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【8話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

「――なるほど。それで俺のところに来たわけか」
 次の一手であるアダルバートのもとへと足を運んだエヴァリンは、さっそくリコリスの病状とあまり時間がないことを話した。
 その内容とエヴァリンの表情で大方の事情を察したのだろう。ニヤリと笑って合点がいったと頷いた。
「親父から金を引き出すのに失敗したか」
「元々私のものだったお金を使わせてくれって言ったのにもかかわらず、叔父様がそれに同意してくれなかったのよ」
 すかさず言い返す。それではエヴァリンが叔父に金を無心したように聞こえて気分が悪い。
 けれどもアダルバートにはそんなものはどうでもよく、エヴァリンたちが弱い立場に追いやられている状況が面白いらしい。いつもは応戦してくるような反論も受け流し、機嫌よく足を組んでカウチに座った。その上で話を聞こうと少し身を乗り出して見せる。
「それで? 今度は俺か?」
「――ええ」
 こういうときのアダルバートは叔父とそっくりだ。エヴァリンはこの顔が昔から大嫌いで、その視線に晒されるのも苦痛だった。
 同じような笑みで人を貶めようとする。いつ喉元に噛み付いてやろうかと、舌なめずりをしているような顔でこちらを見据えるのだ。
 この男に弱みを見せるのは気が進まないが、それでも躊躇している暇はなかった。叔父が頷いてくれないのであれば、アダルバートを使って金を引き出すまでだ。
 叔父は驚くほどにアダルバートに甘い。きっと彼の口からリコリスの治療費を出してほしいと願い出れば、少なくともエヴァリンのときのように素気なく断ることはないだろう。それが上手くいくかどうかは、すべてはアダルバートの頑張りによるのだが。
 だからこそエヴァリンは恥を忍んでここに来た。何をどう言われようとも、自分自身の身がどうなろうとも構わないと思うほどの覚悟を持って。
「……お願い、アダルバート。このままではリコリスが死んでしまう。叔父様にお願いをして、どうにか治療費を出すように口利きをしてほしいの」
「なるほど。リコリスはそこまで悪くなっていたのか……。それで、お前が俺にお願い……ねぇ」
 そのねっとりとした声にどっと汗が滲み出る。ギュッと両手でスカートを握り締めて心を落ち着かせた。
「……なぁ、エヴァリン。そんなにリコリスのことを助けたいのか?」
「ええ。もう時間がないの」
「随分と切羽詰まっているもんだ」
「貴方にこうやってお願いをするくらいにね」
「なら、お前は俺のために動けるか?」
「ええ。リコリスを助けてくれる限り」
「ふぅん……」
 もったいぶった言い方だ。言葉で弄んでどうするか吟味している。
 きっとこの好機を使って、遊ぶだけ遊び尽くすつもりなのだ。
「ならばそれじゃあダメだろう? ちゃんとしたお願いの仕方ってものがあるはずだ。……なぁ、エヴァリン?」
 小さく息を呑んだ。
 エヴァリンを睥睨へいげいするアダルバートの目が、自分に屈服しろと暗に言ってきている。その証拠を今見せろと。
 ――覚悟の一歩だ。
 ここで膝を折ればアダルバートに弄ばれることは必至。リコリスの治療と引き換えに、エヴァリンを好き勝手に扱うのは目に見えていた。
 それでも、エヴァリンは迷わず膝を曲げて床についた。叔父にもしたように跪いて、頭を垂れる。
「お願い、アダルバート。リコリスを助けて」
 咽喉が乾いて掠れた声をようやく絞り出した。唇を噛み締めて、湧き起こりそうな恥辱と怒りを抑えつける。
 ところが、アダルバートはそれだけでは満足がいかなかった。
 組んだ足の先でエヴァリンの顎を持ち上げて、いやらしく笑う。
「……違うだろう?」
 それでは足りない。もっと忠誠の意思を見せろ。そう彼は強欲に言う。
 ――あぁ、どこまで醜いのだろう。
 人の足元を見て屈服させることに喜びを見出すアダルバート。
 そんな人間に跪いてまで汚辱に塗れようとも、目的を遂行して這い上がろうとする自分。
 こんな薄汚いもの、リコリスには見せることはできない。
 ……けれども。
(リコリス……)
 彼女を心の支えにしてこの取引に頷くことを許してほしい。
 もうエヴァリンにはリコリスしかいないのだ。
「お願いします。リコリスを助けてください」
「いいだろう。お前が俺の言うことを聞けば、リコリスを助けてやるよ」
 何に代えても守ってみせる。
 この幼少の頃からの志は今でも変わりはしない。
 
 
「お前がすべきことは一つ。ウィルフレッド・クルゼールに恥をかかせろ」
 交渉のテーブルについて最初にアダルバートが提示した条件は、思いもよらないものだった。てっきりエヴァリンを奴隷のようにこき使うのかと思いきや、名前も聞いたことのない男を貶めろと言う。エヴァリンは怪訝な顔をアダルバートに向けた。
「どういうこと?」
「言葉の通りだ。あの男に恥をかかせたい。そのためにお前はあいつに近づけ。……そうだな、男女の仲になってより親密になるのがいいんじゃないか?」
 男女の仲、と言われて背中に緊張が走る。何でもやるとは言ったものの、他人を巻き込むのは気が進まない。
「何か恨みでもあるの? その、ウィルフレッド・クルゼールに」
 アダルバートのことだ。あまり大した理由でもないような気がするが。そう予感しながら彼の言葉を待った。
 すると、アダルバートは待っていましたとばかりに小鼻を膨らませて、意気揚々と話し始める。
「あの男はな! この俺をコケにし、皆の前で馬鹿にしたんだ!」
「はぁ……」
「紳士クラブに行ったとき、この俺がマーゴット男爵家のカルメンについて話をしていたんだ。今でこそあの女は娼婦同然にいろんな男を咥えこんでいるが、初めての男は俺だ。俺があいつにすべてを教えた。快楽も男の悦ばせ方もなぁ」
 紳士クラブとはエヴァリンの想像とは違って随分と下卑たところだ。そんなことも明け透けに話すとは、『紳士』とは名ばかりの集まりのように思える。
 ともあれクラブの実態などにはとんと興味がないのでまずは置いておいて、アダルバートのくだらない話に耳を傾けた。
「カルメンは本当にいい身体をしていてな。それはそれは皆に好評だ。誰もがあいつを抱きたがる。そして皆、俺がどのようにカルメンに仕込んだのか聞きたがるんだ。俺は大したことはしていないっていつも言っているのにな、それでも皆こぞって教えてほしいと言ってくる。俺が何度嫌だと言ってもだぞ? だからその日も仕方なく教えてやっていたんだ」
 得意満面。アダルバートは同じような顔でその日も自慢していたに違いない。本当に皆がその話を聞きたがっていたのかは疑わしいところだが。
「だが! 俺が話しているときに、側で聞いていたウィルフレッドが突然笑いやがった! 俺を馬鹿にするように笑って言ったんだ! 『恥ずかしい奴だな』と!」
 先ほどまで話に興が乗ってカウチにふんぞり返っていたアダルバートは、ウィルフレッドの登場のシーンになった途端に、顔を炭火のように真っ赤にして憤慨しだした。腸が煮えくり返ると言わんばかりに叫ぶ彼は、それが先ほど起こったかのように今でも怒りが引かないようだ。
 エヴァリンはアダルバートが叫ぶたびに飛んでくる唾を避けながら、そっと身体を少し後ろに退けた。
「あいつは! 『カルメンは今の自分に満足している。そんな彼女を作ったのはお前ではなく、彼女自身だ。たった一度寝ただけでそんな大きな顔をされてもカルメンも迷惑だろうよ。それにどうやらお前とのことはカルメンにとっては美談ではなく、失敗談のようだぞ?』……なんて根も葉もないことを言いやがったんだ! 俺は皆の前で笑いものにされた! 恥をかかされたんだ!」

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