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【36話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

「それで、君はこんなところで何をしていたんだ?」
「眠れなくて。だから気分転換をしようと思って。ラトこそどうしたの? こんな遅くに」
「じいさんに今までのことを報告していたら遅くなった。今日はここに泊まっていこうかと思って準備をしていたら、窓から薄着の君が見えたんだ」
「そっか。ありがとう、心配してくれたのね」
 それでわざわざ毛布を手にここまで来てくれたのだ。無謀なリコリスの身体を思って。
 顔に笑いを貼り付けて明るく言葉を返すと、ラトヴィッジはチャコールの目を細め、こちらを観察するように見つめてくる。
 まるでリコリスの心情を見透かそうとしているかのような目に、ドキリとした。以前にも同じような目を向けられたことがある。
「昼間は散々だったろうからな。眠れなくなって当然だ」
「……そうね」
 ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。
 また思い出してしまった。エヴァリンの泣きそうな顔、叫ぶ声。銃を向ける手は微かに震えていたし、あの毅然とした態度も相当無理をしていたのだろう。
 リコリスが静養していた家を見上げ、ウィルフレッドの腕の中で涙を流す彼女を見たとき、胸が締め付けられた。あの涙にどれほどの苦しみと苦悩が詰まっていたのか。ただ、のうのうと寝ていた自分には想像もつかない。
「お姉ちゃん、大丈夫かしら。結構無茶したみたいだから、ウィルフレッド様に責められてないといいのだけれど」
 ふと、二人の寝室の窓を見上げる。うっすらと明かりが見えるということは、まだ起きているのだろうか。二人で積もる話もあるだろうし、話し合うこともあるだろう。
 義兄のウィルフレッドは優しそうな相貌をしていたが、一方で叔父の事業を潰し、アダルバートの横っ面を容赦なく蹴り上げる苛烈さも持ち合わせている。エヴァリンを優しく諭してくれるのであればいいが、あの激しさをもって接していたらどうしようという危惧もあった。
 多分、大丈夫なのだろうけれど。エヴァリンのために相当手を尽くしてくれていたようだし、何より涙を流す彼女を抱き締め慰めていたときの顔は、愛に溢れていた。
「今回のことで咎められることはないだろう。あいつもすべてを知っていたうえでエヴァリン様を好きにさせていた部分もあったからな。……まぁ、別の意味でねちっこく攻められているかもしれないがな」
「別の意味?」
「……何でもない」
 何故か彼は気まずそうに目を逸らしてしまう。詳しく聞きたかったが、ラトヴィッジはこれ以上聞いてくれるなという顔をしたので諦めた。
 きっと、リコリスが知らない何かがあるのだ。狭い部屋に閉じこもっていた、世間知らずの自分には分からない何かが。
「ねぇ、ラト。覚えてる? 私が以前、泣きながら貴方に言ったこと」
「覚えている」
 即答されて、思わず笑ってしまう。
 本当なら恥ずかしすぎて、今すぐにでも忘れてほしい思い出だった。『覚えていない』と言われることを期待していたが、彼はそうは言ってくれなかった。
 それが嬉しいやら、困ったやら変な気分だ。
 だって、リコリスがあんなこと思っていたなんて、絶対に他の人には知られたくない。特にエヴァリンには絶対に。
「私、あのとき本当に酷いこと言っていたよね。今日、アダルバートに騙されていたんだって知ったとき、自分で自分が恥ずかしくて仕方がなかった。――お姉ちゃんに見捨てられたんだ、なんて……嘘でも言うべきじゃなかったって後悔している」
 上手く呼吸ができなくて、しようと思っても咳き込んで。眠りもできないし、かといって起き上がることもできなかった日。もう病に心が挫けそうで、それでも必死に涙を堪えていたときに、ちょうどブラッドリーが様子を見に来てくれた。
 大丈夫ですか? と甲斐甲斐しく世話をされて、ポロリと零れ落ちてしまったのだ。ずっと隠していた本心が。
『こんなに苦しいのにお姉ちゃんは側にいてくれない。きっと私が嫌になって逃げてしまったのよ。今頃、せいせいしたって思っているわ』
 散々咳き込んで痛めた咽喉から掠れた声しか出なくて、熱で頭が朦朧として。八つ当たり同然にブラッドリーにぶちまけてしまったのだ。
 彼は、冷静な顔でそれを受け止めていた。
 そして、水を張ったたらいに入れていたタオルを絞り、それをリコリスの頬に当ててくれた。
『泣きたいときは泣くべきです。どうぞ、遠慮なく。しっかりとこのタオルで拭き取ってあげますし、目が腫れたらこれで冷やして差し上げます』
 とんでもないことを言うリコリスを諫めるでもなく、彼はただぶちまけろと言ってきた。こんな最低なことを言っているのにと、逆にリコリスの方が戸惑う。
『気持ちの不安定さは身体にも作用します。弱音を吐きたいときは思い切り吐けばいいんです。その方が身体にいい』
 ブラッドリーが、リコリスの気持ちを静めるようにタオルで額を冷やす。その後、首筋に当てて、温くなってしまったタオルをまた水に浸した。
『ただ、私が言えるのは、リコリス様の知るエヴァリン様は本当にそうなのかという問いだけです。その答えは貴女の中にしかありませんので、ご自分で考えてください』
 リコリスの知るエヴァリンは、いつも懸命だった。不遇の立場に置かれても、どうにかそこから抜け出そうとする、戦う美しい人。そして優しかった。大切にしてくれた。
『……お姉ちゃんは……そんな人じゃないわ……何で私、馬鹿なこと……』
 大粒の涙が溢れてきた。自分の愚かさが情けなくて、こんなことを考えてしまう自分が嫌で、――エヴァリンに会いたくて、ただ会いたくて、とめどなく零れ落ちる。
『誰でも一度くらいは愚かな考えに行きつくものです。けれども、それを貴女は正せた。自分に問うことすらできない人も、世の中にはいます』
 また冷たくなったタオルを頬に当てられて、リコリスは目を閉じた。涙が頬を濡らす前に、ブラッドリーが優しく拭ってくれる。
『どうぞ、お好きに泣いてください』
 その言葉に、ぐちゃぐちゃだった心が解れていった。泣いて泣いて泣いて。すべてを出し切ったのだ。
 あんなみっともない姿を見せたのに、ブラッドリーの態度は変わらなかった。軽蔑をするわけでもなく、泣いたことをからかうわけでもない。ただ、泣きはらした目があまり腫れなかったことに安堵していた。
 だから、後悔したのだ。たとえブラッドリー相手でもあんなエヴァリンを裏切るようなことを言うべきではなかったのだと。あのとき彼の優しさに甘えてしまったが、きっとエヴァリンは甘えられる人も側におらずに、涙を呑み込み続けてきたのだろう。
 今度はリコリスが涙を呑む番だ。呑んで、エヴァリンが幸せになれるように手を貸したい。
 そう思うのに、気が緩む。
 ラトヴィッジと話していると、どうしても張りつめた心が、彼に縋りそうになってしまう。諸々の感情がこみ上げてきて、それを後押しするように涙腺も緩んでくるのだ。
 それではいけないと、リコリスは懸命に涙を堪える。強くならなくては。そうでなければ守れるものも守れない。その姿を今日、エヴァリンとウィルフレッドが見せてくれた。
「だから、言っただろう。泣きたいならいつでも泣けと」
 ところが、ラトヴィッジはリコリスの頭に手を置き、ポンポンと宥めるように撫でてくる。我慢など無用だと言うように。
「あのときの言葉は、俺と君だけの秘密だ。俺は誰にも言うつもりはないし、君が本当にあんなことを思って言ったのではないと知っている。けど、やっぱり嘘でもあんなことを言ってしまった自分が許せないのであれば、その罪を悔いていくらでも泣け。俺がまた涙を拭ってやる」
 一度出してしまった言葉は、なかったことにはできない。後悔は付き纏うし、エヴァリンがリコリスのためにしてくれたことを思うと、どうしても自分が許せなかった。
「……ラト……何でそうやって私を泣かそうとするのぉ……?」
 自己憐憫に浸るなんてしたくない。泣いて後悔なんて、自分の愚かさを曝け出すようで嫌なのに、それなのにラトヴィッジが頑なな心を解そうとする。
「我慢はよくないと何度も言っているのに、君がすぐ我慢しようとするからだろう? これは治療の一環だ」
 眦に溜まっていた涙が零れ、それを皮切りにポロポロと雫が落ちてくる。嗚咽を漏らし泣くリコリスの頭をラトヴィッジが抱き寄せた。
「君の涙を見るのも、君の弱音を聞くのもこの世界で俺だけだ。君の弱いところを知っているのも俺だけだ。だから、思い切り泣け」
 じっくりと、ゆっくりと。リコリスの中で何かが剥がれていくような気持ちになる。涙が流れれば流れるほどに、鉛のように重かった身体が軽くなり、愚かなリコリスを救うのだ。
 ラトヴィッジの言う通り、きっとこんな姿は彼にしか見せられないだろう。
 エヴァリンにも見せられない、自分の弱さを曝け出せるのはこの世に一人だけ。彼だけがただ静かに受け止め、リコリスの側にいてくれる。
 アダルバートがエヴァリンに酷いことをしていたと聞いたとき、従僕であった彼もまた同じようなことをしていたのかと疑ったが、そうではなくて本当によかったと心の底から思う。
 ラトヴィッジがリコリスの味方でいてくれる。それがどれほどまでに心強いか。
 いまだ身体も心も弱くて頼りない自分だけれど、いつかは誰からも頼られる、誰かの力になれる自分になりたい。
 だから、そのために今は。
 隣で弱さを曝け出してもいいと言ってくれる優しい人に、この心を預ける。優しさに甘えて涙を流す。
 明日にはきっと、強い自分でいられると信じて。

 ◇◇◇

 クルゼール邸にやってきて、一ヶ月。
 リコリスはこちらに来てからも静養に努めた。医師の免許を持っているラトヴィッジがそのまま主治医になってくれて、彼がもう少し身体を休める必要があると言ってきたからだ。
 夜中に薄着で庭に出たことで、『絶対安静だ』とかなり念を押されたが。
 そのおかげか、病気をする以前の状態にだいぶ近づいたような気がする。薬がよく効き、ときおり胸が苦しくなることもなくなった。
 ベッドの上の住人でいた期間が長かったので、体力がなくなってしまっていた。外に出て歩こうにも、すぐに疲労感が襲ってきて難しい。
 そんなリコリスを一番心配していたのは、エヴァリンだ。常に側にいて、使用人同然に世話を焼いてくれるのだ。自分でできると断っても、無理はいけないと頷いてくれない。
 世話をしているときのエヴァリンはとても嬉しそうで、その顔を見ると強くは言えなかった。おそらく、ずっと会えなかった期間を埋めたいのだろう。
 リコリスだってエヴァリンに会えなくて寂しかった。ずっと会いたかったし、恋しくて泣いた。気持ちは痛いほどに分かる。
 けれども、それでは独り立ちできないのだ。いつまでも、姉の嫁ぎ先に厄介になっていてはいけないだろう。少しでも動こうものなら大袈裟なくらいに心配をされている状態では、なるものもならない。
 ラトヴィッジに主治医としてエヴァリンに口添えをしてもらおうかと思ったが、あいにく彼は定期的な診察以外はクルゼール邸にはやってこない。何かと忙しいのだと言う。
 アダルバートの懐に潜り込んだときの報酬をウィルフレッドから受け取った彼は、自分の病院を開く準備に邁進している。
 昼間は以前勤めていた医院に戻って働き始めたようだし、夢に向かって頑張っているようだった。そんな彼の手を煩わせてはいけないだろう。
 結局、自分が何とかしなければならないのだ。
 それにエヴァリンとウィルフレッドの仲も気になる。
 結婚して一年経っているとはいえ、和解をして本当の意味で夫婦になったのは最近のこと。いわゆる蜜月だろうに、ウィルフレッドを放っておいてリコリスといつも一緒にいるのは如何なものか。
 昨日までウィルフレッドも泊まりで出張に行っていて、何日か不在だった。本当は寂しくて仕方なかったくせに、素直にそんなことは言えなかったのだろう。リコリスと一緒にいるときに何かと構ってくる夫に対し、エヴァリンはつれない態度を取っていた。
 ウィルフレッドは明け透けに愛を語るが、エヴァリンは素直にそれを返せずにいる。本当は愛しているくせに、いろいろと考えてその胸に飛び込めないのだ。元々の性格もあるが、そうさせてしまった原因の一端は自分であると認識していたリコリスは責任を感じていた。
 心配なのだ。いつかエヴァリンがウィルフレッドに怒られるのではないかと。
 もう子どもではないし病気も治癒したのだから、自分のために時間を使ってほしいと一度腰を据えて話してみよう。そう思って、エヴァリンの部屋へと向かっていた。
 部屋の前までやってきたとき、中から話し声が聞こえてきて扉をノックしようと上げた手を止めた。扉は少し開いていて、そこから声が漏れているのだ。
 もしかしてウィルフレッドが来ているのだろうか。それならば出直そうと踵を返した瞬間、エヴァリンの声が聞こえてきた。
「……あっ……ウィル、……やめ……てぇ……」
 切羽詰まったような、涙を堪えるような声に、リコリスは引き返す。
 もしかして、これはエヴァリンの泣き声だろうか。ウィルフレッドがとうとう怒りを爆発させて彼女を叱りつけているのか。そうであるならば、今すぐ止めなくては。
 ドキドキしながら、扉の隙間から中の様子を窺った。
 エヴァリンは壁に一人でもたれかかって、眉根を寄せて苦しそうな顔をしていた。ドレスのスカートを握り締め、ときおりビクビクと身体を震わせている。
 彼女の他に誰も姿が見当たらなく、リコリスはあれ? と首を傾げた。たしかにウィルフレッドの名前を呼んでいたのに、どこにいるのだろう。
「……お、お願い……ウィル……ぁあっ……声が……声が漏れちゃう……」
 またウィルフレッドの名前を呼び、懇願するような声を上げていた。何がどうしたというのか。リコリスは視線を巡らせて、必死に彼の姿を探した。
「……聞かれるのは困る? まぁ、たしかにリコリスとかに聞かれたら大変だろうね」
 どこからかウィルフレッドの声がする。しかもリコリスの名前を出して。不明瞭なくぐもった声で、何かに耐えるエヴァリンをクスリと笑っている。
「……そ、んなの……あたりまえっ……あっ……あっ……あぁっ!」
 ビクビクと身体を反らして、エヴァリンは大きく喘ぐ。そして、その拍子に身体が崩れ落ちそうになった彼女を支えようと、ウィルフレッドは現れた。
 エヴァリンのスカートの中から。
(……えっ)
 顔を真っ赤に染め上げ息も絶え絶えになっているエヴァリンを抱き締めながら、ウィルフレッドはスカートを捲り上げる。すでに下着は下ろされ、内腿が何かに濡れていた。
 自分は姉の濡れ場を目撃してしまったのだ。
 そう理解できたリコリスは、扉から飛び退き背中を向ける。驚きと恥ずかしさで心臓があり得ないくらいに早鐘を打っていた。
「でも、そろそろ僕も限界でね。愛する妻がなかなかにつれなくて、寂しい思いばかりしている。姉妹で仲がいいのは微笑ましいことだけれどね、僕のことも構ってくれなければ、さすがに拗ねてしまう」
「……あっ……ヤダっ……あぁっ……ひぁンっ……指……やめてぇ」
 エヴァリンのあられもない声と一緒に、くちゅくちゅと何かを掻き回す音も聞こえてきた。この水音が大きくなればなるほど、エヴァリンの声も艶を帯びてくる。

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