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【37話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

「今夜は夫婦で過ごそう。夜はずっと一緒だ。そのために、今のうちにこうやって準備をしておかなくちゃね」
「……まって……まってウィルっ……ンぁっ……あぁっ!」
 これ以上はここにいられないと、リコリスはそっと走り出した。緊張で上がりそうな息をどうにか潜めて、自分の部屋へと逃げ帰る。
 ベッドに横たわり、いまだに静まらない胸の上に手を置いた。
 とんでもないものを見てしまった。
 姉の艶やかな声や表情、そしてそんな彼女を攻めるウィルフレッド。スカートの中で何がなされていたのかは分からないが、おそらく卑猥なことだろう。二人きりの部屋で、誰も来ないと思って行われた秘めごとを、リコリスが偶然見てしまったのだ。
(……お、大人の世界だわ)
 結婚した二人があんなことをしていたとしてもそれは当然なことだ。ただ、夜にすることだとばかり思っていたので、面を食らってしまった。きっと、出張から帰ってきたウィルフレッドが、エヴァリンを恋しがって、我慢できなかったのだろう。
 だが、それより何より、彼は気になることを言っていた。
 やはりウィルフレッドは、リコリスにべったりなエヴァリンに思うところがあったようだ。口調は至って穏やかだったが、明らかに拗ねていた。
 予感は当たっていたのだ。
 そうなると、一刻の猶予もない。
 二人の愛のために邪魔者は可及的速やかに、そして穏便にこの屋敷を去っていかなければならない。以前からそう思ってはいたが、先ほどのことで急に現実味を帯びてきた。
 ただ、ぼんやりと考えるだけではダメだ。具体的にどう行動すべきか考えなければ。
 リコリスは飛び起きて、さっそく紙とペンを抽斗から取り出す。
 まず独り立ちするためには、住む場所が必要だ。アマリス邸はもうないのだから、どこか間借りをしなければならないだろう。あの街中に並ぶアパート群の一室でもいいだろうか。
 その前に、住む場所を借りるお金も必要だ。
 正直、手元にお金はあまりない。父の遺産はウィルフレッドを通して返してもらったものがあるが、自身の治療費を考えると心もとない。そうなると職も必要になるだろう。紙に必要なものを書き連ねていく。
 なら、自分にできそうな仕事は何だろうという考えに及んだ。
 一応、淑女教育の一環で勉強はやってはきたが、身体が弱かったのでエヴァリンほどのことは学べなかった。両親も、学がなくともその愛嬌だけで充分だと言ってそこまで積極的ではなかったので、頭を使った仕事は自信がない。
 そうなると、必然的に身体を使った仕事が残る。どこかで使用人として働くか、もしくは工場で雇ってもらうか。国中から首都に出稼ぎに来る人が後を絶たないくらいだ、工場で雇ってもらえる見込みはある。
 そうなったときに必要なのは体力だろう。長時間労働にも耐えられる強靭な体力。
 外に出て歩くだけですぐに疲れてしまう今のリコリスでは、就職できたとしても使い物にならない。すぐにクビを切られてしまうのが関の山だ。
 体力をつけなければ何も始まらないし、エヴァリンも安心して外に出してくれないだろう。
 紙にごちゃごちゃと書き込んだ中で、『体力』という文字に大きく丸をつけて、リコリスは意気込む。第一の目標は決まった。あとは実行あるのみだと。
 とにかく体力をつけるには、よく食べてよく動いてよく寝ればいいのだ。それが自分の身体を頑丈にしてくれるはずだ。
 まずは今日の夕食から。病気の期間が長かったので、胃が小さくなってしまったのかあまり多くは食べられない。食卓に並べる量から少なくしてもらっているが、今日からはエヴァリンよりも多めに出してもらうことにした。厨房に行って、その旨を伝える。
「どうしたんですか? 突然」
 使用人に驚かれてしまったが、リコリスはただ『今日から頑張って食べようと思って』としか言わずに立ち去った。できれば、おおごとにしたくはなかった。
 なるべく人には知られたくない。エヴァリンが知ればきっと反対をして、大変なことになるのは目に見えている。
 さっそく、夕食の場に並んだ料理を見て、リコリスは頑張って食べるぞと心の中で気合を入れた。少しでもお腹を減らそうと、部屋の中をぐるぐると歩き回ったので空腹にもなっている。
 牛肉のシチューは大好物なので、食が進みそうだと期待した。そして期待通り、いつもより多く食べられたし、とっても美味しかった。お腹がはち切れそうなほどにいっぱいになって苦しいけれど。
「今日は随分と食べるね」
 ウィルフレッドがリコリスの食欲に気付いて言ってきた。
「大好物ですから」
 そう答えると、彼は『それはよかった』と小さく微笑む。
「食欲があるのはいいことだね」
 そしてウィルフレッドはエヴァリンに同意を求めると、彼女は上の空だった。
「ねぇ? エヴァリン?」
 もう一度彼が問うと、エヴァリンは我に返ってから返事をする。頬をほんのりと染めて、熱に浮かされたような顔の彼女に何が起こったか知っているリコリスは、少し気まずかった。あの後、どれほどウィルフレッドに熱く求められたのだろう。こっちまで顔が赤くなりそうだ。
 だが、そのおかげでエヴァリンは食堂を出るまで、リコリスの食事量の変化には気付かなかった。そのままウィルフレッドにエスコートをされ、部屋へと戻っていったようだ。
 さて、自分も早めに部屋に帰って寝てしまおうと思い立ち上がる。早寝早起きは健康には欠かせない。
 だが、結局その後、消化不良を起こし、寝るどころか気持ちの悪さでベッドの上で唸る羽目になった。どうやら一気に食べすぎたようだ。
 翌日の朝も胃の重さに頭を悩ませながら食堂へと行く。
「おはよう、リコリス」
「おはようございます」
 そこには珈琲を飲みながら書類を読んでいるウィルフレッドがいた。エヴァリンの姿はなく、その理由を察したリコリスは赤らんだ頬を隠すようにサッと席に着く。
 ときどき、エヴァリンが朝食の席に現れず、お昼近くまで部屋で休んでいたときがあったが、なるほどそういうことだったのかと今さらながらに気が付いた。昨晩は、相当熱い夜だったようだ。エヴァリンが起き上がってこられないほどに。
「エヴァリンは、朝食はいらないそうだ」
「そ、そうですか」
 存じております! と心の中で叫びながらドキドキした。何となく二人の艶っぽい雰囲気に慣れない。
 気を取り直して朝食を頂くことにしようと、食卓に目を落とした。皿に盛りつけられた食事の量に、ウっと息を詰まらせる。自分で決めて頼んだこととはいえ、昨晩消化不良を起こした胃に入れるには尻込みする量だった。
「昨日から、食事の量を増やしているみたいだけど」
「は、はい!」
 どう食べ切ろうかと悩んでいると、ウィルフレッドが声をかけてきた。何かを察したのか、それとも思うところがあるのか。その考えを読み取らせない顔で問われると、緊張が高まってしまう。
「何をするにしても、焦って進めてはことを仕損じる場合が多い。無理はしないようにした方がいい」
 ところが、彼はリコリスから事情を聞き出すわけでもなく、助言のようなものをくれた。もしかして食事の量だけで計画がバレてしまったのだろうかと聞きたかったが、それは憚られた。小さな声で返事をし、ただ所作なさげに俯く。
「君が無理をすると、心配する連中が多い。もちろん、僕もその一人だ」
「ありがとうございます」
 何だか気恥ずかしかった。ウィルフレッドにそんなことを言ってもらえるとは思っていなかったのだ。てっきり、リコリスのことをエヴァリンのおまけとしか思っていないと考えていた。
 ただ分かりづらいだけで、本当は懐の深い人なのかもしれない。
「忘れないで、リコリス。君は君のペースでやっていけばいいんだ。変に遠慮して焦ったりしなくてもいい。特に僕にはね」
 たしかに優しいが、その本心の見えないところがリコリスは少し苦手だった。平然を装ってはいたが、話すときはいつも緊張していた。
 けれども、エヴァリンが彼に惚れた理由が分かったような気がした。
 そして、分かれば分かるほど、リコリスがエヴァリンと離れていた間、彼女を支えてくれていたことに感謝の念が溢れてくる。言うなれば彼はアダルバートの八つ当たりの被害者であるのに、いつも手を差し伸べてくれるのだ。エヴァリンはその手を素直に掴めないでいるようだが。
「ウィルフレッド様は優しいですね」
「優しい? 僕が? よく皆に優しくないって言われるけどね」
「多分、優しさの使いどころが絶妙すぎて、皆気付かないんですよ。それに、優しいだけの人なら、お姉ちゃんは惚れなかったと思います」
 リコリスの言葉に、ウィルフレッドが少しくすぐったそうに笑う。嬉しいと言っているような、そんなエヴァリンを愛しているのだと言うような。
 その顔を見ていたら、無性にラトヴィッジに会いたくなった。
 次の往診まであと十日以上ある。
 彼は今何をしているだろうか。
 ただ、ただ、その顔を見たい。

 リコリスは今日も朝食を何とかお腹に収め、食休みをした後に今度は運動だと部屋を出る。さすがに一人で出るのは無謀だと思ったので、ちょうど外に買い物に行くところだった使用人にお願いをしてついていくことにした。
 歩いて商店街に行き、二、三軒立ち寄って買い物をしただけなのに、帰りはフラフラになってしまった。それでも屋敷に着くまで自力で歩き続けたのは意地だ。荷物もひとつ持たせてもらって、どうにかこうにか使用人の迷惑にならないように足を動かし続けた。
 ちらりと隣で歩く使用人を盗み見る。先ほど荷物を渡されたときに見えた彼女の腕は、肉のついた健康的なものだった。骨張って今にも折れてしまいそうなリコリスの腕とは全く違う。
 長時間歩くにしても荷物を持つにしても、そして働くにしても。あのくらいにならなければいけないのだろう。そうなるには、果たしてどれほど食べて運動すればいいのか。
 それに、彼女は女性としても魅力的だった。エヴァリンもそうだが、出るところは出て、くびれるところはくびれている、男性が好むような体つき。
 肉も肌のハリもなくした自分のものとは段違いだ。貧相すぎて、比べると泣きたくなるほどの差があった。
 きっと触ったら気持ちいいんだろうなぁ、と羨ましい気持ちで見ていると、使用人の女性は『どうしました?』と不思議そうに見てきた。慌てて何でもないと返し、自分の行いに恥じ入る。
 もし、体力がついて健康的になったら、この貧相さも少しはなくなるだろうか。特に胸辺りには肉がついてほしい。
 もしも、万が一。今後、エヴァリンのように結婚して夫と抱き合う日がきたら、と考える。
 今まで曖昧だった結婚のイメージが、病気を克服し、そしてエヴァリンたちの様子を間近で見ることによって、より明確になったような気がする。
 自分はこれから誰と抱き合うのだろう。寄り添い、この心も身体も誰かに預ける未来がやってきたとき。そのとき、自分はどんな自分になっている?
 今、初めてそれを意識した。

 やっとの思いで屋敷に帰ると、少し休憩を挟んだ後に使用人の仕事を手伝わせてもらった。
 最初はそんなことはさせられません! と強めに言われたが、いつか嫁ぐ日のためにいろいろと学びたいのだとお願いをしたら、渋々だが了承してくれた。その日は洗った皿を布巾で拭く仕事を与えられた。座りながらやってくださいと気を使われてしまったが。
 ただ皿を拭くだけと思ったが、これがなかなかに大変だ。陶器の皿を割らないように丁寧に扱わないといけないし、小皿はいいが大皿ともなると重くて片手で持つのがやっとなのだ。油断すると手から滑り落ちそうになる。
 一緒に皿を拭いている使用人は簡単そうにやっているのにと、その手際の良さに感心してしまう。慣れもあるのだろうが、手つきからして違うのだ。
 周りを見渡すと、他の使用人たちも忙しそうに動いている。これらを取り仕切るのが家令であるラトヴィッジの祖父と、家政を任されているエヴァリンだ。それぞれが役目を持って仕事をこなしている。
 リコリスはこの屋敷で自分だけが役目もなく、ただ時間を持て余していることに後ろめたさを持った。焦りが出てきて、徐々にやれることを増やしていきたいと強く思うようになる。
(……私も何か始めなきゃ)
 ただ体力をつけるだけではない。この屋敷を出るだけですべてが上手くいくわけではない。人生は長くて山あり谷ありで、そして世知辛い。ずっとぬくぬくと家に閉じ篭って過ごしてきた自分に、本当にできるのかと不安が徐々に大きくなる。
 目標を持って何かに取り組もうと動いた途端、視界が開けたために考えさせられることも多いのだ。それに、自分の考えの甘さも突き付けられたような気がする。
 町に出たときや新聞に載っている求人に目を通しても、女性の働き手を求める広告はあまりなかった。あったとしてもすぐに埋まってしまうのだそうだ。
 使用人たちに、どうやってクルゼール邸に就職したのかと聞けば、そのほとんどが紹介だった。間口の狭い採用枠に入り込むには、結局コネがものを言うらしい。
 ならば、ウィルフレッドに頼んでどこかに紹介してもらった方がいいかもしれない。いや、その前にこの如何ともしがたい体力不足の身体をどうにかしなければ。いや、でも自分を採用してくれるところがあるだろうか。
 考えが堂々巡りになり、不安だけが渦巻いた。
 結局、がむしゃらにやるしかないと自分に言い聞かせて、思いつく限りのことをした。
 急に動き回り始めた妹に驚いて、エヴァリンは心配してやめさせようとしていたが、『大丈夫』と言って押し通している。
「これも自分のためなの。だから、私を甘やかさないで」
 そう言うと、エヴァリンは、あとは何も言わなかった。心配性ではあるが、リコリスの気持ちもまた尊重してくれる。
 それでも、ただ黙って見守ることもできなかったのか、使用人を一人専属でつけてくれて、彼女から学べるようにと取り計らってくれた。おかげで毎日何かしら仕事をさせてもらえている。
 昔のようなベッドの上で寝て、ときおり起きては刺繍をするだけの生活とは違い、とても充実していた。
 掃除も洗濯も、そして料理も、一通りのことをさせてもらって、家を回すにはどれほどすることがあるのか、労働とはどういうものなのかを学んだ。気付きも多く、世界が徐々に広がっていく。
 シーツを洗い、日のもとで干したときの爽快さや、言われた通りに作っているのにシェフとは同じ味にならない料理の奥深さ。埃が舞ってしまう掃除はどうしても苦手だけれども、自らの手で綺麗になっていく様子を見るのは楽しかった。
 新たな経験にいつの間にか夢中になっていた。自分の中にある不安を塗りつぶすように没頭していたのだろう。
 自分でもそれに気付かなかった。
「リコリス」
 ある日、ラトヴィッジがひょっこりと屋敷に顔を出した。往診の日ではないのにどうしたのだろうと首を傾げていると、彼は唐突にリコリスの頭に手を乗せてくる。
 そして神妙な顔をしてきたのだ。
「どうしたの? ラト。誰か病気?」
 自分以外にラトヴィッジに診てもらうほどの人がいるのだろうかと心配になったが、彼は首を横に振る。
「ウィルから連絡を貰ってな。往診の前に、リコリスの様子を見に来てくれと」
「ウィルフレッド様が?」
 どうしてだろう、と考えているうちに、ラトヴィッジの手が首筋に回ってきた。驚くほどにその手が冷たくて、びくりと肩を震わせる。

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