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【35話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

 終章

「別にそれ無理して食べることないのよ? カモフラージュ用に作ってもらったものだし」
「いいの、食べるよ。身体にいいし、それにこの形可愛いもの。食べなきゃもったいないわ」
 リコリスらしい返事を聞いてエヴァリンは苦笑した。こうと思ったら頑固なのは一年会ってなくても相変わらずらしい。
 嬉しそうに自分と同じ名前のお菓子を含む姿を見て、エヴァリンは無性に嬉しくなった。
 こうやって再びリコリスとお茶ができるなど、一年前には想像もできなかった。笑い合っているとそれほどまでに彼女が回復したのだと実感できるし、またあのアマリスの監獄から自由になれたのだとしみじみ思える。もう二人で暗い部屋の中で肩を寄せ合って震えて寝る夜を過ごすこともない。
「一気に食べすぎないでね。貴女、よく好きなものは食べすぎちゃうから」
 リコリスが持っているのは、あのポンファール夫人に贈ってもらった薔薇の形を模したリコリスが入った瓶だ。あのときはスージーにリコリスに贈る予定だとは言ったものの、あまりいい思い出のないものを贈るのは忍びないと、自分で食べて処分するはずだったものを、部屋にやってきたリコリスに見つかってしまったのだ。
 味のよくないそれを好み、身体にいいからと食べていたリコリスが、欲しがらないわけがなかった。しかも薔薇の形をしていれば、可愛いもの好きの彼女にとっては、咽喉から手が出るほどに欲しいものだ。
 結局目を輝かせて瓶を見つめる彼女に根負けしてあげたものの、どこか申し訳なさがたつ。もちろん、睡眠薬などが混ざっていないかは確認済みだ。
 けれども、リコリスは何も知らず美味しそうに食べる。それは、リコリスがエヴァリンの罪の一部を食べてくれているようにも見えた。
「ラトヴィッジ、リコリスが食べすぎないように見張っていて」
「了解です」
 リコリスの傍らに立つラトヴィッジにお願いをすると、彼は一も二もなく了承する。リコリスもそれを満更でもなく受け入れた。
 元々面倒見がいいのかそれとも誰かから命令されているのか、彼は屋敷にやってくるとずっとリコリスの側にいて世話を焼いている。
 アダルバートも以前言っていたが、彼は医学を勉強しているようで、ブラッドリーとなる前は病院で医療に従事していたようだ。自分の病院を開業するつもりだったらしく、その資金を用意する代わりにブラッドリーになってくれとアダルバートから提案され、それを承諾したのだとか。
 クルゼール邸に戻ってからは、リコリスの主治医として足を運んでもらっている。
 リコリスの病気のことに関してはラトヴィッジに一任するようになっていた。
 しかし、エヴァリンは今も『ラトヴィッジ』と『ブラッドリー』の違いに戸惑うのだが、リコリスはそうではないのだろうか。
 口元を綻ばせながらリコリスを見るラトヴィッジを盗み見ながら観察した。ところがすぐにその視線に気付かれ、怪訝な顔を返される。
「何か?」
 エヴァリンには敬語なのに、この屋敷の主であるウィルフレッドに対して気安く話すのは、二人は幼馴染だかららしい。小さい頃から共に遊び学び、そして育ったのだとウィルフレッドが教えてくれた。
 だから、一番信頼できる彼にあんな難しい役を頼んだのだ。アダルバートの懐に潜り込むという危険な役を。
「いえ、ただ、本当にあのときのブラッドリーとは全然違うのだと思って……」
 不躾に見ていたことを恥じて俯きがちになった。実はいまだに苦手な部分もあるのだ。どうしても彼に見つめられてしまうと、アマリス家で味わった苦痛や絶望感を思い出してしまう。
「そうかしら? 多少笑うようになったとはいえ、ラトは前から私の前ではこんな感じよ? 心配性で少し口うるさい。私が無茶をすると目を吊り上げて小言を言うの」
「リコリスが少しでも元気になると、すぐに無茶するからだ」
 エヴァリンが知らない一年の間に、二人の時間があった。それは、リコリスの新たな世界への一歩だ。
 少し寂しい気もするが、彼女ももっと身体が元気になれば外に出てエヴァリン以外の人間とも交流を持つ。その中に友と呼べる人間もいるだろうし、恋人もいるかもしれない。いつかは独り立ちをして結婚すると思うと、徐々にエヴァリンも妹離れをしなければと思うのだ。
 当然、このままラトヴィッジと結ばれてくれたのなら、それに越したことはないが。
「どちらかというと、私はあのときのお姉ちゃんの変わりように驚いたわ。久しぶりに見たら物凄く怖いんだもの」
 リコリスが今度は矛先をこちらに向けてきて驚く。彼女はアダルバートを脅して隠れ家を案内させ、銃を突き付けていたエヴァリンの様子を言っているのだろう。
 あのときは絶対に失敗できないと張りつめていたのもあり、顔が強張っていたのかもしれない。今思い出せば、随分と大胆なことをしたものだと苦笑した。
「そうですね。俺もエヴァリン様のあの様子には空恐ろしいものを感じました。……まるでどこかの性格の悪い誰かを彷彿とさせます」
 涼やかな顔でそう言ってのけるラトヴィッジの横顔を、ちらりと見る。
「その性格の悪い誰かさんの真似をさせてもらっていたから」
 クスリと笑うと、ラトヴィッジは肩をすくめた。
「ところで、お姉ちゃん。本当に家はあのままでいいの?」
 そう問うリコリスを見ると、彼女は心配そうな顔をしていた。
「ええ。私は構わない。リコリスは嫌?」
「ううん。お姉ちゃんがいいなら、私もいいわ」
 ホッとしたような、少し寂しそうな。そんな複雑な面持ちのリコリスを、エヴァリンは慰める。
 あの後、ウィルフレッドがアダルバートに言っていた通り、叔父の事業は失敗して破産したのだと聞いた。売れるものはすべて売って借金返済に充てたらしく、アマリス邸も売りに出されていたのだ。
 ウィルフレッドは、エヴァリンとリコリスのために買い戻そうかと提案してくれた。リコリスとも相談はしたが今さらあの家に戻るつもりはなく、丁重にお断りした次第だった。
 もうあの家に家族が住んでいた頃の面影はどこにもない。逆に嫌な思い出ばかりが甦って、もうこのまま人手に渡った方がいい気がしたのだ。
 けれども、リコリスはいまだに引っかかるところがあるのか、最終確認のように聞いてきた。彼女は彼女で未練があるのかもしれない。
「もし、この先取り返したくなったら僕に言ったらいい。いつでも取り返してあげるよ」
「ウィルフレッド様」
 リコリスの手を握って擦っていると、いつの間にやってきたのかウィルフレッドが後ろから口を挟んできた。しかも甘やかすようなことを言っている。
「必要ありません。そのときは自分たちでどうにかしますから」
 おそらく、そんな日はこないと分かっている。リコリスも今は未練があっても、そのうち自分の『家』を見つけて、アマリス邸は思い出にしていくのだろう。
 エヴァリンもそうだ。良くも悪くもあの家は思い出になっている。
「自分たち、ね。君たちは本当に仲睦まじい姉妹だね。僕の入る余地はなさそうだ」
「いやだわ、ウィルフレッド様。お姉ちゃんの一番はウィルフレッド様ですよ?」
「リコリス」
 勝手なことを言うなと名前を呼んで咎めると、彼女は反省の色もなく面白そうに笑う。
 どうやらリコリスの中では、ウィルフレッドはエヴァリンの運命の王子様か何かかと思っているようだ。そんなことはないとは言ったものの、本気にはしてくれなかった。
「いつかそれを正直に言ってくれるようになれば、僕も嬉しいんだけどね」
 ウィルフレッドにこめかみにキスをされながら、エヴァリンは言葉を詰まらせた。
 素直になるのはなかなかに難しい。特にウィルフレッドに対しては、そのままのエヴァリンを見せているからこそ、愛の言葉を口にするのは恥ずかしく、そしておこがましくて仕方ないのだ。
「でもまぁ、僕は気が長い方だからじっくりと落としていくよ。逆に素直にさせるのが楽しみだ」
「や、やめてください! そういうことを言うのは!」
 リコリスの前では含みを持たせた言葉は控えてほしかった。彼女の顔を見てみれば、やはりニヤニヤとしながらこちらを眺めている。
「いいなぁ。お姉ちゃん、ウィルフレッド様に物凄く愛されていて」
「リコリス!」
 からかうのはやめてほしいと、顔を赤く染めながら嗜めた。
 昔はよくこうやってリコリスに弄られたものだが、こんなやりとりは随分と久しい。懐かしさと楽しさを感じる一方で、恥ずかしさは倍だった。
「もちろん、僕の愛は永久だからね。尽きることのない無限のものだよ」
 さらに追撃するようにウィルフレッドがしれっと恥ずかしい言葉を言ってくる。もう消え入りそうなほどの羞恥がエヴァリンの中に渦巻いた。
「珍しいな。お前がそんな胸焼けするような甘い言葉を言うなんて」
「失礼だよ、ラト。今まで抑えつけていた気持ちを遠慮なく出しているだけだ」
「ほどほどにしておけよ? あまり出しすぎると、お前の場合は重すぎてエヴァリン様が大変になりそうだ」
「大丈夫だよ。エヴァリンはこんな僕の愛をちゃんと受け取ってくれる。どんなに重くてもね。惜しみなく注がなきゃ」
 ウィルフレッドは静かに笑う。当然のことのように、淀みなく。
 彼の言う通り、あの日からウィルフレッドの言葉はエヴァリンに対していつでも真っ直ぐになった。以前のように回りくどいもったいぶった物言いはせずに、何の隔たりのない言葉をぶつけてきている。
 いつか、……いつの日か。
 エヴァリンもその言葉に全力で応えたいと思っていた。今はまだ、贖罪の意識が強く素直に胸の奥底にある愛情を乗せることはできないけれども。
 時が経ちリコリスが誰かと添い遂げて幸せになって、何も疑うことのない自分になれたのなら。
 そのときまで、沈み込んだ愛が変わらずそこにあるようにと。不埒なあなたがそこに揺蕩うようにと。
「最愛の妻だからね。大事な大事な、僕だけの……」
 ――永久の贖罪が続くようにと願いを込めて。
 そう願って、二人は静かに微笑み合った。

 番外編

 なかなか眠りにつくことができなかった。
 今日一日でたくさんのことがあったからだろう。
 喜んだし驚いたし悲しんだ。喜怒哀楽の感情すべてを短い時間で経験して、気持ちが高ぶっているのかもしれない。いまだにその興奮が冷めないのだ。
 リコリスは寝がえりを打ちながら、慣れない上等なシーツに手を滑らせる。手触りが良くて滑らかで、そして心地よい。
 アダルバートに連れられてあの小さな家で静養することになったときも、アマリス家の埃臭い部屋にあったベッドよりも清潔な場所で眠れることに感謝をした。それまではあまりにも環境が悪すぎた。エヴァリンがどうにか清潔に努めようとしても、アマリス家の使用人は石鹸すら使わせてくれなかったのだ。
 それに比べるとなんていい場所なのだろうと、初日に感動したのを覚えている。
 けれどもここ、クルゼール邸はそれを遥かに凌ぐほどの場所だった。至れり尽くせりで、使用人たちが清潔な寝具を用意してくれるし、皆リコリスに初めて会うのに優しくしてくれる。
 何よりここにはエヴァリンがいる。また一緒に暮らせると思うと嬉しくて舞い上がるほどだった。
 だが……。
 リコリスはおもむろに起き上がり、ベッドから下りた。もう屋敷中が寝静まる時間なので、物音を立てないようにゆっくりと部屋の外に出る。
 クルゼール邸にやってきて初日で勝手に徘徊するのは気が引けたが、庭に出るくらいならば許されるだろう。シンと静まる廊下を歩き、リビングの掃き出し窓から庭へと下りる。
 テラスに置いてあった椅子に座り、満月になりきらない、未完成の月を見上げた。
 そしてまた思い起こすのだ、昼間のできごとを。
 リコリスはずっと自分がいなくなれば、エヴァリンは幸せでいられるのだと思っていた。病弱な妹という重荷を背負う必要もなく、ウィルフレッドとも何の気兼ねもなく夫婦でいられるのだと。そうアダルバートに聞いていたし、リコリスも当然だと思っていた。
 ところが、真実はそうではなかった。逆にリコリスがいないことで、エヴァリンを長い間苦しめていたのだ。脅しの材料に使われ、アダルバートは彼女を好き勝手に使っていた。
 自分が人質になったことにも気付かずに、のうのうと暮らしていたなんて。
 手紙ひとつのやり取りで満足して、エヴァリンの苦しみに気付けなかったなんて、なんて愚かだったのだろう。
 ずっと自責の念が胸の中で渦巻いていた。
 それどころか、リコリスは一時期エヴァリンを疑ったことすらあったのだ。
 病状が思わしくなく、伏せる日が続いたときは特にそうだった。どうしてエヴァリンは側にいてくれないのか。手を握って『大丈夫だからね』と慰めてくれないのか。
 リコリスの看病に限界を感じて、逃げてしまったのではないか。そんな八つ当たりにも似た考えが頭の中を支配した。
 エヴァリンに捨てられてしまったのかもしれない。
 そう思うと悲しかった。自らエヴァリンに自分など捨てて幸せになってと言ったが、いざそうなってみると、想像以上の心細さと絶望が襲ってきたのだ。
 きっと彼女と会えない日々が続いたのも原因だったのだろう。普段は気にせずにいられることも、体調を崩すと弱気になってしまい、さらにリコリスを蝕んでいった。
 そんなとき、リコリスの弱さを受け止めてくれた人がいた。
 静かに、穏やかに。欲しい言葉をくれて、優しく勇気づけてくれる人。
「リコリス様、こんなところで何をやっているんです?」
 ブラッドリーが。
「ブラッドリー! 貴方こそどうしたの?」
 物思いにふけっていたところで声をかけられ、リコリスは大袈裟なほどに身体を飛び上がらせた。何故こんな夜中に彼がここにいるのかと、驚きの声を上げて返す。
 すると彼は、ひょいと片眉を上げて、呆れた顔をしてきた。
「それはこちらの台詞ですよ。それに俺は『ラトヴィッジ』です。『ブラッドリー』の役目は終えた」
「それもそうよね。ごめんなさい、ラトヴィッジ。……ラト、って呼んでも」
「ええ、構いません」
 本当の名前は他にあると知ってはいたが、ずっと彼を『ブラッドリー』と呼んでいたのだ。急に変えろというのはなかなか難しいもので、どうしても癖で呼んでしまう。それを申し訳ないと思いながら彼に頭を下げると、ラトヴィッジはふわりとリコリスの肩に薄手の毛布をかけてきた。
 再び彼を見やると、大きな溜息を吐かれる。
「そんな薄着で外に出るな。だいぶ良くなったとはいえ、君はまだまだ療養中の身だ」
「……ありがとう」
 彼も敢えて敬語を崩し、ラトヴィッジとして接してくれているのだろう。ブラッドリーの頃よりも幾分か気安い態度を取って、脇の椅子に腰を掛ける。
 以前だったら絶対にそんなことをしなかった。従僕の境界線を踏み越えてこようとはせず、どこか一線を引いてリコリスをこれ以上踏み込ませないようにしていたのだ。
 けれども、どちらの彼も本質はきっと同じなのだ。
 いつもリコリスの身体を心配してくれるし、小言も言う。さりげない気遣いや優しさは、ブラッドリーであろうとラトヴィッジであろうと変わらない。

作品詳細

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