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【31話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

 すると、今まで大人しかったアダルバートがここで吠えた。
「待て! お前、リコリスをどこへ連れて行くつもりだ!」
「どこへも何も、貴方には関係ないでしょう? もう二度と叔父様や貴方に関わることのないように遠くへと行くのよ」
「馬鹿な! 二人で遠くになど行けるはずがない! そもそもお前ら金がないだろ! はした金でリコリスの治療費が払えるのかよっ」
 たしかにアダルバートの言う通りだ。たとえ二人で逃げたとしても金がなければ治療費どころか生活も成り立たない。このご時世、身元も分からない女二人に家を貸してくれるほど優しくはないし、ましてや金がないとなると門前払いだ。
 ――つい先日まではそうだっただろう。
「あら、叔父様から聞いてないの? 叔父様が管理していた父の遺産を、ウィルフレッドが取り返してくれたのよ。随分と使い込まれていて全額とまではいかなかったけれど、それでも新天地である程度住めるほどの額が今は私の手の中。ご心配いただかなくても、ちゃんとリコリスと暮らしていけるわ」
「なにっ?!」
 案の定アダルバートは知らなかったらしい。理由は容易に想像できた。あの息子と同じく自尊心が高い叔父が金を奪い返されたなどと、自分の息子にわざわざ言ったりはしない。「……リコリスを連れて行くのか」
「ええ、もちろんよ」
「リコリス、お前も行くつもりなのか……?」
 縋るような目で問いかけられてリコリスは一瞬たじろいだが、その迷いを振り払うように目を閉じてそして勢いよく開いた。
「行くわ。もうここにはいられないもの」
 きっぱりと肯定されて、アダルバートは愕然とした。この取引を解消させて、それでおしまいとでも思っていたのだろうか。
 そんなはずはない。もうそんな中途半端なことはするつもりなど、エヴァリンの中には毛頭なかった。
「……いく、な」
 ところが、それに納得がいかないアダルバートはなおも食い下がる。
「行くな! 行くなリコリス! 俺がいるだろう? 俺がお前の病も治してやるし、面倒もみてやる! エヴァリンなんかよりも、ずっとずっと! 誰よりもいい暮らしをさせてやるよ! だから俺のところに来い!」
 必死にリコリスに向かって叫ぶアダルバートの目は血走っていて、恐ろしかった。ブラッドリーが落ち着くように言っても耳を貸そうともしない。
「俺のだ! 俺のものだ! お前はずっと俺のものだろう!」
 アダルバートは逃げようとするリコリスの手を掴んで、自分の方に引き寄せようとする。咄嗟に彼女のもう片方の手を掴んで、連れて行かれるのを阻止した。それと同時に、リコリスを怖がらせないようにとポケットに隠していた銃を取り出して、アダルバートに突き付ける。
「お姉ちゃん?!」
 武器の登場に悲鳴を上げたのはリコリスだ。できることなら彼女の前では穏便に済ませたかったが仕方がない。ここで再びアダルバートにリコリスを奪われるわけにはいかなかった。
「見ろ! リコリス! こいつはこうやって銃で脅して俺らをここまで案内させた、恐ろしい奴なんだ!」
「アダルバート、黙って」
「それになぁ、教えてやるよ! エヴァリンは人殺しなんだぜ?」
「黙りなさい!」
「ウィルフレッド・クルゼールを殺したんだよ! 非道な殺人鬼だ!」
「アダルバート!」
 さらに銃口を近づけてもアダルバートの口は止まらず、リコリスの手も離しはしなかった。リコリスに顔を近づけて、いかにエヴァリンが冷酷な人殺しなのかを鬼気迫る様子で伝えている。
「……うそっ……お姉ちゃん」
 リコリスはショックを受けていた。当然だ、自分の姉が人殺しだと言われて、ショックを受けないわけがない。
「リコリス、理由はちゃんとあとで説明するわ」
「でも、お姉ちゃん……」
「お願い、リコリス。私を信じて、お願い」
 今のエヴァリンにはこれ以上の弁明はできなかった。ただついてきてほしいとしか言えず、信じてほしいと懇願するしかできない。俯き心が揺れ動いてしまっているリコリスを見ながら、エヴァリンは焦った。
「いいのか?! 人殺しと一緒に行ったらお前もあっという間に警察に追われる身だぞ! お前にはそんな生活、我慢できないだろう? リコリス。ん?」
 アダルバートがなおもリコリスの心を揺さぶってくる。てっきり子供の頃の恋の延長のようなものだと思っていたのに、まさかここまでアダルバートがリコリスに執着していると思いもしなかった。
「アダルバート、リコリスを離して。離さなければ撃つわよ」
「撃ってみろよ! 撃て! そうしたらもうリコリスはお前についてなんかいかない! お前みたいな人殺し、見捨てるだろうよ!」
「…………っ」
 もちろんはったりだが、もう銃を使っての脅しが効かないとくると非常にまずい。はったりがはったりで終わらなくなったらどうしよう、と一抹の不安を感じた。
 たとえここでアダルバートを撃って無理矢理引き剥がしたとしても、もうリコリスはエヴァリンを信用しないかもしれない。よしんばこの場を脱しても、一緒に暮らそうなど世迷い言に聞こえるかもしれない。
 もうエヴァリンの心も限界だった。銃を他人に突き付けるなど、心がガリガリと削られていくような真似は一刻も早くやめたい。
 それに、ここでもしリコリスに拒絶されたら。
 ここにきて己の弱さがエヴァリンを突き崩そうとする。銃を持つ手が小刻みに揺れて、じんわりと汗ばんできた。
「……手を離して……アダルバート」
「リコリス?!」
「私はお姉ちゃんと行く。だから、手を離して」
 ところが、リコリスはそれでも自分と一緒に行くと言ってくれたのだ。こんな混乱の中で状況を充分に理解できないだろうに、不安だろうに、エヴァリンを信じてついてきてくれる。
 その気持ちに応えようと己を奮い立たせ、しっかりと銃を持ち直した。
「お前……本当にエヴァリンについていくっていうのか……? 俺よりその人殺しについていくのかよ……」
 反対に絶望を味わったのはアダルバートだった。先ほどまでの勢いも失い、力なく呟く。
「もしもお姉ちゃんが本当にクルゼール様を殺したとしても、私はお姉ちゃんと一緒に行く。一緒にその罪を償うし、今度は私がお姉ちゃんを支えるの。私を助けるためにそこまで罪を犯したというのなら、私も共犯よ」
「リコリス……」
 彼女は身体は弱くとも心は屈強だ。そして慈悲深く、姉思いでもあった。
 この罪をその背中に背負わすことはできないが、その心は嬉しい。
「何だよ……それ。俺がこんなに愛してるのに……こんなに、こんなにしてやってるのに……。この家も治療費も……俺が、俺が……」
「なんでよぉぉぉぉぉっ!」
 アダルバートの泣き言を掻き消すように、家中に響き渡る咆哮が聞こえてきた。耳をつんざき、皆の動きを一瞬にして止める。
「何でよ! 何でこんな女を! こんな女をぉっ!」
 今の今まで黙って部屋の隅で震えていたはずのスージーがリコリスに襲い掛かり、叩き始めたのだ。
 顔を涙でぐしゃぐしゃにして、恐ろしい形相で。
「私が一番アダルバート様を愛しているのに! 愛しているから何でもやったのにぃ! 何で私じゃなくて、こいつがアダルバート様に愛されるのよぉっ!」
「やめろ! スージー!」
 大声に驚いて一瞬できた隙を突いて突進してきたスージーに、銃を向ける余裕もなく防戦一方になった。
 リコリスを守ろうとするも、がむしゃらに振り回されたスージーの手に当たってつい銃を落としてしまう。加えて蹴られて床を滑ってどこかへと行ってしまった。
 今すぐにでも銃を取り戻しに行きたいが、今はリコリスが最優先だ。アダルバートがスージーを押さえ込もうとしている間に、なるべくリコリスを遠ざけなければ。
「落ち着け! スージー!」
「何でよぉ! 私がこんなに愛しているのに! 酷いっ! 酷いぃぃ!」
 スージーからしてみれば、堪ったものではなかったのかもしれない。愛する男のために命令されるがままに監視役を引き受けて役立とうとしたのに、結局その男が愛していたのは別の女。人質で利用されるだけの人間だと思っていたリコリスだったのだ。
 しかも目の前でアダルバートはリコリスに縋りつき、愛しているとまで言った。
 最初にリコリスに向かっていた怒りが、アダルバートがリコリスを庇ったことによって彼に向き、さらに苛烈となる。もう手が付けられないほどの暴れようだ。
 今のうちにここから逃げ出せるかもしれない。
 エヴァリンはリコリスの肩を抱きながら、銃を探して懸命に視線を巡らせた。
 すると、銃は暖炉そばまで飛ばされていたらしく、今の位置から少し離れたところにあった。急いで取りに行こうとすると、その前に銃の側に立つ人物がいた。
 ブラッドリーだ。
 彼がしゃがみ込んで、床から銃を拾い上げた。
(まずい……)
 息を呑んで、彼が銃を構えるのを見ていた。その銃口が今度はこちらに向けられる様子を、ゆっくりと時が流れるようにつぶさに見つめるしかなかった。
「ぶ、ブラッドリー! よくやった!」
 ようやくスージーを羽交い絞めにして押さえ込んだアダルバートは、銃を持つブラッドリーを見て歓喜の声を上げる。
 形勢逆転だ。今度はこちらが脅される側となる。
 それでもリコリスを渡すまいと、身体の陰に隠して彼女を守る。
 リコリスをアダルバートにだけは絶対に渡したくなかった。たとえアダルバートがリコリスを愛していようとも、あの家にだけは戻したくない。
「撃て! 撃ってしまえ! ブラッドリー! エヴァリンさえいなくなればリコリスは俺のものだ! 俺の評判も守られる!」
 ここぞとばかりにアダルバートは声を張り上げた。ブラッドリーに命令して、自分の手を汚さずに邪魔な人間をこのまま消し去るつもりなのだ。
 窮地に追い詰められて、エヴァリンの呼吸は浅くなる。このまま撃たれたら、このままリコリスを奪われてしまったら。考えるだけで恐怖で発狂しそうだった。
「殺せ! 殺せぇ!」
「お姉ちゃん……」
 アダルバートの煽る声に、後ろにいるリコリスが怯えて服を掴む。エヴァリンだけじゃない、銃口の先にいるリコリスだって同様に恐怖に晒されているのだ。
「やめて、アダルバート! リコリスに当たったらどうするの!」
「俺の従僕は優秀なんだよ! 外すもんか! お前だけを殺してやる!」
「やだ! お姉ちゃんを殺さないで! アダルバートお願いだからやめてよ!」
 無表情にこちらを見つめるブラッドリーは、なおも引き金を引こうとはしない。銃を撃つことに抵抗があるのか、それとも様子を見ているのか。
 だがアダルバートの言う通り、ブラッドリーは優秀だ。このまま銃を使わなくとも、何かしらリコリスを取り返す算段を頭の中でしているのかもしれない。
「殺せ! 殺せぇ!」
「やめてぇっ!」
 次から次へと繰り出される叫びにエヴァリンは慄きながら、必死に覚悟を決めた。もう、やるしかない。どこまでリコリスを連れて逃げられるかは分からないけれど、このまま膠着状態でみすみす奪われるよりはマシだ。
 エヴァリンは唾を呑み込み、大きく息を吸う。リコリスの手を握り締めて、一歩後ろに下がった。
「何をしている! ブラッドリー!」
 ところがアダルバートが驚愕の声を上げた。『やめろ!』と焦りながら制止している。
 エヴァリンも今目の前で起きていることを、信じられない気持ちで見つめた。
 いったい、何が……。
 先ほどまでこちらに向かっていた銃口が、何故かアダルバートに向けられていたのだ。ブラッドリーは、真っ直ぐアダルバートだけに狙いを定めている。
「ど、どういうつもりだ! ブラッドリー! 気が違えたか!」
 今の今まで自分の味方だと思っていた彼が、あろうことか主に銃を突き付けている。
 それを見たアダルバートの焦りは当然のものだった。エヴァリンだってこんな展開、想像もしていない。
 ますます状況が混沌としてきて、誰が敵で誰が味方なのか分からなくなってきた。アダルバートが必死に止めるように呼び掛けているが、ブラッドリーはなおも取り合うつもりはないようだ。それどころか目を眇めて狙いを定め、引き金にかかっていた指に力を込めた。
「やめろぉぉぉー!」
 アダルバートが叫び、スージーが悲鳴を上げる。
 本当にアダルバートに向けて引き金を引いた! と皆が恐れおののけば、聞こえてきたのは怒号のような発砲音ではない。
 カチッ。
 ただ撃鉄が戻る音だけが銃から聞こえてきて、弾は出てこなかった。もちろんアダルバートも無事だ。
 空の銃の照準をアダルバートから外し顔の横まで持ってくると、ブラッドリーはもう一度引き金を引く。今回も乾いた鉄の音がするだけで何も出なかった。
「エヴァリン様はどうやら一発しか弾を入れていなかったようですね。あとは空です」
 冷めた声でそう報告するブラッドリーに、エヴァリン以外の人間はどっと脱力したように安堵する。それとは逆にエヴァリンは焦りを覚えた。
「ははっ……何だよ、焦らせやがって」
「元々我々を傷つけるつもりなどなかったのでしょう。唯一入っていた一発ではったりではないと見せつけて、あとはどうにか銃をチラつかせることでこの場を乗り切る予定だった、といったところでしょうか」
 ブラッドリーに容赦なく手の内を明かされて、エヴァリンはその無念さに目を閉じた。
 空砲だとバレてしまい、唯一アダルバートを黙らせる手段を失ってしまった。
 あとはこの場から逃げ去るだけだというのに、出口付近に立っているアダルバートを押しのけて、かつ彼の命令で追ってくるであろうブラッドリーを、リコリスを連れたまま撒く自信はない。
 あと一歩。あと一歩だというのに。前回もその距離でリコリスは奪われてしまった。奪われたくない、リコリスを救いたいと心から願うのに、いつも叶わないのだ。
 ――ウィルフレッドを捨てたというのに。この心もすべて犠牲にしても、リコリスを助けると決めたのに。
 もうエヴァリンにはリコリスしかいないのだ。
 ウィルフレッドを失った今、リコリスしか……。
 彼の柔らかな声、静かに微笑むあの顔、榛色の綺麗な瞳、癖のあるアッシュブロンドの髪の毛。何故か今、そのすべてをつぶさに思い出す。
 瞼の裏に思い浮かべたその人はもういない。もうエヴァリンにも微笑んでくれない。
 ただ、それだけが作り上げた真実。行動の結果だ。
 それなのにここにきて、こんなにも。
 ……こんなにも、愚かしいほどに恋しくなるだなんて。
 ジワリと涙が滲み出る。
 惨めで悔しかった。

「だから、何も手助けせずにそこで見ていたんですか? ――ウィルフレッド様」
「――え?」

 ブラッドリーが、絶対にこの場にいないはずの人物の名を呼ぶ。
 彼の視線の先を追うと、開いたままの玄関の扉。その裏に人影があって、誰かが潜んでいるのを見つけた。
 その呼びかけに反応するように動いた影は、ゆっくりと姿を見せてエヴァリンたちの目の前に現れた。
「……うそっ、……なんで」
 この口から飛び出たのは驚愕の言葉か、はたまた歓喜の言葉か。
 いるはずがない、ここに来られるはずがないと頭の中で否定しながらも、それでも涙が溢れ出てきた。

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