【試し読み】腹黒策士社長は没落令嬢に跪きたい

作家:長曽根モヒート
イラスト:キラト瑠香
レーベル:夢中文庫クリスタル
発売日:2022/4/1
販売価格:800円
あらすじ

「これで、あなたは私のものね」──裕福な家庭に生まれた礼香がお嬢様と呼ばれ育てられたのは11歳までのこと。父親が起訴されたことをきっかけに今では一般的な庶民の生活を送っていた。しかし突然会社をクビになり、長年住み続けたアパートも立ち退きを言い渡され、立て続けに何もかもを失ってしまう。友人の紹介でとある会社の面接を受けに行くと、そこに現れたのは名前を変えたかつての使用人・棗(なつめ)だった。「お久しぶりですね。お嬢様」──礼香は棗の策に嵌まり、住み込みのハウスキーパーとして働くことになるのだが……「かつてあなたが俺にしたように、プライドも、尊厳も何もかもを奪い、あなたを俺のものにするためですよ」

登場人物
椎名礼香(しいなあやか)
元・社長令嬢。会社の倒産により生活が一変し、現在は庶民的な慎ましい生活を送る。
牟呂棗(むろなつめ)
礼香に仕えていた元・使用人で、現在はIT会社の社長。礼香をハウスキーパーとして雇う。
試し読み

1.

 いわゆる普通の人生というものは、実は幻想にすぎないのかもしれない。
 先日面接を受けた会社から届いた不採用の通知を眺めながら、椎名しいな礼香あやかはふとそんなことを思った。
 平日の昼過ぎ。オフィス街にある客入りまばらなコーヒーショップで、通行人からも店員からも目につかない最奥の席を陣取りながらノートパソコンを開いてダラダラしている。オフィス街に用があるわけではないが、この店はよくあるチェーン店に比べて良心的な値段のコーヒーと無料Wi‐Fiがあるのだ。
 どれくらい経っただろうか。傍らに置いてあるコーヒーはとうに底をつき、氷もほとんど溶けて今は薄ら色のついたただの水と化している。たった一杯のコーヒーで長時間居座るのは申し訳ないと思いつつも、現在失業中の礼香にはさほど余裕がない。こちらの窮状を知っているわけでもないだろうに連日見て見ぬふりをしてくれる若い店員に、そのうち職が決まったら足繁く通い持ち帰りも頼むから今だけは見逃してくれと心の中で拝んだ。
 そのとき、カランと軽快なチャイムの音を響かせて女が駆け込んできた。最奥に座る礼香を認めると大きく手を上げる。
「お待たせー、ごめんね待った?」
「平気、平気」
 急いで来たのか、息を切らせた様子の友人に礼香は首を振った。
 パーカーにジーンズで適当に髪をまとめ、いかにも暇を持て余した様子の礼香とは違い、梅雨明け早々の日差しに薄ら汗を浮かべ向かいに腰を下ろした友人の真希まきはきっちりしたパンツスーツ姿だ。
 少し前までは自分も似たような姿で普通の社会人らしく、普通の会社で普通に仕事に励んでいたというのに、一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 数ヶ月ぶりに再会する友人の姿をどこか眩しく感じながら、彼女が注文しに席を立っている間に礼香はそっとほとんど空のグラスを端に避けた。
「それで、次の職は見つかった?」
「まだ。この前受けたところは好感触だったし、面接でもほぼ決まりだと思いますって言われたから期待してたんだけど、ちょうど不採用の連絡が来たところよ」
「今はどこも難しいよね。うちも何でも削減削減で大変よ」
 真希はそんな礼香の現状を心配したのか、時間があるなら少し会えないかと声をかけてきたのだ。
「クビ切られたって聞いたときは何かの冗談かと思ったけど……すごく急だったよね。そんなに傾いた会社だったの?」
「ううん。それが、私もよくわからなくて」
 礼香は先月急にクビになった。勤務して数年、無断欠勤はもちろん、会社に損害を与えたこともなければ上司に盾突くこともなく地道に勤めてきたにもかかわらず、ある日突然解雇を言い渡されたのだ。いくら聞いても理由は教えてもらえず、ただ上司に「申し訳ない。うちではもう雇えない」と向こう一ヶ月分の給料を手渡されて追い出された。
 経営が危うい空気は微塵もなかった会社で特別思い当たる節もなく、なぜこんなことになったのか礼香はいまだに理解できない。話を聞いた法律に詳しい親しい友人などは訴えろと勧めてくれたが、礼香はそれを断った。
 昔からそうなのだ。礼香はどんなに理不尽な目に遭っても、自分に非がないという確信が持てず、すべて受け止めてしまう。今回のクビも、思い当たる節などまったくないが、気づかないうちに上司や会社に損害を与えていたか、不快にさせていたのかもしれないという思いが拭えず、怒りよりも先に後ろめたさや困惑が勝っていた。
 自分の行動に自信がないのだ。友人や同僚と雑談をしているときでさえ、ふと他者から見たときに何かおかしなことをしていないか、変なことを口走っていないかが気になってしまう。普段は気をつけているつもりでも、仕事に集中しているときなどは知らず嫌な自分が出てしまっていたかもしれない。そう思うと突然クビにされても、上司や会社を責める気にはなれなかった。
 気が小さいのではない。自分の中にある嫌な一面を自覚しているからだ。嫌いで仕方ない性質。醜く、他人に見せたくない姿。いつもは気をつけて生活しているけれど、ふとしたときそれが表に出ることを礼香は何よりも恐れていた。もしそれを他人に見せて不快にさせていたなら、申し訳なく思う。
「そういえばこの前はそろそろアパートの更新って言ってなかった? そっちは大丈夫なの?」
「ううん、そっちもなのよね。実は昨日、契約切れたら立ち退きしてほしいって言われちゃって」
「えっ?」
「建物自体が古くなってるから、これを機に大がかりなリフォームをして家賃上げたいみたい」
 不幸とは立て続いて起きるものらしい。今のアパートは学生時代一人暮らしを始めたときからずっと住み続けている第二の我が家だ。確かに建て替えも納得の古びた建物だが、人のよさそうな老夫婦が大家をしており、これといったご近所トラブルもなく会社や遊ぶ場所へのアクセスにもちょうどいい立地で満足していたので、こちらも同じく青天の霹靂だった。
 まさかこうも続いて何もかもを失うことになるとは思わなかった。友人の手前笑ってみるものの、礼香は今間違いなく崖っぷちだ。貯金もそれほどあるわけではないので今日通知の届いた会社にすべてを託していたのだが、微かな希望は綺麗に砕け散ってしまった。
「え……まじ、そんな状態? ヤバイじゃん。私だったら一時的に実家に帰るかもしれないけど……親は頼りたくないんだっけ?」
 礼香はぎくりとする。
「ああ……うん。ちょっとね」
 そっと視線を外すと、真希はそれ以上深追いせずに軽く頷いた。
「そっか。まあ、こんなとき彼氏がいたら結婚とか同棲のきっかけになったりするもんだけど」
「残念。そんな人いません」
「結構長いこといないよね。最後にいたのいつだっけ?」
「あー……四、五年?」
「もうそんなになる? えーっと最後にいたのは大学の……?」
「うーん、二十歳のときが最後?」
「今二十五でしょ? 五年かあ……あんたまさか、変に高望みでもしてんじゃないの?」
「そんなんじゃないって。ただ最近はそういう機会がなかったの」
 自然といつも通りの空気に戻ったことに礼香は内心ほっとしていた。
 大学からの付き合いである真希は、礼香があまり自分の家族のことを話したがらないことを知っている。直接理由を聞かれたことはないが、なんとなく複雑な事情があると察しているのだろう。深く踏み込んでこない友人に内心感謝しつつ、礼香は思い出しかけた両親のことをそっと頭の隅に追いやった。
「ううん、そっか。でもそれなら早く次の仕事決めたいよね」
 ふと真希がどこか自信ありげな笑みを浮かべていることに気づく。
「何、どうしたの?」
「実は新しく取引始めたところで事務員募集しててさ。あんたにどうかなと思って」
「え、本当に?」
「まだ求人サイトに載せる前だっていうから人事部の人にあんたのこと紹介しておいた。ずっと事務職やってたから余裕でしょ?」
「事務……どんな会社?」
 IT系には詳しくないが真希曰く社長がかなりのやり手で、元々はシステム開発をメインに行っていた会社が手広く事業を広げてここ数年で急成長し、業界内でも特に注目されているところらしい。
「へえー、今時っぽいわねえ。社長若そう」
「若いよ。まだ三十ちょっととかじゃないかな。それにすごいイケメン。私が入りたいくらい」
「社長の顔を志望理由にしないでよ」
「大事なことよ?」
 大まじめにそんなことを言う旧友を胡乱な視線で眺めながら、しかし礼香は心のどこかで何か違和感を覚えていた。
 上手くいきすぎているような、できすぎなような。ドミノ倒しのように崩れ始めた人生が突然急上昇することに本能が警戒している。たくさんのことが一気に起こりすぎて、気持ちがついていっていないだけなのだろうか。
 しかし実際のところ、礼香にはあまり選り好みしている余裕がなかった。立ち退き期限も迫っているし貯金もあまりないしいざというとき頼る親類もいない。内心は真っ青で、焦りばかりが募る毎日である。
(まあ、これ以上は悪くなりようがないしね)
 すでに底辺まで落ちているのだ。失うものなどほとんどない。真希から会社の番号を教えてもらうと、間もなく面接の日程が決まった。

 数日後。生ぬるい湿気が漂う小雨が降る中、電車を乗り継いで面接に向かうとオフィスは都内の一等地に建てられた超高層ビルの中にあった。
 広いフロアに圧倒されながら受付で名乗ると、驚くべきことに社長室に通された。冷えた緑茶を持ってきた受付の女性に少し待つように言われ、ひとり手持ち無沙汰に応接用ソファに腰を下ろす。
(こんな大きい会社なのに、面接するのが社長って……)
 絶対にないとは言い切れないし、自分が直接会って決めたいという経営者ももちろんいるだろうが、この規模の会社でそれは少し非効率に思える。それにどこの誰かもわからない面接希望者を社長室に一人置いておくなんて不用心ではないか。
 部屋を見渡せば革張りの上等なソファに、シンプルだが重厚感のあるローテーブル。社長用デスクはきちんと片付いていて、壁や床は新築のように綺麗だ。用意されたティーカップは繊細な持ち手とさりげない装飾が施されていて、その特徴的な飲み口の形から洋食器の愛好家の間で人気の高級ブランドの品であるとわかる。
 こんな一等地にオフィスを構えるくらいなのだから金持ちには違いないが、端々から品の良さを感じられた。
 面接が決まってからすぐに会社を調べたけれど、社長の顔はわからなかったが一代で起業し短期間で成り上がったようだ。その経歴からてっきり成金のイメージでいたが、この室内を見る限り元々ハイソな環境にいたのかもしれない。名字に聞き覚えはなかったが親族に大企業の役員などがいるのか、もしくはただ単純にセンスのいいデザイナーに内装を任せたのか。
(おっと、いけない)
 知らず会ったこともない男を値踏みしていることに気づいて、礼香はそっと窓の向こうに視線を逸らした。この会社の社長がどんなバックボーンを持っていようとも、自分には関係がないことだ。
 気を紛らわせようと置いてあった緑茶を飲む。
(あ、この味……)
 よく冷えた仄かな甘みと柔らかな渋い味。途端、遠い日の記憶が蘇ってくる。
 透き通った青空。細い首筋に玉の汗を浮かばせ、こちらを見つめる色素の薄い茶色の瞳。白い肌の左目の下についた小さな薄いホクロの少年────。
 コンコン、とドアがノックされる音にハッと我に返る。
 ほんの一瞬のことだったが、意識が在りし日に飛んでいた。気づけば背中にじっとり脂汗が浮かんでいる。室内はクーラーが効いて寒いくらいだというのに、まるでマラソンでもしたかのように体温は上がり、心臓は早鐘を打っていた。
 かつての自分が、まだ確かに存在し続けている。そんな想像に、ぶるりと全身を総毛立たせた。
(大丈夫。これまでだってそれなりにうまくやってきたんだから)
 これまでと同じく、普通の人のように振る舞えば大丈夫だ。
 騒ぐ胸の内に言い聞かせながら上擦った声で返事をして立ち上がると、扉が開いた。
「お待たせしました。代表の東藤とうどうです」
「初めまして、椎名です。本日はお忙しいところ────」
 挨拶をするも、現れた人物を見て言葉を失う。
(え……?)
 まだ白昼夢の中にいるかのような感覚。
 真希が言っていた通り確かにイケメンだ。だが整いすぎていて、作りものじみている。
 手脚が長い長身で、顔が小さい。モデル体型で体にあったダークカラーのスーツがよく似合う。人のよさそうな笑みを浮かべ紳士然とした姿は一見優男といった感じだが、全体的に隙がない。豊かな黒髪は一本の乱れもなく整えられ、猛禽類を思わせる目はどこか冷めている。神経質そうで、笑っていても笑っていない。よくできたマネキンのように、そこに魂を感じないのだ。
 薄い茶色の瞳の下には小さなホクロがついていて、かろうじて彼が作りものではなく確かに人間なのだと知らしめていた。
 だが礼香が言葉を失ったのはその整いすぎた外見からではない。白い肌に、左目の下に小さなホクロを持った少年。記憶の中の彼が、目の前の人物と重なったからだ。
 固まってしまう礼香に、男は更に笑みを深める。
「どうかしましたか?」
「いえ……すみません。今日はお忙しいところ面接していただきましてありがとうございます。よろしくお願い致します」
 ハッと我に返り、慌てて頭を下げて定型文を口にする。東藤は「ご丁寧にどうも。どうぞかけてください」と促し、自分も向かいのソファに腰を下ろした。
(そんなわけない)
 ただ同じ場所にホクロがあるというだけだ。そう珍しくもない。かつての知り合いにこんなところで会うわけがない。そう思いながらも、見れば見るほど目の前の男はかつての知り合いによく似ている気がした。
 胸の内がまるで見えない仮面のような笑顔と、こちらの心の奥底まで見透かしてしまいそうな鋭い眼光。仕立てのいいスーツに身を包んだ東藤と名乗る男はどう考えても初対面なのに、妙に礼香の胸をさざ波立たせた。
 彼は何をそんなにじっくり読むことがあるのか、やけに長々と履歴書を見つめる。礼香はつい手持ち無沙汰になり、気を紛らわせようと残っていた緑茶を手に取った。
(やっぱり、美味しい)
 もしかすると懐かしいこの味に記憶を刺激されたせいかもしれない。他人の空似に決まっているのに、つい大事な面接で冷静さを欠いてしまった。
 心を落ち着けようと無心で飲んでいると、ふいに東藤がくすりと笑った。
「懐かしいでしょう。昔はよく俺が淹れたものをそんな風に飲んでいましたよね」
(……まさか)
 その言葉に、頭の中が真っ白になった。
 そんなわけない。こんなところで再会するわけがない。
 途端、体が石になったように固まる。心臓がドッドッと激しく打ち始める。男はそんな礼香の反応を楽しむようにゆるりと顔を上げた。
 そこに浮かぶのは先ほどまでの作りものめいた笑顔ではなく、心底楽しそうな笑顔だ。わかっていてやった。目尻が上がり唇は綺麗な弧を描く。狐を連想する特徴的な笑顔に、礼香は今度こそ確信する。
「……なつめ
 その名を、久しぶりに口にした。
「ええ、お久しぶりですね。お嬢様」
 お嬢様────そんな風に呼ばれたのは何年ぶりだろう。
 一瞬、郷愁に我を失い、耳障りな音がして現実に引き戻される。
 見れば自分の手からティーカップが滑り落ち、元の繊細な形が見る影もなく割れていた。
「あ……」
 思わず拾おうとするが、気づけば間近にいた棗が礼香の手を掴んでいた。
 間近で、薄茶の瞳がこちらを認める。
 礼香はそこにある感情を読み解こうとして、けれど結局、込み上げる罪悪感から視線を逸らし、手を引いた。
 棗は仄かに目を細めると、傍らにあったソーサーに拾えるだけの大きな欠片を乗せテーブルの端に置く。その仕草は社長というよりはよくよく躾けられた執事か使用人のようだ。礼香はなんともいえない懐かしさを覚える。
 本当に、目の前にいるのがあの男なのだ。遅れてやってきた実感に礼香は再び落ち着かなくなった。しかし彼に動揺を見せたくなくて、咄嗟に冷静さを装う。
「驚いた。名前を変えたのね。前は……」
牟呂むろ棗。今は母方の姓を名乗っているんです」
「そう」
 納得したふりをしながらも、礼香の疑問は解消しない。事前にこの会社を調べたとき、代表の名前は東藤正行まさゆきとあったはずだ。棗なんて名前を見ていたら忘れないし、気になって結局面接をキャンセルしていたかもしれない。それくらい礼香にとって棗という男は特別だ。人生で一番避けたい相手だった。
「名前も変えたので、驚いたでしょう」
「え、ええ」
 名前まで変えたのか。なぜ。どうして。
 聞きたいことが次々出てくるのに、何一つ口にできない。訊ねて後悔しない自信がない。
 気まずくて視線を漂わせた先、集められたカップの破片が目に入った。白い陶器に、先ほどまではなかった鮮やかな赤い汚れがついていることに気づく。
(破片で切ったのね)
 人のことを止めておいて自分が怪我をしては世話がない。だが棗は特に気にした様子もなく、ゆったりとソファに腰を下ろしている。平然とした様子から大した怪我ではないのだろうと思ったが、礼香はバッグから絆創膏を一枚取り出すとテーブルに置いて差し出した。
 棗はそれをほんの僅か片眉を上げて、未知の道具でも見るように絆創膏と礼香を交互に見つめる。まるで、礼香がそんなことをするなんて意外だとでも言いたげだ。
「私のせいで切ったんでしょ」
 彼の反応がかつての自分の有り様を示しているようで、礼香はつい言い訳がましいことをぼそぼそと呟いてソファに座り直した。
 本当は素直に自分のせいで怪我をさせたことを謝ればいいとわかっているのに、棗を前にするとどうしても昔の自分が出てしまう。
 棗は数秒テーブルに置かれた絆創膏を見つめ、口元に仄かな笑みを浮かべた。
「……そういえば、お嬢様も今は椎名の姓を名乗っているんですね」
 口ではお嬢様と呼びながらも、その物言いや空気はどこか威圧的だ。
「え、ええ……」
「まあ、あんなことがあれば無理もない」
 棗の含んだような物言いに礼香は逃げ出したい衝動が込み上げる。棗を見ても、彼の真意は読み取れない。その胸にあるのが怒りなのか恨みなのか懐かしさなのか判断できない。わかっているのはただ、彼の前で取り乱してはいけないということ。
 背中に脂汗が浮かぶのを感じながら、礼香はなけなしの平常心をかき集める。
「い、今はもう、お嬢様はやめてよ。昔とは全然違うんだから」
「ふふ、そうですね。それでは────礼香さん」
 棗から、そんな風に呼ばれたことなど一度もなかった。妙な感慨を覚えていると、薄茶の瞳が礼香を捉える。
「残念ながら募集していた事務員の枠は埋まってしまったんです」
「えっ」
「ええ、わざわざ来ていただいたのに申し訳ない。一人前に来た方に決まってしまいまして」
「ああ……そう、なの」
 それなら仕方ない。そう納得した素振りを見せながら、礼香は頭の隅でわかっていた。
 これは恐らく、彼なりの仕返しなのだろう。偶然にも昔の知り合いである礼香が面接に申し込んだことを知って、最初から採用する気も面接する気もなくここに来させたのではないか。礼香に今の自分の地位を見せつけ、ただ無駄足を踏ませて屈辱を与えるために。
 気持ちはわかる。立場が逆だったら自分も同じことをしただろう。いや、もしかするともっとひどい仕返しを考えるかもしれない。なぜなら礼香はかつて、彼にそれだけのことをしてしまったからだ。そして、こんな偶然が滅多に起こらないことも理解している。こんな風に仕返しできる絶好のチャンスがそうないことも。

※この続きは製品版でお楽しみください。

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