが見えた。顔を上げると、父も王子の傍に来ていた。そして特別に用意した席にと案内していった。
「……グラント様……」
きちんと泣く。それはまだ難しい気がする。
しかし、泣いたら母が悲しむというのは思い込みだったのかもしれない。気を張る必要はない。──あの人達の前で弱味はあまり見せたくないけど、彼女達がいない場所で、もし自然に涙が出てくるなら、その時は……。
「? クローディア……?」
ふと、横を見ると、クローディアがギリギリと音が鳴るほど強く拳を握りしめていた。指と指の間から、血が滲んでいる。
「あっ、クローディア……っ! 血が出ているわ」
怪我をしたのかと、ベルは焦って彼女の顔を見上げた。
そして、絶句した。
一見、いつも通りにとても穏やかで優しい乳母が微笑んでいた。だがぞっとするほどに冷ややかに、真っ直ぐに一点を見つめていた。ベルのことは眼中にない様子だった。
「あ、あの、クローディア」
くいくいと、ベルはクローディアの袖を引っ張った。
「……っ、あ……お嬢様」
「どうしたの? 苦しいの?」
「いえ、何でもありませんわ。私のような身には王子との対面は恐れ多くて、緊張してしまっただけです。どうしましょう、とても失礼な態度を……。お詫びをしなければ」
緊張。本当にそうだろうか。
クローディアはささっと手を開き、両手を擦り合わせた。それは血が滲むほど爪をしっかり立てていたことを誤魔化すような仕草に見えた。
なぜ、そんなことをしたのか。
ベルは、クローディアを信じている。父も母も頼りにしていたし、何よりベルに惜しみない愛情を注いでくれている。
だが初めて、ベルは彼女に疑いを抱いた。
それはグラントによって温められた心に、小さな黒い点を作ったような引っかかりを感じるものだった。
「私も、お礼を言わなくては。でももうお帰りになったみたい。とてもお忙しいのね……そうだ、手紙を送るわ。ね、良い考えでしょう、クローディア」
「……はい。宜しいかと存じます。さすがお嬢様ですわ」
クローディアが、にっこりと笑った。母の死後、初めて見る穏やかな笑顔だった。それを見ると、疑念は一気に薄れていった。
「さあ、お母様を送り出す儀式が始まりますわ。行きましょう」
「ええ」
母の葬儀は滞りなく終わった。
その後、グラントは折にふれてオドネル家を訪れて、やがてベルも父を伴って王城に呼ばれるようになった。
様々な話題に通じているグラントと話をするのは楽しくて、自然と親しくなっていった。
クローディアの不可解な態度への疑問も、すっかり消えてしまっていた。
第一章 蘇りし王
グラントとの祝福された婚礼式から、早くも二年が経とうとしている。
二十歳の誕生日を迎えたベルは、亡き母の故郷であるオルフィール地方の片田舎に身を寄せていた。
今日もベルは黒い生地のシンプルなドレスをまとい、窓辺に置いた椅子に腰掛けてぼんやりと本に目を落としていた。
恋の物語だが、何度も視線が滑って、中身が入ってこない。
この一年。
ベルにとっては、幸せの絶頂から奈落の底へ突き落とされた暗いものだった。
グラントとは母の死後、手紙を交わす仲となり、ベルが十歳になる頃にはそれが世間に広く知られるようになった。
将来はグラントの妻になるだろうと目されるのに、時間はかからなかった。
だがそれは、ベルが十五の時に一度頓挫しかけた。
伯爵だった父が病死したのだ。
実質的な後ろ盾を失ったベルは、王子であるグラントに釣り合わないのではないか、と言われ始めた。
それでも、ベルとグラントの交流は続いた。ベルより五つ年上だったグラントはとっくに成人していたが、妻を迎えなかった。
表向きの理由は、王太子の座が空席だったからだ。
側妃の産んだ第一王子の彼か、正妃の息子である第二王子か決まるまでは、下手に新しい争いの芽を作らないように、との配慮──しかし実際は、両親を喪ったベルを妻に迎えるための根回しだったのでは、と噂されている。
そしてついに、王太子はグラントに決まった。
病で亡くなる直前、国王がそう遺言した。王太子決定とグラントの即位、さらにベルの王妃内定は、ほぼ同時だった。
父と母が亡くなった以上、肉親同然として誰よりも祝福して欲しかった乳母のクローディア──彼女もまた、今は鬼籍に入っていた。詳細は教えてもらえず、葬儀もひっそりと行われてベルは参列が叶わなかった。
ただ、病死ではなく自殺だったと、クローディアの実家であるストラウス家に出入りしている者が密かに教えてくれた。
※この続きは製品版でお楽しみください。