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【38話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

 すると、彼は大きな溜息を吐いた。
「君が無理をしているようだからと心配してな」
「無理なんて別にしてないけど……」
「嘘を言うな。案の定熱が出ているじゃないか」
「……え?」
 驚いて自分の額や頬に手を当てる。自分の手も温かいのでよく分からないが、たしかにいつもより火照っているような気がする。
「気付かないうちに身体が悲鳴を上げているんだ」
「そんな……今朝は何ともなかったのに」
 本当にラトヴィッジに指摘されるまで気付かなかった。少し怠かったが、昨日の疲れが残っているのだとばかり思っていたのに。
「仕方がない。君はまだ無茶が利かない身体だ。そういうこともある」
 その言葉が何だかショックだった。
 本当にリコリスは無茶をしていた自覚はなかったのだ。適度に休んでいたし、食事も睡眠も取っていた。何よりエヴァリンがそこら辺を徹底させていて、リコリスもそれに従っていた。
 それなのに、この身体はこんなにも簡単に悲鳴を上げてしまう。
 悔しいし、情けなかった。出たくもない涙が滲み出る。
「ら、ラト?」
 そんなリコリスをラトヴィッジは抱き上げ、勝手に歩き出す。仕事を中途半端に放り投げるわけにはいかないと彼を止めようとするも、すべて無視されてしまった。
 振り返って一緒に働いていた使用人に謝罪をすると、彼女は気分を悪くするどころか、ゆっくり休んでくださいと言ってくれた。その優しさに甘えることになったが、申し訳なくて仕方がない。
 それに、ラトヴィッジも。きっと忙しいだろうにわざわざ合間を縫って来てくれたのだろう。
 周りに迷惑をかけないようにと頑張っていたはずなのに、今いろんな人に迷惑をかけてしまっている。これが空回りというものなのだろう。自分の行いを省みて、だんだんと落ち込んできた。
 リコリスの部屋へと運ばれ、ベッドの上に寝かせられる。
 ラトヴィッジに口の中を見られ、手首に指を当てて脈を診られ、聴診器で胸の音を聞かれた後は、首元まで毛布をかけられた。
「呼吸音や咽喉に異常はないな。やはり疲れがたまって発熱したようだ」
 ラトヴィッジが冷静に診断を下す。何かの病気ではないことには安堵したが、疲れだけで熱を出したことに悔しさが残る。こんなことでは、外で働きながら一人で暮らすなどできないのではないかと、ずっと塗りつぶしてきた不安が色濃くなってきてしまった。
 心なしか、先ほどより熱が上がったような気がする。
「熱が下がるまで安静にしていることだ。もちろん、下がったあとは数日様子を見る必要がある」
「……うん」
 その間、リコリスは昔の自分に逆戻りだ。ベッドの上に転がって、ただ寝ているだけの生活。昔はそれで仕方がないと割り切ってはいたが、動くことの楽しさを知ってしまった今は、そう思えない。
 一度休んでしまったら、何かが停滞する。そんな焦りのようなものが出てきてしまう。自分でも何をそんなに焦っているか分からない。
 エヴァリンもウィルフレッドも、使用人たちも皆、リコリスのすることを見守ってくれている。無理に追い出すわけでもなく、リコリスのペースでできることを増やし、そのときを待ってくれているのだ。
 待てないのはリコリスただ一人だけ。早く、早くと心が急く。
「それで? そんなに無理をしている理由は何だ」
「だから、無理なんかしてなかったって言っているじゃない」
「医者の目を誤魔化せると思うな。自分で気付いていないだろうが、ずっと何か思い詰めている顔をしている。そういうときの君は、不安を消すために無茶をやらかすんだ」
「何で分かるの……?」
 本当、ラトヴィッジには何もかもお見通しなのだ。どんなに隠しごとをしようとしても、そんなの無駄だと言わんばかりに暴かれてしまう。
「分かる。君のことは、何でも分かる。……分かるように努めてきた」
「それだけ私が厄介な患者ってことよね……」
「そういう意味ではないんだが……まぁ、ある意味そうかもしれないな。目が離せない、放っておけない患者だ。君は」
 ラトヴィッジは優しいから、根っからの医者だから、患者であれば放っておけないのだろう。きっとリコリスのことも、ブラッドリーだったときから見ているから、その生活ぶりも知っていたから気にかけてくれている。
 それが嬉しい反面、少し寂しい。
 何で寂しいと思うのかよく分からないけれど、何かが物足りないような気がした。
 リコリスは包み隠さず話した。エヴァリンがずっと自分の側にいて、ウィルフレッドとの仲を邪魔しているのではないかと気にしていたこと。そんな折、ウィルフレッドが彼女に『寂しい』と訴えていたのを偶然聞いてしまったことを。もちろん、濡れ場を目撃したことは言わなかったが。
 それから、この屋敷を出るために、まずは体力をつけようと考え、あとは一人暮らしをするためのスキルを磨くために使用人と一緒に働いているのだと話した。
 この屋敷で唯一何もしていない自分が恥ずかしかったことも少し口にした。
「何だか、お姉ちゃんにもそうなんだけど、ウィルフレッド様にも申し訳ない気持ちが溢れてきて……。早く自立しなきゃって焦ってしまって」
 情けない顔でそう言うと、ラトヴィッジは眉根を寄せて苦虫を噛み潰したような顔をする。
「エヴァリン様がどう思っているかは知らないが、ウィルに関しては、あいつは『寂しい』とか思うタマじゃない。どうせ、そう言ってエヴァリン様の心を揺り動かしていただけだ。君が気にする必要は、まったく、一切、微塵もない」
 幼馴染だからだろうか。ラトヴィッジは普段は紳士的だが、ことウィルフレッドに関しては少々手厳しいようだ。
 きっぱりと否定する姿がらしくなくて、リコリスは少し面を食らう。
「もしもあいつが君を本当に邪魔だと思っていたら、すぐにでも屋敷を追い出していただろうな。言葉巧みにエヴァリン様を説得して。あれは邪魔する奴には容赦がない。ということは、君は邪魔者とは認識されていないということだ。心配するな」
「そうね……ウィルフレッド様は優しい方だもの」
 分かりづらいけれども、彼の本質は決して厭われるものではないと知っている。
「皆、皆、優しいわ。優しくて、いつかしっぺ返しが来てしまうんじゃないかって思ってしまうくらいに、幸せなの。アマリスの家にいるときみたいに辛くないし、苦しくもない。温かくて、こんなに幸せでいいのってくらいに幸せ。幸せすぎて怖いの。私がこのままじゃ、この幸せがいつかなくなってしまうんじゃないかって」
 以前、幸せが壊れたのは一瞬だった。父が死んで、叔父が乗り込んできて。あっという間にエヴァリンと一緒に小さな部屋に押し込まれてしまったのだ。あのときの驚きも、不安も、そして、そんなリコリスを励ますエヴァリンの顔も忘れたことがない。
 いつも守られるだけの自分。足枷になっていた自分。それでもエヴァリンが許して今でも側にいてくれるのは、姉だからだ。姉として愛してくれるから。
 でも、人間関係は不変ではない。流動的で不安定で、そして脆い。それを知っているからこそ、リコリスは一度手にしてしまった幸せを失うのを酷く恐れていた。
 無理しなくてもいい、頑張らなくてもいいと言われても不安なのは、たしかな未来などないのだと知っているからだ。
 知っているから、期待もするし不安も抱いた。
「……なるほど。君は、今ある幸せを守ろうと必死なんだな」
 ラトヴィッジが小さく頷く。
 彼にそう言われて、ようやく自分が何故こんなにもがむしゃらなのか腑に落ちた。
 ストンと憑き物が落ちると、じわじわと胸に何かがこみ上げてくる。
 目頭が熱くなってきたとき、扉をノックする音が聞こえてきた。使用人が盥に水を入れて持ってきてくれたようだ。
 それを受け取ったラトヴィッジが戻ってくる。一緒に添えられてあったタオルを水に浸して絞ると、リコリスの頬に当ててきた。
「泣きたいか?」
 いつか言ってくれたように、ラトヴィッジはリコリスの心を解きほぐそうとしてくれている。そして、目から零れ落ちた感情の雫を拭い取り、リコリスの弱さをも拭い去ってしまう。
 拒絶はできなかった。
 それほどまでに打ちのめされていたし、ラトヴィッジに甘えたかった。こんな形で会いたくはなかったけれど、会えなくて寂しかったのだ。
 ずっと、ラトヴィッジに会いたくて堪らなかった。自分の素直な気持ちに気付く。
「……うん……泣きたい、かも……」
 だから、弱い部分を突いて、洗い流そうとしてくれる彼に優しくそう問われてしまえば、素直に頷くしかなかった。
 だって、頭を撫でるその手が優しい。
 冷えたタオルをそっと目元に当ててくれる優しさが、リコリスの心をドロドロに溶かしていく。張りつめたものが解れていくような気がした。
「俺しか見ていない。思い切り泣け」
 その言葉を皮切りに、涙が遠慮もなく零れていく。ボロボロ、ボロボロ。リコリスの強がりを押し流すように、とめどなく。
「……ラト……ラト……わ、わたし……っ」
「何だ?」
「……もっと、つよく……つよくっ……なりたいっ」
 心も身体も。エヴァリンのように毅然とした女性になりたい。何ものにも屈することなく、リコリスを守ってくれたあの人のように。
 もう守られるだけの自分では嫌だ。誰かの足枷になる自分も、人質になってしまうのも、幸せを邪魔してしまうのも。
 地に足を着けて、胸を張って『私は大丈夫!』と言う日を願っているのに、その兆しすら見えない。
「君は十分強い。心が強い。けど、身体に関しては早々には無理だ。人間の身体は壊すのは一瞬だが、作り上げるのには時間がかかる。そういうものなんだ。君だけじゃない、皆がそうだ」
 涙を拭いながら、ラトヴィッジが優しく、けれどもどこか寂しそうに微笑む。
「君が諦めない限り、きっと強くなれる。だが、そうなるまで、こうやって何度も躓くときがあるだろうし、思い通りにいかなくて心が苛まれるときもある。けれども、君はそれを乗り越えられる心の強さを持っている。だから、大丈夫だ」
「……ラトに頼りっきりなのに……?」
「俺は、君に頼られるためにいるんだ」
 何で私のためにそこまでしてくれるの?
 そう問いたかったけれども、涙が邪魔をして言葉がこれ以上紡げなかった。
 ただただ、今は彼の甘さにすべてを預けたくて、その心地よさに目を閉じる。
 きっと、リコリスの心が強く見えるのだとしたら、それはラトヴィッジのおかげだろう。いつも泣かせてくれるし、弱音も聞いてくれる。そしてそれらを拭って、励ましてもくれるのだ。彼のおかげでまた新たに前を向くことができている。
 もしもこの先、ラトヴィッジと会えない日々が来るのだとしたら。そう思うと少し怖い。
 彼に依存しない自分になりたいし、でも、失っても平気な自分にもなりたくない。
「……ラト」
「何だ?」
 名前を呼んで、応えてくれる。そんな距離にいつもいたいと願ってしまったら、それはあまりにも分不相応だろうか。どんな形であれ、こうやって会えるような関係でいたいと言ったら、彼は困ってしまうだろうか。
「ありがとう」
「いいんだ。君が頑張り屋だから、俺も何かしてあげたくなる」
 医者と患者という関係からまた違ったものになりたいと言ったら、ラトヴィッジはどんな顔をするだろう。
 どんな関係がいいかと問われれば、リコリスにもよく分からないのだが。それでも、ブラッドリーのときのように、もっと身近に彼を感じたい。
 ただ、それだけだった。

 ところが、数日後、再びラトヴィッジが往診のためにクルゼール邸にやってきたとき、驚くべき提案をされた。
「私が、ラトの職場に?」
 目を見開いて、彼が言った言葉を繰り返すように問うと、ラトヴィッジは大きく頷いた。聞き間違いではなかったことに再び驚き、そして戸惑う。
 ラトヴィッジは、今後屋敷を出て働くつもりならば、今度開院する彼の病院で助手として働かないかと言ってきたのだ。しかも、ラトヴィッジの家に住み込みで。
 職を探さなくてはと思っていたリコリスにとっては願ってもない話だが、それを二つ返事で了承していいものなのか迷う。
 まず、独り立ちをしようとしているのに、結局ラトヴィッジに頼ってしまうのは本当にいいのだろうかという懊悩。次に、男性の家の転がり込むというのは、世間体としてはどうなのか。エヴァリンが許しはしないような気がする。
 もちろん、往診の際エヴァリンも同席するので、ラトヴィッジの話を一緒に聞いている。
 ラトヴィッジの提案をどう受け取ったのか気になってちらりと見ると、あちらもこっちに視線を向けてきた。エヴァリンもまた戸惑っているようだ。
「開院は今から半年後だ。それまでに多少は医学のことを勉強してもらうが、勤務自体は他の助手と半日交代だ。一日四から五時間といったところだな。その分、給与は安くなってしまうが、俺の家で過ごせば生活費はかからない。どうだろう? ちょうど人手を探していたところなんだ」
 おそらく、普通に探していたらこんな条件のいい仕事は見つからないだろう。一日中働いても、給与は碌にもらえないところも多く、そして労働環境が過酷なのだと聞く。
 渡りに船というのはまさにこのこと。半年間、具体的な目標を持って準備ができる点も魅力的だ。
「正直、助手と言えども楽な仕事ではないとは思う。病人相手だし、力仕事も出てくる。でも、リコリスに何かあったらすぐに診察できるし、エヴァリン様にすぐ繋げるという利点もある」
「たしかに、その点でも私もラトヴィッジの近くにいてくれた方が安心だわ」
 エヴァリンが、ラトヴィッジの言葉に深く頷いた。
「そしてこれが一番の理由だが、君が一人暮らしするにしても、決して治安がいいとは言えないところに置いておくのは俺も不安だ。あのアパート群に女性一人で暮らすのは、何かと危険が多い」
「そうなの?」
「住人同士で喧嘩になったり、男が押し入ってきて暴行されたりという話もよく聞く。決してお薦めできない場所だな」
 淡々と語られる内容に、リコリスは顔を真っ青にさせた。エヴァリンも同じ顔をして固まっている。
「さすがに、エヴァリン様もそんなところにリコリスを住まわせるのは嫌でしょう?」
「当然です!」
 リコリスもそれには頷くしかなかった。そんな危険な場所で暮らすのはさすがにごめんだ。町の皆がどのように暮らしているかを、使用人たちから聞いて知っていたつもりだったが、まだまだ認識が甘かったようだ。世間知らずが暮らすには危険すぎる。
「リコリス、ラトヴィッジがそう言ってくれているんだもの、そうしましょう?」
「お姉ちゃん?」
 そんな怖い話を聞いたからか、エヴァリンは俄然乗り気だった。リコリスをたった一人で町に出すよりも、その方がいいと判断したのだろう。
「で、でも、ラトと同じ家に二人きりで暮らすって……」
 それではまるで新婚の夫婦みたいではないか。それこそ、未婚の男女が一つ屋根の下で寝食を共にするとなると、そういうことを意識せざるを得ない。
 ラトヴィッジにとっては、リコリスは患者でしかないのに。
「二人きりじゃない。家政婦が住み込みでいる。実質屋根の下で三人だな」
「三人……」
 そう聞いて、安心したような、がっかりしたようなよく分からない気持ちになる。最近ラトヴィッジと話していると、そういうときが多い。

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