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【20話】デキる上司が狙うは恋愛戦力外のシンデレラ

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六章 恋のミュート機能
 
 健太から頼まれて取引先へのお使いを済ませた愛梨は、社屋から一歩外に出て空を見上げ、思わず独りごちた。
「うわぁ雲が黒い。雪が降りそう」
 日は進み、もう十二月に入っている。
 吹く風も冷たいどころではなく、凍るような空気を運んでくる。コートを着ていても肌に染み込むような寒さは、愛梨の体をぶるっと震わせた。
 葉が落ちた街路樹には電飾が取り付けられていて、夜間になれば黄金色の輝きで通りを飾るのだろう。
 ──もうすぐクリスマスだもんね。
 クリスマスふうにディスプレイされたウィンドウを見て、心を浮き立たせたのがついこの間のように感じる。
 最近みんなとのランチタイムには、イブは誰とどう過ごすかって話題になることが多くなった。
 プレゼントの悩みや過去のクリスマス体験などは、聞いていると羨ましくもありおもしろくもある。
 愛梨は相変わらずのおひとりさまで、悩みと言ったら「どこでケーキを買ったらいいか」くらいだ。
 ──高倉さんは、北上さんと過ごすのかな……それともほかの誰かと?
 取引先はM駅の傍にあるため、健太と待ち合わせをした噴水が目に入る。
『これから先もずっと食事に誘うから』
 彼はそう言っていたけれど、メキシコ料理のあと二度食事をしたのを最後に、それから誘われることがなくなった。
 プロジェクトが始まったため残業が増えた彼だ。プライベートな時間が取りにくくなったせいもあるだろう。
 それに、資料探しをする必要性が少なくなったこともある。
 でもそれよりも、ほかに理由があるように思っていた。
 ──たとえば、セクハラのこととか。
 やはりあのような話は男性にとって苦いものだろう。
 健太に下心がないとはいえ、プライベートと言える時間に一緒に過ごすのは、躊躇してしまうに違いない。
 話さなければよかったのだろうか。
 でも、あのときは彼に事情を知ってほしかったのだ。
 食事を重ねるごとに少しずつ親しくなっていたから、同僚として、さらに彼にとっての友人として、そうしたかった。
 そして愛梨にとっては、健太は恋心を抱く男性だからこそ、伊達メガネをする理由を理解してほしいと思った。
 後悔してしまう時もあるけれど、伝えてよかったのだ。そう思わないと、この先も彼と仕事をやっていけない。
 自分の気持ちに折り合いをつけつつ社に戻ると、デスクに付箋のメモが貼られていた。
『戻ったら、実験室に来てください』
 急いで書かれたようでかなり乱れているけれど、隠し切れない誠実さが滲み出ている文字だ。
 目的が書かれてなくて、メッセージ主の名前もないなんて……まるで秘密の連絡みたいだ。
 けれど愛梨にはメッセージの主が誰なのか、文字の癖で分かってしまう。
 それほど彼とは頻繁に手書きメモのやり取りをしているのだ。仕事の指示が主だけれど、秘密の連絡も多かった。
 自分だけが特別なような。
 そう思うと先ほどから沈んでいた気持ちが急激に浮上して、体までほっこり温かくなっていく。
 人を好きになると、こんな些細なことでも喜びに変わってしまうから不思議である。
「商品開発部に行ってきます」
 加奈子は営業に同行しているため不在。そのため在席している弥生に告げると、彼女はパソコンモニターをにらみながら上の空の様子で返事をしてくれた。
 年末の繁忙期に入っているため部内の誰もが忙しく、デスクにいる人もまばらだ。
 実験室とは、商品開発部にある調理施設を備えた部屋のことで、普段は新しい飲料の開発のために使用されている。
 健太が率いるプロジェクトは順調な進み具合を見せており、これまでに数種のレシピを作り上げている。
 そのため健太は味見や見栄え等の確認を要請されて、社内にいるときは実験室に訪れていることが多い。
「失礼します」
 ドアをノックして入ると、エプロンを着けた開発メンバーの中心に健太がいた。コンロの前にいるから、料理の味見をしているのかもしれない。
 彼はネクタイを外して腕まくりをし、緑色のエプロンをつけている。
 実験室には何度か訪れたことがあるけれども、彼のエプロン姿を見るのは初めてだ。
 ──高倉さんのエプロン姿って……萌える!
 きゃーって出てしまいそうな歓声を心の中に押しとどめて、緩まる頬と自然にカーブを描く唇を両手で隠した。

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