「お母さん、倒れるくらいに疲れが溜まってたんだ。再検査を受けるくらい、体の調子を崩してたの。どんなにキツかったんだろうって思うと、たまらなくて」
「ああ、そうだな」
「お父さんは、わたしが十歳のときに脳卒中で亡くなったの。翔はまだ四歳だった。お母さんは、それまで専業主婦としてなに不自由なく暮らしていたのに、子ども二人を女手ひとつで育てなくちゃならなくなった。どんなに大変だっただろうと思う。でも、お母さんはいつも明るかった。笑ってた。今回入院したときも、あのころと同じ笑顔をしてた」
気づいたら、ぽろぽろと涙を零してしまっていた。諒太郎の指が、優しくそれを拭ってくれた。
「だから、やっぱり大変だったんだなって思って──あのころは、わたしが小さすぎて、お母さんの力になれなかった。だから、今度こそわたしがお母さんと翔を支えようって思って──」
そこから先は言葉にならなかった。
自分では意識すらしていなかった心の奥底の声が、あふれ出したようだった。お母さんが倒れたと聞いたときの衝撃や、入院したときの不安などが、いっきによみがえってきた。
諒太郎は、零れ落ちる涙を優しく拭い続けてくれた。
「よくがんばったな、咲」
諒太郎の声が震えている。
ぽたりとわたしの頬に水滴が落ちた。諒太郎が泣いている。
「咲の気持ちは、きっとお母さんに伝わっているよ。こんなふうに、目眩を起こして階段から落ちそうになるまでがんばるなんて」
諒太郎の両てのひらが頬を包む。すごく温かい。
「咲は家族を守ろうとしたんだな。俺はきみを尊敬する。ずっと以前に、社内で咲のことを見つけたときのことを思い出した。あのときも咲は同期を庇っていた」
「あのとき……?」
心当たりがない。諒太郎は「わからなくてもいいよ」と言ってわたしの髪を撫でた。大きなてのひらの感触に、安心感がよりいっそう深まる。
「咲。もしよければ、俺にも手伝わせてもらえないか。咲のご家族に対して、俺にできることがあるかどうかはわからない。微力すぎてなにも力になれないかもしれない。けれど、全力で当たらせてほしい」
「全力って……そんなの申し訳ないよ。諒太郎の気持ちはすごく嬉しいけど──」
「取り急ぎ、三日間の有給を取る」
「えっ?」
「その三日で、咲のご家族の様子を見て、現状を把握し、適宜スケジュールを調整する」
三日の有給……?
スーツのポケットから諒太郎はスマホを取り出した。「この会議をズラして……外回り先には電話を入れて……」とブツブツ言っているので、スケジュールを確認しているらしい。
わたしは慌てて言った。
「三日間も有給を取る必要なんてないよ。諒太郎は会社のエースなんだから、いなかったら困る存在なんだよ?」
「少なくとも営業一課においては、俺が三日間いないというだけで崩れてしまうようなヤワなチーム作りはしていない。咲まで休むとなるとさすがにキツイかもしれないが、そのあたりはメンバーに踏ん張ってもらおう。こういうときに助け合うことができないなら、そもそもチームを組む意味がないだろう」
その言葉にわたしは息を呑んだ。
諒太郎が、どうしてエースと呼ばれる存在なのかわかった気がした。仕事はチーム戦だ。頼り、頼られることによって、最高の成績を残すことができるのだ。
頭ではわかっていても、わたしはなかなか行動に移せない。どうしても一人で抱え込んでしまう。けれど諒太郎はそれを実行できている。
冷たい言動を部下にためらいなく取ることができるのも、信頼の表れなのかもしれない。考えてみれば、諒太郎を怖がる社員は多いけれど、嫌う社員は聞いたことがなかった。
「だから咲も、俺に頼れ」
諒太郎は笑いながら言った。
「本当なら、寄りかかって甘えきってほしいところだが、そういう自分になるのは嫌なんだろう? だから俺もセーブするよ。そのあたりのことはちゃんと考えて行動するから、いまみたいに話だけは全部聞かせてくれ。咲の状況がわからないことには、俺も動きようがない」
「諒太郎……」
「でないと、セーブせずに暴走するぞ。この期に及んで咲がなにもしゃべらなかったら、咲のマンションに押し入って、無理やり聞き出すところだったんだ」
「やだな。それじゃ犯罪だよ」
泣きたい気持ちになりながら、わたしは笑った。諒太郎も笑って、わたしの額にキスをする。
「そうだよ、俺を犯罪者にさせないでくれ」
「うん。ごめんね諒太郎」
わたしは腕を伸ばして、諒太郎の首に回した。
胸が痛くて泣いてしまうくらい、この人が好きだ。
わたしの上に覆い被さりながら、諒太郎が熱っぽくささやく。
「謝罪よりも、別の言葉が聞きたい。俺の欲しい言葉はわかるだろう? いますぐ聞かせてくれないか」
わたしは頬を染めて、心からあふれてしまいそうなほどの想いを伝える。
「大好きだよ、諒太郎」
唇が重なった。
優しい腕に抱きしめられながら、わたしは目を閉じた。