「まぁ……今時、代理人を立てての結婚式なんて」
「戦時中はよくあることだったが」
招待客たちはひそひそ声ながら、驚きを隠さず囁き合った。
――代理人を使っての結婚自体は、別におかしいことではない。
というのもこの国では、四十年ほど前まで近隣国と戦争をしていて、遠征中の兵士が代理人を立て、故郷で式を挙げ花嫁を娶るということがよくあったのだ。
法律が変わっていないので、今でもその風習は生きている。ただ平和になって久しいだけに、代理人を立てて結婚式を行うことは極端に少なくなったのだ。
おかげで招待客たちは好き勝手に憶測を始めてしまう。
「侯爵はもうお年だから、体調を崩されたのかもしれないな」
「評判の『氷姫』をもらうことに有頂天になって、心の臓に負担がかかったのかも」
「そんな状態でも若い花嫁を買うんだからな……目がくらむほどの大金を出して」
外野でさえ花嫁を『買う』という表現を使っていることに、フィオーナはなんとも言えない気持ちになる。
だが招待客の囁きが聞こえているはずの青年はというと、相変わらず困ったような微笑みを浮かべ、たたずんでいるだけだ。
結局、代理人である青年と並び立ち、司祭様から祝福の言葉をいただいた。
誓いのキスは省略となり、結婚誓書に署名をする。
緊張しっぱなしだったフィオーナは、自分の名前をサインするだけで精一杯で、先に署名されていた夫の名前を確認することもできなかった。
婚姻が成ったことが告げられて、立ち上がった招待客たちが儀礼的な拍手を送る。
本来なら、無事に結婚した男女はこのまま教会の外に出て、集まった人々に挨拶するものだ。しかし今回は野次馬の数があまりに多く、下手に出て行っては事故になりかねないということで、特別に裏口から出て行くことを許された。
司祭の案内で裏口の前に到着すると、代理人の青年は一緒にやってきたサンドラににっこりと笑顔を向ける。
「では、花嫁はわたしが責任を持って、ブランドン侯爵の屋敷へお送りいたします。リディアム伯爵家には、代理人での結婚式となりましたお詫びとして、侯爵様から謝罪の品を贈るように言いつけられております。近日中に届けさせますので」
「まぁまぁ……! なんて細やかなお心遣いでしょう。そのように配慮してくださる相手に嫁げて、フィオーナは世界一の果報者ですわ!」
フィオーナの求婚劇で、すでに相当の額を稼いだであろうサンドラだが、資産がいっそう増えるとなれば興奮が収まらないらしい。頬紅も霞むほど肌を紅潮させて、今にも小躍りしそうになっていた。
対するフィオーナは、いつも通りの無表情だ。
伯爵家に贈り物がされたところで、すでに他家の人間となった彼女には関係ない。
自分に一銭も入らないどころか、これから六十歳の老人のもとに連れて行かれると思えば、いっそ売られる家畜の気分である。
上機嫌で伯爵家の馬車に乗ったサンドラを見送り、他の招待客や野次馬もあらかたはけたところで、代理人の青年はようやく「行きましょう」と裏口の扉を開けた。
すぐそこにはブランドン侯爵家のものと思しき、立派な馬車が停まっていた。青年が自ら扉を開け、フィオーナが乗るのを介助してくれる。彼はかさばるドレスのスカートも丁寧にまとめて、整えてくれた。
「疲れていませんか? 飲み物の用意もありますが」
馬車がゆっくり動き出すと、向かいに腰かけた青年が親しげに声をかけてくる。
いよいよ結婚相手のところに連れて行かれると思うと、緊張と不安でいっぱいになってしまって、とてもなにかを口にする気分ではなくなっていた。
だがせっかくの好意を断って、相手が気分を害してしまったら……と思うと恐ろしく、フィオーナはただうつむくしかない。
そんな彼女に、青年は気を悪くすることもなく微笑んだ。
「緊張している様子ですね……。無理もない。屋敷までは少し走るから、楽にしていて大丈夫ですよ」
優しい言葉をかけてもらえて、とても嬉しいはずなのに、この後に待ち受けるものがあまりに怖くて、ろくにお礼も言えなかった。
当然くつろげるはずもなく、馬車の轍が回るごとに気分が悪くなっていく。
永遠に続くかと思った苦しい道のりだが、それにもいずれ終わりがくる。やがて馬車はある屋敷の入り口と思しき広い門に入っていった。
美しいバラが咲き誇る庭園を抜けて、ようやく白亜の石造りの屋敷が見えてくる。
建物といい、門から屋敷までの距離といい、また王宮がすぐそばに見えるという立地といい……ここが王都の一等地の中でも、さらに格の高い場所に位置するということがよくわかる。
古い名家だとサンドラが言っていたのは本当だったのだと思うと、さらなる緊張が重石となって胃に落ちてきた。
やがて馬車は噴水を備えたアプローチに入り、屋敷の前でピタリと停車する。
同じタイミングで大きな玄関扉が左右に開き、使用人の手によって緋の絨毯が延ばされてきた。
代理人は絨毯が馬車の前までくるのを待ってから、扉を開ける。先に降りた彼は当然のようにフィオーナに手を貸し、彼女が下車するのを手助けした。
ハイヒール越しでも絨毯がふかふかしているのを感じながら、青年に手を取られ玄関をくぐったフィオーナは、左右にずらりと並ぶ使用人を見て息を呑む。
軽く三十人はいるだろうか? 彼らはフィオーナが立ち止まると、一斉に頭を下げてきた。
「ようこそお越しくださいました、奥様」
奥様という呼び名に、フィオーナはどきっと心臓を跳ね上げる。
てっきり結婚相手の愛玩品かなにかのように扱われると思っていたから、この家の女主人として迎え入れられたのだと知って驚いたのだ。
ただ、肝心の結婚相手が見当たらない。
不安に思い、つい周囲を見回すフィオーナの隣で、一歩前に出た代理人がおもむろに上着を脱ぎ始めた。
驚くフィオーナの前で、何人かの使用人が彼のもとにすかさず集まり、新たな上着を着せかけ、ボサボサだった髪を櫛で整える。
そうして眼鏡を取った彼は、先ほどまでの野暮ったい印象が嘘のように、洗練された若者へと変身した。
「いきなり目の前で身支度をしてすまないね。だけど歓迎の言葉は、きちんと正装した姿で言いたかったから」
タイをきちっと締め直し、すっかり貴公子然とした青年は、胸元に手を当てて軽く頭を下げた。