【35話】高良さんに逆らえません!~過保護な俺様社長は甘すぎて危険。~
エレベーターはすぐには来なかった。一つ上の階に止まっていたものがゆっくりと下りてくる。スタジオか会議室から社内の誰かが下りてくるのかなと思いながら、明莉は脇に避けて到着を待った。
到着音が鳴って扉が開く。明莉の予想通り乗っているのはACTの誰かだったようで、中から人が降りてきた。見た顔もあって軽く会釈していると、その内に明莉は出てくる全員がスーツ姿だということに気付いた。
(……営業?)
ACTは服装が自由なことから、スーツ姿の人間は限られる。制作系のチームの者は大体がカジュアルな恰好をしているし、管理部門だってあまりスーツは着ていない。だから自然とスーツと言えばある程度限定された。
と、いうことは、と思う。高良は営業の面々と会議をしているはずだ。
(やっぱり!)
エレベーターの奥から仙崎と連れ立って出てきたその人物の顔を見て、明莉は身体の温度が一気にぐっと上がるような心地を覚えた。
話している相手が仙崎だからか気安げな笑みを浮かべている。一回自宅に戻ったのか、高良もスーツ姿だった。たった二日間だけではあったが、ほとんど顔を合わせていなかったこともあってその顔がやたらと懐かしく感じた。
頭がその感情を認めた途端、唐突に、涙がせり上がってくるような気配を覚えた。
急に訳もなく泣きたくなったのだ。ほぼ同時に高良が明莉の存在に気付く。まるでそれを合図に決壊でもしたかのように、胸の奥底から湧き上がってくる激しい感情に自分でも驚いて明莉は慌てて顔を背けた。
高良はエレベーターを出たところで立ち止まった。彼らが最後だったようで箱の中にはもう誰もいない。明莉は何かを言われる前に素早く頭を下げた。
「お疲れさまでした」
「え、おい、明莉?」
慌てたような声だったが明莉は構わず脇をすり抜けてエレベーターに滑り込んだ。高良の顔を見ただけでこんな風になってしまった自分に、自分でも驚いているのだ。まだ社内で周囲に他の社員もいるのにとても普通に話せそうにない。だったらこうするしかないではないか。
箱の中に入ってすばやく一階を押し、「閉」ボタンを連打しながら唐突に気付いた。そうか、自分はいっぱいいっぱいだったのか。
高良の『早まった』発言を聞いてものすごく傷ついた。落ち込んでボロボロになってでも一縷の望みを頼りに何とか立て直した矢先の、椿の登場。感情の整理をつけたところをまた引っ掻き回されて心は悲鳴を上げていた。しかし、椿の暴走に対応すべく、そこに向き合っている余裕が明莉にはなかった。結果、明莉の限界はギリギリのところまできていたのだ。危ういところで保っていたバランスが高良の顔を見た途端、崩れた。
(……ぜんぶ高良さんの、せいだよ)
そんな一時的な衝動で抱いてほしくなんかなかった。片思い時代はそれでもいいから一度だけでも、と思ったこともあったがその時は知らなかったのだ。こんなに苦しくなるなんて。それに椿のことは完全に高良側の問題だ。勘弁してほしい。自分の元カノのことでしょ。ちゃんとはっきりさせといてよ!
そんな感情が顔に出てしまったのかもしれない。閉まりかけた扉の隙間から見える、明莉を呼び止めようとしたのか、こちらに手を伸ばしかけた高良の顔を明莉は一瞬、睨みつけてしまった。
高良の静止は間に合わず、扉は軽い音を立てて閉まる。下降していく振動を感じた瞬間、明莉ははっと我に返った。
今のはまずかったかもしれない。高良からしたら全く意味が分からない言動だっただろう。何も言わないでいきなりこんな態度を取るなんて、完全にかまってちゃんの行動だ。
到着音が鳴って、エレベーターが一階に到着する。明莉は箱から出ながら、半ばやけくそ気味にまあいいか、と思った。
(どうせ明日会って話すし!)
何かもう色々ごちゃごちゃと考えるのに疲れてしまった。高良には明日全部ぶつける。とりあえず今は椿のことがある。ジェットコースターのような感情の浮き沈みを繰り返して変なスイッチが入ってしまったのか、おかしなテンションになりつつあった。
しかしそれを明莉は好都合だと感じた。このままの勢いで椿を突っぱねよう。普段はできないことも今の気分だったら何だかイケそうな気がした。
早足でビルの出入り口を抜ける。確か大野は下にいると言っていた。すると、見回すまでもなく、出入り口から横に続く、ガラス窓の下に待ち構えるようにして椿が立っていた。
ばちんと目が合う。明莉だと認めた瞬間、椿の目尻がきゅっと吊り上がった。明莉は歩いて椿に近付いていった。
「……遅いわよ」
その表情からイライラしているのが見て取れた。もしかすると終業時間近くから、明莉が出てくるのをここで待っていたのかもしれない。なるほど。はっきりとした待ち合わせの約束が取り付けられそうになかったから、出てくるところを捕まえる作戦だったのか。
けれど、明莉が一向に出てくる気配がなかったので、社内にいるのかの確認も含めて大野に連絡を取り、ついでに呼び出したという感じだったのかもしれない。
そんなの椿が勝手に待っていただけだ。明莉は約束をしてないし、知ったことではない。それで文句を言うのは筋違いだろう。だから明莉も苛立ちを隠さずあからさまにむっとした表情を出した。そのままの勢いで口を開く。
「私、今日は無理だって言いましたよね? 勝手に待たれていたのはそちらでしょう」
明莉が言い返すと思わなかったのか、椿が少し怯んだように目を瞬く。追い打ちをかけるように明莉は続けた。
「それに、大野さんを巻き込まないでください。これは仕事に関係ないことですよね?」
椿の目を見てはっきりと言った。多少の自覚はあったのか、その目がわずかに泳ぐ。しかしさすがと言うべきなのか、椿が動揺を見せたのはそれだけで、取り繕うようにすぐにいつもの余裕の笑みを浮かべた。
「そうね、ごめんなさい。次から気を付けるわ。勝手に待っていたのもごめんなさい」
殊勝な態度で詫びの言葉を述べると、これでいいだろうと言わんばかりに明莉の腕に手を掛けて軽く引いた。
「時間もないし、さあ行きましょ」
「私、行きません」
椿の言葉にやや被せるように、明莉はきっぱりと言う。本当は手も振り払いたかったが、さすがにそこはぐっと堪えた。