「ずいぶん大荷物だね」
背中で聞いた声に、身体が強張る。
聞きたくない声などではなかった。むしろいつまでも聞いていたい――ナディアは箱をきつく抱きしめていた。
「ごきげんよう、ナディアさん。今日もお邪魔していい?」
そちらを振り返る――ナディアの口元はゆるんでいっていた。
「……もちろんよ、ミランダさん」
玄関ホールに従者とともに現れたのは、長身の女性だ。大振りな帽子を取り、微笑んでいる。
十九になったナディアより、いくつか年上と見られる。それもまたサロンの通例にしたがって、確認をしたことはなかった。
従者に帽子とコートを渡した彼女は、艶やかな生地でつくられた赤いドレスをまとっていた。流行にあまり興味がないらしく、彼女はいつも少し前に流行った型や、定番のものを身に着けている。ただ仕立てや生地は上等なものばかりで、ナディアが知らずにいるだけで、彼女が身分ある立場なのだろうと想像できた。
「大荷物ね。手伝いましょう」
「それでしたら私が」
彼女の従者――ゴードンが申し出てくれる。ナディアの執事と同名で、ミランダと話すようになったきっかけだった。
「とんでもないです、そんなことは……」
「気にしないで。私も運びましょう、そうしたらすぐ終わるんじゃない?」
差し出されたミランダの両手は大きい。並んで差し出されたゴードンの手に劣らぬ大きさだ。
それをにぎってみたくなってしまった。
ナディアはその考えを頭から追い出そうと、あわてて首を振る。
ミランダに対してそんなことを考えてしまった――動揺をおさえようと首を振りすぎ、ナディアは足元をふらつかせた。
「ナディア!」
すかさずミランダの手が背中にまわされたと思うや、ナディアは赤く艶のある生地に引き寄せられた。
「あ……ああっ」
驚いてしまって言葉の出ないナディアに、ミランダは至近距離で目をほそめていた。
「両手がふさがっているんだから、足元をおろそかにしたら駄目だよ」
目と鼻の先にあるミランダの容貌は美しい。
彼女と知り合って以来、ナディアはもっと親しくなりたい、と思い続けていた。
彼女と話をしていたいし、笑顔をもっと見たかったし、笑顔以外の様々な表情をもっと知りたかった。
最近では、ミランダのことをすぐ考えてしまうようになっている。
サロンでひとりで時間を過ごしているときには、少しつり上がったミランダの青い瞳は酷薄そうにあたりを眺めている。
そこには近寄りがたさまで漂っているのに、ナディアを見つけると一転し、ミランダはなつっこくやわらかい笑顔を浮かべるのだ。
ミランダの高い鼻梁も薄いくちびるも、まっすぐに腰までのびた明るい金の髪も、すべてが好ましい。
ミランダはサロンを訪れる客人のひとりに過ぎない。
彼女は姓や住まいの場所を明かさないものの、つねに護衛のゴードンをともなっている。当人の物腰の優美さからも、おそらくどこかの上流貴族の子女なのだろう。身に着けたものの上等さから、彼女が姓を名乗ったとき、それが名だたる大貴族のものであってもきっと驚かない。
ただ言葉遣いが独特で、ミランダはどこかぶっきらぼうな話し方をすることが多い。それを耳にしたサロンの常連に、「異国の出身の方なの?」と尋ねられたことがある。その答えを知らず、ナディアは曖昧に微笑んでその場をやり過ごしていた。
ミランダはサロンにふらりと現れ、取り留めのない時間を過ごして去っていく。
サロンを訪れるようになったころから、ミランダはのどの調子がよくないと話しており、実際彼女の声は低かった。
のどの不調のときに処方する薬を何種類か用立てているが、どうにも効き目は薄いようだ。同業者の伝手を探しているが、アルカンタス家で用意できる以上ののどの薬はなかなか見つからないでいる。
次はいつ現れるのか――予定を尋ねたくなる相手は、ミランダだけだ。
ナディアもアルカンタス伯爵家の息女であり、紛れもない貴族だ。
曾祖父の代に薬師の真似事をはじめ、気がつけばアルカンタス家は貴族らしからぬ生活を送るようになっていた。
所有する土地に畑をつくり、そこで薬草を育て、精製し、薬をつくり出している。
ナディアのサロンは、薬局のある建物に設えられている休憩所兼健康相談室から思いついたものだ。それは祖母がはじめたもので、薬草の契約農家のひとびとが相談事をするときにも使われていた。
頭痛薬や痛み止め、眠り薬。
多種多様な薬があるなか、アルカンタス家が得意としたのは――毛生え薬だった。
曾祖父が土地に伝わる傷薬を改良し、毛生え薬としたものがはじまりだ。ナディアの父が改良に励み、ここ十五年ほどで効果は飛躍的にのびている。
ナディアのサロンに堂々とやってくる顔のなかには、毛生え薬が必要なものはいない。みなサロンでの時間を楽しむために足を運んでくるのだ。
アルカンタスの妙薬を必要とする客人は、こっそり裏口を叩いたり、薬局を訪れるにしても、あたりが暗くなってから現れた。
そのような薬が必要、というのは当人にすればせつなく、できれば隠しておきたいものらしい。そもそもレオラ王国では正装には髪を結う必要があり、要職にあるものにすれば頭髪の確保は威厳を保つためにも不可欠といってよかった。
主人のおつかいで、とやってくる使用人はいるが、誰の使いなのかは語ったりはしない。
ひとの悪い知人に使用人が見つかり、隠しておきたかった薬の使用が露見、ということも過去にあったらしい。
当人にすれば深刻な問題だろうし、それこそナディアはサロンを解放的な場――いつでもひとの出入りがあるようにし、誰が足を運んでも不自然でない場にすることに苦心した。