【19話】魔性の色男は鋼鉄処女を蕩かせる

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「多分精神的なものだと思いますから」
 大事になることを恐れて、医務室に行こうとするカサンドラさんをなんとか説得して第五資料保管室のいつもの椅子に座る。やはりここは落ち着く。古い紙とインクの匂いと、少しの埃っぽさ。しかし最近はここに爽やかなハーブのような香りと甘ったるいバニラのような香りが残っていることがある。今はそのバニラが濃い。
「アロイス様のことかしら?」
「……そうかも知れません。すこし、驚きました……あ、カサンドラさんもショックですよね……クリューガー文官が軍部へ戻ってしまうなんて」
 彼女は氏のお嫁さんになるつもりだった筈だ。今回の話はわたしよりも大打撃だろう。……だが、当の本人はサバサバとしている。
「やだ、いつの話をしているのよ。わたくしはとっくにアロイス様に振られています!」
 こんな不名誉なこと言わせないでよ、とカサンドラさんはイヤそうに綺麗な唇を歪めた。
 いや、初耳だし。
 ぽかんとしていると鈍いわね、とおでこを弾かれた。
「ザシャからアリシャの手ほどきを受けるようになってすぐ、アロイス様と会う機会が増えたから、そのときにね。でも素気なく断られたわ。彼、見る目無いのね」
 胸の下で腕を組んだカサンドラさんは鼻息も荒く言い捨てた。
 目から鱗が落ちた。
 どうやらわたしはカサンドラさんをだいぶ誤解していたようだ。選ばれない自分が駄目なのではなくて選ばない相手が悪いのだ、と言い切る彼女のなんと強いことか。わたしは本当のカサンドラさんを知らなかった、いま、初めてその美しい片鱗を見た気がした。彼女は生まれ持ったものが美しいのではない。自ら輝いているから美しいのだ。
「カサンドラさんはとても男前です。確かにクリューガー文官は見る目がないです」
 沢山の言葉を知っているはずなのに人との関わりが少ないわたしは、この彼女の美しさをなんといって称えたらいいのかわからず、一番初めに頭に浮かんだ言葉をそのまま伝えた。
 当然のようにカサンドラさんは微妙な顔をしたが、わたしの頭を撫でてくれた。
「だからわたくしのことはいいのよ。今はザシャ、あなたでしょ」
 繊細な爪紅を施しているであろうほっそりした手で頭を引き寄せられて、わたしの頭はカサンドラさんの豊満な胸に押し付けられた。
「大丈夫よ。恋は女を強くも美しくもするわ。今は辛いかも知れないけれど泣いてすっきりしたら、きっともっと美しく強いザシャになれるわ。美しいわたくしが言うのだから間違いなくてよ」
 ……その理論で言うとザシャさんはどれだけ恋を重ねてきたのだ、と思ったがここは言わない方がいいだろうと判断して黙って柔らかい胸の感触に癒やされていた。
 そうか、わたしはクリューガー氏に恋していたのか。
 だからあんなに動揺したのか。そうか、恋か……初めての、恋、だったんだな。驚くほどあっけなく終わってしまったが。
 そう考えた瞬間、あっという間に眼球を覆う水の膜が厚くなり、すぐに纏いきれなくなってまぶたの際からもろもろとこぼれ落ちた。涙ってこんなふうに流れるものだったかと思うほど次から次へとあふれては頬を伝ってカサンドラさんの服にしみこんでいく。
 わたしの涙に気付いたカサンドラさんはわたしの顔を更に胸に押し付け頭や背中を優しく撫でてくれた。わたしはそれに甘えてしばらくカサンドラさんの甘い香りに包まれて泣いた。
 自覚する前に失ってしまった恋だけれど、気がついたらわたしの手の震えはすっかり止まっていた。
 胸の癒やし、もの凄く効く……!
 
 
 ちゃんと明日も登城しなさいよね! と胸のあたりを盛大に濡らしたカサンドラさんに念を押されて別れ、わたしは自分の部屋へ帰り着いた。まだどこかにぽっかりと穴が開いているような気がするが、以前のように黒いどろどろしたものが溢れるような感じはしない。そういえば前のどろどろはカサンドラさんが原因だったと思い出し、くすりと笑いが漏れた。
 カサンドラさんの胸のお陰で手の震えも止まったし、明日は遅れた仕事もバリバリこなせそうだ。そもそも今日は仕事らしい仕事をほとんどしていない。明日に向けて英気を養わなければ。朝食の残りのスープを火に掛け温めていると部屋のドアが叩かれた。
 近所付き合いもほぼ無く今まであまりドアを叩かれる事など無かったわたしは文字通り飛び上がった。
「……ひえっ!?」
 小さな悲鳴だったはずだが在宅を知られてしまったのかノックの音は激しくなる。最初は出て行こうと思っていたが、あまりに執拗なノックに恐ろしさと少しの不気味さを感じて、わたしは居留守を使うことにした。
 どれくらいノックされただろう、不意に音が途切れ誰とも知らぬ人も諦めたと思ったそのとき。地の底から聞こえるような声がドア越しに聞こえた。
「ザシャ、居るのはわかっているんだ。開けてくれ」
 それは聞き慣れた耳に心地よい低音。
「……クリューガー、文官……」
「ザシャ、開けてくれ」
 何故ここに、クリューガー文官が。部屋の場所を教えたことはなかったはずなのに。まあ、氏がその気になればわたしの部屋くらいすぐにわかってしまうんだろうけれど。
 でも、今は会いたくない。
 カサンドラさんのお胸パワーでなんとかここまで復活したのだ。いまクリューガー氏を見てしまったら多分泣いてしまう。そして見当違いな八つ当たりをしてしまうかも知れない。わたしが勝手に好きになったのに、勝手に勘違いしたのにクリューガー氏を責めてしまうかも知れない。
 それはイヤだ。
 わたしの強がりでわがままだと思うが、理性的でないところをクリューガー氏に見せたくはない。せめて理性的に、感情をコントロールできるようになるまで氏には会いたくないと思ったのだ。

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