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【6話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

「まぁ、でもそろそろ動き出さないといけませんよ? 旦那様のお心が他に移っているのであればもっと別の手もありましょう。……もっとも、エヴァリン様がしっかりと旦那様を繋ぎとめていれば、こんなに悩むこともなかったでしょうけれど」
「そうね。そこは私の至らないところだわ」
「アダルバート様もそろそろ我慢の限界です。早くあの方が安心できるようにしなくては、お可哀想でしょう?」
「ええ」
 『お可哀想』。アダルバートがそんなしおらしい人間なものかと心の中で鼻白んだ。毎度スージーはアダルバートをこう言うが、エヴァリンはそれが気持ち悪く感じる。
 これ以上スージーと話を続けるのも億劫で、逃げるようにエヴァリンは目を閉じた。移ろいゆく街並みも人の行き交いも、馬車の振動で小さく揺れ動く窓枠さえも目にするのが嫌で、何もかもを遮る。面倒なのはスージーだけで今は充分だ。
「エヴァリン様」
 けれども、スージーはエヴァリンが逃げ出そうとするのを許しはしなかった。ちゃんと話を聞けと力強い声で名を呼んでくる。
 億劫ながらもうっすらと目を開けて彼女を横目で見やると、先ほどとは打って変わって憮然とした顔をしたスージーがこちらを睨み付けていた。
 このスージーというメイドは実家から連れてきたのだが、エヴァリンに対しては多少高圧的な部分がある。こうやってエヴァリンの行動にいちいち評価をつけてくるし、話を聞かなければ咎めることもあるのだ。
 自分がエヴァリンよりも上であると認識しているのだろう。その勘違いも致し方のないことだと理解はできる。
 彼女は監視者だ。
 エヴァリンを監視してその行動を査定し、間違いがあれば是正させる。そしてその成果と言動を逐一報告するのだ。己の真の主に。
「三日後、屋敷に来るようにと。アダルバート様がお呼びです」
 エヴァリンは赤毛の髪を窓につけてそのままもたれかかった。
「……わかったわ」
 今度こそ小さく返事をして、固く目を閉じる。スージーはもう何も言わなかった。聞こえてきたのは、車輪が回る音と窓越しから聞こえてくる喧騒。
 それだけしか今は聞きたくはなかった。
 

 三日後、またスージーと共に馬車に乗り、首都郊外にあるアマリス邸へと向かった。
 エヴァリンの実家であるアマリス邸は、開発が進む工業地帯とは首都を挟んで反対側にあり、北端に流れる大きな川を渡った先にある。
 そこはもう中心地ではあまり見かけなくなった緑が豊かに残っており、原風景が広がっていた。川を挟んだだけの別世界。喧騒から隔絶され、時代に取り残された景色がそこには残っている。
 ここが結婚前にエヴァリンが住んでいた場所だった。そして、生まれ育った懐かしの我が家がある。
 その肥えに肥えた富を主張するように豪奢で大きく作られたその家は、時を経るごとに見た目だけの空っぽの器になっていた。
 煤けて綻びが見える壁、割れた屋根材、色褪せた扉、長年油が注されずに重い音を立てる門扉。そのどれもが、栄華の後の惨状を物語っている。
 それどころか、ここはもうエヴァリンの家ですらなくなった。
 父の死後、未成年だったエヴァリンたちのために、父方の叔父が後見人となって成人するまで財産の管理をしてくれるはずだったのだが、結局叔父はそれらをすべて自分のものにした。
 財産といってもほぼないに等しかったが、それでもこの無駄に大きく派手な屋敷は大きな財産だ。その父が娘たちにと残してくれた数少ない財産を叔父は奪い取り、今ではこの家に当主として住み着いてしまったのだ。
 便宜上は実家としているが、ここはもうエヴァリンの家ではない。
 ウィルフレッドに実家に行ってくると言うたびに、心のどこかで違和感を覚えるのはきっと、家族などここに住んでいないからだろう。
 いるのは、血が繋がっただけの下種だ。
 

「よぅ、エヴァリン。相変わらず可愛げのない顔をしているな。リコリスとは大違いだ」
 会って早々に失礼なことしか言えないのが、この男の残念なところだ。思わず顔を顰めそうになる。
 エヴァリンの叔父の息子、つまり従兄であるこのアダルバート・アマリスは一言でいえば嫌な男だ。
 卑屈で小心者、そのくせ自尊心ばかりは一人前でいつも誰かしらを貶めていなければ気が済まない性質で、口を開けばエヴァリンに対して嫌味しか飛び出してこないのはいつものことだった。
 正直アダルバートは好きではないし、あの鷲鼻を見るのも嫌なくらいには嫌ってはいるのだが、こうやって呼び出されれば素直に応じなければいけないのには理由がある。
 彼の命令に粛々と従わなければならない大きな理由が、エヴァリンを縛り付けるものがここにはあった。
 サロンの入り口で立ち止まり、趣味の悪い赤いベロアのカウチに鷹揚おうようと座るアダルバートをねめつけた。
 得意げな笑み。目がギラギラとしていて小鼻がピクピクと震えている。それを見るたびに怖気が立つのだがお腹の前で組んだ手に爪を立ててそれを静め、エヴァリンはゆったりとした笑みを浮かべた。
 足を進めてサロンの中に入ると、後ろからついてきたスージーが静かに扉を閉める。アダルバートの従僕であるブラッドリーが傍らに立つソファーに腰を下ろして、ぐるりと部屋の中を見渡した。
 ここに来るたびに内装が変わっている。より派手に、より悪趣味になっているのだ。
 まだ両親が生きていた頃は奢侈しゃしな生活だったとはいえ、それでもここまで贅を前面に押し出したものではなかった。
 壁には大きな絵が一点かけられただけだったが、見る人皆が感嘆の溜息を漏らすほどの名画だったし、床に貼られていた手織りの羊毛の絨毯は我が家に代々受け継がれていた高値のものだった。
 それなのに絵は壁から消えて、動物の剥製やどこから買ってきたのか分からない甲冑が置かれ、絨毯も剥がされてワインレッドのものになっている。叔父たちには価値など分からないらしく、ただ見た目が高価に見えるものを選んでいるのだろう。視界が忙しなく落ち着かない。
 この移ろいゆくサロンの景色を見るたびに、もうあの頃の我が家はないのだと実感して、哀愁の念が湧き出てきていた。
「会って早々随分ね、アダルバート。こうやってちゃんと足を運ぶ勤勉さをたまには褒めてもらいたいものだわ」
「褒める? 馬鹿なことを。それがお前の仕事だろう。俺の命令は必ず聞く。当然だ」
 気持ちを取り直しアダルバートに対峙すると、また随分な言葉を返される。それに目くじらを立てずに、ただ微笑んだ。彼はそれをつまらなそうに鼻で笑う。
「それで? 今回は何の用かしら?」
「何の用だと? 白々しい。俺が何を言いたいのか分かって言っているんだろう!」
 サロン中に響いたアダルバートの声は、最後の方は語気が荒くなっていた。明らかに苛立っていて、素知らぬ顔で聞いてきたエヴァリンを睨み付けている。監視するかのように後ろに立つスージーも、同様に鋭い視線を送ってきていた。
「俺のところにスージーからちゃんと報告が上がってきているんだぞ。誤魔化そうとしても無駄だ!」
「誤魔化すだなんて、そんなの考えもしていないわ」
「はっ! よく言ったものだ!」
 アダルバートに八つ当たり同然に蹴られたテーブルが、エヴァリンの脚に当たる。痛みに顔を歪めると、アダルバートはざまぁみろとばかりに口端を引き上げて笑った。ブラッドリーがそっとテーブルを戻す。
「なぁ、エヴァリン、困るんだよ。ちゃんと仕事をしてくれないと。俺がどれだけお前のために力を尽くしていると思っている? 長いこと俺がお前の『お願い』を聞いているのは何ためだ? あぁ?」
 ――まるで破落戸ごろつきね。
 心の中で小さく溜息を吐く。
 もうこんな風に威嚇され脅されるのは慣れたもので、今さら恐れおののきはしないし涙ぐむこともしない。
 だが、一瞬頭の中をよぎるのだ。久しく見ることのなかった妹の顔が。その刹那がエヴァリンを苛み続けている。
「ごめんなさい、アダルバート。もう少し時間が必要みたい」
「お前はいつもそうだ。俺はいつまで待てばいいんだ? 俺はいつになったらあいつの吠え面を拝むことができる。――ウィルフレッド・クルゼールの泣き顔を」
 そして、自分の命よりも大切な妹が、エヴァリンをこのアマリスの家に縛り付けていた。

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