【30話】お薬の時間です!~狼騎士隊長の担当看護師に任命されました~
五、真実
一人暮らしのアパートに戻ったニーナは、階段を駆け上がる。
いつもなら一階で雑貨屋を営む大家に迷惑を掛けないようにゆっくりと上がるのだが、今のニーナにそんな心の余裕はなかった。
(信じられない! 騙すなんて!)
生活態度こそだらしないものの、知識も豊富でどんな患者にも的確な薬を処方するヤマトをニーナは尊敬していた。
なによりマリア同様、田舎から出てきたばかりの右も左も知らないニーナに、一から医学知識を教えてくれた師匠でもあり――勝手に第二の父親めいた信頼すら置いていた。だからこそ裏切られたという気持ちしか浮かばなかった。実際娘を『実験体』に差し出す父親なんてよほどの人でなし以外いないだろう。だからこそ、そう思っていたのは自分だけだったという事になる。それが余計にニーナを惨めに追い詰めた。
(なんで黙ってたの! 断るって思うなら受けるっていうまで説得してくれたらいいじゃない!)
ヤマトにはああ言ったが、ニーナ自身、頼られると断れない自分の性格は知っている。だからこそきっと医学の進歩だとか、本当に困ってるのだと訴えられたらきっと了承していただろう。
鍵を開けて部屋の中に入り、着のみ着のまま寝台へと飛び込む。
その拍子に枕元にあった本に指が触れ、ニーナはそちらに顔を向け思わず顔を歪ませる。ここ最近は、ずっと寝る前に目を通していた獣人について書かれた本。
脇によけようとして手が止まり、ぐっと込み上げたものを堪えたニーナはきゅっと唇を引き結んだ。長い時間すっかり見慣れた表紙を睨むように見つめた後、結局、ニーナは本を引き寄せた。身体を起こしてその場に座り込み、数日前に自分には関係ないと思いながらも読み込んだ頁を開いた。
『――『番』について』
以前も読んだ場所をもう一度さらう。実はその項目の最後は神話めいた現実味のない話ばかりだった。
魂の片割れ、永遠の恋人――ロマンチックな言葉が続き、最後にようやく相手に対する執着についても書かれていた。
『――一度『番』を見つけた獣人は二度と相手以外に膝を折る事はない。『番』至上主義になるが、その相手に巡り合う事は稀有である。同族だけかと思われていたが、昨今では人間を『番』とする個体も多く存在するようになった。しかし同族とは違い人間の『番』は『番』という感覚が芽生えず、既に婚姻を結んでいる、年齢差が著しい、そもそも獣型を受け入れられない等、過去にいくつかのトラブルを起こしている』――。
ニーナは最後の一文を反芻し、唇を噛む。
確かに獣人は数年前まで流れの商人や旅人以外に滅多に見る事はなかった。そのせいか王都以外の田舎の方では、未だに根強く、獣人を『しょせん獣』と侮る人間も存在する。相手がそういった人物であった場合、大いに困るだろう。
しかし。
(――私がオズさんの『番』)
先送りにしていた疑問を心の中で呟くが、頭が整理できなくてうまく働かない。
もしそうならば、きっと自分はとても嬉しいのだと思っていた。でもオズワルドの看病からずっと仕組まれていた事だと知った今、自分の気持ちもまた『仕組まれた』想いのような気がしてしまう。
オズワルドの甘い視線や言葉、贈り物や甘いお菓子。そして幸せそうにニーナに給餌をしていたオズワルドの仕草や表情が次から次へと思い浮かぶ。おそらく給餌行動も彼らにとっては求愛行動になるのだろう。だからこそあの時、オズワルドはあれほど満ち足りた顔をしていたのだ。
(私が全部知って――オズさんの気持ちも受け入れてると思ってたから、恋人にするみたいに接してきたんだ)
……それはどれほどの絶望だっただろう。
(だけど、途中で私が何も聞いていない事を知って……)
あの時マスクはニーナの手によって解かれ緩んでいた。少しくらいニーナの匂いを嗅いだのかもしれない。だから『出て行け』と言ったのだ。理性を失うかもしれない自分から離すために。
(明日からどんな表情で――違う。二度と来るなって言われたんだ私)
鼻の奥が痛んで瞼を固く閉じる。それだけでは耐えられなくて、ぐっと唇を噛み締めた。
(オズさんはどうしたいんだろう。……っていうか、待って)
ふと、ある事が引っ掛かった。
思い起こしてみれば、オズワルドと会ったのは今回が初めてではない。最初に出逢ったのは、ニーナがひったくりに遭ったあの事件で、もう五年も前の話だ。
その間にオズワルドがニーナに会いに来た事はなく、この本やヤマトの言葉とはかなり状況が違う。『衝動が抑えられないほど』相手を求める――ならば、何故あの時、オズワルドは何も言わずにニーナの前から立ち去ったのだろう。
「それって本当に『番』なの……?」
声に出して呟けば、嫌な予感がぞわりと胸に広がる。
居住地も勤務地も聞き取りの時に全て話しているし、ましてや獣騎士団の宿舎とニーナが住んでいる下町はそれほど遠くもなく、三十分もかからない。
(やっぱり私がオズさんの『番』だなんて間違いとか?)
咄嗟にそう思うが――それならば、これほど色んな人を巻き込んで新薬の実験などしないだろう。
『『番』に出逢えるのは稀という事じゃが、むしろその方がお互い平和なのかもしれんの』
先程聞いたばかりのヤマトの言葉が鼓膜に蘇る。