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【9話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

 アダルバートの怒りの鉄槌は目の前のテーブルに落とされた。大きな音が部屋の中に響いた後に彼の手が真っ赤に染まって、見ているだけで痛そうだ。
「いいか! 俺は必ず……! 必ずあいつに復讐をする!」
 彼の怒鳴り声の残響を聞きながら、エヴァリンは溜息を口の中で噛み殺した。
 ――くだらない。実にくだらない。
 聞くに堪えないアダルバートの独りよがりな逆恨みに辟易し、そしてそんなことにリコリスの命がかかっているのかと思うと、何とも言い難い気持ちに襲われる。
 だが、文句を言えない。今のエヴァリンはそれを粛々と受け入れるしかなかった。
「それで、私はその人と仲良くなって……それから?」
「振れ。思いっきり、手酷く。あいつが再起不能になるほどに」
 それでウィルフレッドに恥をかかせることができる。
 そう確信しているアダルバートは、その目に一点の曇りもなく自信を持って言い切った。
 彼は思わないのだろうか。その復讐を果たすにしても、人選を間違ってはいないだろうか、と。
 素直に疑問をぶつけると、アダルバートは鼻で笑って答えてくれた。
「まぁ、確かにお前は可愛げの欠片もなく口を開けば腹の立つことしか言わないが、それでも見た目だけはいい。普通にしとやかにしていたら男は引っかかるほどにはな。とにかくお前はあいつを落とすためにあらゆる手を使え。そして必ず恥をかかせろ」
 おそらく具体的な案は彼の中にはないのだろう。つまりはすべてエヴァリンに丸投げで、その上でしっかり目的は果たせということだ。
 人一人貶めるにはあまりにも杜撰ずさんで考えなしな計画だが、アダルバートだから仕方がない。こう言っては何だが、この男はあまり頭がよくはない。
「分かったわ。なら、貴方が知る限りのその男の情報を教えてちょうだい。さすがに事前知識なしでは近づけないわ」
「分かった」
「それと……」
 床からゆっくりと立ち上がり、座ったままのアダルバートを見下ろした。間抜けな顔がこちらを見ている。
「今すぐにその足で叔父様のもとに行って、リコリスの治療を始められるようにしてきて。治療が始まり次第、私も動くわ」
「抜け目がない奴。……いいだろう。今すぐ親父にとりなそう」
「約束はしっかり守ってもらうわよ、アダルバート」
 とりあえず頭の中身や人柄はどうあれ、彼の父親への媚びようは見事なものだ。百発百中おねだりは成功させるし、アダルバートがしおらしく叔父にお願いをすれば間違いなくリコリスの治療費は引き出すことができるだろう。その妙技には信頼を置いている。
 そうと決まればこの場に長居は無用だった。アダルバートもすぐにこの部屋を出て、叔父のもとへと向かうだろう。
 エヴァリンは部屋を出て足早に廊下を駆け抜けた。早くこの吉報をリコリスに伝えたい。そして早く元気になった姿をこの目で見たい。その思いだけでそのときのエヴァリンは動いていた。
 たとえ誰を騙そうと傷つけようとも構わない。それで恨まれようとも殺されようとも、その業は甘んじて引き受ける。
 ――そう思っていた。
 
 
 アダルバートはしっかりとその役目を果たしたらしく、その日の昼過ぎには医者がやってきて薬を買うことができた。リコリスも泣きながら喜んでお礼を何度も言ってきたが、その顔に罪悪感がちくりと疼く。
 もちろん取引のことはリコリスには言ってはいない。叔父にも秘密だ。アダルバートも言ってはいないのだろう。
 廊下ですれ違ったときに叔父に『アダルバートの優しさに感謝するんだな』と吐き捨てられた。相も変わらず彼の口車は大したものだ。
「俺は約束を果たしたぞ。次はお前の番だ」
 したり顔でそう言ってくるアダルバートに、エヴァリンはしっかりと頷いた。
 まずはウィルフレッドを落とすにしても出会わなければ始まらない。
 社交界に顔を見せたこともないエヴァリンはそこをどうするべきか、最初からつまずいてしまった。
 だが、それに救いの手を差し伸べてくれたのはアダルバートだ。もちろん横柄に恩着せがましく『感謝しろよ』と煩かったが。何だかんだと言いながら、エヴァリンがウィルフレッドと接点を持ちやすいように舞台を用意してくれたのだ。
「……パーティ?」
「ああ。ダリアン商会の会長が一週間後に開く。まぁ、貴族の真似事だが舞踏会を開くんだそうだ。お節介なダリアン夫人のお見合いの場ってところだな。そこに俺は招待されているから、お前も付き添いとして一緒に行くんだ。そこにウィルフレッドもやってくる」
 なるほど、そこでどうにかウィルフレッドとの接点を作れということらしい。
 この機会を生かさなくては、とここで意気込むところであるが、エヴァリンには不安しかなかった。
 社交界というものがどういうものかは知っている。父や母から寝物語のように何度も聞かせられていたからだ。その怖さも優美さも。
 だから、エヴァリンの中に緊張が渦巻いていた。その実態を知っているからこそ、足を踏み入れるのが恐ろしかったのだ。
 ちらりとアダルバートの横顔を窺い見る。けれどもすぐにその視線を元に戻した。今さら彼にグチグチと言っても仕方がないし、そんなこと知るかと鼻で笑われるのが関の山だ。
「ところでお前、ドレスは持っているんだろうな?」
 鬱々と考えていると、アダルバートが疑わしい目を向けてきた。それを横目で見て、当然という顔を返す。
「……そうね。母の形見のドレスと、私も少々持っているわ」
「ならいい。ちゃんとした格好で来いよ。俺に絶対に恥をかかせるな」
 たとえそれが一瞬であったとしても公の場で自分の隣に並ぶのが、ドレスもまともに着ていない人間だというのは我慢ならないのだろう。彼はその見栄だけは誰よりも大きい。
 彼に改めて言われるまでもなくそのつもりだ。恥ずかしくないほどに身だしなみを整えるくらいの矜持は持っている。
 アダルバートと別れてリコリスが待つ部屋へと戻り、さっそくクローゼットの奥にしまわれているはずのドレスを引っ張り出した。
 古ぼけた衣装箱から取り出したのは母のドレス。濃紺で大人っぽいそのドレスは、パフスリーブに、スカート部分にドレープがたくさんついており、胸元に銀糸の刺繍と小さな宝石がちりばめられている。
 母はこのドレスが一等好きで、これを着てめかしこむ母を見てエヴァリンもリコリスも、こんな風に素敵な淑女になりたいと憧れたものだった。母の思い出が詰まった、一番の形見でもある。
 それを考えると、どうしてもこのドレスはパーティには着てはいけなかった。
 人を騙しに行くというのに、こんな綺麗なものは着てはいけない。
 だから、もう一つ、自分のドレスが入った衣装箱からドレスを取り出した。
 レモンイエローのドレスは、気の早い母がエヴァリンが社交界で誰よりも輝けるようにと誂えたものだった。五年前のエヴァリンではぶかぶかであったであろうそれは、今はおそらくぴったりだろう。着ていくならこれしかない。
 とりあえず当日の衣装が決まったことにほっと胸を撫で下ろしたところで、ベッドで眠っていたリコリスが起きる気配がした。
「……ん、……お姉ちゃん? どうしたの? それ」
 起き抜けに見た姉の姿に疑問を持ったのだろう。久しく見ることのなかったドレスをその手に持っているのだから、何ごとかと思ったに違いない。

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